2006年9月30日

10月6日27時(テレビ朝日)放送予定 息子の部屋

 
『アンドレア君
あなたみたいに文才がないので 図書館に行って― 有名人の恋文を読んだの
マネしようとしたけれど 私以上にあなたを愛している人はなかった』

『それで 自分の言葉で書くことにしたの』



「なんて言葉だ」
息子の父親が言った。
苛立ったようにキッチンを歩きまわりながら。
「あんなむなしい言葉に、何の意味がある?」
ミサの帰りだった。神父の話を聞いたのだ。
「きれいなカップだが欠けてる。ひびが入った花瓶は向きを変えよう。これも欠けてる。この家のものはすべて壊れてるか欠けている。
僕の好きなポット、壊れたけど接着剤で接いだ。接ぎ目も見えない。壊れているようには見えない。でも実は壊れている」
彼はポットを持つ手に力を込めた。
接いだそれはすぐに壊れた。


「アンドレアの言葉を信じましょ」と娘は言った。
「アンドレアはやってないわ。わかるでしょ。あの子は純真よ」と妻は言った。
しかし―

 
『もうすぐ夕飯の時間だけど
これを書き終えるわ
今年の夏を 忘れられなくて―』


アンドレアは死んだのだ。



あなたは誰かの部屋に入ったことがありますか?
あるいは自分の部屋に誰かを招き入れたことが?
外からちょっと覗き見るだけでなく、掃除して体裁よくして見せるだけでなく、本当に?
もしあるなら、その結果はどうなりました?




『息子の部屋』(2001・伊)、息子を亡くし、傷ついた家族の再生を描く物語。
主人公ジョパンニ(ナンニ・モレッティ)は精神分析医、穏やかで何の変哲もないある初秋の日、彼は息子の学校に呼び出される。
アンモナイトの化石が消えた。息子のアンドレア(ジュゼッペ・サンフェリーチェ)がその疑いをかけられた。
目撃者がいたが、「僕は盗ってない」と息子は言う。
真相を知ろうと、学生達の言葉を聞いているうちに、ジョパンニはふと不思議な気持ちになる。
彼らの行動や言葉の意味がよくわからなかったのだ。
これは息子だけには限らなかった。(そういえば娘とその恋人の会話もたまに・・)
不安が訪れた。
わからないはずがない。ジョパンニは仕事柄、患者という人の心の部屋に入っていく。患者達は分析医の彼に心の部屋に入ることを許している。
彼はプロだった。言動の意味を医学的観点に置き換えて、心を分析することこそが彼の仕事なのだった。
そんな彼を患者達はときどき責める。もし町で会う人にならまったく期待しないであろう事も、部屋の中を曝け出している彼には期待してしまう。
「なぜ、あなたは私の部屋の中を知っているのに、わざわざそれを許しているにもかかわらず、そんなこともわかってくれないんですか?」と。
それは他者にはわからなくて当然のことなのに。
患者達は、自分の悩みを凡庸化して、ありふれた言葉に置き換えてしまう分析医に傷つくのだった。
あなたは無理解だ、と。
ジョパンニはそんな患者達に時々うんざりする。(誰でも、部屋の中はそうキレイではなく、他人にとっては馬鹿馬鹿しいものの集まりだったりしますよね?)それでも自分の専門職をまっとうし、分析医という観点から、慰めや励ましの言葉を与えていたのだ。
昨日までは。
そして今日、ダイビングに出かけたアンドレアが死んだ。



とても衝撃的な映画だった。
最初はストーリー進行とは無関係(と思われる)無駄なシーンがだらだら続き、唖然とする。
が、すべてを見終わった後に、すべてが無駄ではなく、確固とした意味を持つシーンであったことに気づかされる。
ラストはつらい。このラストシーンだけは繰り返して見ることができなかった。
二度と見たくないとさえ思う。




アンドレアは死んだのだ。
部屋の扉を閉じたまま、突然いなくなった。
棺のふたを硬く硬く、幾重にも厳重に閉じる行為に象徴されるように、
もし生きていてくれたら、いつかは開かれたであろう部屋の扉はもう決して開かれない。
永久に。

