2006年11月25日

満員電車の怪 ~痛みを決して昇華させ得ない精神的テロリストは死んでしまえ ~

 
 
 
毎朝の通勤はラッシュアワーだ。
特にひどいのは東京メトロ、新橋方面へ向かう一番後ろの車両である。
私は身長が小さいので、他人の背中と背中でいつも押し潰されてしまう。胸が詰まって息もできない。やたら苦しい。
東京メトロはなぜかよく揺れるのだ。運転が乱暴である。急ブレーキは当たり前、つい先日も乗客が将棋倒しになった。
果たして20年前は有能であったろう年配のサラリーマンが床に尻もちをつく姿は、なんともいえぬ哀愁があった。
家のローン大変なんだろうなぁ・・・ などと思う。
しかし仕方ないのだ。
混んでいて、電車が傾けば、必然的に乗客は押される。
自分のすぐ後ろの人が、悪意で押しているわけではない。
電車と、走行と、満員の乗客が、状況がそうさせているのであり、しかも全員が押されているのだ。
 
しかし、不思議なことに、どこまでも押され続けているわけでないんだなぁ、これが。
考えれば当たり前なのだが、必ず尻っケツの人がいる。混雑には終わりがあるのだ。
それは電車の出入口付近に立っている人だったり、乗客の前のつり革に捕まって立っている人だったり、または出入口から離れて中のほう、乗客と乗客の隙間ができるところに立っている人だったり、こういう人たちは自分が押されても押し返す人がいないのだ。
だからドアに潰される。または座っている乗客の膝元になだれ込む。または床に転倒する。
 
そんな姿を見ると私は思うのだ。
 
ああ、哀れなり・・・
 
んで、おまけに、自分がそういう立場になることがヒジョ~に多い!
小さいからなのか?
要領が悪く立ち位置のポジショニングが下手なのか? 
転倒はないが、毎回ほんとうによく潰される。
(きっとそのうち私の胸はまな板のようになるだろう)
まぁ仕方ない。押す人が前後にいないのだ。いなければひとりでドアに潰されるか、ひとりで踏ん張るしかない。
毎回そんな苦しみを味わっていると、たまにちゃんと前に押す人がいても、我慢して踏ん張るようになる。
自分が押されてつらいのだ。前の人だって私から押されたらつらいだろう、などとこの非常事態に馬鹿みたいに気遣ってしまう。
 
 
そんな自分を慰めるために、面白可笑しく名づけてみた。
満員電車時の全員が押されてるけど自分は押し返せず、ひとりで踏ん張ることを、こう呼ぶのだ。
『満員電車の怪』。
意味は、「将棋倒しを食い止めるための、自己の痛みの昇華」である。
 
 
ああ、あほだ・・・
 
 
そして今日も私は押し潰される痛みを自己の裡で昇華させ、そんな自分を、あんたえらいよなぁ~、などとひとり慰めながらうふうふとほくそ笑む。
満更悪いものではない。
 
 
 
で、この満員電車の怪をご時世に置き換えて考えるとだな~
イジメってのは満員電車なんだな。
みんな押されてるんだ。
押したくて押しているわけではない。
仕方ないんだ。
でも、痛みを各人が昇華することはできると思うんだ。
 
 
そうして、もし、あなたが後ろから押されたから仕方なく押してしまったのならば、それは仕方ないからの当然のことではなくて、少しは悪いことなのだと言う意識くらいは持っていたほうがいいだろう。
この認識を持たず、仕方ないだろう、と開き直って居直る人は、私から見たら、私よりアホのただのアホだ。
 
 
そういう精神的テロリストは死刑になって死んでしまえ。
 
 
と、まぁそれは言いすぎだが、罪の意識を持てるか、持てないか、の差は大きい。
悪いことはしてもいいかもしれない。いけないとは言わない。
できればしないほうがいいが、しなければ仕方のない環境や状況やそういう場合だってもちろんあるだろう。
私だって悪いことをたくさんして生きてきた。
でもね、決して居直ってはいけないんだ。
当たり前だと思ってはいけないんだ。
そういう人をこの世の法が守る必要はなにひとつない。
 
 
違うかい?
 
 
 
満員電車の怪、さて、あなたはそこで踏ん張れますか?
踏ん張る必要がない? それとも、馬鹿馬鹿しいですか?
 
 
 
 
 

2006年11月24日

『セーラー服と機関銃』 長澤まさみは小悪魔か?

 
 
セーラー服と機関銃の最終回を見た。
 
主人公(長澤まさみ)が紆余曲折の末に平凡な高校生に戻り、まるで何も無かったかのような穏やかな日常を迎え、そうして4ヵ月後のある朝、堤真一(役名忘れたよ・・)から電話がある。
その間、彼女はずっとずっと堤からの連絡を待っていたのだ。
 
しかし、彼女は堤に会うことはできなかった。
約束の場所へ向かう直前に、堤は死んでしまったのだ。
 
 
う~ん。
こういうシチュエーションに弱いんだよなぁ・・
 
 
子供のころ見た漫画にあったんだ。
立原あゆみの『ふたりの回転木馬』
 
紆余曲折の末に、幸せを掴んだ。
その絶頂の瞬間、愛する人が死んでしまう。
この世から消えてしまうのだ。
 
これがもうダメ、なぜこのシチュエーションがダメなのか理由はわからないが、断然ダメなのだ。
私の涙腺を刺激しまくるのであった。
 
 
こういうとき友達から電話があると、私はめちゃくちゃ冷たい。
あとで思い出すと鬼畜のようだな、とふと思う。
しかし、頭の中は『セーラー服と機関銃』の世界にどっぷり浸っているのだから、現実が相容れないのだ。仕方ない。
ちなみに、最後に堤真一の残した手紙を読み上げるのだが、その内容を聞きそびれた・・
気になって今夜は眠れそうもない。
(と言うことはそう冷たい対応でもなかったのかもしれない?)
 
