2009年12月26日

言葉としての「竹島」と日本人の底力について。

 
 
 
 
 
(msn産経ニュース 2009.12.25 10:10)
日韓で領土問題になっている竹島。高校の地理歴史の教科書で明記されなかった(1998年6月17日撮影)日韓で領土問題になっている竹島。高校の地理歴史の教科書で明記されなかった(1998年6月17日撮影)
 
 国と郷土を愛する態度を養うことを明記した新教育基本法のもとで領土教育の充実が期待される中で「竹島」記述が見送られたのは、政府が韓国への過剰な配慮を重ね続けてきた必然的な結果だった。
 文部科学省は本来、法的拘束力がある学習指導要領に竹島の領有権を書き込む方針だった。実際、中山成彬文科相(当時)は平成17年3月の国会で、そう答弁した。だが、昨年2月に公表された中学校の指導要領案に竹島の2文字はなかった。韓国の李明博大統領が就任した時期と重なったため、遠慮したのだった。
 5カ月後、指導要領より「格下」の解説書に初めて竹島を盛り込んだが、当初案にあった「我が国固有の領土」との表記は断念した。当時の福田政権が、反発する韓国側の姿勢を見て及び腰になったからだ。
 そして、鳩山新政権下でまとめられた高校指導要領の解説書では、竹島の2文字すら消えてしまった。
 文科省は当初、竹島表記を死守すべく、高校解説書の文面を中学版と同じにする考えだった。「表現に変化がなければ批判は受けない」(幹部)との読みもあった。自民党が8月の衆院選で大敗し、民主党政権に移行するまでの数週間の間に駆け込み的に公表することも検討したが、当時の河村建夫官房長官が日韓議連幹部だった事情もあり、断念した。
 新政権は、鳩山由紀夫首相が「友愛外交」を掲げている上に、実質的な最高権力者である民主党の小沢一郎幹事長は訪韓時に外国人参政権成立への意欲を示し、天皇訪韓にも言及する親韓派ぶりを発揮している。こんな政治状況下で、竹島明記の選択肢が残るはずもなかった。
 韓国への過剰な配慮は公表時期にも表れた。今回の発表は「日韓併合100年を迎える来年は厳しい。韓国は25日から3連休で、そのまま年の瀬を迎える。韓国世論の反発が最小限になるベストタイミング」(文科省関係者)なのだという。(小田博士)
 
 
 
 
 ついに超えてはならない一線を越えてしまった。
 天皇の政治利用といい、民主党政権はなし崩しの一線超えが多い。この勢いで、来年の通常国会では今まで死守していた様々な事柄があっさりと崩壊してしまいそうだ。またそれがどれだけ異常で危険な事態であるかを国民から隠すために、一番大事なところは国会放送ナシ、話題性のある犯罪事件で目を逸らす、などということがまた起こるんだろうな、とふんでいたら、秋葉原無差別殺傷事件の加藤被告の初公判が始まるそうだ。1月28日から、どんぴしゃではないか。
 東京地検特捜部には鳩山首相と小沢幹事長の追求を頑張って頂きたいが、検察庁の一部門であることを考えるとあまり期待できない思いがする。国民の声のほうがよほど頼りになりそうだ。ぜひ、国民総勢で国会中継を見て頂きたいものである。
  