家族達はこの二度と後戻りのできない事実によって、静かに、崩壊していく。
 

なぜ? なぜアンドレアは死んだのだ?
もう息子の部屋に招き入れらることも、彼が部屋から出て来てくれることも、永久にないという事実を受け入れられず、
父とは母は入っていく。
息子の部屋の中へ。死んだ今となって。
そんな折、息子の1日だけの恋人だった少女が登場する。
母親は彼女の恋文に意味を見つけようと、すがるのだ。
それこそが息子を理解する鍵、絶望を癒す鍵であると。
彼女は夫に少女に会いたいと訴え、ジョパンニは息子の死を告げる手紙を書こうとする。
しかし― 
息子の死は、言葉にはならなかった。



この映画で面白いのは、ジョパンニの分析医としての仕事ぶりだ。
彼と患者のとんちんかんなやり取りは、滑稽を通り越して、愉快でさえある。
両者の距離感を際立たせるシーンとなっている。
が、息子が死に、彼の部屋を知り始めたころから、分析医は皮肉にも患者達を理解するようになる。
彼らの心の部屋へ、本当に、入っていくことができるようになっていく。
そうしてジョパンニは言った。
「もう助けられない」
彼は分析医を辞めてしまうのだ。

突然かかりつけの分析医を失った患者達の様が、けな気で切ない。
見所だろう。

そうして、少女がやってくる。
友達と一緒に。
彼女と出会い、家族達はついに理解する。
うすうす気付かされていた現実を、突き付けられる。

その部屋をたとえ知ったとしても、アンドレアは死んだのだと。

 
真相はない。
そこは嘘の世界。
歌詞の翻訳がいらない音の世界。
意味の成さない世界。
目的はない。
分析などできようもない―
だからこそ現実だった―
息子の部屋。
 
 
無邪気に笑う家主のいないその部屋に、意味など求めても、無意味でしかないことを。


 
少女と友人を国境の果てへと送りとどける家族。
この少女に出会うことによって、家族は確かに再生していく。
衝撃のラストシーンを見て欲しい。
息子を奪った美しい海、その海辺の砂浜で、彼らは戯れる。
微笑んでいるようにも、打ちひしがれているようにも、見える。
バスで去っていく少女の目線、それは同時に息子の目線だ。
家族はもう目を合わせようとはしない。
その姿が小さく小さくなるまで、旅立つ彼は見続けるのに。


「パオラ、あのふたりは付き合っているのかな?」
「・・・」
「いや、何も言うな。言わなくていい」
真相など、もういらない。



人が再生するためにはこの過程が必要なのだろう。
でなければ、「誰も助けられない」。いつまでも。
この映画は真実だ。
しかし、私はこうも思う。
もちろん間違った考えだが、確かに―
ならば再生に意味などあるだろうか。
しなくてもいいのかもしれない。
私こそが間違っていた。
壊れたポットを接着剤で接いで、使い続けるのも悪くはないと。
 
 

 
 

2006年9月22日

9月28日13時半(テレビ東京)放送予定 ジャスティス

 
黒人の将校が言った。
「俺には発言する権利がある」
捕虜として捕らえられてからも、殺人犯に仕立てられてからも、彼はずっと黙って耐えていたのだった。
「そう・・飛行学校の卒業も大変だった。テストばかり。
あらゆる手を使って、俺たち黒人をコックか便所掬いにでもしようと・・だから俺は必死に勉強した。
故郷にドイツ兵の捕虜収容所がある。不思議なのは労働を終えた彼らがふらふらと外に出て、映画を観たり食事を食べたり。
飛行兵である俺たちは映画を一番後ろの席で見て、レストランには入れない。ドイツ人の捕虜は入れるのに。
だからこう言い聞かせていた。
懸命に頑張ればいつかは報われる。
戦争が終わって、故郷に帰れば、男として大手を振って歩ける。
だから懸命に任務をこなしてきた。
国に尽くしました」

頑張っても尽くしてもついに報われることのなかった黒人将校。
収容所で開かれた裁判の審議を待たずとも、彼の死刑は確実だった。

「なのに、あんたはひどすぎる。
あんたがやらせようとしていることはひどすぎる」



人間と尊厳と誇りとはなにか?
真の正義感とは?