 
 
しかし、長澤まさみ、と言うのは可愛い。
目の下にシワのようなクマのようなものが存在し、よく見るとずいぶん老けている。
ちょっと松嶋菜々子に似ているが、(若さのせいか)彼女にはないある種の透明感がある。
あの自分の可愛さを知り尽くしている少女特有の小悪魔なしぐさや声が断然可愛い。
清純派らしいが、いったいどこがだろう。
そんな世間の評価を不思議に思いつつ、今日も私はセーラー服と機関銃を歌いながらバスタブに浸かる。
「あ~いし~た~男たち~をかがやきに替えて~」
したたかな女性を謳うこの歌は、世の男を翻弄する小悪魔な彼女に似合っている。
気分がいい。
 
 
 
 

2006年11月23日

ボードレールとキリストはサド侯爵に処刑され得るか? ~サディズムとマゾヒ ズムの観点から善悪を解釈することの是非を問う~

 
 
※ボードレール (1821~1867) フランスの詩人、象徴派の先駆者、芸術至上主義、頽廃主義の代表者。詩集『悪の華』は近代詩の聖典。(広辞苑)ボードレールは耽美主義の代表でもあり、耽美主義(=唯美主義)者の文学的作品にはマゾヒズムの傾向がある。(作者注) 
 
 
 
善悪について考えるとき、サディズムとマゾヒズムの問題は避けて通れない。
あなたの善と悪の判断が性的傾向のひとつの嗜好であるならば、あなたの善悪の真理などまがい物でしかないからだ。
私は問う。
マゾヒストはキリストになりえるか?
サディストはピラトになりえるか?
こんなありえない問いを発せなければならないほど、この世は狂っている。人間は反合理性に満ちた矛盾だらけの生き物だ。
そうして反合理性はサディズムのひとつの傾向なのだ。
 
 
 
毎日パソコンを開くと何十通ものジャンクメールが届く。
SPAM(スパム)と言うらしい。
精神が病んで家畜化したときしか開く勇気がない。今日もタイトルを見るだけだ。
ふと目に飛び込んでくる。
『奴隷M女 処女から熟女まで選べます』 ※一部サブタイトルを忘れたため創作しました。
ふぅん。
こっそりメーラーのプレビューから中身をのぞく。クリックしないと画像が開けなかったので、マウスを動かしかけたが、われに戻ってあわてて削除した。
やばいやばい・・・
修行中に絶世の美女に遭遇し、つい惑わされる坊さんのような心境である。
こういうメールを堂々と開くことができる人は、きっと年がら年中家畜化状態の阿呆か、またはよほどのつわものだろう。
美女に遭遇しても、平然とお経を唱え続ける高僧に違いない。
しかし、奴隷M女のタイトルに引っかかる自分が気になった。
M女とは奴隷と言う前置詞からしてマゾのことだろう。
例によって愛読書の辞典を引く。
 
『マゾヒズム』 
他者から身体的、精神的な虐待、苦痛を受けることによって満足を得る性的倒錯。一般的には被虐趣味を言う。(広辞苑)性倒錯のひとつ。異性に虐待されることに快感を得る異常性欲。被虐性愛。作家マゾッホにちなむ語。(谷崎)潤一郎の唯美的な作品などにこの傾向が見受けれられる。(類語新辞典)
 
ふふん、なるほどなるほど。
ちなみに唯美的作品ってなんだっけ?
唯美主義を引くと耽美主義とある。耽美主義から新浪漫主義→反自然主義→唯美主義へと戻ってデカダンスへと行き着く。
だんだんと字彙からだけではなく、全体像としてのマゾ、その「傾向と対策」が見えてくる。
ふと、キーワードが「ボードレール」であることに気づく。
ほほう・・・これはおもしろい。
感心しつつ、今日も私は定義を考える。
 
『マゾヒストとは、その代表をボードレールに置く、耽美的、または虚無的で、病的なもの、怪奇的なものを好む人たちで、マゾヒズムとは、そのマゾヒストがイカレタものに性的幻想を抱いてはついうっとりしてしまう行為』
 
しかし、この定義にはひとつの条件が必要不可欠だろう。
(その話はラストにしよう)
 
 
マゾが片付いたので今度はサドだ。
 
『サディズム』
他者を精神的、肉体的に虐げることによって満足を得る性的倒錯、転じて一般に嗜虐的傾向をいう。(広辞苑)性倒錯のひとつ。相手に苦痛を与えることにより満足を感じる異常性欲、サド侯爵にちなむ語。文学的にはその狂気や反合理性を人間解放に結んで考える。(類語新辞典)
 
サド侯爵→サディスト→サディズムと辞典をめぐり、たどり着く。
ちなみに反合理性とは、合理性の逆なので、「道理にかなっていないこと、論理の法則にかなっていないこと。行為が無駄なく能率的に行われないこと」であり、どうもマゾのときのように巧くは見えてこないのだが、(イメージするには関連語彙が少なすぎるのだ)実験的にこう定義してみる。
 
『サディストとは、論理が破綻していて矛盾だらけのイカレタ人たちで、サディズムとは、そのサディストが自己正当化と自己解放のために悪戦苦闘した末、思わず他者を嗜虐してはついうっとりしてしまう行為』
 
 
ふふん。
なるほど、では冒頭のピラトはどうやらサディストっぽいなぁ、などと思う。どちらかと言うとマゾではない。きゃつはキリストが処刑されたとき、胸の痛みなど少しも感じやしなかっただろう。無実のキリストを裁くことを表向きは嘆きつつも、胸の底では常軌を逸したある種の快感を得ていたに違いない。自殺もしよう。嫌なやつだ。
ではキリストはボードレールか? あのような美しくも堕ちた姿・・・
ああ、これもありうる・・・
 
 
 
