2006年12月23日

Merry X’mas

 
 
 
今日は23日土曜日―
 
今年のクリスマスイベントは今日がピークかな?
 
皆さま、楽しいクリスマスをお過ごしくださいね☆
 
 
今年は私、思い返すと、とてもいろいろなことがありました。
 
綺麗なものと、汚いものを、すべて見た一年でした。
 
(汚いものは主に身内の○○○だったりもしますが)
 
 
でも、こんなに充実していて、いいことも嫌なことも、楽しいこともつらいことも、
 
すべてが自分の糧となった、または未来の礎となった、そう感じられた一年はありませんでした。
 
 
皆さまも、元気で充実した一年を過ごされていることを、心よりお祈りしております。
 
人生は生きるに値しない、悲惨な場所です。
 
その中で、いかに笑って、いかに楽しいときを過ごせるか、そこにこそ、人間の器量を問われます。
 
さぁ、すべての馬鹿はほうっておいて、あなたは楽しく過ごしましょう。
 
そうして、来年も頑張りましょうね。
 
 
 
では、Merry X’mas and Happy New Year !
 
よいお年を―
 
 
 

2006年12月21日

ヒデの恋 ~誰かに宛てた自分への手紙~

 
 
 
あいのりというTV番組に、「ヒデ」という青年がいた。
 
私はこのあいのりという恋愛観察バラエティが大好きで、良く見てしまう。
といっても中毒になるほどでもない。
気になるカップルがいるときは続けて見るが、恋の結末を知ってしまうと、またしばらく見なくなったりする。
そんな気まぐれなファンだ。
 
 
ヒデの時もそうだった。
ヒデ自体はまったく恋愛もせず、ただ人の恋を励ましたり、見守ったりするばかりだったから、全然面白くもなかった。
だいいち、ヒデはものすごい人見知りで、初めての参加のときなどメンバーの顔さえもまともに見れない、挙動不審で、なりきり中田(ヒデ)で、突飛な服を着て、メルヘンな詩を書くことが趣味で、メンバーの誰からもまともに相手にされず、とっても「変なヤツ」だったのだ。
なんだ、こいつは。変な素人が出てるなぁ~
くらいの気持ちで見ていたと思う。
 
 
ところが、1年か2年ぶりくらいだったか、久々にあいのりを見て、びっくりした。
妙にサッカーの中田に良く似たカッコいい青年がいるなぁ、と思ったら、なんとそれが「ヒデ」だった。
おまけにその別人の「ヒデ」はふたりの女性に思われていて、そのふたりの女性から奪い合いさえされていた。
 
モテモテじゃん・・・
 
人間が1年か2年のあいだにここまで変わるものだろうか。
美青年で、お洒落で、物腰は柔らかく、忍耐強く、思いやりがあり、メンバーの誰からも信頼され、そう、見た目も性格もまったく変わってしまったヒデを目の当たりにして、私はうろたえたものだ。
この海外の、14カ国のあいのりの旅を通して、彼が成長したのは明らかだった。
 
 
あいのりはよく、やらせだ、と言われるが、やらせがなんだろう?
あのヒデの成長ぶりを目の当たりにしたら、私はどうでも良くなってしまう。
やらせ万歳! 
いいじゃないか、どんどんやったれ。
てか、ホントにやらせだろうか?
前提までもを疑ってしまう。
それほどに、ヒデは変わっていたのだった。
 
 
そうして、私がまたあいのりにはまり始めたころ、ヒデは恋をした。
以前の一方的な、見つめるだけの恋とは違う。
どこかかみ合わない、すれ違うだけの恋とは違う。
勝手に思われ、奪い合いされるだけの恋とは違う。
ヒデは恋をした。
真剣に想えば想うほど、気持ちを伝えれば伝えるほど、思うように行かない恋に、自分に、ヒデは戸惑い、深く苦しむ。
 
『もうだめだ』
 
そう思ったとき、彼はふと自分が書いたメルヘンの詩を見た。
恋に苦しむメンバーをとんちんかんに励ました詩。
別の誰かを勇気付けようと書いた詩。
傷ついた誰かを優しく見守る詩。
 
繰り返し過去のヒデはこう告げていた。
 
 
『君は君のままでいいんだよ。
傷ついたっていいじゃないか。
僕がついているよ。
さぁ、大好きなあなた、とっても素敵なあなた、勇気を出して、恋をしようよ』
 
 
 
ヒデはその他者に投げかけていた言葉自体が、未来の自己に投げかけていた言葉だと知る。
そうして、自らの詩に励まされて、彼はすべてをふり切った。
ラブワゴンへ行き、日本行きのチケットを手に入れる。
想う人と、決して一緒に帰れない、と知りながら。
 
 
 
 

2006年12月19日

アキタさんの憂鬱 ~孤独と結婚する脚本家~

 
 
 
前部署の上司のアキタさんは今よりちょっとばかり若い頃、TVの仕事をしていて、ちょっとばかり名を鳴らした人だった。カンノミホをあと20くらい年食わせたらこんな感じって顔立ち、すらりと伸びた足が自慢で、いつもミニスカートばかりはいている。
でも、アキタさんは独身なのだ。
いくらでも相手がいただろうに、それだけの美人なら。
私は彼女の顔に見とれながら聞いてみる。
 
『なんで独身なんですか?』
 
実際はそう露骨には聞けないので、確か「彼氏と出かけないんですか~」とか何とか、休日の話かなにかのときにさらりと言ったと思う。
アキタさんはこう答えた。
 
『去年別れちゃったのよ~長年付き合ってたから・・ ちょっと私ぼろぼろなの』
 
 
私の頭には図式が浮かぶ。
 
『長年一途に彼を思い、共に過ごす → アキタさん結婚適齢期を過ぎる → 破局 → ズダボロ → 次の恋が出来ない』
 
 
とてもわかりやすい、社交的な、ご回答であった。
テレビの仕事をしていた割に、アキタさんは常識人だ。とても普通のいい人だ。でもちょっとつまんない。
その社交的な会話を交わしてから、私は少しがっかりした。
業界のめくるめく華やかさ、強烈な個性を、勝手にアキタさんに押し付けて、ひとり期待していたのだった。
 
 
退屈な私は、アキタさんにこう語らせてみる。
以下想像。
 
 
 
『はぁ・・・』
 
(アキタさん頬杖をつき、ためいき)
 
『私は孤独と結婚したの』
 
(私びっくり)
 
『えっ?!孤独とですか?』 
 
(アキタさん引き続きアンニュイ)
 
『そう、好きだった人が言ったの。僕はずっとひとりで生きる。だからね、私もそうしたの』
 
(私唸る)
 
『なるほど~深いっす! で、どういう意味っすか?』
 
『彼がひとりでいるなら、私もひとりでいようって決めたのよ。だから私は孤独と結婚して、そうしてね、彼と結ばれたの。永遠に』
 
『ははぁ・・・・』
 
『私ね、ちょっと名の知れた脚本家だったのよ』
 
『ええ、わかります!わかります!』 
 
私は喜々と叫んで、彼女の手を握り締めるのだった。
 
 
 
ああ、孤独って・・・
 
(私絶句)
 
 
 
ちなみに実際のアキタさんは広尾に住んでいて、週末には桜水産という居酒屋に通い詰めている酒豪である。
 
 
 
 

2006年12月18日

公務に息子を介入させる本末転倒の某都知事を叩くことの本末転倒を問う

 
 
 
石原都知事が叩かれている。
来春の都知事選出馬を表明したため、共産党やら民主党やら反抗勢力から足を引っ張られ、『税金の無駄遣い』と言うヒジョーにわかりやすい国民レベルの批判的根拠をかかげられ、東京都民及び国民を巻き込んでの吊るし上げを食らっているのだ。
で、もうひとつの批判材料がこれ。
 
『余人をもって変えがたい』
 
自身の四男石原延啓氏をこう形容したこと。
知事の発案で2001年から始められた『トーキョーワンダーサイト事業』、日本の現代美術と若手アーティストの支援を目的としたこの事業に都知事の四男を深く介入させたと言うことで、身内びいきだの、公務の私物化だのと騒がれているのだ。
 
お金の問題なんだかモラルの問題なんだか、話を聞いてるとよくわからない。
(都知事が出演したニュース番組ではその両面から、議論されていたようだが)
しかし、私から見ると、そんなことどうでもいいんでないの? という気がしてならない。
 
 
相変わらず、日本は枝葉の突付き合いばかりをしているようだ。
奥様の社交の場でも、会社の派閥でも、政治の世界でも、日本人は主導権争いにこれを利用するのがまったく好きだ。
いったいどこまで好きなんだ、と疑問に思う。
何を寝ぼけたことを言っているんだと。
私はこのトーキョーワンダーサイト事業にとても好感を持っているのだ。
大体、公募で選ばれた誰もが、贅沢にも都内のレジデンスを三ヶ月も借り切って、悠々自適に創作に没頭し、完成したら展示までできる、そうしてそこから世界規模のクリエーターへの道が開けるチャンスがある、今までそんな芸術(現代美術)支援事業があっただろうか。
選ばれた一部の人を中心に与えられてきた日本のアートは、低レベルに廃れていくばかりで、スターもカリスマも見つけられない。
太い幹を作るためにはそれなりのリスクが必要だろう。
目的を忘れ、いつも枝葉を突付きあうばかりが好きな日本人は、いかに幹を創ることが苦手な人たちばかりが存在しているかが良くよくわかる。
 
 
物事は細部ではなくて、本質を見たらいいのに・・
そうすれば、きっと頑丈な幹を作れるだろうに・・
 
 
いつでも深いため息と共にそう思ってしまう私は、たいてい枝葉の突付き合いが好きな人たちに、圧倒的に多いその集団に、いつでも敵いはしないのだ。
ああ、本末転倒大繁盛―
 
 
しかし思う。
税金の無駄使いは誰が一番しているのだろう?
本当に癒着しているのはいったいどこの誰なんだ?
石原都知事『レベル』をわざわざ吊るし上げてる場合でないんでないの??
国民の皆様、お気に障ったら、失礼。
 
 
 
 
 
トーキョーワンダーサイト 
 
 

2006年12月16日

ベルナールは今朝も10時にあらわれる

 
 
 
ベルナールは毎朝10時にやってくる。
彼は暇なのだ。一言の挨拶もなく、私のオフィスに入り込み、一脚の客用ソファーに深々と腰をかける。
そうして、取ってつけたように『ベニスに死す』を読み始めるのだ。
 
 
『青白く優雅にうちとけない顔は蜂蜜色の髪にとりかこまれ、鼻は額からまっすぐ通り、口元は愛らしく、優しい神々しい真面目さがあって、ギリシア最盛期の彫刻作品を思わせた』
 
 
そのけだるい姿態と凛とした横顔は、トーマス・マンが表現したとおりの美少年ぶりなのであった。
彼はそれを知り尽くしていて、私が思わず見とれてしまうのを腹の中であざ笑う。美少年特有の残虐な一面があるのだ。
とは言っても、彼はとうに二十歳を超えていて、それどころか三十路をも超えていて、このシェアオフィスの管理人でさえあるのだった。
 
 
オヤジじゃん・・・
 
 
こちらこちらでベルナールの年不相応の気障振りをあざ笑っているのだが、どうも頭が上がらない。
見とれるほどに彼が美しいからだけでなく、彼は不届き者の利用者とオフィスのオーナーに告げ口し、私をここから追い出す権利があるのだった。
 
 
 
都心にシェアオフィスを借りようと思ったのは、先月の人事評価の見直しにより、年収が一千万を超えたことからだ。
特に趣味はなし、恋人はいないし、洒落っ気もないので、お金の使い道に困った。ましてや貯金をする悪趣味もなかった。
ホストクラブに通い詰め、若いツバメに投資しようかとも思ったが、私はお酒が飲めないのだ。他人が飲む姿、華々しく叫びながらイッキされても面白くも可笑しくもなんともない。
それに世間の目が気になった。盛りを過ぎた年増の女が若い男に入れ込んだ、などと噂をされては聞こえが悪い。
寝る暇も惜しみ、結婚もせず、やっとのことで手に入れた自身のキャリアに傷がつく。
そこで、私は六本木に約2畳ほどの小さな小さなオフィスを借りた。現職場のフレックスタイム制を利用してサイドビジネスを始めることにした。ここなら企業用の登記も取得できる。設備はOA機器に電話にインターネット回線、会議室も充実していた。これで月5万円なら、失敗してもどうと言うことはない。趣味のビジネスにはぴったりだった。
特にやりたいビジネスもないので、私はオンラインショッピングの店を作った。貴重本やエロ本を安く買い付けては、欲しがるマニアに高く売りつけた。
すべてが巧くいっていた。ベルナールが住みつくまでは。
 
 
きゃつは私が追い出さないのをいいことに、毎日私のオフィスに上がりこむ。
本を読み、退屈そうにあくびをしては、あくせく働く私をあざ笑い、5時になると任務を終えて帰っていくのだ、彼のマイホームに。
ずいぶんあとで隣のオフィスの某起業家に聞いたところ、彼は既婚者で、3児の息子と娘の父親だった。ちなみに子供の名前は『小太郎』と『桃尻子』と『権三郎』。
 
 
オヤジじゃん・・・ しかもベルナールの子供なのにその名前は何だよ・・・
 
 
げんなりする私を尻目に、何が楽しいのか今日もベルナールは私のオフィスに上がりこみ、一言も口を聞かずにただ過ごし、5時になると帰っていく。
こいつの給料は私の賃料からも出ているのだ、と言う事実を思い出すと、時々頭にきて追い出してやろうかと思うのだが、どうも立場が弱い。
騒いだら、モテない年増女が管理人の彼をオフィスに連れ込んで、セクハラしただのナニをしただの、妙な噂を立てられそうだ。そうなると寝る暇惜しんで結婚もせずにやっとのことで手に入れたこの自身のキャリアが・・うんぬん・・・(永遠と続く)
痴漢に間違われないように満員電車の中でびくびくしているオヤジのような心境なのだった。
 
 
 
しかし、私はまだマシだった。
先日、久々に大学時代の友人に会ったら、彼女のマンションには色付きの眼鏡をかけたやくざのような管理人がいて、黒地に白い縦じまの三つ揃いのスーツ姿で毎朝毎晩掃除をしているそうだ。めぞん一刻の管理人さんみたいにえらく熱心だが、どうも箒の使い方が下手で、丸く掃くので、通路の排水溝にはいつでも落ち葉やらタバコの吸殻が残っている。文句を付けたいが恐くて出来ない、と嘆くのだった。ちなみにおっさんの名前は『虎二郎』である。
 
 
私なんかはまだ幸せだったのだ。
最近ベルナールはどんどんずうずうしくなってきて、私が居ぬ間もオフィスに勝手に上がりこんでは私の代わりにエロ本をさばき始めた。『犯される女教師』だの『淫乱三獣士』、『手淫一筋又三郎』だのそんなタイトルの本を私より高値でマニアに売りつけるのだった。にやにやとあざ笑いながら。
 
 
 
働いてんじゃん・・・
 
 
 
 

2006年12月14日

きらきら光る、薄紫の傘をさした私の道

 
 
風は前から吹いていた。
雨が向かってくるから、前傾に傘を持ち、下を見ながら私は歩く。
アスファルトの上の水溜りが、街灯に照らされ輝いていた。
ふいにそれが群青になり真紅になり、薄紫の傘は水色と桃色に変わり、清涼飲料水の最新型自動販売機にしてはやけに明るい。
飲み屋のネオンかと思い、傘を少し持ち上げると、不動産屋の看板だった。
広告の文字が入れ替わり立ち代り、光る。
 
 
『安心』
 
『信頼』
 
『ご相談ください』
 
 
やり過ごし、10メートルほど歩くと、道は橙色に輝きはじめる。
今度こそ、飲み屋の立て看板式の装飾で、オレンジのそれは道の端からこう告げる。
 
 
『飲んで!』
 
『唄って!』
 
『楽しいお店』
 
 
私は可笑しいやら空しいやら、脱力感に満たされて、また風に向き合うのだ。
 
こんな片田舎の場末の店に、安心と、信頼と、相談相手は落ちていて、飲んで、唄う、その楽しさは転がっている。
こんな片田舎の場末の世界に―
 
 しかし、こんな場末の世界にだって、安心と、信頼と、楽しい世界はあるのであって、そんな中、私はひとり、薄紫の傘をさして歩くのだ。
風と向き合い、少し猫背になって、きらきら光るアスファルトをただ見つめ。
 
  
 

ロイヤルホストのコーヒーは苦かった・・・

 
 
 
彼女は私を信じて疑わないのだ。
友人のYさんの話だ。
私には物を書く才能があり、大勢の誰かに何かを伝える使命を持って生まれて来たのだと。
そのくせ彼女は私の書いたものなど、ろくすっぽ読んだことさえないのだった。
 
 
何を根拠にそう思うのだろう? 
突っ込みたく思ったが、某田舎のロイヤルホストでする話でもないような気がした。
 
 
代わりに私は彼女の象徴画を何枚か見た。※
写真に撮ってきてくれたので、来年の個展よりも一足お先に見ることが出来たのである。
それは― 
まったく意味のわからない絵だった―
 
 
『私はねー未来は知らないけど、今は使命なんかで書いているのではなくて、ただ感情の捌け口を求めて書いているだけなんだよぅ~』
 
 
いい子ぶって、そう弁解してやろうとも思ったが、やめた。
彼女の画に鳥肌が立って、嫉妬したのである。
 
 
『そう、私には使命があるの・・・○○さんの言うとおりかもね・・』
 
 
うっとりと演じて見せるのである。
歯軋りと痛みをかみ締めながら。
 
 
 
その夜、私は計7杯のコーヒーを飲んだ。
 
 
 
※作者注・ここは抽象画というべきなんだろうが、あえて象徴画というのがふさわしい、そんな絵でした・・ 
 

時を犯す愛と言う名の銃

 
  
たとえば誰かが醜い嫉妬に囚われたら、彼らが見下している隙を脱ぐって私は走ろう。
軽やかに、千里を翔んで、追いつけぬくらい遠くへ行ってしまうのだ。
  
または誰かが冷ややかならば、彼らが笑い飛ばしている隙を潜って私は歩こう。
亀のように、一歩ずつ、確実に。
 
 いつか彼らは笑いを止める。
 
 彼らが気づき、冷たい汗をかいたなら。
もし―
 
 嘆きと共に過ぎ去った時さえも掴めたならば。
 
  
そのとき私はきっとそうする。
その咽喉もとに、愛と言う名の銃を突きつけて。
破滅するまで犯してやろう。
 
  
 

