2006年10月28日

11月7日13時半(テレビ東京)放送予定 告発の行方

 
告発の行方  
THE ACCUSED
1988 USA 1h51m
 
監督:ジョナサン・キャプラン Jonathan Kaplan
製作:スタンリー・R・ジャッフェ Stanley R Jaffe シェリー・ランシング Sherry Lee Heiman
脚本:トム ボトル Tom B
撮影:ラルフ・ボード Ralf D. Bode
音楽:ブラッド・フィーデル Brad Fiedel
 
出演:
ジョディ・フォスター Jodie foster  /  ケリー・マクギリス kelly McGillis
バーニー・コールソン  Bernie Coulson  /   レオ・ロッシ  Leo Rossi
アン・ハーン Anne Hearn  /  カーメン・アルジェンツィアノ Carmen Argenziano
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
場末の酒場で複数の男たちによるレイプ事件が起きた。事件当夜、被害者のサラが酒に酔い、ドラッグを吸っていた事実を知った検事補キャサリンは不利な裁判になることを予測、弁護士側との裁定取引に踏み切る。レイプではなく、過失傷害として事件が扱われたことを知ったサラは、キャサリンを裏切り者となじる。傷つきながらも真実の公表を訴えるサラに対し、裁定取引を悔やみ始めたキャサリンは、再び事件の新たな告発へと動き出す。
この作品でアカデミー主演女優賞を獲ったジョディ・フォスターの冒頭の迫真のレイプ・シーンには息を飲む。
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
誘う女が悪いと責めるなら、それを望む馬鹿な男も悪いのだ。
女はいつでも男に望まれたとおりの姿を演じる可愛い可愛い生き物だろう。
とまぁ、キリがないので開き直りは抜きにしても、やっていいこといけないこと、その微妙な境界を越えるとどうなるか?
また、女は女の味方か? 男と社会に追従する敵か? 
(いつでも女の敵は女だったよな・・・)
なぜかハッピーエンドとは思えないが、女同士の関係には爽快感が残るラスト。
久しぶりに見てみよう。
 
ジョディ・フォスターがいいです。
 
 
 
 
 

2006年10月27日

家を買う

 
家を買おう、そうふと思う。
とある講習会の席でのことだ。
講師が言う。
「マーケットを熟知し、ニーズを把握し、それに見合ったポートフォリオを!」
マネジメントをいかに有効にするかという講釈なのだが、おのれを知って戦略をたてよ、という人生教訓にも似ていた。
そうだ、いかにも自分を有効に活かせれば、人生というマーケットの中で滞ることも、ない。
この講釈に合わせれば、私はハイリスクハイリターン型の人間である。安定型のコア戦略は立てられない。
おのれを知って諦めることだ。リスクを受け入れよう。
 
いつしか講師の言葉は遠くなる。おのれについてもっとマシに考えている。
リスクについてもざっと項目を挙げてみた。
中のひとつに家という選択がある。(もちろん小さなマンションだが)
これをクリアすれば、肉体的、精神的、経済的な苦痛は現在よりも何割か楽になろう。
 
家に着くと、案の定、ポストにチラシがわんさかある。
ひとつずつ丁寧に目を通す。ふむ、これくらいならイケないことはない。だての男と変わらぬ年収をもらっている。あとは信用だけだ。
 
部屋は3LDK、父と母の和室。キッチンとリビングで家族が集う。大きなバルコニー。
反対側には私の部屋と僕の部屋。
 
「僕の部屋ってなんだ?」と父が聞く。
返事に困る。それは私の妄想だ。
私が名づけた私の妄想から生まれた彼はその夢の部屋の中でいつも夢ばかり見ている。
ひとりで夢見ては、右の部屋と左の部屋を行ったり来たりしている。
なのにだからリアルだ。
きっと夢に支配され囲われている私が、その夢を囲いたいという妄想の中の願望に違いない。
「それは私の夢の部屋だ」
父には通じない。
仕方ないから現実に即した概念を探す。
「それは私の夫の部屋だ」
「ふぅん。結婚するのか」
「しないとも限らないし、予備だよ」
父はやっと納得したような顔になり、私は馬鹿馬鹿しさに襲われてしかめ面になる。
 
 
 
 

2006年10月25日

コロボックル伝説

 
大昔、まだ私が子供のころ、コロボックルの御伽噺を読んだ。
コロボックルとはアイヌの伝説に出てくる小人のことだが、まぁ、実在するかは不明なので、妖精のようなものだろうと思う。
 