待て待て、違うだろう。
それは「次元の違う」話だ。
そうだ、それこそ論理の倒錯だ。
サディズムとマゾヒズムはあくまでも性的傾向のひとつであり、善悪とは違う。いや、悪が善に似ているように善が悪に似ているように、確かに真理になりえる前提ではあるが、しかし惑わされるな。違うのだ。道徳とは決定的に違う。
論理の破綻した性的傾向者がどんな詭弁を使ってあなたを翻弄しようが、その嗜好は道徳とは次元が違う。
残念ながら私はまだその違いを示せない。もしキリストがマゾヒストだと言われたらそうのたまうその馬鹿の説を論破できない。
そこは真理へ行き着く入り口でもあるかもしれないとさえ思う。
しかし、どう廻り、どう行き着いても、答えは違う。決定的に違う、ということだけは「わかる」。
 
 
 
キリストはマゾヒストかもしれないが、すべてのマゾヒストはキリストにはなれない。
ピラトはサディストかもしれないが、すべてのサディストはピラトにはなれない。
 
 
 
しかしもし、私達がマゾヒストであり、サディストであるならば、(その二つは同一なのだ!)
私はボードレールにはなれるだろう。
私はサド侯爵にはなれるだろう。
 
 
たとえあのような文才はなくとも、性的嗜好も、快楽への欲望も、昇華させることは可能なのだ。
 
 
そう、どんな凡人でも。
そうしてその方法は文学的なものでなくともかまわない。
CGでもカラオケでもゲームでも。絵でも釣りでも恋愛でも。
それはあなたが選べるのだ。
 
 
 
 
私は修行に戻ってジャンクメールを削除しよう。
この世の堕落が待ち受けている。
いつか昇華され、ボードレールとサド侯爵を知り得る日が来たら、私は「ここ」へ戻ってこよう。
 
 
 
 
 
私の語録
【ボードレールな人々】
※エドガーアランポー マゾヒズム的幻想怪奇的世界観を文学的芸術に昇華させた人。
※萩尾望都 マゾヒズム的少年愛的性愛嗜好を漫画的芸術に昇華させた人。
※三島由紀夫 マゾヒズム的耽美的異常性格を文学として昇華させた人。
※太宰治 マゾヒズム的頽廃的虚構及び虚言癖を大衆文学として昇華させた人。
 
すべてマゾだ。私の定義にかなっている。(あなたも探してみるといい)
 
 
 
 

2006年11月19日

楽園の木の実を食べる ~究極の罪悪である無垢な欲望について~

 
 
※禁断の木の実 
神が禁断にしていた知恵の木の実。アダムとイヴが蛇に誘惑されて木の実を食い、楽園から追放された。転じて、試みることを許されていない歓楽などを言う。(広辞苑) 一度始めてしまうとやめられなくなってしまうので、してはいけないとされる魅惑的な快楽のたとえ。(故事ことわざ)
 
 
 
一般的に言われるこの言葉の解説と用例は間違っている。
禁断の木の実は快楽(=欲望が満たされた心地よさ)をむさぼることを禁じた、魅惑の果実などでは断じてない。
旧約聖書に書かれてある言葉どおりに、禁じられたのは知恵であり、それを知るための魅惑の果実だ。
欲望とは、歓楽や快楽などでは決してない。
究極のそれは、知恵を得ること、そして善悪を知ることだ。
 
 
 
私の会社の話をしよう。
私は現在、ある会社のブレーン部隊として働いている。
もちろん本物のブレーンではない。それはもっともっと上の役員クラスや、そのためだけに顧問として雇われている偉い人たちのことだ。
ただ、業務上まとめられた部署の役割として、それを人の体にたとえるならば、営業など、実行手段としての手足が存在し、企画や広報などの感性をつかさどるハートが存在し、私は専属事務処理屋、つまり頭脳としての役割の部署に配属されいる、と言うだけの話である。
 
この会社で、私は毎日ランチに行く。
A子とB子としておこう。その二人と必ず一緒に出かけるのである。
私たち三人はブレーン部隊でまったく同じ仕事を任されている。今年の夏からだ。同じ業務を縦割りにされて、同じ数の部下を付けられ、同じ業務上の成果を期待されているのである。
もちろんまったく同じと言うわけには行かない、個性の差が業務のプロセスを変ていく。そして、それが月々の成果を微妙に変えていき、長期的に見たら必ず少なからぬ優劣の差が開いていくものと思われる。そういう危機感と隣りあわせなので、絶えずライバルとして存在している。親しい仲間であると共に、絶えず切磋琢磨して向上するために見張りあっている監視役のような存在なのだ。
 
ちなみに、なぜ縦割りの業務なのか?
まぁ、これは上が一枚上手だ。こうしておけば、お互い手を抜くこともないだろう。張り合ってお互い頑張るだろうし、たとえ何かがあっても不満や怒りや反発の刃はお互いに向く、上には決して行かないのだ。(逆に上は少しでも仲間よりも認めてくれれば自分を仲間より優位に導いてくれる確かな存在であり、反発するなどとんでもない貴重なアイテムであろう)
 
前置きが長々しくなってしまったが、そう、毎日三人でランチに行く。安いランチタイムを狙って社外の飲食店に出かけて行くのだ。
三人が三人とも血液型が違い、三人ともヲタク傾向があるがたとえばアニメの巨匠で言ったらAちゃんは押井さん、Bちゃんは庵野さん、私は大友さんのファンであり、そしてファッションセンスはまるで違い、三者三様の個性があるので、会話はたえない。なかなか愉快である。
 