芸達者な誰かは犯罪と犯行との美を謳う、たとえば愛をして

 
 
 
『犯罪者の弁護人が、犯行の美しい恐ろしさをその行為者に好都合なように転用するほどの芸達者であることは滅多にない』
 
 
かつてニーチェは言った。
ならば私は犯罪者の弁護人になれるだろう。
または、犯罪者の一面を心に抱える誰かの弁護人になれるだろう。
私は私の弁護人にだってなれるはずだ。
 
 
 
ニーチェのこの言葉は犯罪だけとは限らないのではないか。
人の蠢くこの世では、人と人は利益相反を繰り返し、その狭間で戦いながら生きている。
ならばその権利を守るために、借りてきた弁護人によって、自己を演出することは必要だろう。
正当防衛とはあえて言わない。
 
これは、必要不可欠な、必須な、生きる知恵だ。
 
 
そうして利害だけではなく、もし私が私の弁護人に足る人を見つけることができたならば。
たとえそれが幻想であっても、きっと私は愛するだろう。
芸達者な彼は、そこまでして、私を愛している。
だから謳うのだ。
その法廷で。喜びも、哀しみも、痛みも、すべてを剥き出しに。
 
 
 
『犯罪者の弁護人が、彼を愛さずして、その犯行の恐ろしさから行為者の美しさを見つけられることは滅多にない』
 
 
 
 

自己の死と愛

 
 
 
人間関係について深く考えるときがある。
たいてい心が病んでいるときに違いない。
そういう時は思考も冴えるのだ。
 
 
私が何十年か生きていて気づいたこと。
 
 
それは、私が嫉妬されやすい人間だと言うことだった。
 
 
私を愛する人は私を独占できないことに。
私を愛さない人は彼らの領域を奪われてしまうことに。
 
 
私はいつでも誰かにとっての脅威だった。
 
 
私は無能で、無害なふりをして、しかしたいていはそれはそれで、また目立ってしまうのだ。
人より目立たないでいることは、別の意味での存在アピールに他ならなかった。
 
 
自分を責めた。
私が愛する人はみな汚い心になるのだった。
 
堕ちていった―
 
なんでうまくできないんだろうか。
自分がみんなを苦しめるのだろうと確信したが、解決策はなかった。
 
 
(あるとしたら自己の死だ)
 
 
そうして、愛しながら、生きながら、自分を殺すことを覚えたら、だんだんと人間関係が面倒くさくなってきて、やめた。
「その世界」では、適当に付き合うことにした。
 
 
そうしたら私が泣き出した。
もっと愛したい、と渇望するのだ。
 
 
いつでも。それは続き、自己をもてあまし、それは、人間関係よりも、面倒くさい。
 
 
 

私がジョン・レノンを愛する理由

 
 
 
良く自分が世界から断絶されているような気がして――
でもそれは自分自身が世界を拒否し、自ら断絶させているのだけれど、そんなふうに思って傷つくときがある。
そんなとき、多くの場合、私を切り離された世界へ連れ戻してくれるのは、漫画だったり、小説だったり、映画だったり、音楽だったり、友達だったり、愛しい恋人だったりする。
断絶した世界とは全く異質の異次元のそれらが、私とすべてを結びつける唯一の鍵となり、その尊いきっかけとなってくれるのだ。
 
 
私はひとり部屋にいて、本を読む。
私はひとりウォークマンで、TheBeatlesを聴いた。
私はひとり映画館へ行き、映画を見た。
私はひとり友人から受けた優しさを反芻する。
私はひとり恋人に話しかける。
 
 
思春期の話ではない。
それは現在も続いているのだった。
 
 
彼らを通して、私は拒否した世界とかろうじて関わりを保ち、そうして思う。
どこにも帰属しない私を、世界に連れ戻してくれる彼らが、私の帰属する相手だと。
このろくでもない世界に対して、決定的に優しくなれるとしたら、一体感をもてるとしたら、それは偶然出逢った彼らが、より素晴らしいのだ。
私の芸術や人間への評価は、いつでもそんなところにある。
 
 
『より多く、あたしと、世界を、繋いでいるか』
 
 
そうして、素晴らしい彼らは必ず存在している。
たとえ一生をかけても、私程度の人間が知りきれず味わいつくせないくらい必ず存在しているから、私は糸を紡ぐように、優しく、神妙に、それらを選ぶのだ。
感謝の念に満たされながら。
 
 
しかし、ときどき、この奇妙な世界との繋がりが、破壊されてしまうときがある。
そんなとき私は傷ついて、断絶されていると思ったときよりもっともっと傷ついて、(なぜならもう私を繋ぎとめるものなど何もないからだ!)
もうひとりでもいられない。
 
 
私の見知らぬろくでもない世界のろくでもない何かと、断絶されたまま、愛し合うのだ。
根が楽観的な私にとって、それは一日と持たない。
短い浮気と知りながら。
 
 
 
 

2006年12月10日

黒猫に名前をつける

 
 
 
人形やぬいぐるみに自分の想いを投影させる癖がある。
良くあるだろう。悪い例では丑三つ時にわら人形に五寸釘を打ち付ける、古来からあるそんな伝統、まぁそれに近い。
満たされない愛や想いや、嫌がらせを受けた人への憎しみを、何かに投影させて解消する。そっと、人知れず、こっそりと。すると、意外と根に持たない。円満に付き合えたりするのだった。
 
 
 
最近では、母に強烈な憎しみを感じたとき、これをやった。
私の極めて一般的で、誰が聞いても正論と思われるとある理論を聞いた母が、彼女にはそれが理解できなかったのだろう、私を見たのだ。同情を寄せた目で。じっと見つめた。ずいぶん長い時に感じられる秒間。
 
彼女は確かに私を憐れんでいた。
 
 
その刹那、私は母に殺意を感じた。
同情と言うものは、不思議だ。
深い愛の証であると同時に、どんな武器より強暴な凶器となる。
向けられた相手によっては、それは何より激しく破壊され得る物なのだ。
 
 
 
母は6人兄弟の下から2番目(しかも末っ子は男だった)として生まれた。
体も小さく、学校の成績も良くはなかった。幼いころから、兄弟達の知恵や力にはいつでも及ぶことはなかっただろう。
成長し、若くして結婚し、そうしてあの父の妻となって、彼女は覚えた。暴力の痛みと、忍耐強い愛を。
同時に愛に含まれる他者への憐れみ、厚い同情の心をも。
力もなく、知性も兄弟や父や世間に及ばぬ母には、愛だけしか武器がなかった。
 
 
私が憎しみを感じた瞬間、母は確かに私を愛していた。
 
 
私は母の愛を憎んだ。
その憐れみに打ちひしがれた。
だから大好きだった熊のぬいぐるみに母の名前を書いて、その脳天をはさみで刺した。
真夜中にひとり。何度も、何度も、刺し続けた。
 
 
その1週間後に母は倒れた。
くも膜下出血、脳の病気だった。
 
 
 
それ以来、私はやめたのだ。
憎しみを何かに投影することは。
それより、直接本人にぶつけることにした。
たとえ関係が悪化しても、そのほうが健全だと思うようになった。
 
 
しかし、愛への渇望は、やめない。
いまだに癒し系ぬいぐるみのお世話になっている。
こっちの場合はいい。
もともと愛への渇望が私自身の心的問題であり、対象が存在しないものなので、そのほうが健全だと思えるのだった。
 
 
 
日曜の今日、いい天気だったので母と散歩に出かけた。
母はずいぶん長い距離を歩けるようになった。
隣町まで行き、以前の母が大好きだった雑貨屋に入る。
ゴブラン織りやレースの生地で作った小物や手提げ、ハンカチなど、年配の女性が好みそうな可愛らしい雑貨。
母はちりめんで作られた猫の小さなぬいぐるみを熱心に選ぶ。
孫達に買ってあげようとしているのだ。
白い猫と黒い猫の二匹を買って、大事そうに抱えて帰ってきた。
私はだめもとで言ってみる。
 
「それ欲しいなぁ」
 
テレビを見ていた母は振り向いて私を見つめ、
「欲しいの?いいよ」
 
すぐに返事をして、孫のために買ったそのちりめんの黒猫を私にくれた。
白猫は孫の姉妹たちがケンカしないよう、姉にあげることになった。
 
 
 
私は黒猫に名前をつける。
そうしてつついたり、顎をくすぐったりして、可愛がるのだ。
なぜか涙が止まらなかった。
 
 
 
 
下、ちりめんの黒猫。私に可愛がられてご満悦。
 
 

すき間産業のダイアモンド ~某アパレルメーカーの業界への挑戦状・・かも~

 
 
 
洋服をクリーニングに出すことはめったにない。
コート以外の普段着は、この「出さない」ことを前提に選ばれている。
一回洗濯機に入れるとシワシワになったり、縮んだり、毛羽立ったり、色落ちしてしまうものは買わない。
私の中で、それはデザインよりも重視されているのである。
 
しかし上記の基準で例外がある。
シワシワになっても逆にそのシワがカッコよく見えるシャツ。これは好きだ。
またはシワになっても、縮んでも、毛羽立っても、色落ちしても、逆にそれがファッションとして成立する素材とデザイン。これは許せる。
そのために素材を選ぶ。物を選ぶ。
いかに安くて、素材が善くて、自分に似合うか、そんなことを考慮して服を買うのだ。
(ファッション誌を見てから買ったことは一度もない)
 
 
そんな私が最近良く思うこと。
 
『なんで同じメーカーのブランドばかりなんだろう・・』
 
 
どこかのデパートやショッピングモールに行き、とあるブランドのショップに入ってみたとする。
素材が書かれた札を見る。たいてい一番下に社名があるのだが、書かれてあるのはたいていこれらのアパレルメーカーの名前。
『オンワード樫山』、『ワールド』、『三陽商会』、『イトキン』、『東京スタイル』、『レナウン』、『ルック』、『ファイブフォックス』etc・・・
新手の新興宗教か、と思うくらい隅々まで広まっている。
逆に老舗であり、その証拠なのだろう。
しかし、自分の基準に合う中で少しでも目新しいものを求めて小洒落たショップに足を踏み入れ、最先端の服の札にこの見飽きた社名を見つけると、本当にげっそりする。
流行までもが仕組まれたレールのような気がしてくるのだ。(いや、もちろんそうなのだろうが)
私はマクドナルドのビックマックのような洋服は着たくない。
それはハンバーガーではない。
ビッグマックと言う名の大量生産されたお菓子の一種でしかないのだ。
 
 
 
ふと社会経験を思いだす。
転職を繰り返した私が入る会社で、私に与えられた仕事はことごとく『すき間産業』的なものだった。
中途採用の社員でなくても、派遣でもいいだろう。もしあなたが女性ならば、きっと一度くらいは経験があるはずだ。
新しくどこかの職場に配属される。するとそこには古参の社員や派遣たちがわんさかといて、あなたに与えられる仕事は彼女らが放棄した仕事、つまりコピーやお茶くみやファイリングが主になる。部署の中で重要とされる仕事は、先輩たちがネットワークを張り、がっちり握って、守って、あなたの手には渡らない。新人に脅威を感じている彼女らに取り入って、巧く仲間に入れれば、おこぼれくらいはもらえるだろうが。
ごく若いうちに経験を身につけてから転職し、前任者の代わりの「経験者」として雇われるならば話は別だ。
またはそんなすき間産業的仕事をしながら熱心に人間関係をこなし、経験を積んで行く器量があれば別だ。
しかし、ただ待っているだけでは、私たちにキャリアを身につけたり磨いたりするチャンスなど永遠に訪れるわけもなく、すき間産業的仕事を気楽にのんびりこなしながら趣味やアフターファイブに生きがいを見つけるしかなくなるだろう。
 
 
 
アパレルの世界ももしかしたらそうかもしれない。
婦人服の流通の中心となるデパートや流行のスポットは大手ががっちり食い込んでいる。
新興企業と名の知れぬ小さなアパレルメーカーはすき間産業的な舞台でのんびりやるしかない。オンラインショッピングのおかげでかなりこの舞台は大きくなったと思うのだが、それでも業界の全体からしたらその功績は軽視されているように思う。大手にはまだまだ絶対的に及ばない、知名度も、品格も、海外ブランドの代理権を買い取ったり、イメージアップを図る力など、彼らにはないだろう。
 
 
 
そんなアパレル業界にげっそりしていた私が最近おやっと思うブランドがある。
 
『axes femme』
 
はじめに買ったのはただ可愛かったからだ。
いかにも10代、20代をターゲットにしたデザインに価格設定。
(その割に大手アパレルメーカーの同様のデザインと価格設定の安売りブランドよりは強烈に個性的だったが)
正直どうでもよかった。遠くまで買いに行く元気も色気もなく、家の近所(しかもスーパー)で買ってしまった。
そんな自分が少し恥ずかしかった。もちろん商品にはなんの期待もなかった。
しかし、洗濯して、その意識は変わった。
ここの服、アイロンがまったく要らない、まったくシワにならない。形崩れも色落ちもない。
おまけにめちゃくちゃ安い。
 
「これはもしかしてとんでもない拾い物なのかも?」 
 
と思い始めた。
好んで良く着るようになり、コーディネートの幅も増えてきた。
とにかく安いから何枚買っても、通常のブランドのニット1枚分くらいの価格にしかならないのだ。
何よりいいのは、服を着て会社に行くとたいてい誉められる。
「いつも可愛い服を着ているね」と言われるのだ。
そうして、同じ服を着ている人に出くわしたことがない。
当たり前だ。すき間産業的なブランドなのだから。
 
 
老舗にはない風合いと質の良さ。
独特のデザイン。
 
 
私は思う。
こういうところにもしかしたらいるのかもしれない。
本当に好きで、いいものを創りたくて、感性の新しい人たちが。
ありえない、そんな人たちは必死に勉強して競争して大手に就職するはずだと思いながらも、夢を見る。
これは奇跡だ。
すき間産業に埋もれた天才だ。
ダイヤの原石に違いない。
 
 
 
 
しかし、ここのホームページ見て、笑っちゃった。
亀有とか武蔵○○とかとんでもないところにばっか出店するなーと。
 
下、大好きな服のコレクションを撮ってみました。
ちなみにブランドコンセプトは『ラグジュアリー』&『ノスタルジック』。おいおい、ラグジュアリーって・・・大ウケしながら着てます。
 
ロングコート¥12,300
長袖タートル¥2,800
キャミソール¥1,900
 
 
2006/12/06

『ハッピー・マニア』 ~庵野夫人の「幸せはどっちだ?!」~

 
 
 
安野モヨコの『ハッピーマニア』が好きだ。
 
安野さんとは漫画家であり、アニメの巨匠のあの庵野さんの奥様であるらしい。
(それを知ったときはビックらこいた。。。いや~ホント??接点はいったいどこにあるんだろう???)
主人公シゲタは幸せを求めてただひたすらさすらう(男性遍歴を重ねて行く)のだが、ことごとく訪れるのは不幸のみ。
それでも、持ち前の勢いと思い込みの激しさで、悲劇を喜劇に変えていく。
 
あ、この場合の喜劇は周りから見たら、の話ね。
 
シゲタが雄たけびを上げて大泣きしていても、失恋の切なさに身も心も引きちぎれそうになっても、友人のフクちゃんやマリは「またか、、」と冷めた目で眺めるだけ、まるで同情もしないし、読者に至ってはつい失笑・・・いや、つい可笑しくなってくすくす笑ってしまう。
しかしシゲタは真剣そのもの、今日も勢い任せに幸せ求めて突っ走り、雄たけびを上げて泣くのである。
あんた懲りないなぁ・・・と思いつつも、いつしか応援してしまう。
そんな「笑えるシゲタ」が大好きだ。
 
 
で、この漫画、恋愛の描き方がやけにリアルだ。
フラれるシゲタは置いておいても、(あんなたくましく可愛らしくはとても生きれましぇ~ん、笑)「あるある」的な、女ならではの、思わず納得の要素が満載なのである。
シゲタを不幸にする数々の男性(みな一様に魅力的だが性格に問題あり)は、いかにもって感じだし、また、そんな中でシゲタを一途に思い続けるダサい「タカハシ」。
裏切られても、コケにされても彼女を誠実に思い続ける彼は、ただシゲタになめきられているだけ。
 
(読者は思う、タカハシとくっつけば、今すぐハッピーになれるのに!ばかね!)
  
好かれていると確信している相手に対して、女と言うものは残虐だ。
そのくせ相手が自分から去っていくことを絶対許さない。
 
安野さんは庵野さんの奥様になる前にいったいどのような恋愛をされていたのだろう。
男性&恋愛観察の鋭さには思わず舌を巻くばかりだ。
 
 
そんな忠犬ハチ公のようなタカハシが(ひょんな事故から)他の女の子と結婚することになって初めて、シゲタは自分の気持ちに気付く。
タカハシがいつでもそこにいてくれたからこそ、のほほんと幸せを捜し求めていられたのだと。
 
彼女は言う。『好き・・』
 
ついにタカハシの愛を受け入れ、自らそう告白したシゲタは、いや~、、、、初めて笑えませんでした。
本物の愛らしい女の子に見えてしまう。
その半面、一抹の悔しさがあるのだ。
 
負けた。。
 
なぜかそんなふうに思う。
別に愛は勝ち負けでもなんでもないのだが、ただ大好きなシゲタの笑えるキャラが崩壊した、タカハシの一途な愛によって。
その事実がなんとなく読者としては面白くないのだった。
 
 
タカハシはシゲタの告白を聞いて涙を流す。
そうして彼女の元を去っていくのだ。
 
 
 
 
2006/12/05

心の壁、愛の橋 ~誰のために生きますか?~

 
 
※ジョン・レノン John Lennon (1940~1980) The Beatlesのギタリスト兼ヴォーカル
 
 
ジョン・レノンが好きだ。
 
なぜかは知らない。歌が巧いとも思わない。ただ街角でジョンの歌声が聞こえてくると、いつもはっとさせられる。
 
心を揺さぶられるあの声が大好きだ。
 
 
ジョンは一時期、荒れた時期があったようだ。 
 
ヨーコが去り、歌も作らず、ヨーコによく似た東洋の女性と飲み歩いた。 
 
ジョンが「帰ってきてくれ!」と懇願すると、彼女は冷たく言い放った。「まだよ」
 
裸一貫になったジョンは、一人ロサンジェルスへ行き、アルバムを作る。
 
『心の壁、愛の橋』
 
 
とまぁ、大した話ではないのだが、このエピソードを聞いてから、ビートルズからジョンを奪ったヨーコがちょっとだけ好きになった。
 
あれだけ「バカップル」のようにくっついていた彼らが、愛する人と離れてでも、成し遂げたかったものって?
 