 ところで竹島は日本の領土である。
 竹島を島根県に編入することを宣言した時期が日韓併合の時期と重なるため、韓国では竹島も本国同様に侵略して奪われたと思っている方も多いようだが、日本は編入宣言よりずっと以前、江戸時代初期から竹島の領有権を確立していた。和を尊重するあまり、現在と同じように韓国に配慮して宣言出来なかっただけだろう。また日本が領土とする以前に韓国領有を示す直接的な証拠は存在していない。あくまでも日韓併合とは別の問題である。太平洋戦争後のサンフランシスコ平和条約でも日本が放棄すべき領域(島々)に竹島は含まれておらず、竹島(独島)を含めた条文に置き換えることを要望した韓国側の主張を米国は拒否している。
 我が国固有の領土を占領され、実効支配されているというのに、何も言えないどころか「竹島」の二文字まで明記を避ける、日韓併合100年を迎えると言ったってあまりにも過剰な配慮をし過ぎているのではないだろうか。政府としての対応を問われているのだから、これではまるで、韓国に竹島を譲り渡しますと宣言しているにも等しい。
 領土問題に無頓着すぎるのではなか。中国の傀儡国家韓国への貢物にしようとでも言うのだろうか・・
 私は特に竹島に思い入れがあるわけではない。正直にいえば、外務省のホームページを見て、まだここまで主張していたかと驚かされたくらいである。あれだけ強引に、武力さえ持って実効支配されているなら、もう韓国のものでもいいじゃいか。実質的には支配されている。平和なご時世に紛争など好ましくない。しかし、それでも日本人のあの島に対する思いの強さは変わらない。もしかしたら韓国よりもよほど強いのではないかとあきれるくらいだ。
 だからこそ「竹島」という言葉は消して欲しくなかった。言葉はなくても、政府としての主張は変わらないとは言ってみても、それこそ言葉遊びのごまかしだ。詭弁で消せるほどその思いは軽いのか、政府関係者はもう一度自分たちが作ったホームページを読み返せばいいのだ。
 言葉を消したこと、それから一線を越えたこ、この罪は思っている以上に大きい。
 
「ときに、憲法9条から導かれるさまざまな制約が、不自然で神学的であるとか、常識では理解しにくいなどといわれることがあるが、こうした批判は全く的が外れている。合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、この問題に関する議論の伝統をよく承知しない人たちから見て、その伝統の意味がよくわからないかどうかは関係がない。そうした意味では、この問題は国境の線引きとよく似ている。なぜそこに線が引かれているかには合理的理由がないとしても、いったん引かれた線を守ることには、合理的な理由がある」(『憲法と平和を問いなおす』 長谷部恭男著より)

 これは憲法9条の解釈に関する文章だが、私はこの一文を読んだとき、これは日本のすべての決まりごとに当てはまると感じた。
 世間や仕事の業務上の暗黙のルールから今でいえば空気が読めないという批判まで。この国には大して意味のない形式的な決まりごとが溢れるほどある。私はそれらを遵守するよう努めながらも、ずっとそれらを軽視していた。人々が上辺だけ合わせている、中身のないもののように感じられたのだ。が、真実や合理性とはかけ離れたルールも、それ自体に意味があり、質ではなくどこに基準があるか、その線引きにこそが重要だったのだと気付かされたとき、初めて今までの自分の愚かさにも気付かされた。それらは少なくとも敬意を払う必要があったのだ。決まりを守っていればいいという問題ではなかった。
 今の政府は敬意を払っているのだろうか。それどころか、形式的な決まりを遵守することさえ怪しくなってきてはいないか。
 先日の天皇の国事行為の解釈をめぐって、小沢幹事長の記者会見を聞いて私が感じた怒りと失望は何度書いても言いつくせない。
 「解釈」や「新政権の方針」という言葉を使って、このまま一線を超え続ければ、日本がチベットになる時もそう遠くはないように思われる。
 通常国会で闇法案が成立して、日本の一部に中国人、韓国人が多く移り込んできたとする。まさにチベットのごとく一部から始まって日本の各地にどんどん中国人、韓国人が増えてきたとする。我が国固有の竹島を占領されたように、彼らが武力を行使してきたとする。その時日本はどのように抵抗するつもりだろうか。中国の日本自治区にでもなるつもりだろうか。ラマ教の信心深い彼らのように、非暴力で抵抗を続けるならば、あの評判の悪い中国に朝貢外交をしている今よりはよほど国際社会から称賛されそうではあるが。その時になって、自衛隊を・・・などと言い出しても後の祭りである。一線が破られて、新たに作られたルールをきちんと遵守してやってきた彼らを、今さら武力で追い出すことなど不可能だ。
 と、まるで見通しの悪い予測ばかりを書いてしまったが、希望の持てる面白い話を聞いた。
 推理作家の井沢元彦さんが書いた本でこんな文章が出てくる。
 