 
で、このランチで必ず起こるのが、『上座争奪戦』である。
 
 
これがなかなか面白い。
Aちゃんはこの上座獲得に意地とプライドをかけている。
席に着く前から彼女の勝負は始まっている。歩いているときに会話を仕切る、そしてレストランに入る前にさりげなく前に出て、店員に「どうぞ」と席を促されると一気に心と体が駆けるのだ。(私は一度この心が駆けた状態のAちゃんの進路の邪魔になり、突き飛ばされたことがある)奥の席を確保するのである。
私は「容疑者確保ッ!!」という踊るシリーズのドラマのセリフを思いだす。
「上座確保ッ!!」というAちゃんの心の雄たけびが思わず聞こえてきたり・・・はしないけど、雰囲気としては毎回あんな感じである。
Bちゃんはこの部署には一番長くいて、Aちゃんより先輩なのだがおとなしい。この座をいつも譲っている。しかし、内心は面白くなさそうだ。
たまにAちゃんが駆け損ねて、偶然Bちゃんが上座に座れるという状態に陥っても、まるでそこを好いているかのようにすとんと下座に着く。ストア主義のようなあまのじゃくな一面があるのだ。この下座にこだわることによって、私は逆にBちゃんが上座にこだわっていることを知った。
 
 
 
私はこのランチのたびに彼女らをなんと欲のない人々だ!と思う。
この上座争奪戦は正常な当たり前の欲望なのだ。
誰でも自分は人より少しでも上位に立ちたい、自分のほうが上だと認められたい。尊敬されたい。
そんな人間の欲望の一端がちらりと顔を覗かせるだけである。
 
 
 
そう、人間の欲望とはこんな些細なものだ。
 
 
 
人よりほんの少しお金を多く持ちたい。
人よりほんの少しいい彼氏を持ち、いい車に乗りたい。いい家に住みたい。美味しいものを食べたい。
人よりほんの少しいい人生を歩みたい。
人よりほんの少し楽をしたい。
人よりほんの少し安全でいたい。
 
 
 
それを醜く感じられるときは、そのほんの少しを超えたときか、またはそのほんの少しのために他人のほんの少しをだいぶたくさん邪魔したとき。
それくらいではないか?
つまりそれは正常な欲望である。
 
 
なのに、なぜだ。
 
偉人達の本を読んでいると、または神話や童話を読んでいると、ふと思う。
この知恵の実を知った彼らは、まるで神のブレーンのような彼らは、なんと純真であることか!
そうだ、本当の罪悪は人間の些細な欲望を超えることだ。
それを超えた彼らの罪深き欲望は、なんと無垢であることか。
 
 
 
究極の欲望には穢れがない。
(そうして私達はなんと穢れていることか!)
 
 
上座争奪戦を面白いと思う私はもう居なく、薄汚れた欲望と、自分を思う。
 
 
 
 
負けやしない。
無垢になるまで求めてやる。
明日こそは。
そうだ、明日こそは。
そう呟きながら、今日も眠りに着く。
 
 
 
 
禁断の木の実は一般に林檎(苹果)と考えられている。
 
 
 
 
 

2006年11月14日

本の受売りでバタイユ的愛を語る私が矢田亜希子と押尾学の未来を占う

 
 
※バタイユ (Georges Bataille) 1897~1962 フランスの思想家、小説家
 
 
 
矢田亜希子と押尾学が結婚した。
 
ニュースを告げる番組でコメンテーターが言う。
 
「ハハァ~ あのふたりは本当に愛し合っていたんですね~」
 
思わず笑った。
 
 
 
矢田亜希子は押尾学のどこがよかったんだろうか、としばし考える。
 
わざわざ何千万のCMを蹴って、スケジュールを白紙にてして、
 
事務所ともめたか知らないが役者をやめて貧乏ミュージシャンになってしまったアウトサイダーな押尾さんとくっ付かなくても、
 
あの美貌ならいくらでも恋愛&結婚相手はいただろうに・・・ などと意地の悪いことを思う。
 
それともああいうお嬢様系の女の人は、ああいうワイルドな異性の魅力にぐぐっと惹かれてしまったのだろうか?
 
うんぬん・・・
 
 
 
かつてバタイユは言った。
 
『エロティシズムとは、美を侵犯することだ』と。
 
男性にとって女性は聖なるもの、犯すべからざる美の領域であり、
 
この禁止された美を穢し、犯すことで、男はエロティシズムを得るそうだ。
 
 
ならば女性は?
 
愛する人に、穢し犯されることを赦すことではないのか?
 
とまぁ、これは本の受け売りだが、なるほど、と頷ける一説であった。
 
矢田さんあたりはワイルドな押尾さんに美を穢されることを赦しちゃったんだろうなぁ、などと・・・
 
 
 
しかし、今はそれでいい。
 
その後はどうなるんだろう?
 
仕事よりも愛に生きた、と言う感じでとてもカッコいいふたりなのだが、
 
出会いが芸能界だった彼のふたリがふたりとも芸能界から離れ、女優や役者の顔を捨て、
 
ただひとりの男と女として対峙したとき、
 
果たしてそれで出逢った時と同じ愛の満足感を得られるものなのだろうか?
 
もちろん社会性という後ろ盾を失くしたふたりは、互いの愛だけが支えとなるだろう。
 
その愛は強いのか? 果たして脆くはないのか?
 
続くのか? てか、セックスの快楽以外に、何があるんだろう。
 
ふたりの共通認識であった世界を失っても、一時的な快楽以外のもの、
 
たとえば共通の生の充実感や達成感は得られるのだろうか?
 
などと余計な心配をしてしまう私は、まだまだ愛とエロティシズムを理解できない未熟者なのであった。
 
 
 
 
しかし、私が矢田亜希子なら、(ありえないけど)
 
バックグラウンドも含めての男の強さに惹かれるだろう。
 
そのバックグラウンドが大きなものでなくてもかまわない。
 
彼の世界、その領域を操る優れた技倆と理想の強さにきっと惚れるに違いない。
 
バタイユ的に侵されてもいい。
 
 
 
 
 

2006年11月12日

ルサンチマンと自己処罰からいじめ自殺の是非を問う私のニーチェへと宛てる手 紙

 
 
※ニーチェ (Friedrich Wihelm Netzsche) 1844~1900 ドイツの哲学者
 
 
ねぇ、あなた。如何お過ごし?
 