別離より大切なものってなんだったんだろう。
 
なんて想像すると、ふとヨーコに感謝したくなる。
 
ミュージシャンとしてのジョンを奪わないでくれて、どうもありがとう、と。
 
 
愛と言うのは不思議だ。
 
 
他人の何かのために、自分を捨てることだってできる。
 
自分にとっての何かを、相手にとっての何かのために、犠牲にすることだって出来る。
 
誰かのために生きることこそが、それこそが至福の喜びになりえるだろう。
 
それは依存でも弱さでも自己満足でもない。
 
あなたがもしそう思うなら、試しに明日から誰かのため「だけ」に生きてみるといい。
 
とても出来やしないだろう。
 
自分のために生きるより、より多くの強さがないと、それは成し得ないだろう。
 
 
私はいつも自分のためだけに追われてしまう。
 
志すことしか出来ない。でも志すことは出来る。
 
 
 
『誰がために生きるのか』
 
 
 
もし私が成し得たならば、そのあかつきには、人のためは巡りめぐって、私のためになるだろう。
 
それは一対だ。
 
片方だけではありえない。
 
ジョンが死ぬ瞬間まで、ヨーコと共に暮らしたように。
 
 
 
情けは人のためならず。
 
ってね・・・笑
 
 
 
 

2006年12月2日

あなたはまだ失っていませんか? ~踏み絵『東京ゴッドファーザーズ』を見て~

 
 
 
移動前の部署の上司は女だった。
彼女は毎朝スターバックスコーヒーと共に現れる。
洒落たブランドの服に、ぐるぐる巻きの長いストール、顎をうずめ、テイクアウトのコーヒーをすすりながらけだるそうに出社するのだ。
 
「おはよう~」
 
その声を聞くたびに、私は5年程前に流行った『アリーマイラブ』と言う海外ドラマを思い出す。※
弁護士のアリーが仕事と恋愛に悩みながらも、前向きに生きていく姿を描いたドタバタリアルヒューマンドラマ(時々妄想あり)で、確か人気のあまりファイブシーズンくらいまで創られていたように思うあのドラマだ。
どうも現代の女性はああいうキャリアを磨いて生きる姿に憧れを抱いてしまうようだ。そうして結婚もせずに頑張って恋愛は後まわし、たまに素敵な異性と巡り合えば振り回されたりふられたりと、さっぱりうまくいかずに仕事以上に七転八倒してしまう。
アリーマイラブはキャリアへの憧れと恋愛に対する等身大の女性の姿を描き出して、働く女性のバイブルになった。
ちなみに働く男性はどうだろう。
私の会社のエリート街道まっしぐらのとある上司は、これが謎に包まれたプライベートの顔がまったく見えないカタブツ仕事人間なのだが、彼は毎朝ペットボトルに入った黄色の見るからに奇妙な飲料を持参している。情報通のある同僚から聞いた話によると、それはプロテイン入りの健康飲料だそうで、彼はタバコもお酒も一切やらず、休日はジム通いをしているそうだ。
ふふん、なるほど、これが男のキャリアへの憧れのバイブル像か・・・などと感心してしまう。
 
 
もしあなたが、そんなスターバックスや健康飲料を愛する人であるならば、この映画をラストまで見ることは、『苦痛』でさえあるだろう。
 
 
 
『東京ゴッドファーザーズ』
 
 
自称元競輪選手のギンちゃん、自称ドラッグクィーン(おかま)のハナ、家出少女のミユキ、浮浪者の三人がクリスマスの夜に捨て子の赤ちゃんを拾い、その出来事を通して、人生の目的と希望を取り戻していくという奇跡の物語である。
 
 
 
あいにく私はスターバックスも健康飲料も嫌いだ。
しかし、正直に言うとこの世界に入り込むにはかなりの努力を要した。
ましてやあなたがスターバックスや健康飲料が好きならなおさらだろう。
 
この映画は踏み絵であるかもしれないとさえ思う。
 
 
 
『あなたはまだ感動できますか?』
 
 
 
絵がとても素晴らしい。
しかし絵だけにではなく、この映画のすべてに心を揺さぶられるならば、あなたは若く瑞々しい感性をまだ失ってはいない。
夢みる心も、希望も、失ってはいない。
そうして、もしこの世界観に感動できないとしても、それはあなたたち見る側だけの問題ではないだろう。
この監督はかなりのシャイであるか、またはスターバックスや健康飲料を好む人たちと彼らを代表する社会を意識しすぎているように思えてならない。
または、これ。
奇跡を笑い飛ばす冷めた人たちを。
 
 
本当に創り手が訴えたいテーマはとても力強く、愛に満ちたものであるのに、その世界を冷めた視点から裁く『お洒落なリアル』が、台詞やエピソードとして漫才の突っ込のように随所で挿入され、それが「くどい」のだ。
映画の趣旨である世界観にどっぷり浸りかけたかと思うと、すぐに現実に引き戻される。
夢とリアルのあいだを行ったり来たりせざるを得ない。
そのボーダーこそがこの映画のリアルな夢の世界観となっており、それはまったく成功しているのだが、しかし私には歯がゆく思えてならない。
 
 
どちらも中途半端だ。
夢を見させておいて、これは夢だよ、と何度も言われているようだ。
監督が訴えたい思想の本当の世界観に、とことんまで、もっとどっぷり浸りたかった。
 
 
 
照れる必要などない。
誰かに笑われてもいいだろう。
冷めた世界など逆に笑い飛ばしてやれ!
あなたのその世界で突き抜けてしまえ。
 
 
 
安全地帯から創った作品だな、というのが私の正直な感想だ。
これくらいでないと、多数の共感は得られないのかもしれない。
アニメと言う夢の表現方法でさえも、リアルは私たちを縛るのだ。
 
 
 
しかし、過信してはいけない。
そこから何をどう伝え取るかは踏み絵を踏んだ私達次第だろう。
 
 
 
 
※作者注・『アリーマイラブ』のアリーは毎朝カフェのコーヒーをすすりながら弁護士事務所に登場する、そのシーンがとても多い。

2006年11月25日

満員電車の怪 ~痛みを決して昇華させ得ない精神的テロリストは死んでしまえ ~

 
 
 
毎朝の通勤はラッシュアワーだ。
特にひどいのは東京メトロ、新橋方面へ向かう一番後ろの車両である。
私は身長が小さいので、他人の背中と背中でいつも押し潰されてしまう。胸が詰まって息もできない。やたら苦しい。
東京メトロはなぜかよく揺れるのだ。運転が乱暴である。急ブレーキは当たり前、つい先日も乗客が将棋倒しになった。
果たして20年前は有能であったろう年配のサラリーマンが床に尻もちをつく姿は、なんともいえぬ哀愁があった。
家のローン大変なんだろうなぁ・・・ などと思う。
しかし仕方ないのだ。
混んでいて、電車が傾けば、必然的に乗客は押される。
自分のすぐ後ろの人が、悪意で押しているわけではない。
電車と、走行と、満員の乗客が、状況がそうさせているのであり、しかも全員が押されているのだ。
 
しかし、不思議なことに、どこまでも押され続けているわけでないんだなぁ、これが。
考えれば当たり前なのだが、必ず尻っケツの人がいる。混雑には終わりがあるのだ。
それは電車の出入口付近に立っている人だったり、乗客の前のつり革に捕まって立っている人だったり、または出入口から離れて中のほう、乗客と乗客の隙間ができるところに立っている人だったり、こういう人たちは自分が押されても押し返す人がいないのだ。
だからドアに潰される。または座っている乗客の膝元になだれ込む。または床に転倒する。
 
そんな姿を見ると私は思うのだ。
 
ああ、哀れなり・・・
 
んで、おまけに、自分がそういう立場になることがヒジョ~に多い!
小さいからなのか?
要領が悪く立ち位置のポジショニングが下手なのか? 
転倒はないが、毎回ほんとうによく潰される。
(きっとそのうち私の胸はまな板のようになるだろう)
まぁ仕方ない。押す人が前後にいないのだ。いなければひとりでドアに潰されるか、ひとりで踏ん張るしかない。
毎回そんな苦しみを味わっていると、たまにちゃんと前に押す人がいても、我慢して踏ん張るようになる。
自分が押されてつらいのだ。前の人だって私から押されたらつらいだろう、などとこの非常事態に馬鹿みたいに気遣ってしまう。
 
 
そんな自分を慰めるために、面白可笑しく名づけてみた。
満員電車時の全員が押されてるけど自分は押し返せず、ひとりで踏ん張ることを、こう呼ぶのだ。
『満員電車の怪』。
意味は、「将棋倒しを食い止めるための、自己の痛みの昇華」である。
 
 
ああ、あほだ・・・
 
 
そして今日も私は押し潰される痛みを自己の裡で昇華させ、そんな自分を、あんたえらいよなぁ~、などとひとり慰めながらうふうふとほくそ笑む。
満更悪いものではない。
 
 
 
で、この満員電車の怪をご時世に置き換えて考えるとだな~
イジメってのは満員電車なんだな。
みんな押されてるんだ。
押したくて押しているわけではない。
仕方ないんだ。
でも、痛みを各人が昇華することはできると思うんだ。
 
 
そうして、もし、あなたが後ろから押されたから仕方なく押してしまったのならば、それは仕方ないからの当然のことではなくて、少しは悪いことなのだと言う意識くらいは持っていたほうがいいだろう。
この認識を持たず、仕方ないだろう、と開き直って居直る人は、私から見たら、私よりアホのただのアホだ。
 
 
そういう精神的テロリストは死刑になって死んでしまえ。
 
 
と、まぁそれは言いすぎだが、罪の意識を持てるか、持てないか、の差は大きい。
悪いことはしてもいいかもしれない。いけないとは言わない。
できればしないほうがいいが、しなければ仕方のない環境や状況やそういう場合だってもちろんあるだろう。
私だって悪いことをたくさんして生きてきた。
でもね、決して居直ってはいけないんだ。
当たり前だと思ってはいけないんだ。
そういう人をこの世の法が守る必要はなにひとつない。
 
 
違うかい?
 
 
 
満員電車の怪、さて、あなたはそこで踏ん張れますか?
踏ん張る必要がない? それとも、馬鹿馬鹿しいですか?
 
 
 
 
 

2006年11月24日

『セーラー服と機関銃』 長澤まさみは小悪魔か?

 
 
セーラー服と機関銃の最終回を見た。
 
主人公(長澤まさみ)が紆余曲折の末に平凡な高校生に戻り、まるで何も無かったかのような穏やかな日常を迎え、そうして4ヵ月後のある朝、堤真一(役名忘れたよ・・)から電話がある。
その間、彼女はずっとずっと堤からの連絡を待っていたのだ。
 
しかし、彼女は堤に会うことはできなかった。
約束の場所へ向かう直前に、堤は死んでしまったのだ。
 
 
う~ん。
こういうシチュエーションに弱いんだよなぁ・・
 
 
子供のころ見た漫画にあったんだ。
立原あゆみの『ふたりの回転木馬』
 
紆余曲折の末に、幸せを掴んだ。
その絶頂の瞬間、愛する人が死んでしまう。
この世から消えてしまうのだ。
 
これがもうダメ、なぜこのシチュエーションがダメなのか理由はわからないが、断然ダメなのだ。
私の涙腺を刺激しまくるのであった。
 
 
こういうとき友達から電話があると、私はめちゃくちゃ冷たい。
あとで思い出すと鬼畜のようだな、とふと思う。
しかし、頭の中は『セーラー服と機関銃』の世界にどっぷり浸っているのだから、現実が相容れないのだ。仕方ない。
ちなみに、最後に堤真一の残した手紙を読み上げるのだが、その内容を聞きそびれた・・
気になって今夜は眠れそうもない。
(と言うことはそう冷たい対応でもなかったのかもしれない?)
 
 
 
しかし、長澤まさみ、と言うのは可愛い。
目の下にシワのようなクマのようなものが存在し、よく見るとずいぶん老けている。
ちょっと松嶋菜々子に似ているが、(若さのせいか)彼女にはないある種の透明感がある。
あの自分の可愛さを知り尽くしている少女特有の小悪魔なしぐさや声が断然可愛い。
清純派らしいが、いったいどこがだろう。
そんな世間の評価を不思議に思いつつ、今日も私はセーラー服と機関銃を歌いながらバスタブに浸かる。
「あ~いし~た~男たち~をかがやきに替えて~」
したたかな女性を謳うこの歌は、世の男を翻弄する小悪魔な彼女に似合っている。
気分がいい。
 
 
 
 

2006年11月23日

ボードレールとキリストはサド侯爵に処刑され得るか? ~サディズムとマゾヒ ズムの観点から善悪を解釈することの是非を問う~

 
 
※ボードレール (1821~1867) フランスの詩人、象徴派の先駆者、芸術至上主義、頽廃主義の代表者。詩集『悪の華』は近代詩の聖典。(広辞苑)ボードレールは耽美主義の代表でもあり、耽美主義(=唯美主義)者の文学的作品にはマゾヒズムの傾向がある。(作者注) 
 
 
 
善悪について考えるとき、サディズムとマゾヒズムの問題は避けて通れない。
あなたの善と悪の判断が性的傾向のひとつの嗜好であるならば、あなたの善悪の真理などまがい物でしかないからだ。
私は問う。
マゾヒストはキリストになりえるか?
サディストはピラトになりえるか?
こんなありえない問いを発せなければならないほど、この世は狂っている。人間は反合理性に満ちた矛盾だらけの生き物だ。
そうして反合理性はサディズムのひとつの傾向なのだ。
 
 
 
毎日パソコンを開くと何十通ものジャンクメールが届く。
SPAM(スパム)と言うらしい。
精神が病んで家畜化したときしか開く勇気がない。今日もタイトルを見るだけだ。
ふと目に飛び込んでくる。
『奴隷M女 処女から熟女まで選べます』 ※一部サブタイトルを忘れたため創作しました。
ふぅん。
こっそりメーラーのプレビューから中身をのぞく。クリックしないと画像が開けなかったので、マウスを動かしかけたが、われに戻ってあわてて削除した。
やばいやばい・・・
修行中に絶世の美女に遭遇し、つい惑わされる坊さんのような心境である。
こういうメールを堂々と開くことができる人は、きっと年がら年中家畜化状態の阿呆か、またはよほどのつわものだろう。
美女に遭遇しても、平然とお経を唱え続ける高僧に違いない。
しかし、奴隷M女のタイトルに引っかかる自分が気になった。
M女とは奴隷と言う前置詞からしてマゾのことだろう。
例によって愛読書の辞典を引く。
 
『マゾヒズム』 
他者から身体的、精神的な虐待、苦痛を受けることによって満足を得る性的倒錯。一般的には被虐趣味を言う。(広辞苑)性倒錯のひとつ。異性に虐待されることに快感を得る異常性欲。被虐性愛。作家マゾッホにちなむ語。(谷崎)潤一郎の唯美的な作品などにこの傾向が見受けれられる。(類語新辞典)
 
ふふん、なるほどなるほど。
ちなみに唯美的作品ってなんだっけ?
唯美主義を引くと耽美主義とある。耽美主義から新浪漫主義→反自然主義→唯美主義へと戻ってデカダンスへと行き着く。
だんだんと字彙からだけではなく、全体像としてのマゾ、その「傾向と対策」が見えてくる。
ふと、キーワードが「ボードレール」であることに気づく。
ほほう・・・これはおもしろい。
感心しつつ、今日も私は定義を考える。
 
『マゾヒストとは、その代表をボードレールに置く、耽美的、または虚無的で、病的なもの、怪奇的なものを好む人たちで、マゾヒズムとは、そのマゾヒストがイカレタものに性的幻想を抱いてはついうっとりしてしまう行為』
 
しかし、この定義にはひとつの条件が必要不可欠だろう。
(その話はラストにしよう)
 
 
マゾが片付いたので今度はサドだ。
 
『サディズム』
他者を精神的、肉体的に虐げることによって満足を得る性的倒錯、転じて一般に嗜虐的傾向をいう。(広辞苑)性倒錯のひとつ。相手に苦痛を与えることにより満足を感じる異常性欲、サド侯爵にちなむ語。文学的にはその狂気や反合理性を人間解放に結んで考える。(類語新辞典)
 
サド侯爵→サディスト→サディズムと辞典をめぐり、たどり着く。
ちなみに反合理性とは、合理性の逆なので、「道理にかなっていないこと、論理の法則にかなっていないこと。行為が無駄なく能率的に行われないこと」であり、どうもマゾのときのように巧くは見えてこないのだが、(イメージするには関連語彙が少なすぎるのだ)実験的にこう定義してみる。
 
『サディストとは、論理が破綻していて矛盾だらけのイカレタ人たちで、サディズムとは、そのサディストが自己正当化と自己解放のために悪戦苦闘した末、思わず他者を嗜虐してはついうっとりしてしまう行為』
 
 
ふふん。
なるほど、では冒頭のピラトはどうやらサディストっぽいなぁ、などと思う。どちらかと言うとマゾではない。きゃつはキリストが処刑されたとき、胸の痛みなど少しも感じやしなかっただろう。無実のキリストを裁くことを表向きは嘆きつつも、胸の底では常軌を逸したある種の快感を得ていたに違いない。自殺もしよう。嫌なやつだ。
ではキリストはボードレールか? あのような美しくも堕ちた姿・・・
ああ、これもありうる・・・
 
 
 