個人的に言えば、かなり鼻白んだ映画である。
久々に観終わった後キレそうになった。
なので、書いてやろうと思う。
いつだって書くことは、ある種の救いなのだ。




『ジャスティス』(2002)、第2次世界大戦中、ベルギーのドイツ軍捕虜収容所で起こった事件を骨太のサスペンスを交えて描く人間ドラマ。
同名のタイトルで、アル・パチーノが弁護士を演じた映画がある。
その中で、その昔、正義はメタクソに描かれている。
正義こそが罪なき人をも裁き、正義を守る法律こそが新たな罪人を造り上げていくのだと。
そんな社会派の映画を想像して見てみたら、まるで違った。
主人公ハート中尉(コリン・ファレル)は上院議員の父を持つボンボン育ち、戦場ではなく安全な後方の作戦司令部隊に従事している。
上官をジープで送る最中にドイツ兵に捕まり、拷問を受けて密告させられたあと捕虜となった。
捕虜収容所では連合軍捕虜のまとめ役としてアメリカ兵の大佐マクナマラ(ブルース・ウィリス)が登場、密告したハートを嫌う。
またか・・・と思わせる配役。厳かな味方上官役である。
そのブルース・ウィリスに一目置いている敵はもちろんドイツ軍大佐。(ちなみに犬はロシア兵)
そんな中で殺人事件がおきる。
殺されたのは、ドイツ兵と密通してはタバコや日常品を仕入れていたベッドフォード軍曹、白人である。
同じ捕虜仲間である黒人のスコット少尉が捕らえられた。
ドイツ軍は彼を処刑しようとするが、マクナマラ大佐が言う。
「裁判をしてくれ」
「弁護はお前がするんだ、ハート中尉」
イェール大学で法律を学んだハート中尉に白羽の矢が立った。
ドイツ軍大佐のビッサーはふとした気まぐれを起こし、承知する。
「楽しくなりそうだ、裁判はお前らの劇場でやるんだ」
捕虜達が憩いの場とする劇場兼酒場を指定する。
「あそこではなく仮設テントにしてくれ」
「だめだ、あそこでやるんだ。来週新たにやって来る捕虜たちに見物させる」
そうして、茶番が始まるのである。



途中まで何を訴えたい映画なのか、趣旨がまったくわからない。
題名のジャスティスに期待をかけるが、何の関連性もないようにも思えてくる。
終盤が近づくと、無実の殺人犯である黒人将校がこんな台詞を吐く。
やっと納得する。
ああ、なるほど、そういうことかと。


「昨日息子に手紙を書いた。誇りを持って生きろと。
ぴったりだな。
息子の父親は、35人の捕虜を助けた」

「君も一緒に逃げるんだ。死刑にされるぞ」と弁護士。
「行きません。誰かが真実を知っていてくれればいい」
彼は聖書を開いて、妻と子供の写真をそっと見る。
(この聖書は「目的のためには犠牲が必要だ」と説くブルース・ウィリスからもらったものである)



世の中には黒人将校スコットのような人間がたくさんいる。
努力しても、尽くしても、報われない人々だ。
多くの彼らは、弁護士から自らが犠牲になるその意味も知らされぬまま、愛する人々に真実も明かせぬまま、ただ犠牲となる。
犠牲となったことさえも理解できぬまま、その短い一生を終える人もいるかも知れない。


だから何なんだ??


見ものはこの映画のラストだ。
ブルース・ウィリスが悪役で終わるわけがない。
彼は当然の役どころを演じる。
敵のアキレス腱を叩き潰し、いつものような自己犠牲、涙涙の・・・
そうして、捕虜達全員が彼に「敬礼」をする。
何かのための尊い犠牲、その誇りに敬意を表して。


だから、何が言いたいんだ?