あなたの用語でルサンチマンって言葉があるわよね?
 
私この言葉がとても好きだわ。
 
なぜって人間の感情をよくいいあらわせていると思うから。
 
奴隷道徳とか主人道徳とかの思想は実は難しすぎてわからないの。
 
でも私達が普段使うのはこんな意味でしょ?
 
「反感」。「恨み」。「嫉妬」。
 
感情的に害されたときに、その害した相手を恨み返すこと。
 
その憎しみと恨みの感情を反芻して、哀しいことやつらいことを思い出だして、いつまでもこだわること。
 
たとえば冷たくした母親や、自分を振った男、自分をのけ者にした他人や社会をいつまでも恨み続けることもできるし、
 
何とか仕返しをしてやろうと言う気持ちを持ち続けることもできる。
 
『自己中心性が挫折したときの、一番最初の逃げ場』
 
でしょ? 
 
でもそれは過程のうちには誰でもあるのよ。
 
そうして、このルサンチマンを如何に乗り越えられるか、そこが人間としての起点よね。あらたなる成長ができるか、できないか。
 
私ね、あなたのこの言葉(思想)を借りて、今ニュースで話題になっているいじめ自殺について考えたの。
 
ふふっ、ちょっと暇だったのかしらね。問題意識なんてあったのか、不思議なんだけど。
 
あなた、ルサンチマンにはもうひとつの形があるわよね。
 
『自己処罰』
 
そう、どちらかと言うと私はこちら側の人間だわ。
 
もしね、死んだ少女が自分をいじめたものやいじめを気づかなかった親や
 
いじめを見てみぬ振りをした学校、そういう残される周囲のものたちへのあてつけ(恨み)として死んだのならば、
 
これはただの『ルサンチマン』。
 
残念ながら、少女は乗り越えられなかったんだわ。
 
でももしね、死んだ少年が気まぐれに彼を傷つける周囲によって、
 
確固とした自己理解を作れず、自分の存在をただ罪悪だと感じて死んだのならば、
 
それは『自己処罰』。
 
そうだな、「生まれてゴメンナサイ」って言う太宰と似ているかしら。
 
彼は自分で自分を罰したのね。
 
 
 
私はね、少女は乗り越えるには幼すぎたと思うの。
 
それでもね、やはり同情はできないわ。
 
辛くて怨んで相手を罰したいと願う前に、もう少し自ら乗り越える努力ができたのではないか、
 
とつい思ってしまう私がいる。 
 
 
少年のことはね、ただいたずらな彼の周囲を憎むわ。
 
社会の歪みが、いや、世界の歪みが、こういう子達に降ってくるのよ。
 
国から会社から家庭から学校の子供へと。
 
ストレスの捌け口は下へ下へと降りてくるのよ。
 
とても残虐で、耐えられない事件だわ。
 
 
 
でもね、ちょっと笑ってしまう唯一の希望があるの。
 
今の子友達ね、けっこうしたたかで、ずるくて、その末端をね、「先生」に摩り替えたりもするようなの。
 
そう、大人はね、まだいいのよ。
 
いろんな癒しの方法を知っているから、それですむならそのほうがいい。
 
教師には悪いけど、公務員だもの、我慢してほしいものだわね。
 
 
ねぇ、あなた、あなたもそう思わない?
 
子供達がもっとしたたかに狡賢くなってくれることを、私ただ願うわ。
 
 
 
 

癒しとストレスの関係を考える悪趣味な私の愛読書

 
 
※ださい (tasteless) 悪趣味な
 
 
自殺問題を扱ったTVを見た。
間違っても、自殺予告の手紙だけはもう書くまい。
大昔、フラれた恋人に書いたものだが、いいとか悪いとかそういう問題ではなく、ただ『ダサい』からだ。
(おかげでずいぶん笑われたものだ)
しかし、恋人が書かせたならばまだマシだ。
少年のそのダサい手紙はいったいどこぞのダサい連中が書かせたものか、謎だった。
 
 
 
 
愛読書は辞書だ。
事典とも言う。広辞苑、類語辞典、百科事典、言葉の意味と語源、用例を詳しく解説してくれるシロモノだ。
気になる言葉にぶつかると、すぐ、何十冊もの辞書を集めた電子辞書を引く。(これは手放せない)
そうして、その言葉の定義を考えるのだ。
 
 
今回のターゲットは『癒し』
 
 
広辞苑にはこうある。
病気や傷をなおす。飢えや心の悩みなどを解消する。(中略)
「渇(かわき)を癒す」「時が悲しみを癒す」
 
 
そうか、癒しというのは『飢え(渇き)と心の悩みを解消して、病気を治す行為』を言うのだな。
なるほど。
ところで、ならば、それってどこかで聞いたことがないか?
思い当たり、しばし考える。
 
 
次に引くのはこれ。『ストレス』
 
 
広辞苑では①~④まで意味があるが、私達が一般的に使うのは下のふたつだ。
『③種々の外部刺激が負担として働くとき、心身に生じる機能変化。ストレスの原因となる要素(ストレッサー)は寒暑、騒音、化学物質など物理化学的なもの、飢餓・感染・過労・睡眠不足など生物学的なもの、精神緊張・不安・恐怖・興奮など社会的なものなど多様である』
『④俗に、精神的緊張を言う。「ストレスがたまる」』
 
類義語新辞典ではこう。
『ストレスがたまっていらいらする。ストレス解消。不快な刺激に対する生体の示す反応』
 
 
 
ははぁ。
ではストレスの定義はこうに違いない。
『常に癒されていないとぱんぱんに溜まって始末におえなくなるので常に癒されている必要性のあるもの』
 
または、『ストレス解消=癒し』
でもいいような気がする。
 
 
 