待て待て、違うだろう。
それは「次元の違う」話だ。
そうだ、それこそ論理の倒錯だ。
サディズムとマゾヒズムはあくまでも性的傾向のひとつであり、善悪とは違う。いや、悪が善に似ているように善が悪に似ているように、確かに真理になりえる前提ではあるが、しかし惑わされるな。違うのだ。道徳とは決定的に違う。
論理の破綻した性的傾向者がどんな詭弁を使ってあなたを翻弄しようが、その嗜好は道徳とは次元が違う。
残念ながら私はまだその違いを示せない。もしキリストがマゾヒストだと言われたらそうのたまうその馬鹿の説を論破できない。
そこは真理へ行き着く入り口でもあるかもしれないとさえ思う。
しかし、どう廻り、どう行き着いても、答えは違う。決定的に違う、ということだけは「わかる」。
 
 
 
キリストはマゾヒストかもしれないが、すべてのマゾヒストはキリストにはなれない。
ピラトはサディストかもしれないが、すべてのサディストはピラトにはなれない。
 
 
 
しかしもし、私達がマゾヒストであり、サディストであるならば、(その二つは同一なのだ!)
私はボードレールにはなれるだろう。
私はサド侯爵にはなれるだろう。
 
 
たとえあのような文才はなくとも、性的嗜好も、快楽への欲望も、昇華させることは可能なのだ。
 
 
そう、どんな凡人でも。
そうしてその方法は文学的なものでなくともかまわない。
CGでもカラオケでもゲームでも。絵でも釣りでも恋愛でも。
それはあなたが選べるのだ。
 
 
 
 
私は修行に戻ってジャンクメールを削除しよう。
この世の堕落が待ち受けている。
いつか昇華され、ボードレールとサド侯爵を知り得る日が来たら、私は「ここ」へ戻ってこよう。
 
 
 
 
 
私の語録
【ボードレールな人々】
※エドガーアランポー マゾヒズム的幻想怪奇的世界観を文学的芸術に昇華させた人。
※萩尾望都 マゾヒズム的少年愛的性愛嗜好を漫画的芸術に昇華させた人。
※三島由紀夫 マゾヒズム的耽美的異常性格を文学として昇華させた人。
※太宰治 マゾヒズム的頽廃的虚構及び虚言癖を大衆文学として昇華させた人。
 
すべてマゾだ。私の定義にかなっている。(あなたも探してみるといい)
 
 
 
 

2006年11月19日

楽園の木の実を食べる ~究極の罪悪である無垢な欲望について~

 
 
※禁断の木の実 
神が禁断にしていた知恵の木の実。アダムとイヴが蛇に誘惑されて木の実を食い、楽園から追放された。転じて、試みることを許されていない歓楽などを言う。(広辞苑) 一度始めてしまうとやめられなくなってしまうので、してはいけないとされる魅惑的な快楽のたとえ。(故事ことわざ)
 
 
 
一般的に言われるこの言葉の解説と用例は間違っている。
禁断の木の実は快楽(=欲望が満たされた心地よさ)をむさぼることを禁じた、魅惑の果実などでは断じてない。
旧約聖書に書かれてある言葉どおりに、禁じられたのは知恵であり、それを知るための魅惑の果実だ。
欲望とは、歓楽や快楽などでは決してない。
究極のそれは、知恵を得ること、そして善悪を知ることだ。
 
 
 
私の会社の話をしよう。
私は現在、ある会社のブレーン部隊として働いている。
もちろん本物のブレーンではない。それはもっともっと上の役員クラスや、そのためだけに顧問として雇われている偉い人たちのことだ。
ただ、業務上まとめられた部署の役割として、それを人の体にたとえるならば、営業など、実行手段としての手足が存在し、企画や広報などの感性をつかさどるハートが存在し、私は専属事務処理屋、つまり頭脳としての役割の部署に配属されいる、と言うだけの話である。
 
この会社で、私は毎日ランチに行く。
A子とB子としておこう。その二人と必ず一緒に出かけるのである。
私たち三人はブレーン部隊でまったく同じ仕事を任されている。今年の夏からだ。同じ業務を縦割りにされて、同じ数の部下を付けられ、同じ業務上の成果を期待されているのである。
もちろんまったく同じと言うわけには行かない、個性の差が業務のプロセスを変ていく。そして、それが月々の成果を微妙に変えていき、長期的に見たら必ず少なからぬ優劣の差が開いていくものと思われる。そういう危機感と隣りあわせなので、絶えずライバルとして存在している。親しい仲間であると共に、絶えず切磋琢磨して向上するために見張りあっている監視役のような存在なのだ。
 
ちなみに、なぜ縦割りの業務なのか?
まぁ、これは上が一枚上手だ。こうしておけば、お互い手を抜くこともないだろう。張り合ってお互い頑張るだろうし、たとえ何かがあっても不満や怒りや反発の刃はお互いに向く、上には決して行かないのだ。(逆に上は少しでも仲間よりも認めてくれれば自分を仲間より優位に導いてくれる確かな存在であり、反発するなどとんでもない貴重なアイテムであろう)
 
前置きが長々しくなってしまったが、そう、毎日三人でランチに行く。安いランチタイムを狙って社外の飲食店に出かけて行くのだ。
三人が三人とも血液型が違い、三人ともヲタク傾向があるがたとえばアニメの巨匠で言ったらAちゃんは押井さん、Bちゃんは庵野さん、私は大友さんのファンであり、そしてファッションセンスはまるで違い、三者三様の個性があるので、会話はたえない。なかなか愉快である。
 
 
で、このランチで必ず起こるのが、『上座争奪戦』である。
 
 
これがなかなか面白い。
Aちゃんはこの上座獲得に意地とプライドをかけている。
席に着く前から彼女の勝負は始まっている。歩いているときに会話を仕切る、そしてレストランに入る前にさりげなく前に出て、店員に「どうぞ」と席を促されると一気に心と体が駆けるのだ。(私は一度この心が駆けた状態のAちゃんの進路の邪魔になり、突き飛ばされたことがある)奥の席を確保するのである。
私は「容疑者確保ッ!!」という踊るシリーズのドラマのセリフを思いだす。
「上座確保ッ!!」というAちゃんの心の雄たけびが思わず聞こえてきたり・・・はしないけど、雰囲気としては毎回あんな感じである。
Bちゃんはこの部署には一番長くいて、Aちゃんより先輩なのだがおとなしい。この座をいつも譲っている。しかし、内心は面白くなさそうだ。
たまにAちゃんが駆け損ねて、偶然Bちゃんが上座に座れるという状態に陥っても、まるでそこを好いているかのようにすとんと下座に着く。ストア主義のようなあまのじゃくな一面があるのだ。この下座にこだわることによって、私は逆にBちゃんが上座にこだわっていることを知った。
 
 
 
私はこのランチのたびに彼女らをなんと欲のない人々だ!と思う。
この上座争奪戦は正常な当たり前の欲望なのだ。
誰でも自分は人より少しでも上位に立ちたい、自分のほうが上だと認められたい。尊敬されたい。
そんな人間の欲望の一端がちらりと顔を覗かせるだけである。
 
 
 
そう、人間の欲望とはこんな些細なものだ。
 
 
 
人よりほんの少しお金を多く持ちたい。
人よりほんの少しいい彼氏を持ち、いい車に乗りたい。いい家に住みたい。美味しいものを食べたい。
人よりほんの少しいい人生を歩みたい。
人よりほんの少し楽をしたい。
人よりほんの少し安全でいたい。
 
 
 
それを醜く感じられるときは、そのほんの少しを超えたときか、またはそのほんの少しのために他人のほんの少しをだいぶたくさん邪魔したとき。
それくらいではないか?
つまりそれは正常な欲望である。
 
 
なのに、なぜだ。
 
偉人達の本を読んでいると、または神話や童話を読んでいると、ふと思う。
この知恵の実を知った彼らは、まるで神のブレーンのような彼らは、なんと純真であることか!
そうだ、本当の罪悪は人間の些細な欲望を超えることだ。
それを超えた彼らの罪深き欲望は、なんと無垢であることか。
 
 
 
究極の欲望には穢れがない。
(そうして私達はなんと穢れていることか!)
 
 
上座争奪戦を面白いと思う私はもう居なく、薄汚れた欲望と、自分を思う。
 
 
 
 
負けやしない。
無垢になるまで求めてやる。
明日こそは。
そうだ、明日こそは。
そう呟きながら、今日も眠りに着く。
 
 
 
 
禁断の木の実は一般に林檎(苹果)と考えられている。
 
 
 
 
 

2006年11月14日

本の受売りでバタイユ的愛を語る私が矢田亜希子と押尾学の未来を占う

 
 
※バタイユ (Georges Bataille) 1897~1962 フランスの思想家、小説家
 
 
 
矢田亜希子と押尾学が結婚した。
 
ニュースを告げる番組でコメンテーターが言う。
 
「ハハァ~ あのふたりは本当に愛し合っていたんですね~」
 
思わず笑った。
 
 
 
矢田亜希子は押尾学のどこがよかったんだろうか、としばし考える。
 
わざわざ何千万のCMを蹴って、スケジュールを白紙にてして、
 
事務所ともめたか知らないが役者をやめて貧乏ミュージシャンになってしまったアウトサイダーな押尾さんとくっ付かなくても、
 
あの美貌ならいくらでも恋愛&結婚相手はいただろうに・・・ などと意地の悪いことを思う。
 
それともああいうお嬢様系の女の人は、ああいうワイルドな異性の魅力にぐぐっと惹かれてしまったのだろうか?
 
うんぬん・・・
 
 
 
かつてバタイユは言った。
 
『エロティシズムとは、美を侵犯することだ』と。
 
男性にとって女性は聖なるもの、犯すべからざる美の領域であり、
 
この禁止された美を穢し、犯すことで、男はエロティシズムを得るそうだ。
 
 
ならば女性は?
 
愛する人に、穢し犯されることを赦すことではないのか?
 
とまぁ、これは本の受け売りだが、なるほど、と頷ける一説であった。
 
矢田さんあたりはワイルドな押尾さんに美を穢されることを赦しちゃったんだろうなぁ、などと・・・
 
 
 
しかし、今はそれでいい。
 
その後はどうなるんだろう?
 
仕事よりも愛に生きた、と言う感じでとてもカッコいいふたりなのだが、
 
出会いが芸能界だった彼のふたリがふたりとも芸能界から離れ、女優や役者の顔を捨て、
 
ただひとりの男と女として対峙したとき、
 
果たしてそれで出逢った時と同じ愛の満足感を得られるものなのだろうか?
 
もちろん社会性という後ろ盾を失くしたふたりは、互いの愛だけが支えとなるだろう。
 
その愛は強いのか? 果たして脆くはないのか?
 
続くのか? てか、セックスの快楽以外に、何があるんだろう。
 
ふたりの共通認識であった世界を失っても、一時的な快楽以外のもの、
 
たとえば共通の生の充実感や達成感は得られるのだろうか?
 
などと余計な心配をしてしまう私は、まだまだ愛とエロティシズムを理解できない未熟者なのであった。
 
 
 
 
しかし、私が矢田亜希子なら、(ありえないけど)
 
バックグラウンドも含めての男の強さに惹かれるだろう。
 
そのバックグラウンドが大きなものでなくてもかまわない。
 
彼の世界、その領域を操る優れた技倆と理想の強さにきっと惚れるに違いない。
 
バタイユ的に侵されてもいい。
 
 
 
 
 

2006年11月12日

ルサンチマンと自己処罰からいじめ自殺の是非を問う私のニーチェへと宛てる手 紙

 
 
※ニーチェ (Friedrich Wihelm Netzsche) 1844~1900 ドイツの哲学者
 
 
ねぇ、あなた。如何お過ごし?
 
あなたの用語でルサンチマンって言葉があるわよね?
 
私この言葉がとても好きだわ。
 
なぜって人間の感情をよくいいあらわせていると思うから。
 
奴隷道徳とか主人道徳とかの思想は実は難しすぎてわからないの。
 
でも私達が普段使うのはこんな意味でしょ?
 
「反感」。「恨み」。「嫉妬」。
 
感情的に害されたときに、その害した相手を恨み返すこと。
 
その憎しみと恨みの感情を反芻して、哀しいことやつらいことを思い出だして、いつまでもこだわること。
 
たとえば冷たくした母親や、自分を振った男、自分をのけ者にした他人や社会をいつまでも恨み続けることもできるし、
 
何とか仕返しをしてやろうと言う気持ちを持ち続けることもできる。
 
『自己中心性が挫折したときの、一番最初の逃げ場』
 
でしょ? 
 
でもそれは過程のうちには誰でもあるのよ。
 
そうして、このルサンチマンを如何に乗り越えられるか、そこが人間としての起点よね。あらたなる成長ができるか、できないか。
 
私ね、あなたのこの言葉(思想)を借りて、今ニュースで話題になっているいじめ自殺について考えたの。
 
ふふっ、ちょっと暇だったのかしらね。問題意識なんてあったのか、不思議なんだけど。
 
あなた、ルサンチマンにはもうひとつの形があるわよね。
 
『自己処罰』
 
そう、どちらかと言うと私はこちら側の人間だわ。
 
もしね、死んだ少女が自分をいじめたものやいじめを気づかなかった親や
 
いじめを見てみぬ振りをした学校、そういう残される周囲のものたちへのあてつけ(恨み)として死んだのならば、
 
これはただの『ルサンチマン』。
 
残念ながら、少女は乗り越えられなかったんだわ。
 
でももしね、死んだ少年が気まぐれに彼を傷つける周囲によって、
 
確固とした自己理解を作れず、自分の存在をただ罪悪だと感じて死んだのならば、
 
それは『自己処罰』。
 
そうだな、「生まれてゴメンナサイ」って言う太宰と似ているかしら。
 
彼は自分で自分を罰したのね。
 
 
 
私はね、少女は乗り越えるには幼すぎたと思うの。
 
それでもね、やはり同情はできないわ。
 
辛くて怨んで相手を罰したいと願う前に、もう少し自ら乗り越える努力ができたのではないか、
 
とつい思ってしまう私がいる。 
 
 
少年のことはね、ただいたずらな彼の周囲を憎むわ。
 
社会の歪みが、いや、世界の歪みが、こういう子達に降ってくるのよ。
 
国から会社から家庭から学校の子供へと。
 
ストレスの捌け口は下へ下へと降りてくるのよ。
 
とても残虐で、耐えられない事件だわ。
 
 
 
でもね、ちょっと笑ってしまう唯一の希望があるの。
 
今の子友達ね、けっこうしたたかで、ずるくて、その末端をね、「先生」に摩り替えたりもするようなの。
 
そう、大人はね、まだいいのよ。
 
いろんな癒しの方法を知っているから、それですむならそのほうがいい。
 
教師には悪いけど、公務員だもの、我慢してほしいものだわね。
 
 
ねぇ、あなた、あなたもそう思わない?
 
子供達がもっとしたたかに狡賢くなってくれることを、私ただ願うわ。
 
 
 
 

癒しとストレスの関係を考える悪趣味な私の愛読書

 
 
※ださい (tasteless) 悪趣味な
 
 
自殺問題を扱ったTVを見た。
間違っても、自殺予告の手紙だけはもう書くまい。
大昔、フラれた恋人に書いたものだが、いいとか悪いとかそういう問題ではなく、ただ『ダサい』からだ。
(おかげでずいぶん笑われたものだ)
しかし、恋人が書かせたならばまだマシだ。
少年のそのダサい手紙はいったいどこぞのダサい連中が書かせたものか、謎だった。
 
 
 
 
愛読書は辞書だ。
事典とも言う。広辞苑、類語辞典、百科事典、言葉の意味と語源、用例を詳しく解説してくれるシロモノだ。
気になる言葉にぶつかると、すぐ、何十冊もの辞書を集めた電子辞書を引く。(これは手放せない)
そうして、その言葉の定義を考えるのだ。
 
 
今回のターゲットは『癒し』
 
 
広辞苑にはこうある。
病気や傷をなおす。飢えや心の悩みなどを解消する。(中略)
「渇(かわき)を癒す」「時が悲しみを癒す」
 
 
そうか、癒しというのは『飢え(渇き)と心の悩みを解消して、病気を治す行為』を言うのだな。
なるほど。
ところで、ならば、それってどこかで聞いたことがないか?
思い当たり、しばし考える。
 
 
次に引くのはこれ。『ストレス』
 
 
広辞苑では①~④まで意味があるが、私達が一般的に使うのは下のふたつだ。
『③種々の外部刺激が負担として働くとき、心身に生じる機能変化。ストレスの原因となる要素(ストレッサー)は寒暑、騒音、化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足など生物学的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など社会的なものなど多様である』
『④俗に、精神的緊張を言う。「ストレスがたまる」』
 
類義語新辞典ではこう。
『ストレスがたまっていらいらする。ストレス解消。不快な刺激に対する生体の示す反応』
 
 
 
ははぁ。
ではストレスの定義はこうに違いない。
『常に癒されていないとぱんぱんに溜まって始末におえなくなるので常に癒されている必要性のあるもの』
 
または、『ストレス解消=癒し』
でもいいような気がする。
 
 
 
 
恋愛本を買いに行き、涙を流さなくてはならない。
またはそのほかの方法でもいい。
そうだ、うんと楽しい映画を見て、美味しいものを食べ、友人とおしゃべりをしよう。
ダサくなければいいだろう。
選択権は私にある。
 
 
 
 
 

2006年11月11日

癒し強迫観念は卑しの世界を救えるか? ~ニュースを見て思うこと~

 
 
※『卑しい・賤しい』 類義語アヤシが不思議と思われる異常なものに対する感情であるのに対し、蔑視または卑下するものに対する感情をあらわす
 
 
どうも世間は癒しを求めているようだ。
ペットやキャラクター、温泉、癒しに関する商品やテーマは根強い人気がある。
恋愛本で涙を流し癒されましょうと言うコピー、「最後に泣いたのはいつですか?」
(コンビニで売っているこの本は、現在書店売り上げランキング4位だ)
 
 
病んでいるんだ。
 
 
ニュースではいじめ自殺に関するテーマが絶えない。
文部科学省にはつたない文字で書かれた自殺予告なる手紙が送られてくる。
 
「どうして僕をいじめるんですか?どうして僕のパンツを下ろすんですか?」
「みんな僕が嫌いですか?僕はうざいですか?キモイですか?」
 
 
病んでいるんだ。
 
 
『あなたは癒されなくてはならない』
 
 
 
その方法は個人で選ぶことができるだろう。
 
 
 
 