確かこんな物語だ。
ある日、少年は彼が大好きな秘密の場所、とある山で、コロボックルに出会う。
彼はこの蕗の下に住む妖精と友達になり、忘れがたい経験をする。
まるで夢のような貴重な思いを。
時は過ぎ、大人になっても、彼は決して、―それまでコロボックルたちが出会った多くの子供達のように― 妖精のことを忘れたりはしなかった。
山に戻ってきた大人の彼はコロボックルに再会する。
(もういないと諦めていたのに、会えたのだ!)
そうして、こともあろうか、なんと秘密のその山を買ってしまうのである。
誰にも邪魔されることもなく、自分だけが妖精たちとずっとずっといつまでも一緒にいられるように。
 
子供心にもこう思った。
「大人ってすげぇ・・・」
夢ってお金で買えるんだ・・・と。
 
そして、物語はこう続く。
偶然にも子供のときに山で出会っていた少女が、やはり大人になり、その彼の山にふらりと現れる。
再会。そして、運命、彼らは結婚して、コロボックルと共に山で過ごしましたとさ、めでたし、めでたし。
 
できすぎているよな。。。
なんでこの話が大好きだったのかよく覚えていないが、多分コロボックルが欲しかったのだろう、私も私ひとりの。
何度も何度も繰り返して読んだのだ。当時は子供だから本を買うお金もないので、スーパーの本屋にしょっちゅう行っては、立ち読みをしていた。
 
コロボックルというのは面白いんだ。
大のいたずら好きで、家主がいないときに、こっそりと遊んでいる。仲間達みんなでワイワイガヤガヤと。
そのくせ、家主が帰ってくると、きゃっとばかりに散ってしまう。
なかなか打ち解けない。
そしてまたこっそりと大好きないたずらをして、家主の関心を買おうとしたりもする。
そのさまを想像すると、くすくす笑ってしまう。
なんとなく可愛い。
 
そうだ。
明日あたり近所のスーパーに行って、コロボックルを買ってこよう。
ひとりじゃかわいそうだ。仲間ごとまとめて売ってくれないだろうか?
きっと、家がにぎやかになるだろう。
 
 
 
 

2006年10月22日

10月28日26時40分(テレビ朝日)放送予定 おいしい生活

 
おいしい生活
SMALL TIME CROOKS
2000 USA 1h35m

監督:ウディ・アレン Woody Allen
製作:ジーン・ドゥーマニアン Jean Doumanian
製作総指揮:J・E・ボーケア J.E. Beaucaire
共同製作総指揮:ジャック・ロリンズ Jack Rollins
チャールズ・H・ジョフィ Charles H. Joffe
レッティ・アロンソン Letty Aronson
ヘレン・ロビン Helen Robin
脚本:ウディ・アレン Woody Allen
撮影:
チャオ・フェイ Zhao Fei

出演:
ウディ・アレン Woody Allen / トレイシー・ウルマン Tracey Ullman
ヒュー・グラント Hugh Grant / エレイン・メイ Elaine May
トニー・ダロウ Tony Darrow / ジョン・ロヴィッツ Jon Lovitz
マイケル・ラパポート Michael Rapaport / エレイン・ストリッチ Elaine Stritch

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
ドリームワークス製作によるウディ・アレン監督・主演作品で、久々にドタバタ色の強い痛快コメディ。
元ギャングで一応(?)銀行強盗の経験もあるレイ・ウィンクラー。彼はある日、完璧な計画を思いつく。それは“銀行の近くの空き家を借り、そこから地下にトンネルを掘って金庫に到達する”というもの。
が、その借りた空き家でカムフラージュにと妻のフレンチーが始めたクッキー屋が大繁盛する一方、肝心のトンネルは全然進まず……。
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
間抜けでイカレタ、情けなぁいアレン様のお姿と、ユーモア仕立ての痛烈な皮肉に付き合わされて、見終わるころにはいつもぐったり。
ハイハイ、わかりましたよ、あなたこそインテリジェンスです・・・・
と思わず白旗を揚げてしまうアレンワールドを今宵もお楽しみくださいませ。
 
 
あ、そうそう、コレ、ラブコメの帝王ヒュー・グラントが出てます。
相変わらずの役どころですが、ちょっといい味出てますよ。
 
 
 