 
恋愛本を買いに行き、涙を流さなくてはならない。
またはそのほかの方法でもいい。
そうだ、うんと楽しい映画を見て、美味しいものを食べ、友人とおしゃべりをしよう。
ダサくなければいいだろう。
選択権は私にある。
 
 
 
 
 

2006年11月11日

癒し強迫観念は卑しの世界を救えるか? ~ニュースを見て思うこと~

 
 
※『卑しい・賤しい』 類義語アヤシが不思議と思われる異常なものに対する感情であるのに対し、蔑視または卑下するものに対する感情をあらわす
 
 
どうも世間は癒しを求めているようだ。
ペットやキャラクター、温泉、癒しに関する商品やテーマは根強い人気がある。
恋愛本で涙を流し癒されましょうと言うコピー、「最後に泣いたのはいつですか?」
(コンビニで売っているこの本は、現在書店売り上げランキング4位だ)
 
 
病んでいるんだ。
 
 
ニュースではいじめ自殺に関するテーマが絶えない。
文部科学省にはつたない文字で書かれた自殺予告なる手紙が送られてくる。
 
「どうして僕をいじめるんですか?どうして僕のパンツを下ろすんですか?」
「みんな僕が嫌いですか?僕はうざいですか?キモイですか?」
 
 
病んでいるんだ。
 
 
『あなたは癒されなくてはならない』
 
 
 
その方法は個人で選ぶことができるだろう。
 
 
 
 

2006年11月5日

キラとヒトラーは必殺シリーズの主人公になれるか? ~DEATH NOTE(後編)を 見て~

 
※アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)ドイツの政治家、のちに独裁者の典型とされる。
 
DEAHT NOTE(後編)を見た。
死のノートと対比する存在として、『六法全書』(に関する逸話)が繰り返しクローズアップされる。
定義はこうだ。
『正しくあろうとした人類のその積み重ねによって作られた書』
なるほど。それなら、たとえキラによって犯罪率が70%も減少しようと、法の網をくぐる極悪犯罪者が社会でのうのうとのさばろうと、その正しくあろうと努めた人類の重みを足蹴にしてまで必殺シリーズのようにばっさばっさと勝手に成敗してはならないだろう。
ちなみにDEATH NOTEの定義は、
『理想世界を構築しようとするキラの独りよがりの正義感』
だそうで、最後にエルにこうばっさり宣告される。
「これは大量殺人兵器です」
しかしそう告げるエルはどこか哀しそうだ。
そうして、その独りよがりの正義感は市民から60%以上の支持を得ているのだった。
 
ヒトラーならきっと六法全書を足蹴にすることだろう。
民も支持したのだ。独りよがりの正義であるはずがないというだろう。
 
六法全書を叩き捨てるところから始まった夜神月の(デスノートをめぐる)物語とその結末、ラストシーンは見所だ。
(ちなみに隣の子供はその月の結末に思わず涙していた)
 
 
 
まったく関係ないがエルがカッコ良すぎてため息が出た。
映画館の帰り道、遊歩道を歩きながらみんなでチョコレートを食べた。そうして親指と人差し指で携帯をつまみ、会話の真似ごとをする。
エキセントリックと言うのは笑いのネタにもなる。
エルになりたい。
 
 
 

2006年11月3日

連休のより良い過ごし方

 
ようこそ、私の劇場へ。
 
あなた、どんな休日をお過ごし?
とても天気もいいし、穏やかな気候だから、さそかし楽しい連休をお過ごしなことでしょう。
 
私は暇をもてあまして、小噺をたくさん書きました。
これらはところどころフィクションです。
 
たとえば、『僕=村上春樹の小説に出てくる羊のような存在』 私の妄想の人物です。
または、同じくねずみのような人も出てきます。
 
もし、あなたにもお暇がほんの少し多くあるのなら、下から順にストーリー仕立てになってますので、『容疑者・室井慎次』辺りから読んでみてください。
次の『おいしい生活』~『告発の行方』、それを挟む小噺、そしてラストは『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』で完結しています。
 
良い休日を。
 
 

ヘドヴィグひとりで夜の街を歩く。~孤独への序章~

 
※ヘドヴィグ = 映画 『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』 の主人公
 
 
ああ、そうか。
 
寝すぎて、トチ狂っちゃったんじゃないのか?
考えるまでもなかった。
それは、すべて、すでに私に備わっているものじゃないか。
 
ヘドヴィグとおんなじだ。
捜し求めたものはすでに自分の中で完成していたんだ。
 
私は本当の愛を知っている。
人を愛せる人間だ。
 
だからこそ、ロダンが吊るし上げを食らったときは立ち上がったし、たとえそれで自分が更なる吊るし上げを食らっても、彼らすべてとあの場所をただ愛した。
苦しむロダンのために、あの場所とみんなの平和のために、静かに消えようと思った。
それを許さなかったのはもうひとりの彼だ。
私には彼の矛盾した苦しみもわかってしまった。
そして自分の醜い欲望も。
  
分裂した自分に疲れ果て激化する吊るし上げに耐えられなくなって、ついに自分が壊れても、私亡き後のあの場所を愛し続けた。
平和と幸福を願っていた。
(もし母が倒れていなければ、私はみんなのためにあの場所へ戻ったろう。たとえそれがさらに自分を壊すことになったとしても)
 
そうして、彼が側近を切ってやめたと知ったとき、私はついに立ち上がった。
最後の武器の剣を執ったのだ。
彼とみんなのために。
 
 
これは偽善か? 大義名分の愛か?
違う。
 
私はとっくに愛を知っていた。
だから彼の詭弁に気がついた。
 
私はとっくに愛のために戦っていた。
戦いの根底にある愛を知っていた。
 
あほか・・・
何をトチ狂ってるんだ。
すべて私にすでに備わっている知恵じゃないか。
いまさら考えるまでもなかった。
 
ただ、その本質の愛では、この世の愛が得られないから、悶々としていただけだろう?
僕を愛してしまったんだね?
 