2006年11月5日

キラとヒトラーは必殺シリーズの主人公になれるか? ~DEATH NOTE(後編)を 見て~

 
※アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)ドイツの政治家、のちに独裁者の典型とされる。
 
DEAHT NOTE(後編)を見た。
死のノートと対比する存在として、『六法全書』(に関する逸話)が繰り返しクローズアップされる。
定義はこうだ。
『正しくあろうとした人類のその積み重ねによって作られた書』
なるほど。それなら、たとえキラによって犯罪率が70%も減少しようと、法の網をくぐる極悪犯罪者が社会でのうのうとのさばろうと、その正しくあろうと努めた人類の重みを足蹴にしてまで必殺シリーズのようにばっさばっさと勝手に成敗してはならないだろう。
ちなみにDEATH NOTEの定義は、
『理想世界を構築しようとするキラの独りよがりの正義感』
だそうで、最後にエルにこうばっさり宣告される。
「これは大量殺人兵器です」
しかしそう告げるエルはどこか哀しそうだ。
そうして、その独りよがりの正義感は市民から60%以上の支持を得ているのだった。
 
ヒトラーならきっと六法全書を足蹴にすることだろう。
民も支持したのだ。独りよがりの正義であるはずがないというだろう。
 
六法全書を叩き捨てるところから始まった夜神月の(デスノートをめぐる)物語とその結末、ラストシーンは見所だ。
(ちなみに隣の子供はその月の結末に思わず涙していた)
 
 
 
まったく関係ないがエルがカッコ良すぎてため息が出た。
映画館の帰り道、遊歩道を歩きながらみんなでチョコレートを食べた。そうして親指と人差し指で携帯をつまみ、会話の真似ごとをする。
エキセントリックと言うのは笑いのネタにもなる。
エルになりたい。
 
 
 

2006年11月3日

連休のより良い過ごし方

 
ようこそ、私の劇場へ。
 
あなた、どんな休日をお過ごし?
とても天気もいいし、穏やかな気候だから、さそかし楽しい連休をお過ごしなことでしょう。
 
私は暇をもてあまして、小噺をたくさん書きました。
これらはところどころフィクションです。
 
たとえば、『僕=村上春樹の小説に出てくる羊のような存在』 私の妄想の人物です。
または、同じくねずみのような人も出てきます。
 
もし、あなたにもお暇がほんの少し多くあるのなら、下から順にストーリー仕立てになってますので、『容疑者・室井慎次』辺りから読んでみてください。
次の『おいしい生活』~『告発の行方』、それを挟む小噺、そしてラストは『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』で完結しています。
 
良い休日を。
 
 

ヘドヴィグひとりで夜の街を歩く。~孤独への序章~

 
※ヘドヴィグ = 映画 『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』 の主人公
 
 
ああ、そうか。
 
寝すぎて、トチ狂っちゃったんじゃないのか?
考えるまでもなかった。
それは、すべて、すでに私に備わっているものじゃないか。
 
ヘドヴィグとおんなじだ。
捜し求めたものはすでに自分の中で完成していたんだ。
 
私は本当の愛を知っている。
人を愛せる人間だ。
 
だからこそ、ロダンが吊るし上げを食らったときは立ち上がったし、たとえそれで自分が更なる吊るし上げを食らっても、彼らすべてとあの場所をただ愛した。
苦しむロダンのために、あの場所とみんなの平和のために、静かに消えようと思った。
それを許さなかったのはもうひとりの彼だ。
私には彼の矛盾した苦しみもわかってしまった。
そして自分の醜い欲望も。
  
分裂した自分に疲れ果て激化する吊るし上げに耐えられなくなって、ついに自分が壊れても、私亡き後のあの場所を愛し続けた。
平和と幸福を願っていた。
(もし母が倒れていなければ、私はみんなのためにあの場所へ戻ったろう。たとえそれがさらに自分を壊すことになったとしても)
 
そうして、彼が側近を切ってやめたと知ったとき、私はついに立ち上がった。
最後の武器の剣を執ったのだ。
彼とみんなのために。
 
 
これは偽善か? 大義名分の愛か?
違う。
 
私はとっくに愛を知っていた。
だから彼の詭弁に気がついた。
 
私はとっくに愛のために戦っていた。
戦いの根底にある愛を知っていた。
 
あほか・・・
何をトチ狂ってるんだ。
すべて私にすでに備わっている知恵じゃないか。
いまさら考えるまでもなかった。
 
ただ、その本質の愛では、この世の愛が得られないから、悶々としていただけだろう?
僕を愛してしまったんだね?
 
 
あほか・・・・
 
 
もういいんだ。
何も考えなくて、戦わなくて、もういいんだよ。
彷徨わなくていいんだ、信念があるから今のあなたがあるんじゃないか。
あなたはすでに完全なるあなたなのだ。
 
 
詭弁と中傷に惑わされるな。
誰かの愛に惑わされるな。
誰かが叩くのは私を愛しているからだ。
もっともっとと・・・
でもあなたはもう頑張らなくていいんだ。
 
すでに、あなたの愛と、相手の愛は、そこにあるのだ。
 
気づくだけでいい。
 
 
欠けた自分の片割れを探し続けたヘドヴィグは、ラストに気づくのだ。
自分がすでに、自分ひとりで完全なる球体であったことを。
それは彼の長い旅の終わり、そうして更なる長い長い、新たな旅路の始まりだった。
孤独への旅。
ヘドヴィグは全裸で夜の街を歩く。
たったひとりで。
 
 
 
 

戦争の根本にある愛に関する考察。てか、自画自賛になっちまった。

 
ニーチェの善悪の彼岸を読んでいたら寝てしまった。
寝ても寝てもすとんと寝てしまう。
今日は父の誕生日だ。こうはしていられない、はず・・
 
①の選択肢をどうにかできないものか?
自分の信念を貫きはするが、②のような大義名分的な愛の定義で穏やかに暮らす。
それは可能だろうか?
 
しかし、自分の信念を貫くということは戦いだと思う。
たとえ誰かの信念を叩き潰す意図はなくても、結果的にそうなるときもあるのだ。
必ず、誰かを傷つけてしまう。周りをも。
 
だからルソーはあんなに叩かれたのだ。
(穏やかに暮らしているときのルソーはとても人のよさそうなおっさんだった)
 
私はもう周りを傷つけたくない。波風を立てたくない。
誰も傷つけたくない。
 
しかし、だから戦わないとしたら、それは他者への愛ではなく、ただの自己愛だ。
誰も傷つけたくないと思うことは、結局は自分が傷つきたくないと思うことの証なのだ。
 
②のように大義名分的愛の定義に生きたら、私は僕をも誰をも愛せるだろう。
そうして、自分も誰も彼をも傷つけることはないだろう。
 
ちょっと混乱してきたな。
 
戦うということは、自分と他人を傷つけうる行為なのだな。そうだ、だから戦争というのだろう。
信念を貫くという行為と意思が戦争という要素を孕んでいるならば、なるほど、さすがにそれは平和主義者だ。
どうしても抵抗がある。
きっと今の日本人はみな平和主義者だろう。(だから飼われたサラリーマンとニートばかりがいるのだ)
②は平和主義者か?
もちろん典型だろう。典型な日本人だ。
波風立てず、誰をも博愛的に愛し、愛され、休日はスポーツと海。
 
まてよ、まったく矛盾だな。
 
てことは、私は②を選ばなかったからこそ、ぼろぼろの人生なんだな。
戦ってしまったから、自分を周りを傷つけたんだな。
信念を捨てられなかった。
 
ちょっと待てよ、なら愛されるなんて、愛するなんて無理じゃん??
てか、平和主義者じゃないじゃん?
 
どこが変だ?
愛の定義を間違えたのか?
 
(しばし過去のブログを読み返す・・・・)
 
イヤ、変じゃない。
愛の本質を知れば知るほど、人は愛から遠ざかる。
間違っていない。この世界で、愛し、愛される道は、その定義の愛を選択するしかない。
 
うん・・・
 
愛と戦争は相反する。愛の対義語は憎しみ。
憎しみは戦争?
イヤ待てよ、戦争は信念を貫く行為と意図でもあり、それは愛ゆえに成り立つこともある。
根底に愛がなければきっと人は戦えない。
しかし信念を貫くという行為と意思が戦争という要素を孕んでいるならば、平和主義者が信念を貫くことは茨の道だ。
 
ああ、だめだ・・・
戦いの根底にある愛は、私が定義した愛とはあまりにも違いすぎる。
そんな壮大な愛は、この世のいったいどこにあるんだ???
(やはり愛はもう宗教なのかもしれないな・・・)
 
私が愛し愛されるために否定した定義ではない愛、本質の愛ならば、それになりうるだろうか?
 
ああ、そうか。
だから僕は誰からも愛されなかったりもするが、戦えるんだな。
 
私もだ。だから戦ってきたんだな。
ダメなりに一生懸命。
 
 
しまった、自画自賛で終わってしまいそうだ。
とりあえず、①と②を融合させて、帳尻を合わせることは難しそうだ。
 
父の家に行く。
ケーキを食べて、頭を養分で養ってからまた考えよう。
 
 
 

僕の矛盾についての考察。答えはいつ出るの?

 
待てよ、
ちょっと考えてみよう。
 
これはとてもいい機会だ。
このまま、ずるずると復讐戦に持ち込んでも、また私がぼろぼろになるだけだ。
だって、愛する価値のない人達を愛しても仕方がないからだ。
 
選択肢は二つある。
①体力をつけ、回復したら、また書く。
②すべてを忘れて、大義名分的に偽善的な愛を愛の定義として生きる。
 
最初の選択は室井さんのごとく、自分の信念を貫くことだ。
努力は科学では証明できない、もっと土臭いものだ。私の好きなソウル(が根底のハードロックだけどね)と同じだ。
そうして、そんな過程のうちに私はさらに磨かれ、もっともっと本質を知ることができるだろう。
それは作家(モノカキ)という道ではないかもしれない。
もしかしたら極貧の負け犬かもしれない。
それでも戦うことだ。
諦めないことだ。
しかし、そういうと聞こえはいいが、復讐戦であることには変わりはない。
自分の信念を貫くことに「意地をかける」ときは、誰かの信念を叩き潰したいという意図がある。
僕のようにね。
私はそれは疑問に思うときもある。
信念を貫くには他人の信念に理解がありすぎて、そう、優しすぎるのが欠点なのだ。
そんな私には誰かを叩き壊してまでも、自分の信念を貫くという選択は茨の道となるだろう。
そのリスクを考えてみないと、この選択はできない。
 
二つ目の選択はこれも僕の言うとおりに「本当」の意味で、(本質ではなく世俗的な意味で)
人を愛する人間になることだ。
これはぼろぼろの人生をやり直すことができる可能性があり、暴力と詭弁を言うやつらが説教たれるとおりに改心することでもあるだろう。
しかし、余談だが、僕は戦えと言ったり、愛せと言ったり、矛盾だらけだっての。
その二つは違う選択肢だろうが?
この選択を選ぶことによって、私はこの世界で救われるだろう。
盲目で善良な市民となれるだろう。
人を愛し、愛されるだろう。
信念を持つ人間は尊敬はされても(世俗的な意味での)幸せとは縁遠いのだ。
だからすべてを忘れて、馬鹿には関わらず、人生をやり直す私は、
きっと素敵な相手と結婚をし、もしかしたら子供も持て、嫁姑とかの悩みはあっても、生きるか死ぬかの悩みもなく、
休日には趣味のスポーツをし、海で泳ぎ、楽しい日々を過ごせることだろう。
愛すべき価値のない人たちのことはすべて忘れて。
 
 
さて、これはどちらが賢い?
 
 
 

ルソーと演出が下手なストリッパーに関する考察。てかただの暇つぶし。

 
※ルソー = 『ジャン・ジャック・ルソー フランスの作家、思想家』 
 
 
昔、ルソーの「懺悔録」「対話」「夢想」の三作品を読んで誰かが言ったそうだ。
「これはキチガイが書いたものだ」
 
ふぅん?
私はそうは思わなかった。
ただ、こう思った。
 
「こいつ露出狂に違いない・・」  ※余談・実際ルソーはホントに露出狂だった
 
作家というのはストリッパーだとよく思う。
自分の思想や考え、訴えたいことを、ヴェールに包んでミステリアスに描く。
いかに、読者の興味をひきつけられるか?
その隠された秘境の陰部を見たい、知りたい、と願わせられるか?
村上春樹が飽きられないのは、彼が決して、読者に見せないからだ。
読者は想像を掻き立てられて、悶々とする。
見たい、知りたい、きっとそこには何かがあるはずだ。私の知らない何かが、と思う。
(実は大したものはありゃしないのに・・・)
演出が巧い。
 
ルソーは演出が下手だ。
あからさまにああ全部見せてしまっては、読者はうんざりする。
しかし私はけっこうルソーが好きだった。
あからさま、大歓迎!
(きっと根がすけべぇなのだろう)
 
今の私はルソーに似ている。
でも、ひとつだけ違うのは、公開していないことだ。
あほか、誰が真剣にものを考えたこともないやつらに、人の思想を教えてたまるかっての。
全裸を見せてたまるかっての。
見世物じゃねぇ。
ヴェールで悶々とし、与えられたヒントで気づけ。
 
 
ちなみに作家と評論家の違いは、評論家はストリッパーではなく、そうだな、相撲の力士ってとこかな、とよく思う。
あいつらは常に全裸(一応陰部は隠しているけどね)で勝負しているんだ。
そこには妖しいストリッパーの魅力は何ひとつない。
ルソーが評論(あれは啓蒙書?)を書いていたとき、彼は真剣に相撲をとっていた。
しかし、私は相撲を辞めたあとの作家となったルソーが好きだ。
たとえ、孤独な散歩をする露出狂であっても・・
 
☆☆☆☆
 
そうだ、今気づいた。
だからロダンのやったことは陵辱だったのだ!
あいつは相撲取りのように自分の思想も明かさずに、作家からのヒントで気づく頭もなく、悔しくて、暴力で人を犯しやがった!
勝手に自分が想像した裸を曝して見せたのだ!
あったま来た。
めちゃくちゃ頭来た。
立ち直らせよう、気づかせようという厚意を受け入れて自分の思想を磨くどころか、
人の厚意を利用して、人を陵辱しやがった。
それを告発したらまた暴力で返しやがった。
絶対許さない。
それはルール違反だ。
お前だけは許さねぇ。
 
 
 
 

愛の定義と猫がひとりで傷をなめることについての考察。てかこれもただの愚 痴。

 
眠い眠い・・
 
寝ても寝ても眠い・・・
 
こんなこといつかもあったな。
 
そうだ、あれはあそこを辞めたときだ。
 
愛とか正義とか善意とかいう詭弁を使って、こっちを極悪人にしたどっかの馬鹿が、
 
「欝」だの「被害妄想」だの「頭がおかしい」だの中傷と侮辱で私を叩きのめしたときだ。
 
善人づらして同じ事をするロダンのほうがたちが悪いが、人間はみんな同じ残虐な生き物ということだ。
 
とにかくアホどもはどうでもいい。
 
今はすべてを放棄してでもいい。自分を守ることが先決。
 
呪縛は解けた。あとは体力の回復を待つだけだ。ひたすら裡にこもろう。
 
傷ついた猫が隠れてひとりで傷をなめるように。
 
元気になるまでじっとしていよう。
 
とにかく今は自分を責めるな。
 
本当は誰かを責めることは相手を責めることじゃない。自分を責めることだ。
 
しかし、誰かを責めて傷が癒えるならそれでもいい。
 
これは過程だ。今は食べて寝る。
 
ああ、こんなぼろぼろになることの繰り返し。
 
なぜぼろぼろになるか?
 
愛しても価値のない人をも必死に愛し続けるからだ。
 
ぶっちゃけ人間はみな愛する価値のない人達なのに、それでも深く愛するからだ。
 
人は愛されている人には傲慢になる。愛されていると知ると甘えが出てくる。
 
愛すれば愛するほど愛されなくなる。
 
いや、返してくれる愛は果てしなく大義名分的な世間一般で認知される「愛」とは質が違ってくる。
 
それは人間が根本的に人を愛することがいかに難しい動物であるかを教えてくれる。
 
そんな人間の本質を剥き出しにしたやつらこそが、大義名分の愛と一般的に認知される「愛」という名目を使って牙をむく。
 
「お前は人を愛せないのだ」と。
 
あほか。
 
私が愛されないのは本質的に人を愛している証拠だ。
 
牙をむくなら、人を愛せない人間の本質を責めろ。
 
ただひとつ本当に人を愛し愛される方法があるとしたなら、言い方は悪いが偽善的に、大義名分的に、人を愛することだろう。
 
そうすればそのお返しも大義名分的にやってくる。
 
つまり愛の定義の問題だな。
 
愛とは本当に愛することではなく、適当に愛することなんだ。
 
それを愛だと決めてしまえば、確かに私は愛せない人間であり、大義名分的に責められても仕方ない人間なんだ。
 
しかしな、責める相手が問題だ。
 
お前は本質的に人を愛する人間だろう!
 
