2011年12月6日

日の丸穢してなんぼだって?!「地に堕ちたナショナリズム」を思う。




ナショナリズムを穢して、踏みにじる。

それが最近の流行りである。

金融家と対峙しているプーチン首相のニュースを見て、改めてぞっとする思いがした。




 【主張】ロシア下院選 強権への国際監視強めよ (産経2011/12/06 02:35)




簡単に言うと、権力を私物化しているプーチン(とメドベージェフ)が、善良なる市民から「ブーイング」という洗礼を受けた。そして、(与党の)議席を減らした、という記事なのだが、タイトルからして、言わずもがな。こうだ。

『強権への国際監視強めよ』




権力を行使する者は悪である。公平なる機関で監視せよ。




近年の事件はみなこの路線で成り立っている。

世界情勢ではリビアのカダフィ政権の崩壊から、身近な日本では、「コンプライアンス」を打ち出しての一連の企業叩き。

東電、読売(巨人)、オリンパス、大王製紙・・・ すべてそれまでの体質の中での権力者が叩かれ、穢され、地に堕ちて行く。





なんだかなぁ、どこへ向かって決着を付けようとしているのか、あからさまな方向性が嫌だなぁ、と眉をひそめていたら、今日になって、柔道のオリンピック金メダリスト・内柴正人容疑者(33)が、教え子に乱暴して逮捕されたと言うではないか。




テレ朝ニュースより




日の丸を背負って、闘った日本の英雄が、今度は地に堕ちた。


なんと言うタイミングの良さ! しかも夕方の報道に合わせての逮捕である。

はじめは悪い女に引っかかったね、可哀想になぁ、と残念に思いながら見ていた私だが、やはり一連の流れと合わせて鑑みると、どうもおかしい。引っかかるのだ。


もしも国民や企業が国の縮図だとしたら、日本叩きも、今回の内柴容疑者の一件も、ナショナリズムを崩壊させるための一つの点に過ぎないではないか?




去年の拓殖大学学長・渡辺利夫氏が民主党政権を表してこう書いている。

 国家とか共同体といったものに価値を求めず、国家や共同体に拘束されない自由な「個」を善きものとみなす思想である。主権国家という空間、国民国家が紡いできた歴史、つまりは空間的、歴史的な「境界」概念を希薄化させ、むしろ境界意識を無効化させることが「個」としての「市民」には欠かせないという規範である。
(※下記に全文掲載)




先日の大阪維新の会の勝利もこれ(ナショナリズムの崩壊)に当てはまる。TPPもそう。

もはや民主党政権への批判ではなく、これは世界規模の大きなうねりだ。

地方分権なんていうのも、ナショナリズム崩壊・・ いや、国家解体の方向性ですね。


もはや今までの国を支えてきた体制は壊れ、国の英雄は穢され、国という概念そのものが失われつつある。



あからさまで嫌だなぁ、今まで国の為に尽くし、励んできた英雄の彼らが酷い目に合うところをもう見たくないなぁ、とつくづく思う。



幸か、不幸か、アジアにはこの流れに背を向ける国が多い。

日本はそれらの国と対峙するよりも結託した方がいいのではないか?

この際ロシアと手を結ぶと言うのもありだと思う。


いい加減、もう目を醒ましていただきたい。







【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫 鳩山政権を蝕む「反国家」の思想(msn産経ニュース 2010.5.4 02:53 )


国家といいたくないから市民社会といい、国民ともいいにくいので市民というような感覚の指導者が日本には少なくない。往時の自民党の大幹事長が“私は国民というより市民という表現を好む”といった趣旨のことをテレビで語っていたのを思い起こす。

鳩山由紀夫氏が首相になるしばらく前まで「地球市民」という言葉を多用していたと友人から聞かされた。“日本は日本人だけが住まうところではない”と書いた鳩山氏の文章を読んで強い違和感を覚えたことは私にもある。

≪国家や共同体の価値認めず≫

首相の言葉遣いがあまりに軽佻(けいちょう)浮薄、閣僚の発言もばらばら、一体、指導者が日本をどこに導いていこうとしているのかがまことに不鮮明だ、というのがマスコミによる現政権批判の常套(じょうとう)句である。