 
あほか・・・・
 
 
もういいんだ。
何も考えなくて、戦わなくて、もういいんだよ。
彷徨わなくていいんだ、信念があるから今のあなたがあるんじゃないか。
あなたはすでに完全なるあなたなのだ。
 
 
詭弁と中傷に惑わされるな。
誰かの愛に惑わされるな。
誰かが叩くのは私を愛しているからだ。
もっともっとと・・・
でもあなたはもう頑張らなくていいんだ。
 
すでに、あなたの愛と、相手の愛は、そこにあるのだ。
 
気づくだけでいい。
 
 
欠けた自分の片割れを探し続けたヘドヴィグは、ラストに気づくのだ。
自分がすでに、自分ひとりで完全なる球体であったことを。
それは彼の長い旅の終わり、そうして更なる長い長い、新たな旅路の始まりだった。
孤独への旅。
ヘドヴィグは全裸で夜の街を歩く。
たったひとりで。
 
 
 
 

戦争の根本にある愛に関する考察。てか、自画自賛になっちまった。

 
ニーチェの善悪の彼岸を読んでいたら寝てしまった。
寝ても寝てもすとんと寝てしまう。
今日は父の誕生日だ。こうはしていられない、はず・・
 
①の選択肢をどうにかできないものか?
自分の信念を貫きはするが、②のような大義名分的な愛の定義で穏やかに暮らす。
それは可能だろうか?
 
しかし、自分の信念を貫くということは戦いだと思う。
たとえ誰かの信念を叩き潰す意図はなくても、結果的にそうなるときもあるのだ。
必ず、誰かを傷つけてしまう。周りをも。
 
だからルソーはあんなに叩かれたのだ。
(穏やかに暮らしているときのルソーはとても人のよさそうなおっさんだった)
 
私はもう周りを傷つけたくない。波風を立てたくない。
誰も傷つけたくない。
 
しかし、だから戦わないとしたら、それは他者への愛ではなく、ただの自己愛だ。
誰も傷つけたくないと思うことは、結局は自分が傷つきたくないと思うことの証なのだ。
 
②のように大義名分的愛の定義に生きたら、私は僕をも誰をも愛せるだろう。
そうして、自分も誰も彼をも傷つけることはないだろう。
 
ちょっと混乱してきたな。
 
戦うということは、自分と他人を傷つけうる行為なのだな。そうだ、だから戦争というのだろう。
信念を貫くという行為と意思が戦争という要素を孕んでいるならば、なるほど、さすがにそれは平和主義者だ。
どうしても抵抗がある。
きっと今の日本人はみな平和主義者だろう。(だから飼われたサラリーマンとニートばかりがいるのだ)
②は平和主義者か?
もちろん典型だろう。典型な日本人だ。
波風立てず、誰をも博愛的に愛し、愛され、休日はスポーツと海。
 
まてよ、まったく矛盾だな。
 
てことは、私は②を選ばなかったからこそ、ぼろぼろの人生なんだな。
戦ってしまったから、自分を周りを傷つけたんだな。
信念を捨てられなかった。
 
ちょっと待てよ、なら愛されるなんて、愛するなんて無理じゃん??
てか、平和主義者じゃないじゃん?
 
どこが変だ?
愛の定義を間違えたのか?
 
(しばし過去のブログを読み返す・・・・)
 
イヤ、変じゃない。
愛の本質を知れば知るほど、人は愛から遠ざかる。
間違っていない。この世界で、愛し、愛される道は、その定義の愛を選択するしかない。
 
うん・・・
 
愛と戦争は相反する。愛の対義語は憎しみ。
憎しみは戦争?
イヤ待てよ、戦争は信念を貫く行為と意図でもあり、それは愛ゆえに成り立つこともある。
根底に愛がなければきっと人は戦えない。
しかし信念を貫くという行為と意思が戦争という要素を孕んでいるならば、平和主義者が信念を貫くことは茨の道だ。
 
ああ、だめだ・・・
戦いの根底にある愛は、私が定義した愛とはあまりにも違いすぎる。
そんな壮大な愛は、この世のいったいどこにあるんだ???
(やはり愛はもう宗教なのかもしれないな・・・)
 
私が愛し愛されるために否定した定義ではない愛、本質の愛ならば、それになりうるだろうか?
 
ああ、そうか。
だから僕は誰からも愛されなかったりもするが、戦えるんだな。
 
私もだ。だから戦ってきたんだな。
ダメなりに一生懸命。
 
 
しまった、自画自賛で終わってしまいそうだ。
とりあえず、①と②を融合させて、帳尻を合わせることは難しそうだ。
 
父の家に行く。
ケーキを食べて、頭を養分で養ってからまた考えよう。
 
 
 

僕の矛盾についての考察。答えはいつ出るの?

 
待てよ、
ちょっと考えてみよう。
 
これはとてもいい機会だ。
このまま、ずるずると復讐戦に持ち込んでも、また私がぼろぼろになるだけだ。
だって、愛する価値のない人達を愛しても仕方がないからだ。
 
選択肢は二つある。
①体力をつけ、回復したら、また書く。
②すべてを忘れて、大義名分的に偽善的な愛を愛の定義として生きる。
 
最初の選択は室井さんのごとく、自分の信念を貫くことだ。
努力は科学では証明できない、もっと土臭いものだ。私の好きなソウル(が根底のハードロックだけどね)と同じだ。
そうして、そんな過程のうちに私はさらに磨かれ、もっともっと本質を知ることができるだろう。
それは作家(モノカキ)という道ではないかもしれない。
もしかしたら極貧の負け犬かもしれない。
それでも戦うことだ。
諦めないことだ。
しかし、そういうと聞こえはいいが、復讐戦であることには変わりはない。
自分の信念を貫くことに「意地をかける」ときは、誰かの信念を叩き潰したいという意図がある。
僕のようにね。
私はそれは疑問に思うときもある。
信念を貫くには他人の信念に理解がありすぎて、そう、優しすぎるのが欠点なのだ。
そんな私には誰かを叩き壊してまでも、自分の信念を貫くという選択は茨の道となるだろう。
そのリスクを考えてみないと、この選択はできない。
 