 

2006年10月15日

10月20日21時(フジTV)放送予定 容疑者 室井慎次

 
『神様は勇気というものを一人にひとつしかくれない。それを捨てると二度と手に入らない。
私は捨てた。偉い人に刃向かってね。
今は逃げることばかり考えてる』
『室井という人はまだ捨てないでいるんだろうな。取り返しがきかないことを知っているんだ。
だから逃げないんだろう』


室井慎次が言った。
「事件の中に答えがある」
「捜査を続けるんですか?!」
驚いてそう訊ねる弁護士に向かって諭すように呟く。
「私にはそれしかできない」
これは自分の信念を貫き続ける、勇気あるひとりの男の物語である。


あなたはまだ勇気を持っていますか?
それを捨ててはいませんか?
そうしてもしあなたが今も勇気を持って信念を貫き続けているならば、結果、何が起こりました?
答えをあなたは知ってますか?



見終わったあと、ため息しか出なかった。
なんでわざわざお金を使って、これだけのキャストとスタッフを総動員して、尽きたネタを使って、こんな映画を作ってしまうのか?
理解不能だ。アホだ― とさえ思う。
しかし、それは見終わったあとだから言う台詞でしかない。
どんなにくだらない趣旨の映画でも、ラストまで見させることができればそれは創り手の「勝ち」だ。
たとえばあなたがここで私の文章を読むのをやめたら、それは私の「負け」と同じだ。
どんなに立派な思想を持つ作品だって、ラストまで観客をひきつけることができなければ、何の意味もない。
見せてナンボだ。
だから最後まで期待して見続けたこの映画は、私を完敗させた最高の映画だった。
オチは決して教えてあげない。




『容疑者 室井慎次』、踊る大走査線スピンオフ第2弾、地上波初登場である。
(第1弾の『交渉人・真下正義』、『逃亡者・木島丈一郎』、『容疑者・室井慎次』、『弁護士・灰島秀樹』と続けて放送される)
ある冬の日、室井監査官(柳葉敏郎)は新宿で起きた殺人事件の捜査本部長を務めていた。任意の事情徴収である捜査の中で被疑者が逃亡し、あと一歩で確保という時に被疑者が車に跳ねられ即死。被疑者死亡のまま書類送検となり、不起訴という最悪の結末で事件は幕を閉じた。
しかし、室井は被疑者の遺留品を見てあることに気付き、捜査の継続を決意。事件の真相に迫ろうとする。
室井が所属する警察庁はそれを辞めさせようとする。
被疑者が警視庁の巡査であったために、警察庁長官のイスを狙って反目しあう警察庁の一派には今こそが警視庁を叩く最大のチャンスだった。早く事件を終わらせたい警察庁。逆に警視庁は長引かせてうやむやにしたいので、出向中の室井をたき付ける。
純粋な捜査よりも警察内部の確執や抗争に振り回されてうんざりする室井のもとに、東京地検の窪園(佐野史郎)がやってくる。
そして室井を「特別公務員暴行陵虐罪の共謀共同正犯」の容疑で逮捕するのであった。


なかなか面白い出だしだ。
「踊る」シリーズを期待して見るとまったく違うのだが、それでも引き込まれる。
室井の弁護を任されるのは新米弁護士の小原(田中麗奈)、彼女は事件の裏で弁護士灰島(八嶋智人)が糸を引いていることに気付く。
この弁護士灰島がなんとも言えず面白いキャラクターだった。
彼は訴訟パラノイア、または訴訟ヲタ。小男で前髪が揃っていて、常に小気味良く笑い、携帯ゲームをピコピコ鳴らす。まるでキューブリックの映画にでて来そうな白昼夢のごとき法律事務所にどっかり座るその姿は、滑稽な小人か老ねた妖精のよう。
そして、法律と正義という名目を盾にし、詭弁を弄して、相手を窮地に追い詰めていく。
灰島は言う。
「みな自分は法に守られてると思ってるけどさ。違うよ」
「人は法に縛られてるんだって」
彼は室井の秘められた過去を暴露する。
怪文書として流し、警察庁からも警視庁からも持てあまされるようになった室井は、ついに捜査中止を余儀なくされる。


公安のドンにこう宣告されるのだ。平和的な観覧車の中で。
「次長も副総監もたいした男じゃないが、あれにはあれでメンツってものがあるんだ。
それにふたりは君におびえている。君の持っているものに― 
みんな正義というものが恐いんだ。
辞表を出したまえ」