ハート中尉がナレーションする。
「スコットは彼の息子に誇りの意味を教えるだろう」
彼が故郷に戻ったら。
「やがて息子も理解するだろう。私のように」
エンドマーク。
感動のラストである。


そうか。
しかし、違うだろう。
ブルース・ウィリスの犠牲と黒人の犠牲は違うだろう。
努力しても報われぬスコットがいくら誇りを固持しても、誰も敬礼などしやしない。
「真実を誰かが知っていてくれればそれでいい」
しかし、真実など知られぬままに、今この瞬間にも、「黒人は死んでいる」のだ。
そういう人たちに誇りを持てと?
君達の犠牲はブルース・ウィリスの誇りと同じだと?
馬鹿げている。
こんな御伽噺が夢や希望なら馬鹿げている。


この映画を見て黒人や虐げられた人々の暴動は治まっただろうか?
涙は渇いただろうか?
その創り手の意図したとおりに。
聖書でも熱心に見て?


いや、まさか。
絶望を深めただけだろう。
無駄にあがくのをやめ、すべてを諦めただろう。今までどおり。
その創り手の意図したとおりに。
正義と誇りに感動したのは強者だけだ。
または盲目の。




犠牲とは至高の幸福だ。
それが自己満足だけであると言い切れないのは、
それが人間の尊厳と誇りを凝縮していると同時に、多くの人類の引き裂かれた絶望や哀しみの上に成り立っているからだ。
たやすい正義ではないからだ。
他者からも自らも至高の幸福だと感じられることなどありえないからだ。
私はブルース・ウィリスの犠牲になんか感動しない。
私が黒人だったら、彼から教えられた誇りの意味など、自分の子供に教えやしない。
そんなもの糞くらえだ。




私は多くの「黒人たち」について想いを馳せる。
虐待や理不尽な事件や宿命を嘆く人々や。
打ちのめされた彼らについて。
娯楽としての映画によって、今日も私はものを思う。
本物の御伽噺をきっと描いてやる。
そう心に決める。
 
 
 
 
 

2006年9月17日

9月21日21時(テレビ東京)放送予定 ザ・ワイルド

 
美しい妻が言う。
「チャールズはこの世で知らないことがないの。本当よ、何でも聞いてみて」
「ほう、じゃあひとつ、5ドルの賭けをしよう。この櫂の裏の絵は?」
アラスカの山小屋に住む老人がからかう。櫂には豹の絵が描かれている。
「パイプをくわえたウサギの絵」
チャールズはこともなげに答える。
「驚いたな、なぜわかる?」
「クリー族の伝説だ。片面には豹がいて、片面には豹を恐れずパイプをくわえたウサギ」
「豹を恐れず?」
「ああ、豹を恐れず。豹より頭がいいから」

知識は力なり。
 
道に迷ったとき、敵に遭遇したとき、あなたは知識ひとつで生き残れますか?

 

『ザ・ワイルド』(1997)、飛行機事故でアラスカの雪原に投げ出された男たちのサバイバルを描く物語だ。
チャールズ(アンソニー・ホプキンス)は億万長者。若く、美しい妻がいる。
性癖でもある彼の趣味は、「知識を仕入れること」。
権力と莫大な財産を目当てに群がってくる彼の周りの連中は、そんな彼をどこかで嘲っている。
頭だけのやさ男だと。
もし、金と力がなければ、誰も見向きもしないのではないか、と。
最愛の妻でさえ、その夫の疑いを否定できない。尊敬する彼よりも、若く逞しいカメラマンに男としての魅力を感じてしまう。
そんな頭だけのチャールズと、現実的に魅力的なオスであるカメラマンがアラスカの大自然に放り出され、迷い込んだ。
食料はない。金と権力はもはや何の意味も成さない。
さて、生き残るのはどちらか?


実はこの映画が大好きである。
放送されるたびに必ず見てしまう。
方角の知り方、火の熾し方、知識豊かな登場人物が知識を武器にし、厳しい大自然に対応していく様が痛快である。
また、サバイバルゲームだけではない。これは強い男としてのあり方を示した物語でもない。
大げさに言えば人間としてのあり方、生き方を説いている。
こんな台詞がある。
「人が道に迷って死ぬ原因は恥だそうだ」
「恥?」
「なぜこんなことに・・ 何がいけなかったんだろう、オレは馬鹿だ、と自分を恥じて、やるべきことをしなかった」
「やるべきこと・・」
「考えることだ」