そうだろうか。永住外国人への地方参政権付与や選択的夫婦別姓制度や人権侵害救済のための法案などがいずれ上程される可能性がある。東アジア共同体の創成といった構想も打ち出されている。これらを眺めるだけでも、民主党の政治家たちが胸中に秘めている思想の在処(ありか)にはある特定のベクトルがあって、彼らがめざす日本の将来像は決して不鮮明なものだとは私には思えない。むしろ思想は鮮明なのではないか。

 国家とか共同体といったものに価値を求めず、国家や共同体に拘束されない自由な「個」を善きものとみなす思想である。主権国家という空間、国民国家が紡いできた歴史、つまりは空間的、歴史的な「境界」概念を希薄化させ、むしろ境界意識を無効化させることが「個」としての「市民」には欠かせないという規範である。

この規範が「ポストモダニズム(超近代)」なる思想である。思想としては曖昧(あいまい)で多義的に過ぎよう。しかし、むしろ定義が曖昧で多様な意味と感覚を盛り込めるがゆえに社会の「雰囲気」を包容的に示し、しかもこの概念には、問わず語りに社会の向かうべき方向性までが暗示されている。

≪現実性欠いた東アジア共同体≫

特定の領域と領域内に住まう人々のうえに君臨する唯一の合法的な権力が国家であり、武力とナショナリズムをもって自国を防衛するという主権国家の時代が「モダン」である。対照的に「ポストモダン」の時代においては、経済や立法や防衛などについては主権国家の意思決定にかえて国際的な枠組みや条約が強力となり、内政と外政の区別が曖昧化し、かかる状態を求むべき規範とする思想がポストモダニズムである。

確かにEU(欧州連合)においては単一市場が形成され、単一通貨ユーロと共通通商政策が導入され、これらを保障するEU法が国内法に優先する超国家的統合が実現されつつある。安全保障面からみればEUは「不戦共同体」となったかの感がある。人々はナショナリズムから遠く離れ、「個」としての市民的自由のありようのみが問われるべき関心となっている。

しかし、日本はEUの一員ではない。日本はナショナリズムと反日を国是とする「モダン」の国々を近在に擁する。ナショナリズムと反日の海の中で、日本がひとりポストナショナリズムの涼しい顔で船を漕いでいるという奇妙な構図が東アジアである。東アジアの地政学的状況は、欧米とは異なる。にもかかわらずポストモダニズムそれ自体が「善きもの」として日本人に受け入れられ、これが欧州はもとより東アジアにおいても妥当性をもつかのごとくに思考されてしまっている。

東アジア共同体は、共通通貨と恒久的安全保障枠組みの形成をめざすという。可能とは思われない。日中関係、日韓関係は半世紀近くをかけてなお氷解していない。氷解していないどころか、中国は尖閣諸島の領有に並々ならぬ意欲をもち、韓国は竹島の不法支配をますます強固なものとしている。東シナ海の制海権はほどなく中国に握られよう。北朝鮮の核ミサイル保有宣言もそう遠い日のことではあるまい。

≪夫婦別姓で家族の解体へ≫

永住外国人の地方参政権は、地方自治体の反国家的行動の抑止を難しくさせる権利となるかもしれない。選択的夫婦別姓制度は血族・姻族・配偶関係を不透明なものとし、家族という共同体の基礎を毀損(きそん)してしまいかねない。人権侵害救済法は、「反差別」の名のもとに黒々とした情念をたぎらせる反国家集団の排除を困難とし、時に権力の内部に彼らを招き入れてしまう危険な可能性がある。

現政権の政治家たちが抱く国家像は不鮮明のようでいて、多少とも遠目からこれを眺めれば、ポストモダニズムという危うい思想を現実化するためのいくつかの提言から成り立っていることがわかる。日本の近現代史において稀なる国家解体の思想である。

現代に生きる日本人の多くが多かれ少なかれ抱えもつ「わが内なるポストモダニズム」を真摯(しんし)にみつめ、国家共同体としての日本に改めて覚醒(かくせい)しなければならないと思うのである。(わたなべ としお)




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