若き日のこと、彼は信念を貫くゆえに一人の女性を殺してしまっていた。
彼の勇気こそが、愛する人を、死へと追いつめていた。



闇の中へと深く深く沈んで行く室井。
灰島の声だけが響く。
「なにをどうあがいたって法の前には無力なの」

勇気の炎が消えようとした、まさにその瞬間、光と共に小原が現れて―



この辺から怪しくなる。
室井が自己の勇気や正義を疑い始めたところまではいい。
それでも小原から勇気をもらい、自らの勇気を取り戻したところまではいい。
しかし以下の台詞は?

「私は一人の警察官と約束した。
彼は現場で頑張り、私は上へ行って現場が正しく仕事できるようにする。
約束を果たせず私は警察を去る。
警察にいては真実を知ることができないからだ。
私はこの事件の真実を知りたい。
真実を闇に葬ってはならない。
人が殺され、何人もの人が傷ついている。
事件は終わっていない。捜査を続ける」


何があっても勇気を捨てぬ決意を固めた室井は、自分の正義と信念を貫いて、捜査続行を決意する。
どうやら室井にとっての勇気は、青島刑事との約束よりも重大だったらしい。
「上へ行って現場が正しく仕事できるようにする」ことは彼の信念ではなかったのだ。
「この事件の真実」のために、そちらの勇気をあっさりと捨ててしまうのである。



そして、新宿北警察署の工藤 (哀川翔)らの協力を得て、事件の重要参考人の取調べをするのだが、
このあたりから怪しいを通り越してとんでもなくなってくる。
参考人に語りかける室井。
「もういいんだ。何も答えなくていい」
そうだ。彼の信念と勇気と正義感が、周りを苦しめた。
もしかしてついにそれに気付き、愚かな信念を捨てるのか、と思いきや、彼は言う。
「私が彼を追い詰めた」
「被害者のためと思い、私はそうした。それが私達の仕事だった」
「人を救うことなど考えもせず、申し訳なかった―」
深々と頭を下げるのだ。
なんと彼の信念への勇気は、いつしか人を救うことを怠った、という問題に摩り替わっている。
ごめんなさい、って言われたって困る。
人を救うためなら、室井は勇気など捨てるらしい。
違うだろう? 
たとえば、この世界の人間全員が信念を貫く勇気をいまだ持っているとする。個人だけではなく組織や社会にも信念と勇気はあるとする。
するとすべてがそれを貫くのは不可能に近い。個人ならなおさらだ。もし貫きたければ、信念が完全に一致する、または信念や勇気などない相手と付き合うしかなくなり、もしそれが不可能ならば、自分の信念への勇気と正義をどこかで調整するしかなくなる。
しかしそれは、人を救う、救わない、と言う壮大な問題とは別次元の話だ。
そんなことを問題に取り上げたら「人を救う」ことそのものを信念としている人と組織を除いて、自分の信念を貫ける人など果たしているものだろうか?
この映画の中では、ただ「勇気を捨てられずに、人を救えなかったことを悔やんでいる」と言うことを伝えたいだけかもしれないが、イヤ、それは立派だが・・・
私にはこう見えてしまう。
『室井は今まさに「それでも真実を求めたい」という信念の元に勇気を貫き、頑なな信念を捨て、真実よりも人を救うことを欲したのだった!』
(えっ、じゃぁ、この映画の大前提って???テーマって???)
 
 

混乱し、唖然とする私に追い討ちをかけるかのように明らかになる事件の真相。
その愚かさは見ものである。
(個人的な感想ですが、真の黒幕は新城警視正(筧利夫)じゃないですかね??)