だからお前にだけは責められたくないんだよ。
 
だからお前の言うことは詭弁なんだ。
 
愛の定義を自分の本質と変えて、盲目で善良な市民(それもお前かも・・)に叩き込むなよ。
 
あほか。
 
あーすっきりした。
 
また寝て傷をなめる。
 
 
 
 

2006年11月2日

果てなく実力を凌駕するこのろくでもない世界についての考察。てか、ただの愚 痴。

 
もうゴキブリは入れない。
思う存分書こう。
これでもアクセスがあったらメッセンジャーに苦情を言おう、今度こそ。
 
まず、ご飯を食べて、お風呂に入ったら、少し人間らしい気分になった。
何がそんなに打ちのめされたのか考えてみる。
 
そうだ。僕の言うとおりの現実に打ちひしがれたのだ。
努力してもしても、報われない世界。科学の世界。
私より努力してない人たちがのさばる職場。
人脈や派閥や愛人関係や世渡りの巧さや、そんな裏の権力が本物の実力を凌駕する世界。
人の何十倍働いても、努力しても、使い捨ての駒ように軽く扱う人たち。
実力で負ければ、悪意を持って、軽蔑をあらわにする同僚。
また、本物を書いても書いても、偽者がのさばるブログ。
頭に来るのはそれが偽者ではなく本物だとあのアホらが思っていることだ。
勉強になっただろう、だと? だからあんたはダメなんだ、だと?
それは言葉の暴力だ。愛なんかじゃないし、論理も心も存在しない。
それは屁理屈と揚げ足取りだ。
理論なんかじゃないし、ただの侮辱罪だ。
家事と仕事の合間に寝る間を惜しんで、懸命に本物を書いても、「そんなやつら」がのさばるのだ。
そんなやつらが、教えてやって「いいことをした」と思っていることだ。
その侮辱を本物の正しい正義だと思っていることだ。
また、愛すれば愛するほど、「もっと愛せ」と強要される世界。
まるで私が人を愛さない欠陥人間だからこそ愛されないかのように。
誰が私ほど人を愛してるのか、そいつの名前を言ってみろ!
自分をぼろぼろにしてまで誰かを愛したか言ってみろ!
私より人を愛さない人に、同じ言葉を言ってみろ!
言いやすいから私にだけ言うんだろうが!
死んだ少年が「からかいやすかった」と言ってたあのイジメ教師と同じだっての!
いい加減気づけよ!その理不尽な残虐さに!
どこがダメだか言ってみろ!
あんたはね、真似されたと思ってるんだよ。
「俺が言ったたこと取られた」って言ってたな以前。
あほか、誰でも同じこと考えるっての。
同じ本読んで、同じ時代に生きて、なんでまったく違うことばかり考える人間がいるかっての。
「お前こそ宮澤賢治のぱくりじゃないか」って笑われるぞ、笑
 
君は僕らに奪うことのできないものを武器にして戦ってる、って言ってくれたよね、僕。
その武器を軽く見たのがあんたらとこの世界だよ。
そして、その武器が負けたんだよ。
敵わないと証明されたんだ。
努力が科学だからさ。
 
ああ、こんなにへこむことってあるかな。
 
まるで、私の中からカミサマが消えていくみたいだ。
堕ちていく。
 
いっそ堕ちていこうか。
そう思いながら、なぜあんなやつらとこの社会に私の人生を狂わされなきゃいけないんだ?
って。悔しくて悔しくてたまらない。
 
『哀しいことがあるたびに、私の中のきれいなものが失われていく』
 
きっと立ち上がってやる。
今は負けても、偽者が勝ち続ける世界のわけがない。
もしかしたらこの世界で生きているうちは負けっぱなしなのかもしれない。
それでも、努力は必ず報われるんだ。
笑いたいやつは勝手に笑え!
 
(これ私の処女小説で使った台詞なんだけど、かぶってスマンね、
あそうか、あんたが見たのかな??えっ???ありうる????!!!えっ??!今気づいてびっくり!!
そういゃぁこの間久々に書きなおし前の原本を見たよな??驚愕!!
いやぁ・・まってあれは原本だからホント勘弁して、アセッ どうせならなぜかフロッピーが見つからない完成版を見てくれ!!
 
ああ^^^^「僕が僕じゃなくてもかまわない」ってのもそれかぁ・・・驚愕。そこまで見るかゴキブリ???
 
いや、まさかな・・気のせい気のせい・・・・)
 
しかしなぁ。まぁ、そういうヤモリはどうでもいいんだ。
ずいぶん昔から付きまとわれているから、なんとなくもう自分の一部みたいな感じもするしな。
(たしか2004年の頭くらい?それとも2003年だったかしら。。それより前じゃないよね?)
 
 
『神の喪失』
 
問題はそこだ。
まず努力し続けられる体力をつけないと。
体弱すぎる。
そうして元気になったらたくさん書こう。
 
ああ、少し気が軽くなってきた。
人間そう簡単に変わるものじゃないから、私が馬鹿であり続ける限り、私の神も簡単には消えやしないはずだ。
元気になるまでもう少し待っててくださいね。
 
そうして体力をつけたら、まずはあの馬鹿ロダンを殺す!
今度こそみね打ちにしないで、叩ききってやる。
はぁ~ 私が優しすぎたのだ。
自殺するタマでもないくせに、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬと。うぜぇ。
ほんとに死にたいやつが、なんで自殺がダメなのか、その理論を考えたことがないわけないじゃないか、ボケ!
抑止の理論を考えずに生き続けていられるわけがないんだ。
そんなやつの「死にたい」や「自殺肯定」はファッションかポーズだ。
 
 
あーすっきりした。
いいたいこと言ったらすっきりしたぁ。
 
誰も見てないと思うと、夢だの何だの、ぼやかさなくていいから楽だなぁ。
もしかしたら僕が見るかもしれないが、まぁ僕は分身みたいなヤモリだからどうでもいいや。
ヤモリのうちは可愛い。
ゴキブリになるとたちが悪い。
ゴキブリの姿で現れたら通報する。
 
寝るぞ~
 
 
 
 

2006年10月28日

11月7日13時半(テレビ東京)放送予定 告発の行方

 
告発の行方  
THE ACCUSED
1988 USA 1h51m
 
監督:ジョナサン・キャプラン Jonathan Kaplan
製作:スタンリー・R・ジャッフェ Stanley R Jaffe シェリー・ランシング Sherry Lee Heiman
脚本:トム ボトル Tom B
撮影:ラルフ・ボード Ralf D. Bode
音楽:ブラッド・フィーデル Brad Fiedel
 
出演:
ジョディ・フォスター Jodie foster  /  ケリー・マクギリス kelly McGillis
バーニー・コールソン  Bernie Coulson  /   レオ・ロッシ  Leo Rossi
アン・ハーン Anne Hearn  /  カーメン・アルジェンツィアノ Carmen Argenziano
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
場末の酒場で複数の男たちによるレイプ事件が起きた。事件当夜、被害者のサラが酒に酔い、ドラッグを吸っていた事実を知った検事補キャサリンは不利な裁判になることを予測、弁護士側との裁定取引に踏み切る。レイプではなく、過失傷害として事件が扱われたことを知ったサラは、キャサリンを裏切り者となじる。傷つきながらも真実の公表を訴えるサラに対し、裁定取引を悔やみ始めたキャサリンは、再び事件の新たな告発へと動き出す。
この作品でアカデミー主演女優賞を獲ったジョディ・フォスターの冒頭の迫真のレイプ・シーンには息を飲む。
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
誘う女が悪いと責めるなら、それを望む馬鹿な男も悪いのだ。
女はいつでも男に望まれたとおりの姿を演じる可愛い可愛い生き物だろう。
とまぁ、キリがないので開き直りは抜きにしても、やっていいこといけないこと、その微妙な境界を越えるとどうなるか?
また、女は女の味方か? 男と社会に追従する敵か? 
(いつでも女の敵は女だったよな・・・)
なぜかハッピーエンドとは思えないが、女同士の関係には爽快感が残るラスト。
久しぶりに見てみよう。
 
ジョディ・フォスターがいいです。
 
 
 
 
 

2006年10月27日

家を買う

 
家を買おう、そうふと思う。
とある講習会の席でのことだ。
講師が言う。
「マーケットを熟知し、ニーズを把握し、それに見合ったポートフォリオを!」
マネジメントをいかに有効にするかという講釈なのだが、おのれを知って戦略をたてよ、という人生教訓にも似ていた。
そうだ、いかにも自分を有効に活かせれば、人生というマーケットの中で滞ることも、ない。
この講釈に合わせれば、私はハイリスクハイリターン型の人間である。安定型のコア戦略は立てられない。
おのれを知って諦めることだ。リスクを受け入れよう。
 
いつしか講師の言葉は遠くなる。おのれについてもっとマシに考えている。
リスクについてもざっと項目を挙げてみた。
中のひとつに家という選択がある。(もちろん小さなマンションだが)
これをクリアすれば、肉体的、精神的、経済的な苦痛は現在よりも何割か楽になろう。
 
家に着くと、案の定、ポストにチラシがわんさかある。
ひとつずつ丁寧に目を通す。ふむ、これくらいならイケないことはない。だての男と変わらぬ年収をもらっている。あとは信用だけだ。
 
部屋は3LDK、父と母の和室。キッチンとリビングで家族が集う。大きなバルコニー。
反対側には私の部屋と僕の部屋。
 
「僕の部屋ってなんだ?」と父が聞く。
返事に困る。それは私の妄想だ。
私が名づけた私の妄想から生まれた彼はその夢の部屋の中でいつも夢ばかり見ている。
ひとりで夢見ては、右の部屋と左の部屋を行ったり来たりしている。
なのにだからリアルだ。
きっと夢に支配され囲われている私が、その夢を囲いたいという妄想の中の願望に違いない。
「それは私の夢の部屋だ」
父には通じない。
仕方ないから現実に即した概念を探す。
「それは私の夫の部屋だ」
「ふぅん。結婚するのか」
「しないとも限らないし、予備だよ」
父はやっと納得したような顔になり、私は馬鹿馬鹿しさに襲われてしかめ面になる。
 
 
 
 

2006年10月25日

コロボックル伝説

 
大昔、まだ私が子供のころ、コロボックルの御伽噺を読んだ。
コロボックルとはアイヌの伝説に出てくる小人のことだが、まぁ、実在するかは不明なので、妖精のようなものだろうと思う。
 
確かこんな物語だ。
ある日、少年は彼が大好きな秘密の場所、とある山で、コロボックルに出会う。
彼はこの蕗の下に住む妖精と友達になり、忘れがたい経験をする。
まるで夢のような貴重な思いを。
時は過ぎ、大人になっても、彼は決して、―それまでコロボックルたちが出会った多くの子供達のように― 妖精のことを忘れたりはしなかった。
山に戻ってきた大人の彼はコロボックルに再会する。
(もういないと諦めていたのに、会えたのだ!)
そうして、こともあろうか、なんと秘密のその山を買ってしまうのである。
誰にも邪魔されることもなく、自分だけが妖精たちとずっとずっといつまでも一緒にいられるように。
 
子供心にもこう思った。
「大人ってすげぇ・・・」
夢ってお金で買えるんだ・・・と。
 
そして、物語はこう続く。
偶然にも子供のときに山で出会っていた少女が、やはり大人になり、その彼の山にふらりと現れる。
再会。そして、運命、彼らは結婚して、コロボックルと共に山で過ごしましたとさ、めでたし、めでたし。
 
できすぎているよな。。。
なんでこの話が大好きだったのかよく覚えていないが、多分コロボックルが欲しかったのだろう、私も私ひとりの。
何度も何度も繰り返して読んだのだ。当時は子供だから本を買うお金もないので、スーパーの本屋にしょっちゅう行っては、立ち読みをしていた。
 
コロボックルというのは面白いんだ。
大のいたずら好きで、家主がいないときに、こっそりと遊んでいる。仲間達みんなでワイワイガヤガヤと。
そのくせ、家主が帰ってくると、きゃっとばかりに散ってしまう。
なかなか打ち解けない。
そしてまたこっそりと大好きないたずらをして、家主の関心を買おうとしたりもする。
そのさまを想像すると、くすくす笑ってしまう。
なんとなく可愛い。
 
そうだ。
明日あたり近所のスーパーに行って、コロボックルを買ってこよう。
ひとりじゃかわいそうだ。仲間ごとまとめて売ってくれないだろうか?
きっと、家がにぎやかになるだろう。
 
 
 
 

2006年10月22日

10月28日26時40分(テレビ朝日)放送予定 おいしい生活

 
おいしい生活
SMALL TIME CROOKS
2000 USA 1h35m

監督:ウディ・アレン Woody Allen
製作:ジーン・ドゥーマニアン Jean Doumanian
製作総指揮:J・E・ボーケア J.E. Beaucaire
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ Jack Rollins
チャールズ・H・ジョフィ Charles H. Joffe
レッティ・アロンソン Letty Aronson
ヘレン・ロビン Helen Robin
脚本:ウディ・アレン Woody Allen
撮影:
チャオ・フェイ Zhao Fei

出演:
ウディ・アレン Woody Allen / トレイシー・ウルマン Tracey Ullman
ヒュー・グラント Hugh Grant / エレイン・メイ Elaine May
トニー・ダロウ Tony Darrow / ジョン・ロヴィッツ Jon Lovitz
マイケル・ラパポート Michael Rapaport / エレイン・ストリッチ Elaine Stritch

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
ドリームワークス製作によるウディ・アレン監督・主演作品で、久々にドタバタ色の強い痛快コメディ。
元ギャングで一応(?)銀行強盗の経験もあるレイ・ウィンクラー。彼はある日、完璧な計画を思いつく。それは“銀行の近くの空き家を借り、そこから地下にトンネルを掘って金庫に到達する”というもの。
が、その借りた空き家でカムフラージュにと妻のフレンチーが始めたクッキー屋が大繁盛する一方、肝心のトンネルは全然進まず……。
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
間抜けでイカレタ、情けなぁいアレン様のお姿と、ユーモア仕立ての痛烈な皮肉に付き合わされて、見終わるころにはいつもぐったり。
ハイハイ、わかりましたよ、あなたこそインテリジェンスです・・・・
と思わず白旗を揚げてしまうアレンワールドを今宵もお楽しみくださいませ。
 
 
あ、そうそう、コレ、ラブコメの帝王ヒュー・グラントが出てます。
相変わらずの役どころですが、ちょっといい味出てますよ。
 
 
 
 

2006年10月15日

10月20日21時(フジTV)放送予定 容疑者 室井慎次

 
『神様は勇気というものを一人にひとつしかくれない。それを捨てると二度と手に入らない。
私は捨てた。偉い人に刃向かってね。
今は逃げることばかり考えてる』
『室井という人はまだ捨てないでいるんだろうな。取り返しがきかないことを知っているんだ。
だから逃げないんだろう』


室井慎次が言った。
「事件の中に答えがある」
「捜査を続けるんですか?!」
驚いてそう訊ねる弁護士に向かって諭すように呟く。
「私にはそれしかできない」
これは自分の信念を貫き続ける、勇気あるひとりの男の物語である。


あなたはまだ勇気を持っていますか?
それを捨ててはいませんか?
そうしてもしあなたが今も勇気を持って信念を貫き続けているならば、結果、何が起こりました?
答えをあなたは知ってますか?



見終わったあと、ため息しか出なかった。
なんでわざわざお金を使って、これだけのキャストとスタッフを総動員して、尽きたネタを使って、こんな映画を作ってしまうのか?
理解不能だ。アホだ― とさえ思う。
しかし、それは見終わったあとだから言う台詞でしかない。
どんなにくだらない趣旨の映画でも、ラストまで見させることができればそれは創り手の「勝ち」だ。
たとえばあなたがここで私の文章を読むのをやめたら、それは私の「負け」と同じだ。
どんなに立派な思想を持つ作品だって、ラストまで観客をひきつけることができなければ、何の意味もない。
見せてナンボだ。
だから最後まで期待して見続けたこの映画は、私を完敗させた最高の映画だった。
オチは決して教えてあげない。




『容疑者 室井慎次』、踊る大走査線スピンオフ第2弾、地上波初登場である。
(第1弾の『交渉人・真下正義』、『逃亡者・木島丈一郎』、『容疑者・室井慎次』、『弁護士・灰島秀樹』と続けて放送される)
ある冬の日、室井監査官(柳葉敏郎)は新宿で起きた殺人事件の捜査本部長を務めていた。任意の事情徴収である捜査の中で被疑者が逃亡し、あと一歩で確保という時に被疑者が車に跳ねられ即死。被疑者死亡のまま書類送検となり、不起訴という最悪の結末で事件は幕を閉じた。
しかし、室井は被疑者の遺留品を見てあることに気付き、捜査の継続を決意。事件の真相に迫ろうとする。
室井が所属する警察庁はそれを辞めさせようとする。
被疑者が警視庁の巡査であったために、警察庁長官のイスを狙って反目しあう警察庁の一派には今こそが警視庁を叩く最大のチャンスだった。早く事件を終わらせたい警察庁。逆に警視庁は長引かせてうやむやにしたいので、出向中の室井をたき付ける。
純粋な捜査よりも警察内部の確執や抗争に振り回されてうんざりする室井のもとに、東京地検の窪園(佐野史郎)がやってくる。
そして室井を「特別公務員暴行陵虐罪の共謀共同正犯」の容疑で逮捕するのであった。


なかなか面白い出だしだ。
「踊る」シリーズを期待して見るとまったく違うのだが、それでも引き込まれる。
室井の弁護を任されるのは新米弁護士の小原(田中麗奈)、彼女は事件の裏で弁護士灰島(八嶋智人)が糸を引いていることに気付く。
この弁護士灰島がなんとも言えず面白いキャラクターだった。
彼は訴訟パラノイア、または訴訟ヲタ。小男で前髪が揃っていて、常に小気味良く笑い、携帯ゲームをピコピコ鳴らす。まるでキューブリックの映画にでて来そうな白昼夢のごとき法律事務所にどっかり座るその姿は、滑稽な小人か老ねた妖精のよう。
そして、法律と正義という名目を盾にし、詭弁を弄して、相手を窮地に追い詰めていく。
灰島は言う。
「みな自分は法に守られてると思ってるけどさ。違うよ」
「人は法に縛られてるんだって」
彼は室井の秘められた過去を暴露する。
怪文書として流し、警察庁からも警視庁からも持てあまされるようになった室井は、ついに捜査中止を余儀なくされる。


公安のドンにこう宣告されるのだ。平和的な観覧車の中で。
「次長も副総監もたいした男じゃないが、あれにはあれでメンツってものがあるんだ。
それにふたりは君におびえている。君の持っているものに― 
みんな正義というものが恐いんだ。
辞表を出したまえ」



若き日のこと、彼は信念を貫くゆえに一人の女性を殺してしまっていた。
彼の勇気こそが、愛する人を、死へと追いつめていた。



闇の中へと深く深く沈んで行く室井。
灰島の声だけが響く。
「なにをどうあがいたって法の前には無力なの」

勇気の炎が消えようとした、まさにその瞬間、光と共に小原が現れて―



この辺から怪しくなる。
室井が自己の勇気や正義を疑い始めたところまではいい。
それでも小原から勇気をもらい、自らの勇気を取り戻したところまではいい。
しかし以下の台詞は?