ここに矛盾がある。
やるべきことをしていれば、人間は道に迷うことはない。
そうして、やるべきことは考えることだ。
人間は考える動物である。
考えれば、誰でも必ず、こうしたほうが正しい、という答えにたどり着く。
しかし、恥だけではすまないのだ。
確かに恥もあるだろう。
しかし、理屈ではわかっていても、どうしてもそれができない場合がある。
迷うのだ。いくら正しくても、現実的に見て、その正しい答えを貫くのは無理だ、と判断ができる時に。
社会的な常識や、自分が一番よく知っている自分の力とその限界、損得勘定の利己心、それから恐怖心と情。
思考プラスアルファで考えたら、思考で出した答えを遂行するのは自殺行為だ、と思われるときが必ず、ある。
ましてや知識が豊富で情に厚く、賢ければ賢いほど、優しければ優しいほど、選択肢は増える一方だろう。
考えるから、道に迷う。やるべきことができなくなる。
チャールズ、いや、この映画の中でアンソニー・ホプキンスはその矛盾を超える。
彼の場合は、「生き残るために」。
人間であるからこそ持っている常識も、限界も、利己心も、恐怖も情もただ超えて、ひとりの人間として自分が信じた正しい答えを遂行する。
死と隣り合わせの極限のなかで。彼の知恵は本能と化す。
「殺すんだ」
「お前は死にたいのか?」
「死にたくなければ、殺してみせると言え」
「私は絶対に死なない」
「あのクソ野郎を殺してやる」
そう冷静に言うアンソニー・ホプキンスは圧巻である。
(見るたびに背筋に寒いものを感じてしまうのは私だけか)
 

チャールズとカメラマンはお互いの命を密かに狙いつつ、(または狙われているのではないかという疑心暗鬼を抱きつつ)
大自然の中で生き残るために、互いの敵を倒すために、協力し合う。
それらをクリアしたときにいったい何が訪れるのか、そのあたりも見ものである。
しかし、最後の最後まで、チャールズは「やるべきことをやる」。
恥によって脱線もせず、頭の中で思考と思考とを対立させもせず、情にほだされもせず、ただ冷静に成すべきことを遂行するのである。
自分が下した答えに絶対の信頼がある。
今までの人生のなかで蓄えた、数々の正しい知恵による絶対の裏づけがある。
だから何の迷いもなしに、それが「できる」。
 
 

知識は力なり。
それは狂気に近い。信仰だ。
私が知っていた知識の意味を根本から覆した映画である。
智識は力なり。
それは狂気に近い。厳しい愛だ。
もしその狂気が本物ならば。

 
 
人間はこうやって大自然と戦い、自分(人間)と戦い、繁栄の歴史を築いてきたのか。
人間に対する尊敬と畏怖の念を感じる反面、いつも思うのは敵となったあの熊のことだ。

 

この映画を作るために、あの人食い熊は本当に殺されたのだろうか?

エンドロールに「調教師と熊の××に感謝する」云々、と出てくるのだが、
よりリアルな画を作るためにまさか。

智識とは程遠い馬鹿だと思うが、見るたびに心配してしまうのである。
願うのはリアルな御伽噺を作るために何かを犠牲にするのはやめて欲しい。
何かが栄えるような御伽噺をぜひとも見たいものである。

 

 

2006年9月9日

9月16日21時(フジTV)放送予定 電車男

 
男が言った。
「もう・・オレには勇気がない」
その言葉は、その言葉を言われた人たちすべてのものだった。
みながその想いによって、過去に奇跡を捨てたのだ。
今までずっと。現実との馴れ合いを選んでいたのだ。
男の代わりに誰かが勇気を振り絞る。
「ふざけるな!電車男」
自分自身を罵倒する。
「ふざけるな!」
「お前は俺達の希望なんだ!」
 
 
これは奇跡の物語である。
 
 
 