 

 
 
「真の権威とは勇気を忘れぬものに与えられる」
その解説どおり、仲間達の敬意を受け鷹揚に新宿北警察署を立ち去る室井とは対照的に、通りすがりの人にぶつかられ、落ちた愛用のゲーム機をみっともなく拾って、負け惜しみのごとき台詞を呟いてから現場を去っていく灰島。
いいところまで相手を追い詰めながらも、最後には自分が最も得意とした相手をやり込める方法、法律を盾にしたそのやり方で、逆に相手からやり込められてしまう彼。
しかし、おかしいかな、私には「低能どもばっか!」と叫ぶ低能な彼こそが、一番まともに見えてしまう。
「覚えときな、真実じゃ金にならないの」
徹底した信念を貫いたのは彼だけではあるまいか。

 

 
 

2006年10月9日

10月14日26時14分(TBS)放送予定 木更津キャッツアイ 日本シリーズ

 
「あなた、何がしたいの?」
と美礼先生が言った。
「何があったか知らないけど、普通に生きている人の邪魔をしないで」
サングラスをかけ銃を持っている出所したばかりの初恋の相手、『微笑みのジョージ』に向かって。
「あなたも普通に生きたらいいのよ」



普通ってなんだろう?
私は銃を持っていない。刑務所にも入ったことはない。だから普通だろうか?
私には『微笑みの○○』などというふざけた愛称はない。ならば普通だろうか?
普通ってなんですか?
あなたは普通に生きてますか?

 


『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(2003)、宮藤官九郎(通称クドカン)脚本のTVドラマ『木更津キャッツアイ』(放送当時は平均視聴率10%前後と低迷、しかし深夜での再放送及びDVD化と共に爆発的人気を得たTVドラマ)の続編、あのキャッツアイの面々が映画のスクリーンで復活した。
30年後という設定で、若き日のイケメンからはありえない(と思われる)、けれど服装と行動に当時の面影をちらつかせるその30年後の濃い配役陣にいきなり笑わされる。
彼らが当時を回想するというところから物語は始まり―
冒頭は病院の診察シーン。不治の病で余命半年を宣言された主人公ぶっさん(岡田准一)は、ほぼ1年経った今も、死ぬほど元気に生きていた。
「別に死にてぇわけじゃねぇんだ。でもどんぐらい持つかでペース配分変わってくんだよ」
なぁ、わかるだろ?と言いたげに、申し訳なさそうにうつむく女医にたたみ掛ける。
「友達の手前、これ以上延ばせねぇしよ」
「・・・すみません」
「てか、先生変わった?」
「あー、前の先生ガンでお亡くなりになったんですよねー」
「で、俺は?」
「あと半年?」
「またかよ!」
ドリフのコントではない。れっきとした青春人気TVドラマの映画化なのだが、冒頭から深刻な死の問題さえもコントにしてしまう。
そんな現実的ドラマ的な常識ではありえない、『普通じゃない』ところから、物語は始まっていく。
 
 
 
 
クドカンが大好きだ。
この人の書くドラマや映画はほとんどすべて観ている。
観るたびにすごい人だなぁ~と感心するのだが、世間の評価はまだまだ彼のすごさに追いついていない。
そんな私の大好きなクドカンの作品の中で、一番世間的に認知度があり、一番どの世代が観ても楽しめる作品が、この「木更津キャッツアイ」ではないだろうか。
クドカンが描く、「すべての人にとっての理想郷」の完成形が、ここにはある。
 
 
 
ぶっさんは働いていない。無職だ。余命半年だからではない。まともに働く気などないのだ。
昼間は仲間達と草野球をして、ビールを飲む。夜は怪盗団「木更津キャッツアイ」として活動する。いつもと変わらぬ毎日。
そんなある日、木更津で大規模なロックフェスティバル「FUJI み ROCK FESTIVAL」が開催されることになった。木更津から生まれたロックスター(?)氣志團の推薦を受けて、ぶっさんたちもステージに立つことに。
一方、死んだはずの木更津の守り神オジー(古田新太)が海から流され戻って来た。喜ぶぶっさんたち。
めでたいことは続くもので、38歳独身の美礼先生(薬師丸ひろ子)はニューヨーク在住のアーティストと結婚することとなり、やくざの山口先輩と刑務所から出所したばかりの猫田は韓国パブを開き、そこで働くユッケ(ユンソナ)にぶっさんは韓国語でプロポーズ、任侠映画俳優の哀川翔は朝の4時半から木更津の海岸に立ちぶっさんに「完全燃焼」と書かれたボールをプレゼント。オジーに成りすました微笑みのジョージ(内村光良)は偽札を作り、それをドリンクチケットと勘違いしたバンビ、アニ、マスター、うっちーはぶっさんの遺体を南の島に埋葬し、しかし危ないところで5人はイカダに揺られてFUJIみロックフェスティバルの会場に到着する。ラブソングを熱唱するも、ラストには怪獣ゴミンゴが現れて・・??
 