「私は一人の警察官と約束した。
彼は現場で頑張り、私は上へ行って現場が正しく仕事できるようにする。
約束を果たせず私は警察を去る。
警察にいては真実を知ることができないからだ。
私はこの事件の真実を知りたい。
真実を闇に葬ってはならない。
人が殺され、何人もの人が傷ついている。
事件は終わっていない。捜査を続ける」


何があっても勇気を捨てぬ決意を固めた室井は、自分の正義と信念を貫いて、捜査続行を決意する。
どうやら室井にとっての勇気は、青島刑事との約束よりも重大だったらしい。
「上へ行って現場が正しく仕事できるようにする」ことは彼の信念ではなかったのだ。
「この事件の真実」のために、そちらの勇気をあっさりと捨ててしまうのである。



そして、新宿北警察署の工藤 (哀川翔)らの協力を得て、事件の重要参考人の取調べをするのだが、
このあたりから怪しいを通り越してとんでもなくなってくる。
参考人に語りかける室井。
「もういいんだ。何も答えなくていい」
そうだ。彼の信念と勇気と正義感が、周りを苦しめた。
もしかしてついにそれに気付き、愚かな信念を捨てるのか、と思いきや、彼は言う。
「私が彼を追い詰めた」
「被害者のためと思い、私はそうした。それが私達の仕事だった」
「人を救うことなど考えもせず、申し訳なかった―」
深々と頭を下げるのだ。
なんと彼の信念への勇気は、いつしか人を救うことを怠った、という問題に摩り替わっている。
ごめんなさい、って言われたって困る。
人を救うためなら、室井は勇気など捨てるらしい。
違うだろう? 
たとえば、この世界の人間全員が信念を貫く勇気をいまだ持っているとする。個人だけではなく組織や社会にも信念と勇気はあるとする。
するとすべてがそれを貫くのは不可能に近い。個人ならなおさらだ。もし貫きたければ、信念が完全に一致する、または信念や勇気などない相手と付き合うしかなくなり、もしそれが不可能ならば、自分の信念への勇気と正義をどこかで調整するしかなくなる。
しかしそれは、人を救う、救わない、と言う壮大な問題とは別次元の話だ。
そんなことを問題に取り上げたら「人を救う」ことそのものを信念としている人と組織を除いて、自分の信念を貫ける人など果たしているものだろうか?
この映画の中では、ただ「勇気を捨てられずに、人を救えなかったことを悔やんでいる」と言うことを伝えたいだけかもしれないが、イヤ、それは立派だが・・・
私にはこう見えてしまう。
『室井は今まさに「それでも真実を求めたい」という信念の元に勇気を貫き、頑なな信念を捨て、真実よりも人を救うことを欲したのだった!』
(えっ、じゃぁ、この映画の大前提って???テーマって???)
 
 

混乱し、唖然とする私に追い討ちをかけるかのように明らかになる事件の真相。
その愚かさは見ものである。
(個人的な感想ですが、真の黒幕は新城警視正(筧利夫)じゃないですかね??)

 

 
 
「真の権威とは勇気を忘れぬものに与えられる」
その解説どおり、仲間達の敬意を受け鷹揚に新宿北警察署を立ち去る室井とは対照的に、通りすがりの人にぶつかられ、落ちた愛用のゲーム機をみっともなく拾って、負け惜しみのごとき台詞を呟いてから現場を去っていく灰島。
いいところまで相手を追い詰めながらも、最後には自分が最も得意とした相手をやり込める方法、法律を盾にしたそのやり方で、逆に相手からやり込められてしまう彼。
しかし、おかしいかな、私には「低能どもばっか!」と叫ぶ低能な彼こそが、一番まともに見えてしまう。
「覚えときな、真実じゃ金にならないの」
徹底した信念を貫いたのは彼だけではあるまいか。

 

 
 

2006年10月9日

10月14日26時14分(TBS)放送予定 木更津キャッツアイ 日本シリーズ

 
「あなた、何がしたいの?」
と美礼先生が言った。
「何があったか知らないけど、普通に生きている人の邪魔をしないで」
サングラスをかけ銃を持っている出所したばかりの初恋の相手、『微笑みのジョージ』に向かって。
「あなたも普通に生きたらいいのよ」



普通ってなんだろう?
私は銃を持っていない。刑務所にも入ったことはない。だから普通だろうか?
私には『微笑みの○○』などというふざけた愛称はない。ならば普通だろうか?
普通ってなんですか?
あなたは普通に生きてますか?

 


『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(2003)、宮藤官九郎(通称クドカン)脚本のTVドラマ『木更津キャッツアイ』(放送当時は平均視聴率10%前後と低迷、しかし深夜での再放送及びDVD化と共に爆発的人気を得たTVドラマ)の続編、あのキャッツアイの面々が映画のスクリーンで復活した。
30年後という設定で、若き日のイケメンからはありえない(と思われる)、けれど服装と行動に当時の面影をちらつかせるその30年後の濃い配役陣にいきなり笑わされる。
彼らが当時を回想するというところから物語は始まり―
冒頭は病院の診察シーン。不治の病で余命半年を宣言された主人公ぶっさん(岡田准一)は、ほぼ1年経った今も、死ぬほど元気に生きていた。
「別に死にてぇわけじゃねぇんだ。でもどんぐらい持つかでペース配分変わってくんだよ」
なぁ、わかるだろ?と言いたげに、申し訳なさそうにうつむく女医にたたみ掛ける。
「友達の手前、これ以上延ばせねぇしよ」
「・・・すみません」
「てか、先生変わった?」
「あー、前の先生ガンでお亡くなりになったんですよねー」
「で、俺は?」
「あと半年?」
「またかよ!」
ドリフのコントではない。れっきとした青春人気TVドラマの映画化なのだが、冒頭から深刻な死の問題さえもコントにしてしまう。
そんな現実的ドラマ的な常識ではありえない、『普通じゃない』ところから、物語は始まっていく。
 
 
 
 
クドカンが大好きだ。
この人の書くドラマや映画はほとんどすべて観ている。
観るたびにすごい人だなぁ~と感心するのだが、世間の評価はまだまだ彼のすごさに追いついていない。
そんな私の大好きなクドカンの作品の中で、一番世間的に認知度があり、一番どの世代が観ても楽しめる作品が、この「木更津キャッツアイ」ではないだろうか。
クドカンが描く、「すべての人にとっての理想郷」の完成形が、ここにはある。
 
 
 
ぶっさんは働いていない。無職だ。余命半年だからではない。まともに働く気などないのだ。
昼間は仲間達と草野球をして、ビールを飲む。夜は怪盗団「木更津キャッツアイ」として活動する。いつもと変わらぬ毎日。
そんなある日、木更津で大規模なロックフェスティバル「FUJI み ROCK FESTIVAL」が開催されることになった。木更津から生まれたロックスター(?)氣志團の推薦を受けて、ぶっさんたちもステージに立つことに。
一方、死んだはずの木更津の守り神オジー(古田新太)が海から流され戻って来た。喜ぶぶっさんたち。
めでたいことは続くもので、38歳独身の美礼先生(薬師丸ひろ子)はニューヨーク在住のアーティストと結婚することとなり、やくざの山口先輩と刑務所から出所したばかりの猫田は韓国パブを開き、そこで働くユッケ(ユンソナ)にぶっさんは韓国語でプロポーズ、任侠映画俳優の哀川翔は朝の4時半から木更津の海岸に立ちぶっさんに「完全燃焼」と書かれたボールをプレゼント。オジーに成りすました微笑みのジョージ(内村光良)は偽札を作り、それをドリンクチケットと勘違いしたバンビ、アニ、マスター、うっちーはぶっさんの遺体を南の島に埋葬し、しかし危ないところで5人はイカダに揺られてFUJIみロックフェスティバルの会場に到着する。ラブソングを熱唱するも、ラストには怪獣ゴミンゴが現れて・・??
 
 
 
 
美礼先生じゃないが、「あなた、なにがしたいの?」と思わず突っ込みたいストーリーである。
しかし、説明は不要だ。見ればわかる。もっと多くの人に見て欲しいと願う。
 
 
 
こんなシーンがある。
ユッケに韓国語でプロポーズするぶっさん。その返事としてユッケはこう言う。
「嬉しい。私もプサン(ぶっさん)が好き。なぜかわからないけど」
「好きに理由はないでしょう?」
「ずっと待ってた」
「プサンも私と同じ気持ちだったんだね」
これを聞いたぶっさんはこう応える。
「ぜんっぜん、わかんねぇや。俺、フラれた?」
同じく韓国語で答えたユッケ、しかしぶっさんの語学力ではそれを理解できなかった。
またはこのシーン。
怪獣ゴミンゴにさらわれたモー子(酒井若菜)、モー子の父である船越英一郎が礼儀正しく現れて怪獣に光線銃を向ける。
突然それを逆さにして口元に持っていく。銃ではなく、オカリナだったのだ。
オカリナの優しい音を聞くと、怪獣ゴミンゴはやっさいもっさいを踊りだして、モー子をそっと橋に置いて、海へと戻っていく。
うっちーの父親が言う。「ゴミンゴは気の弱い怪獣だから人間が心を開けば暴れたりはしないんだよ」
「なんて?」とぶっさん。
「聞かなくていいと思う」と息子。父は英語でその台詞を言ったのだ。
 
 
 
強いて言わせてもらえば、面白いのはこんなところだろう。
この映画の中で、感動すべきツボの台詞(多分そこが一番創り手が訴えたいところであろうに・・)のあとに必ず、水をぶっ掛ける台詞が続く。
ドラマとしてのありがちな展開を成立させることもなければ、登場人物たちが感動的に理解し合う場面もない。
しかし、それはまるで私達の日常のように。
この常識破りの「ありえない」非日常世界の中で、登場人物たちはなんと「ありえる」姿でイキイキと生きていることか。
「ありえる」ことしか起こらない(起こさない)現実世界で、「ありえない」事をしでかす人は数知れない中で。
等身大の姿で生きることが奇跡に近いこの世界では、架空の彼らはなんと本来の私達によく似ていることか。
 
 
 
 
「プサンは楽しいか?」
「俺は普通だよ」
「フツウ?」
「あー、うん、朝起きてー、メシ食って、野球、ビール、友達、先輩、バンド、やくざ、とうちゃん、・・かぁちゃん。
おやすみなさい、うんこして寝る。これが、フツウ」
「ああ、生きるという意味か?」
「そんな感じ」
 
 
 
 
 
普通であることは難しい。
だからこそ、このテーマをクドカンは繰り返して描く。
誰かの普通を邪魔する人には、「あなたも普通に生きたらいい」と優しく言う。
逆に、普通を脱線した誰かから被害を受けてしまった人には、「あなたが心を開けば相手は暴れたりはしない」と諭す。
誰もが普通に生きていれば、たとえ言葉に水を掛ける日常が待っていようとも、誰もがわかり合えている世界はすぐそこにある。
楽観も悲観もしない、しかし決して諦めてはいない、挑み続けるその姿勢が好きなのかもしれない。
 
 
 
 
この映画を、「サザエさん青春編(または青春望郷編)」とも言うべき諦めてはならぬ永遠の理想郷であることを理解せず、これこそがあるべき姿だと楽観的に求めすぎた若者達が、働かず、いつまでも仲間と遊んで、夜は怪盗ごっこをするかもしれぬ危険性は無きにしもあらず、そうい意味では危険思想的な物語であることは否めないとは思うけれど、それでも計算しつくされたこの馬鹿馬鹿しい理想郷のなかに、必ずこの問いを見つけてしまう。
 
『あなたは普通に生きることができますか?』
 
クドカンがいつものあの「微笑みのジョージ」のような人のよさそうなすべての人をハッピーにするような笑顔からは想像もつかない、「ありえない」意地の悪い笑みを浮かべて、私達に問いかけているような気がしてならない。
 
 
 
この映画は彼ら創り手からの挑戦状であり、そうして聞こえてくるのだろう。
ありえる世界でありえない人や事件が蔓延る中で、『普通』に生きようとするすべての人への愛に満ちた応援歌があなたにも。
 
 
 
 
 
 

2006年9月30日

10月6日27時(テレビ朝日)放送予定 息子の部屋

 
『アンドレア君
あなたみたいに文才がないので 図書館に行って― 有名人の恋文を読んだの
マネしようとしたけれど 私以上にあなたを愛している人はなかった』

『それで 自分の言葉で書くことにしたの』



「なんて言葉だ」
息子の父親が言った。
苛立ったようにキッチンを歩きまわりながら。
「あんなむなしい言葉に、何の意味がある?」
ミサの帰りだった。神父の話を聞いたのだ。
「きれいなカップだが欠けてる。ひびが入った花瓶は向きを変えよう。これも欠けてる。この家のものはすべて壊れてるか欠けている。
僕の好きなポット、壊れたけど接着剤で接いだ。接ぎ目も見えない。壊れているようには見えない。でも実は壊れている」
彼はポットを持つ手に力を込めた。
接いだそれはすぐに壊れた。


「アンドレアの言葉を信じましょ」と娘は言った。
「アンドレアはやってないわ。わかるでしょ。あの子は純真よ」と妻は言った。
しかし―

 
『もうすぐ夕飯の時間だけど
これを書き終えるわ
今年の夏を 忘れられなくて―』


アンドレアは死んだのだ。



あなたは誰かの部屋に入ったことがありますか?
あるいは自分の部屋に誰かを招き入れたことが?
外からちょっと覗き見るだけでなく、掃除して体裁よくして見せるだけでなく、本当に?
もしあるなら、その結果はどうなりました?




『息子の部屋』(2001・伊)、息子を亡くし、傷ついた家族の再生を描く物語。
主人公ジョパンニ(ナンニ・モレッティ)は精神分析医、穏やかで何の変哲もないある初秋の日、彼は息子の学校に呼び出される。
アンモナイトの化石が消えた。息子のアンドレア(ジュゼッペ・サンフェリーチェ)がその疑いをかけられた。
目撃者がいたが、「僕は盗ってない」と息子は言う。
真相を知ろうと、学生達の言葉を聞いているうちに、ジョパンニはふと不思議な気持ちになる。
彼らの行動や言葉の意味がよくわからなかったのだ。
これは息子だけには限らなかった。(そういえば娘とその恋人の会話もたまに・・)
不安が訪れた。
わからないはずがない。ジョパンニは仕事柄、患者という人の心の部屋に入っていく。患者達は分析医の彼に心の部屋に入ることを許している。
彼はプロだった。言動の意味を医学的観点に置き換えて、心を分析することこそが彼の仕事なのだった。
そんな彼を患者達はときどき責める。もし町で会う人にならまったく期待しないであろう事も、部屋の中を曝け出している彼には期待してしまう。
「なぜ、あなたは私の部屋の中を知っているのに、わざわざそれを許しているにもかかわらず、そんなこともわかってくれないんですか?」と。
それは他者にはわからなくて当然のことなのに。
患者達は、自分の悩みを凡庸化して、ありふれた言葉に置き換えてしまう分析医に傷つくのだった。
あなたは無理解だ、と。
ジョパンニはそんな患者達に時々うんざりする。(誰でも、部屋の中はそうキレイではなく、他人にとっては馬鹿馬鹿しいものの集まりだったりしますよね?)それでも自分の専門職をまっとうし、分析医という観点から、慰めや励ましの言葉を与えていたのだ。
昨日までは。
そして今日、ダイビングに出かけたアンドレアが死んだ。



とても衝撃的な映画だった。
最初はストーリー進行とは無関係(と思われる)無駄なシーンがだらだら続き、唖然とする。
が、すべてを見終わった後に、すべてが無駄ではなく、確固とした意味を持つシーンであったことに気づかされる。
ラストはつらい。このラストシーンだけは繰り返して見ることができなかった。
二度と見たくないとさえ思う。




アンドレアは死んだのだ。
部屋の扉を閉じたまま、突然いなくなった。
棺のふたを硬く硬く、幾重にも厳重に閉じる行為に象徴されるように、
もし生きていてくれたら、いつかは開かれたであろう部屋の扉はもう決して開かれない。
永久に。

家族達はこの二度と後戻りのできない事実によって、静かに、崩壊していく。
 

なぜ? なぜアンドレアは死んだのだ?
もう息子の部屋に招き入れらることも、彼が部屋から出て来てくれることも、永久にないという事実を受け入れられず、
父とは母は入っていく。
息子の部屋の中へ。死んだ今となって。
そんな折、息子の1日だけの恋人だった少女が登場する。
母親は彼女の恋文に意味を見つけようと、すがるのだ。
それこそが息子を理解する鍵、絶望を癒す鍵であると。
彼女は夫に少女に会いたいと訴え、ジョパンニは息子の死を告げる手紙を書こうとする。
しかし― 
息子の死は、言葉にはならなかった。



この映画で面白いのは、ジョパンニの分析医としての仕事ぶりだ。
彼と患者のとんちんかんなやり取りは、滑稽を通り越して、愉快でさえある。
両者の距離感を際立たせるシーンとなっている。
が、息子が死に、彼の部屋を知り始めたころから、分析医は皮肉にも患者達を理解するようになる。
彼らの心の部屋へ、本当に、入っていくことができるようになっていく。
そうしてジョパンニは言った。
「もう助けられない」
彼は分析医を辞めてしまうのだ。

突然かかりつけの分析医を失った患者達の様が、けな気で切ない。
見所だろう。

そうして、少女がやってくる。
友達と一緒に。
彼女と出会い、家族達はついに理解する。
うすうす気付かされていた現実を、突き付けられる。

その部屋をたとえ知ったとしても、アンドレアは死んだのだと。

 
真相はない。
そこは嘘の世界。
歌詞の翻訳がいらない音の世界。
意味の成さない世界。
目的はない。
分析などできようもない―
だからこそ現実だった―
息子の部屋。
 
 
無邪気に笑う家主のいないその部屋に、意味など求めても、無意味でしかないことを。


 
少女と友人を国境の果てへと送りとどける家族。
この少女に出会うことによって、家族は確かに再生していく。
衝撃のラストシーンを見て欲しい。
息子を奪った美しい海、その海辺の砂浜で、彼らは戯れる。
微笑んでいるようにも、打ちひしがれているようにも、見える。
バスで去っていく少女の目線、それは同時に息子の目線だ。
家族はもう目を合わせようとはしない。
その姿が小さく小さくなるまで、旅立つ彼は見続けるのに。


「パオラ、あのふたりは付き合っているのかな?」
「・・・」
「いや、何も言うな。言わなくていい」
真相など、もういらない。



人が再生するためにはこの過程が必要なのだろう。
でなければ、「誰も助けられない」。いつまでも。
この映画は真実だ。
しかし、私はこうも思う。
もちろん間違った考えだが、確かに―
ならば再生に意味などあるだろうか。
しなくてもいいのかもしれない。
私こそが間違っていた。
壊れたポットを接着剤で接いで、使い続けるのも悪くはないと。
 
 

 
 

2006年9月22日

9月28日13時半(テレビ東京)放送予定 ジャスティス

 
黒人の将校が言った。
「俺には発言する権利がある」
捕虜として捕らえられてからも、殺人犯に仕立てられてからも、彼はずっと黙って耐えていたのだった。
「そう・・飛行学校の卒業も大変だった。テストばかり。
あらゆる手を使って、俺たち黒人をコックか便所掬いにでもしようと・・だから俺は必死に勉強した。
故郷にドイツ兵の捕虜収容所がある。不思議なのは労働を終えた彼らがふらふらと外に出て、映画を観たり食事を食べたり。
飛行兵である俺たちは映画を一番後ろの席で見て、レストランには入れない。ドイツ人の捕虜は入れるのに。
だからこう言い聞かせていた。
懸命に頑張ればいつかは報われる。
戦争が終わって、故郷に帰れば、男として大手を振って歩ける。
だから懸命に任務をこなしてきた。
国に尽くしました」

頑張っても尽くしてもついに報われることのなかった黒人将校。
収容所で開かれた裁判の審議を待たずとも、彼の死刑は確実だった。

「なのに、あんたはひどすぎる。
あんたがやらせようとしていることはひどすぎる」



人間と尊厳と誇りとはなにか?
真の正義感とは?