『電車男』(2005)、2ちゃんねるから生まれた純情初恋物語の映画化。
男(山田孝之)は22歳。彼女いない歴22年。システムエンジニア。
着飾ることには興味がない。天然で、おっちょこちょいで、挙動不審。
見るからにヲタクを地で行き、同年代の若者に嘲笑にされ、会社では同僚に見下されている。
猫背で、下を向いて歩く。誰かと目が合わないように。
そんな彼はしかし聖域を持っている。
誰にどう思われても、社会的にどう扱われても、だから彼の核は揺るがない。
核となる自我のその王国秋葉原からの帰り道、電車の中で、ある日男は年上の女と出会う。
エルメス(中谷美紀)だ。
一瞬で恋に落ちた。
通りすがる人とも目を合わせられない男が、暴れる酔っ払いに声をかける。目と目を合わせ、対峙する。
自ら関わりを持つのだ。惚れた女を守りたいというその一心から。
勇気を振り絞って、「やめろ」と言う。
恐かった。エルメスはそれを見抜いた。そうして男に好感を抱く。
エルメスはさりげなく男にアプローチする。
恋愛経験のない男は戸惑うばかり。ネットの掲示板の住人達に相談する。
「仲間達」は言う。
「電車男、デートに誘うのは男の役目だぞ」
「それはモラルでありルールなんだ」
電車男の核は生まれて始めて揺らぎはじめる。
彼はそれを封印し、生まれて初めて社会に迎合していく。惚れた女を想うその一心から。
お洒落でスマートな男へと変身して行く。
 
 
 
現実社会ではこのようなモラルもルールも存在しない。それは過去の遺物だ。
 
現代の男の子達はもっとシャイで繊細だ。
恋愛によって生じる苦痛に対しての免疫が弱く、現実に対抗する抗体も抵抗力も希薄である。
ほんの若いときに、わずかに甘酸っぱく切ない苦しみを経験すると、それが唯一の勇気。
そのあとは中間をすっ飛ばし、なぜか一気にオヤジと化してしまう。
若く頑固なそれは、もう勇気など振り絞らない。
恥をかくのも傷つくのもスマートに避ける。
愛によく似た愛の代替品を愛と称して、開き直る。
賢くて、確固とした自己が存在していて、時に「カッコよく生きている」と自惚れたりもするが、そうでもない。
自分でもわかっている。ただ頑なに、「そうしていなければならないのだ」と。
男はいつだって女に支えられ、守られて生きてきた。
だからこそ、強くいられた。
(いつだってすべてを察して勇気を振り絞るのは女の役目だ)
モラルとルールがなくなった今、男は男であることを放棄して、その歴史に甘え始め、ますます弱くなっていく。
 
 
 
しかし電車男は掲示板の住人たちから勇気をもらい、現実に立ち向かっていく。
数々の奇跡を起こしていく。
自分を痛みを省みるより強く、彼女を愛しく想う。
彼女のことだけを考えるようになる。 
 
 
 
だからこそ、深く、深く、苦しむ。 
 
 
 
(このあたりは見ていてつらくなる)
(私だけではないはずだ)
 
 
 
 
終盤、電車男は走る。
今までのデートコースのようなお洒落な町じゃない。
秋葉原を走る。
彼女がそこに来てくれたから。彼女を想う一心から。
走る。
彼女に気に入られるために買ったジャケットを脱ぎ捨て、
お洒落なシャツを脱ぎ捨て、
コンタクトを捨て、
走る。
 
王国の秋葉原。
核が姿を現した。
真実の彼がモニターに映し出された。
ヲタクの姿だ。
恥ずかしい、みっともない、ぶざまな姿だ。
 
それでも電車男は言う。
ぶざまに泣きながら、やっとのことで言葉を絞り出す。
これが僕です。
それでもあなたが好きです、と。
 
 
 
 
本やTVドラマを見たとき、よく思った。
なぜ、エルメスは電車男を好きになったのだろう。
その辺の描き方が足りなかったように思う。
しかし、映画版を見て知った。
これは奇跡だ。
「電車男のような毒男はよくいるだろうが、エルメスのような聖母はこの世にいない」
よく聞くこの言葉は真実ではないと気づく。
「エルメスのような女はまだいるだろうが、電車男のような男こそこの世にもういない」
電車男はとうに絶滅した。男が男であった(あらねばならなかった)時代の、過去の遺物だ。
たまたま恋愛経験不足のネットの住人たちがそのような典型しかアドバイスできなかったのだろうか。
またはその夢を押し付けたのだろうか。
いや、違う。
電車男は希望だっだのだ。
奇跡を捨てた過去の彼らすべての。
だからそのためだだろう。
たくさんの私達がこの映画に共感し、勇気をもらうことができるのは。 
 
 
しかし、もしこの現代、愛と友情によって、彼が生み落とされたならば?
目の前に本当に現れたならば?
 