 
 
 
美礼先生じゃないが、「あなた、なにがしたいの?」と思わず突っ込みたいストーリーである。
しかし、説明は不要だ。見ればわかる。もっと多くの人に見て欲しいと願う。
 
 
 
こんなシーンがある。
ユッケに韓国語でプロポーズするぶっさん。その返事としてユッケはこう言う。
「嬉しい。私もプサン(ぶっさん)が好き。なぜかわからないけど」
「好きに理由はないでしょう?」
「ずっと待ってた」
「プサンも私と同じ気持ちだったんだね」
これを聞いたぶっさんはこう応える。
「ぜんっぜん、わかんねぇや。俺、フラれた?」
同じく韓国語で答えたユッケ、しかしぶっさんの語学力ではそれを理解できなかった。
またはこのシーン。
怪獣ゴミンゴにさらわれたモー子(酒井若菜)、モー子の父である船越英一郎が礼儀正しく現れて怪獣に光線銃を向ける。
突然それを逆さにして口元に持っていく。銃ではなく、オカリナだったのだ。
オカリナの優しい音を聞くと、怪獣ゴミンゴはやっさいもっさいを踊りだして、モー子をそっと橋に置いて、海へと戻っていく。
うっちーの父親が言う。「ゴミンゴは気の弱い怪獣だから人間が心を開けば暴れたりはしないんだよ」
「なんて?」とぶっさん。
「聞かなくていいと思う」と息子。父は英語でその台詞を言ったのだ。
 
 
 
強いて言わせてもらえば、面白いのはこんなところだろう。
この映画の中で、感動すべきツボの台詞(多分そこが一番創り手が訴えたいところであろうに・・)のあとに必ず、水をぶっ掛ける台詞が続く。
ドラマとしてのありがちな展開を成立させることもなければ、登場人物たちが感動的に理解し合う場面もない。
しかし、それはまるで私達の日常のように。
この常識破りの「ありえない」非日常世界の中で、登場人物たちはなんと「ありえる」姿でイキイキと生きていることか。
「ありえる」ことしか起こらない(起こさない)現実世界で、「ありえない」事をしでかす人は数知れない中で。
等身大の姿で生きることが奇跡に近いこの世界では、架空の彼らはなんと本来の私達によく似ていることか。
 
 
 
 
「プサンは楽しいか?」
「俺は普通だよ」
「フツウ?」
「あー、うん、朝起きてー、メシ食って、野球、ビール、友達、先輩、バンド、やくざ、とうちゃん、・・かぁちゃん。
おやすみなさい、うんこして寝る。これが、フツウ」
「ああ、生きるという意味か?」
「そんな感じ」
 
 
 
 
 
普通であることは難しい。
だからこそ、このテーマをクドカンは繰り返して描く。
誰かの普通を邪魔する人には、「あなたも普通に生きたらいい」と優しく言う。
逆に、普通を脱線した誰かから被害を受けてしまった人には、「あなたが心を開けば相手は暴れたりはしない」と諭す。
誰もが普通に生きていれば、たとえ言葉に水を掛ける日常が待っていようとも、誰もがわかり合えている世界はすぐそこにある。
楽観も悲観もしない、しかし決して諦めてはいない、挑み続けるその姿勢が好きなのかもしれない。
 
 
 
 
この映画を、「サザエさん青春編(または青春望郷編)」とも言うべき諦めてはならぬ永遠の理想郷であることを理解せず、これこそがあるべき姿だと楽観的に求めすぎた若者達が、働かず、いつまでも仲間と遊んで、夜は怪盗ごっこをするかもしれぬ危険性は無きにしもあらず、そうい意味では危険思想的な物語であることは否めないとは思うけれど、それでも計算しつくされたこの馬鹿馬鹿しい理想郷のなかに、必ずこの問いを見つけてしまう。
 
『あなたは普通に生きることができますか?』
 
クドカンがいつものあの「微笑みのジョージ」のような人のよさそうなすべての人をハッピーにするような笑顔からは想像もつかない、「ありえない」意地の悪い笑みを浮かべて、私達に問いかけているような気がしてならない。
 
 
 
この映画は彼ら創り手からの挑戦状であり、そうして聞こえてくるのだろう。
ありえる世界でありえない人や事件が蔓延る中で、『普通』に生きようとするすべての人への愛に満ちた応援歌があなたにも。