「日本も戦後もう少し占領軍が厳しかったら、ハワイのようになっていたかもしれません。日本の場合99パーセントがキリスト教徒ではないというのは、実は日本の民族宗教(神道と言ってもいいかというと、仏教もかなりの要素で混じっていて、これも問題がある)というのが、極めて強いということを示しているのです。よく日本人は無宗教だといわれますが、そうではなく、実は非常に強い民族宗教を持っているのだということが、こういう例を見るとよくわかるのです」(『世界の「宗教と戦争」講座 生き方の原理が異なるとなぜ争いを生むのか』井沢元彦著より)

 中国の国際的評価が低いのは、共産主義国家だからである。キリスト教やイスラム教など、民族が宗教を持つほとんどの国々では、異教徒はまだ神を信じているということで許されるが、無神論者は人間ではない、非人間だと思われている。無神論者が人間ではないなら、私もそうではないか、と思いがちである。ところが、日本人の無意識的な宗教観、民族宗教というものはかなり強いらしく、これだけ民主主義(=キリスト教プロテスタントより発生)を浸透させながらキリスト教徒が国民のわずか1%でしかないというのは前例がないのだそうだ。中南米のマヤ族やインカ族、現在メキシコブラジルペルーとなっている国々、アジアでいえばフィリピンにそれからハワイ。もともとは先住民が立派な文化と宗教を持っていたのに、すべて力によって改宗され、キリスト教徒となっている。
 日本は戦後あれだけ占領され、現在も民主主義を保ちながらキリスト教には至らなかった。これは日本人が自ら思い込んでいるほど無宗教ではなく、キリスト教の原理と反する日本型の民族宗教(神道及び仏教)を持っている証なのだ。
 私はこの話を聞いて、胸が躍る思いだった。キリスト教徒やイスラム教徒のあの宗教に賭ける思いの強さを想像する。あの過激さと執着と。それとぶつかり合い決して交わりことのない、つまり彼らと同程度に強い民族的宗教を持っていたという事実は衝撃的で心強い思いがした。
 また、その民族宗教的な感覚でもっとも重要とされている要素が「穢れ」と「言霊」だと作者は訴える。
 日本人は罪ではなく穢れで差別をすること、穢れは禊ぎでしか消えないこと、また言ったことが現実になる、だから起こってほしくないことは言葉にしないという言霊信仰を持っていること。日本人は言葉が現実化すると思っている。だから思ってはいても言ってはいけない意見というものがある。悪い予測は発表しただけで反発を食らう。発言を取り消せ、間違いを認めろ、と抗議を受け、何かにつけて言葉尻を徹底的に責められる。データに基づいた正当な予測を無視しても悪い言葉を遠ざける。悪い予測(リスク)を考慮した契約も結ぶことが下手くそである。不吉な予測を言葉に出来ず、契約書から罰則を省いてしまう。おかげで給料をもらって持ち逃げされたり、相手にいいようにされてしまう。憲法9条も祝詞、「自衛隊」はあっても「軍隊」はない。言葉を変えて、認めようとはしない。言葉に出さない限り、実態は存在しないと思っている。それは「自衛隊」であって「軍隊」ではない。戦争は「侵略」ではなく「進出」である。「全滅」ではなく「玉砕」だ。「退却」ではなく「転進」。「敗戦」ではなく「終戦」。「民族浄化」は「友愛」。そして「竹島」は指導要領解説書から外され、教科書から消え失せてしまう。
 日本が中国や韓国からの「進出」に耐えうる唯一の武器は、日本人さえ気づいていない、未覚醒の民族的宗教心ではないかと私は思う。
 ダライ・ラマを中心とするチベットにさえ負けぬ強い思いを持っていることを、私たちはもう一度思い起こすことが必要ではないか。
 その思想の中枢をなす言葉(言霊)を、形式主義を踏み越えて消してしまうことは許し難い。
 「竹島」という言葉はやはり死守してもらいたかった。
 配慮は国外にではなく、国内にこそ向けてもらいたいものだ。その国外が民族浄化政策を推し進める国々ならなおさらのことである。