 
きっと私も惚れるだろう。
エルメスのように、ずっと一緒にいたいと願うことだろう。
 
 
 
「一緒にいると、どとんどん大切なものが増えていく。
他の人が見たら、小さく、ささやかなことでも、
ふたりでいたら、どんどん幸せに変えていける。
そう想うことが、人を好きになることなんだって。
あなたが教えてくれたのよ」
 
 
 
これは奇跡の物語だ。
 
 
 
 
 

2006年9月3日

9月8日27時(テレビ朝日)放送予定 ザ・インターネット

 
母親が言った。
「あなた、生徒さんでしょう?」
「ママ、私は娘のアンジェラよ」
「・・・」
困ったような顔をする。
アルツハイマーだった。
彼女には娘が「わからない」。
娘はそれが哀しく、つらかったのだ。
 
 
自分を証明するものはなんだろう?
あるいは誰だろう?
 
もし、パスポートや免許証が盗まれたら?
もし、コンピュータで管理されている自分の個人情報が消えたら?
違う人間のものへと書き換えられたら?
もし、自分を知る人間が、何かの理由でこの世からいなくなったら?
 
 
 
『ザ・インターネット』(1995)、すべての個人情報がデータベース化された現代社会(なんとなく近未来っぽいよな・・)の恐怖を描いた作品。
主人公アンジェラ(サンドラ・ブロック)はフリーのコンピュータ・アナリスト。
取引先の関係者や同業者とも顔を合わせたことがない。自宅にこもり、ひとりプログラムのバグを分析する毎日。近所付き合いもない。
父親はいない。母親はアルツハイマーとなって、いまや娘の顔もわからない。
パスポートと免許証やカードの入った財布は旅先のメキシコで盗まれた。
住んでいた家は売られていた。
取引先にはアンジェラと名乗る女が代わりに、いる。
唯一自分を知る過去の恋人(しかも精神科医だ)は殺された。
IDは書き換えられた。
麻薬中毒で売春婦で、逮捕歴を3回持つ、見知らぬ女へと。
 
違う名前の容疑者として警察に追われるアンジェラが、
「私はアンジェラよ、私はアンジェラよ・・」
と呪文のように呟くシーンが恐ろしい。
何も、誰も、彼女がアンジェラであることを証明できず、
(PCの、仮想世界の知人たちは、顔も本名も知らないのだった)
誰も彼女の言うことを信じない。
最後に残された手段として、一縷の希望を託して、留置場から電話をかける。病院の母親へ。
「今から電話を変わるから、その人に言って欲しいの。私が私だってこと」
「お願い・・・ねぇ、ママ」
しかし母親には、娘が「わからない」。
「ママ・・愛しているわ、愛しているわ」
泣きながら訴えるが、母親には通じない。愛さえも。
 
 
 
すべての努力が無駄と知り、すべてを諦めかけたアンジェラ。
 
 
しかし、救いは裡からやってくる。
 
まさに「彼女であること」、その事実によって、彼女は八方ふさがりの状態を打破するのだ。
自分を証明するのだ。
 
 
自分を取り戻したアンジェラは、ラストにこんな会話をする。
新しい家。その庭。母親の手には花の鉢植え。
「何を植えればよかったのかしら。ねぇ、お嬢さん」
困ったような母親に、彼女はにこりと笑いかける。
「私もお手伝いするわ」
もうママとは呼ばないのである。
 
 
過去の経験、そこから得たものは誰にも奪えない。
それは個の証だ。
番号や紙切れでは証明できない、自分だけの生き様だ。
証人は要らない。
自分である限り、あなたも私も何からも犯されない。
 
高らかに謳ってみる。
 
 
今日、母がノボタンの鉢植えを買ってくれた。
コートダジュールと名のついたそれは、210円だった。
私は母に、世界に、笑いかけた。アンジェラのように。