個人的に言えば、かなり鼻白んだ映画である。
久々に観終わった後キレそうになった。
なので、書いてやろうと思う。
いつだって書くことは、ある種の救いなのだ。




『ジャスティス』(2002)、第2次世界大戦中、ベルギーのドイツ軍捕虜収容所で起こった事件を骨太のサスペンスを交えて描く人間ドラマ。
同名のタイトルで、アル・パチーノが弁護士を演じた映画がある。
その中で、その昔、正義はメタクソに描かれている。
正義こそが罪なき人をも裁き、正義を守る法律こそが新たな罪人を造り上げていくのだと。
そんな社会派の映画を想像して見てみたら、まるで違った。
主人公ハート中尉(コリン・ファレル)は上院議員の父を持つボンボン育ち、戦場ではなく安全な後方の作戦司令部隊に従事している。
上官をジープで送る最中にドイツ兵に捕まり、拷問を受けて密告させられたあと捕虜となった。
捕虜収容所では連合軍捕虜のまとめ役としてアメリカ兵の大佐マクナマラ(ブルース・ウィリス)が登場、密告したハートを嫌う。
またか・・・と思わせる配役。厳かな味方上官役である。
そのブルース・ウィリスに一目置いている敵はもちろんドイツ軍大佐。(ちなみに犬はロシア兵)
そんな中で殺人事件がおきる。
殺されたのは、ドイツ兵と密通してはタバコや日常品を仕入れていたベッドフォード軍曹、白人である。
同じ捕虜仲間である黒人のスコット少尉が捕らえられた。
ドイツ軍は彼を処刑しようとするが、マクナマラ大佐が言う。
「裁判をしてくれ」
「弁護はお前がするんだ、ハート中尉」
イェール大学で法律を学んだハート中尉に白羽の矢が立った。
ドイツ軍大佐のビッサーはふとした気まぐれを起こし、承知する。
「楽しくなりそうだ、裁判はお前らの劇場でやるんだ」
捕虜達が憩いの場とする劇場兼酒場を指定する。
「あそこではなく仮設テントにしてくれ」
「だめだ、あそこでやるんだ。来週新たにやって来る捕虜たちに見物させる」
そうして、茶番が始まるのである。



途中まで何を訴えたい映画なのか、趣旨がまったくわからない。
題名のジャスティスに期待をかけるが、何の関連性もないようにも思えてくる。
終盤が近づくと、無実の殺人犯である黒人将校がこんな台詞を吐く。
やっと納得する。
ああ、なるほど、そういうことかと。


「昨日息子に手紙を書いた。誇りを持って生きろと。
ぴったりだな。
息子の父親は、35人の捕虜を助けた」

「君も一緒に逃げるんだ。死刑にされるぞ」と弁護士。
「行きません。誰かが真実を知っていてくれればいい」
彼は聖書を開いて、妻と子供の写真をそっと見る。
(この聖書は「目的のためには犠牲が必要だ」と説くブルース・ウィリスからもらったものである)



世の中には黒人将校スコットのような人間がたくさんいる。
努力しても、尽くしても、報われない人々だ。
多くの彼らは、弁護士から自らが犠牲になるその意味も知らされぬまま、愛する人々に真実も明かせぬまま、ただ犠牲となる。
犠牲となったことさえも理解できぬまま、その短い一生を終える人もいるかも知れない。


だから何なんだ??


見ものはこの映画のラストだ。
ブルース・ウィリスが悪役で終わるわけがない。
彼は当然の役どころを演じる。
敵のアキレス腱を叩き潰し、いつものような自己犠牲、涙涙の・・・
そうして、捕虜達全員が彼に「敬礼」をする。
何かのための尊い犠牲、その誇りに敬意を表して。


だから、何が言いたいんだ?


ハート中尉がナレーションする。
「スコットは彼の息子に誇りの意味を教えるだろう」
彼が故郷に戻ったら。
「やがて息子も理解するだろう。私のように」
エンドマーク。
感動のラストである。


そうか。
しかし、違うだろう。
ブルース・ウィリスの犠牲と黒人の犠牲は違うだろう。
努力しても報われぬスコットがいくら誇りを固持しても、誰も敬礼などしやしない。
「真実を誰かが知っていてくれればそれでいい」
しかし、真実など知られぬままに、今この瞬間にも、「黒人は死んでいる」のだ。
そういう人たちに誇りを持てと?
君達の犠牲はブルース・ウィリスの誇りと同じだと?
馬鹿げている。
こんな御伽噺が夢や希望なら馬鹿げている。


この映画を見て黒人や虐げられた人々の暴動は治まっただろうか?
涙は渇いただろうか?
その創り手の意図したとおりに。
聖書でも熱心に見て?


いや、まさか。
絶望を深めただけだろう。
無駄にあがくのをやめ、すべてを諦めただろう。今までどおり。
その創り手の意図したとおりに。
正義と誇りに感動したのは強者だけだ。
または盲目の。




犠牲とは至高の幸福だ。
それが自己満足だけであると言い切れないのは、
それが人間の尊厳と誇りを凝縮していると同時に、多くの人類の引き裂かれた絶望や哀しみの上に成り立っているからだ。
たやすい正義ではないからだ。
他者からも自らも至高の幸福だと感じられることなどありえないからだ。
私はブルース・ウィリスの犠牲になんか感動しない。
私が黒人だったら、彼から教えられた誇りの意味など、自分の子供に教えやしない。
そんなもの糞くらえだ。




私は多くの「黒人たち」について想いを馳せる。
虐待や理不尽な事件や宿命を嘆く人々や。
打ちのめされた彼らについて。
娯楽としての映画によって、今日も私はものを思う。
本物の御伽噺をきっと描いてやる。
そう心に決める。
 
 
 
 
 

2006年9月17日

9月21日21時(テレビ東京)放送予定 ザ・ワイルド

 
美しい妻が言う。
「チャールズはこの世で知らないことがないの。本当よ、何でも聞いてみて」
「ほう、じゃあひとつ、5ドルの賭けをしよう。この櫂の裏の絵は?」
アラスカの山小屋に住む老人がからかう。櫂には豹の絵が描かれている。
「パイプをくわえたウサギの絵」
チャールズはこともなげに答える。
「驚いたな、なぜわかる?」
「クリー族の伝説だ。片面には豹がいて、片面には豹を恐れずパイプをくわえたウサギ」
「豹を恐れず?」
「ああ、豹を恐れず。豹より頭がいいから」

知識は力なり。
 
道に迷ったとき、敵に遭遇したとき、あなたは知識ひとつで生き残れますか?

 

『ザ・ワイルド』(1997)、飛行機事故でアラスカの雪原に投げ出された男たちのサバイバルを描く物語だ。
チャールズ(アンソニー・ホプキンス)は億万長者。若く、美しい妻がいる。
性癖でもある彼の趣味は、「知識を仕入れること」。
権力と莫大な財産を目当てに群がってくる彼の周りの連中は、そんな彼をどこかで嘲っている。
頭だけのやさ男だと。
もし、金と力がなければ、誰も見向きもしないのではないか、と。
最愛の妻でさえ、その夫の疑いを否定できない。尊敬する彼よりも、若く逞しいカメラマンに男としての魅力を感じてしまう。
そんな頭だけのチャールズと、現実的に魅力的なオスであるカメラマンがアラスカの大自然に放り出され、迷い込んだ。
食料はない。金と権力はもはや何の意味も成さない。
さて、生き残るのはどちらか?


実はこの映画が大好きである。
放送されるたびに必ず見てしまう。
方角の知り方、火の熾し方、知識豊かな登場人物が知識を武器にし、厳しい大自然に対応していく様が痛快である。
また、サバイバルゲームだけではない。これは強い男としてのあり方を示した物語でもない。
大げさに言えば人間としてのあり方、生き方を説いている。
こんな台詞がある。
「人が道に迷って死ぬ原因は恥だそうだ」
「恥?」
「なぜこんなことに・・ 何がいけなかったんだろう、オレは馬鹿だ、と自分を恥じて、やるべきことをしなかった」
「やるべきこと・・」
「考えることだ」


ここに矛盾がある。
やるべきことをしていれば、人間は道に迷うことはない。
そうして、やるべきことは考えることだ。
人間は考える動物である。
考えれば、誰でも必ず、こうしたほうが正しい、という答えにたどり着く。
しかし、恥だけではすまないのだ。
確かに恥もあるだろう。
しかし、理屈ではわかっていても、どうしてもそれができない場合がある。
迷うのだ。いくら正しくても、現実的に見て、その正しい答えを貫くのは無理だ、と判断ができる時に。
社会的な常識や、自分が一番よく知っている自分の力とその限界、損得勘定の利己心、それから恐怖心と情。
思考プラスアルファで考えたら、思考で出した答えを遂行するのは自殺行為だ、と思われるときが必ず、ある。
ましてや知識が豊富で情に厚く、賢ければ賢いほど、優しければ優しいほど、選択肢は増える一方だろう。
考えるから、道に迷う。やるべきことができなくなる。
チャールズ、いや、この映画の中でアンソニー・ホプキンスはその矛盾を超える。
彼の場合は、「生き残るために」。
人間であるからこそ持っている常識も、限界も、利己心も、恐怖も情もただ超えて、ひとりの人間として自分が信じた正しい答えを遂行する。
死と隣り合わせの極限のなかで。彼の知恵は本能と化す。
「殺すんだ」
「お前は死にたいのか?」
「死にたくなければ、殺してみせると言え」
「私は絶対に死なない」
「あのクソ野郎を殺してやる」
そう冷静に言うアンソニー・ホプキンスは圧巻である。
(見るたびに背筋に寒いものを感じてしまうのは私だけか)
 

チャールズとカメラマンはお互いの命を密かに狙いつつ、(または狙われているのではないかという疑心暗鬼を抱きつつ)
大自然の中で生き残るために、互いの敵を倒すために、協力し合う。
それらをクリアしたときにいったい何が訪れるのか、そのあたりも見ものである。
しかし、最後の最後まで、チャールズは「やるべきことをやる」。
恥によって脱線もせず、頭の中で思考と思考とを対立させもせず、情にほだされもせず、ただ冷静に成すべきことを遂行するのである。
自分が下した答えに絶対の信頼がある。
今までの人生のなかで蓄えた、数々の正しい知恵による絶対の裏づけがある。
だから何の迷いもなしに、それが「できる」。
 
 

知識は力なり。
それは狂気に近い。信仰だ。
私が知っていた知識の意味を根本から覆した映画である。
智識は力なり。
それは狂気に近い。厳しい愛だ。
もしその狂気が本物ならば。

 
 
人間はこうやって大自然と戦い、自分(人間)と戦い、繁栄の歴史を築いてきたのか。
人間に対する尊敬と畏怖の念を感じる反面、いつも思うのは敵となったあの熊のことだ。

 

この映画を作るために、あの人食い熊は本当に殺されたのだろうか?

エンドロールに「調教師と熊の××に感謝する」云々、と出てくるのだが、
よりリアルな画を作るためにまさか。

智識とは程遠い馬鹿だと思うが、見るたびに心配してしまうのである。
願うのはリアルな御伽噺を作るために何かを犠牲にするのはやめて欲しい。
何かが栄えるような御伽噺をぜひとも見たいものである。

 

 

2006年9月9日

9月16日21時(フジTV)放送予定 電車男

 
男が言った。
「もう・・オレには勇気がない」
その言葉は、その言葉を言われた人たちすべてのものだった。
みながその想いによって、過去に奇跡を捨てたのだ。
今までずっと。現実との馴れ合いを選んでいたのだ。
男の代わりに誰かが勇気を振り絞る。
「ふざけるな!電車男」
自分自身を罵倒する。
「ふざけるな!」
「お前は俺達の希望なんだ!」
 
 
これは奇跡の物語である。
 
 
 
『電車男』(2005)、2ちゃんねるから生まれた純情初恋物語の映画化。
男(山田孝之)は22歳。彼女いない歴22年。システムエンジニア。
着飾ることには興味がない。天然で、おっちょこちょいで、挙動不審。
見るからにヲタクを地で行き、同年代の若者に嘲笑にされ、会社では同僚に見下されている。
猫背で、下を向いて歩く。誰かと目が合わないように。
そんな彼はしかし聖域を持っている。
誰にどう思われても、社会的にどう扱われても、だから彼の核は揺るがない。
核となる自我のその王国秋葉原からの帰り道、電車の中で、ある日男は年上の女と出会う。
エルメス(中谷美紀)だ。
一瞬で恋に落ちた。
通りすがる人とも目を合わせられない男が、暴れる酔っ払いに声をかける。目と目を合わせ、対峙する。
自ら関わりを持つのだ。惚れた女を守りたいというその一心から。
勇気を振り絞って、「やめろ」と言う。
恐かった。エルメスはそれを見抜いた。そうして男に好感を抱く。
エルメスはさりげなく男にアプローチする。
恋愛経験のない男は戸惑うばかり。ネットの掲示板の住人達に相談する。
「仲間達」は言う。
「電車男、デートに誘うのは男の役目だぞ」
「それはモラルでありルールなんだ」
電車男の核は生まれて始めて揺らぎはじめる。
彼はそれを封印し、生まれて初めて社会に迎合していく。惚れた女を想うその一心から。
お洒落でスマートな男へと変身して行く。
 
 
 
現実社会ではこのようなモラルもルールも存在しない。それは過去の遺物だ。
 
現代の男の子達はもっとシャイで繊細だ。
恋愛によって生じる苦痛に対しての免疫が弱く、現実に対抗する抗体も抵抗力も希薄である。
ほんの若いときに、わずかに甘酸っぱく切ない苦しみを経験すると、それが唯一の勇気。
そのあとは中間をすっ飛ばし、なぜか一気にオヤジと化してしまう。
若く頑固なそれは、もう勇気など振り絞らない。
恥をかくのも傷つくのもスマートに避ける。
愛によく似た愛の代替品を愛と称して、開き直る。
賢くて、確固とした自己が存在していて、時に「カッコよく生きている」と自惚れたりもするが、そうでもない。
自分でもわかっている。ただ頑なに、「そうしていなければならないのだ」と。
男はいつだって女に支えられ、守られて生きてきた。
だからこそ、強くいられた。
(いつだってすべてを察して勇気を振り絞るのは女の役目だ)
モラルとルールがなくなった今、男は男であることを放棄して、その歴史に甘え始め、ますます弱くなっていく。
 
 
 
しかし電車男は掲示板の住人たちから勇気をもらい、現実に立ち向かっていく。
数々の奇跡を起こしていく。
自分を痛みを省みるより強く、彼女を愛しく想う。
彼女のことだけを考えるようになる。 
 
 
 
だからこそ、深く、深く、苦しむ。 
 
 
 
(このあたりは見ていてつらくなる)
(私だけではないはずだ)
 
 
 
 
終盤、電車男は走る。
今までのデートコースのようなお洒落な町じゃない。
秋葉原を走る。
彼女がそこに来てくれたから。彼女を想う一心から。
走る。
彼女に気に入られるために買ったジャケットを脱ぎ捨て、
お洒落なシャツを脱ぎ捨て、
コンタクトを捨て、
走る。
 
王国の秋葉原。
核が姿を現した。
真実の彼がモニターに映し出された。
ヲタクの姿だ。
恥ずかしい、みっともない、ぶざまな姿だ。
 
それでも電車男は言う。
ぶざまに泣きながら、やっとのことで言葉を絞り出す。
これが僕です。
それでもあなたが好きです、と。
 
 
 
 
本やTVドラマを見たとき、よく思った。
なぜ、エルメスは電車男を好きになったのだろう。
その辺の描き方が足りなかったように思う。
しかし、映画版を見て知った。
これは奇跡だ。
「電車男のような毒男はよくいるだろうが、エルメスのような聖母はこの世にいない」
よく聞くこの言葉は真実ではないと気づく。
「エルメスのような女はまだいるだろうが、電車男のような男こそこの世にもういない」
電車男はとうに絶滅した。男が男であった(あらねばならなかった)時代の、過去の遺物だ。
たまたま恋愛経験不足のネットの住人たちがそのような典型しかアドバイスできなかったのだろうか。
またはその夢を押し付けたのだろうか。
いや、違う。
電車男は希望だっだのだ。
奇跡を捨てた過去の彼らすべての。
だからそのためだだろう。
たくさんの私達がこの映画に共感し、勇気をもらうことができるのは。 
 
 
しかし、もしこの現代、愛と友情によって、彼が生み落とされたならば?
目の前に本当に現れたならば?
 
 
きっと私も惚れるだろう。
エルメスのように、ずっと一緒にいたいと願うことだろう。
 
 
 
「一緒にいると、どとんどん大切なものが増えていく。
他の人が見たら、小さく、ささやかなことでも、
ふたりでいたら、どんどん幸せに変えていける。
そう想うことが、人を好きになることなんだって。
あなたが教えてくれたのよ」
 
 
 
これは奇跡の物語だ。