二つ目の選択はこれも僕の言うとおりに「本当」の意味で、(本質ではなく世俗的な意味で)
人を愛する人間になることだ。
これはぼろぼろの人生をやり直すことができる可能性があり、暴力と詭弁を言うやつらが説教たれるとおりに改心することでもあるだろう。
しかし、余談だが、僕は戦えと言ったり、愛せと言ったり、矛盾だらけだっての。
その二つは違う選択肢だろうが?
この選択を選ぶことによって、私はこの世界で救われるだろう。
盲目で善良な市民となれるだろう。
人を愛し、愛されるだろう。
信念を持つ人間は尊敬はされても(世俗的な意味での)幸せとは縁遠いのだ。
だからすべてを忘れて、馬鹿には関わらず、人生をやり直す私は、
きっと素敵な相手と結婚をし、もしかしたら子供も持て、嫁姑とかの悩みはあっても、生きるか死ぬかの悩みもなく、
休日には趣味のスポーツをし、海で泳ぎ、楽しい日々を過ごせることだろう。
愛すべき価値のない人たちのことはすべて忘れて。
 
 
さて、これはどちらが賢い?
 
 
 

ルソーと演出が下手なストリッパーに関する考察。てかただの暇つぶし。

 
※ルソー = 『ジャン・ジャック・ルソー フランスの作家、思想家』 
 
 
昔、ルソーの「懺悔録」「対話」「夢想」の三作品を読んで誰かが言ったそうだ。
「これはキチガイが書いたものだ」
 
ふぅん?
私はそうは思わなかった。
ただ、こう思った。
 
「こいつ露出狂に違いない・・」  ※余談・実際ルソーはホントに露出狂だった
 
作家というのはストリッパーだとよく思う。
自分の思想や考え、訴えたいことを、ヴェールに包んでミステリアスに描く。
いかに、読者の興味をひきつけられるか?
その隠された秘境の陰部を見たい、知りたい、と願わせられるか?
村上春樹が飽きられないのは、彼が決して、読者に見せないからだ。
読者は想像を掻き立てられて、悶々とする。
見たい、知りたい、きっとそこには何かがあるはずだ。私の知らない何かが、と思う。
(実は大したものはありゃしないのに・・・)
演出が巧い。
 
ルソーは演出が下手だ。
あからさまにああ全部見せてしまっては、読者はうんざりする。
しかし私はけっこうルソーが好きだった。
あからさま、大歓迎!
(きっと根がすけべぇなのだろう)
 
今の私はルソーに似ている。
でも、ひとつだけ違うのは、公開していないことだ。
あほか、誰が真剣にものを考えたこともないやつらに、人の思想を教えてたまるかっての。
全裸を見せてたまるかっての。
見世物じゃねぇ。
ヴェールで悶々とし、与えられたヒントで気づけ。
 
 
ちなみに作家と評論家の違いは、評論家はストリッパーではなく、そうだな、相撲の力士ってとこかな、とよく思う。
あいつらは常に全裸(一応陰部は隠しているけどね)で勝負しているんだ。
そこには妖しいストリッパーの魅力は何ひとつない。
ルソーが評論(あれは啓蒙書?)を書いていたとき、彼は真剣に相撲をとっていた。
しかし、私は相撲を辞めたあとの作家となったルソーが好きだ。
たとえ、孤独な散歩をする露出狂であっても・・
 
☆☆☆☆
 
そうだ、今気づいた。
だからロダンのやったことは陵辱だったのだ!
あいつは相撲取りのように自分の思想も明かさずに、作家からのヒントで気づく頭もなく、悔しくて、暴力で人を犯しやがった!
勝手に自分が想像した裸を曝して見せたのだ!
あったま来た。
めちゃくちゃ頭来た。
立ち直らせよう、気づかせようという厚意を受け入れて自分の思想を磨くどころか、
人の厚意を利用して、人を陵辱しやがった。
それを告発したらまた暴力で返しやがった。
絶対許さない。
それはルール違反だ。
お前だけは許さねぇ。
 
 
 
 

愛の定義と猫がひとりで傷をなめることについての考察。てかこれもただの愚 痴。

 
眠い眠い・・
 
寝ても寝ても眠い・・・
 
こんなこといつかもあったな。
 
そうだ、あれはあそこを辞めたときだ。
 
愛とか正義とか善意とかいう詭弁を使って、こっちを極悪人にしたどっかの馬鹿が、
 
「欝」だの「被害妄想」だの「頭がおかしい」だの中傷と侮辱で私を叩きのめしたときだ。
 
善人づらして同じ事をするロダンのほうがたちが悪いが、人間はみんな同じ残虐な生き物ということだ。
 
とにかくアホどもはどうでもいい。
 
今はすべてを放棄してでもいい。自分を守ることが先決。
 
呪縛は解けた。あとは体力の回復を待つだけだ。ひたすら裡にこもろう。
 
傷ついた猫が隠れてひとりで傷をなめるように。
 
元気になるまでじっとしていよう。
 
とにかく今は自分を責めるな。
 
本当は誰かを責めることは相手を責めることじゃない。自分を責めることだ。
 
しかし、誰かを責めて傷が癒えるならそれでもいい。
 
これは過程だ。今は食べて寝る。
 
ああ、こんなぼろぼろになることの繰り返し。
 
なぜぼろぼろになるか?
 
愛しても価値のない人をも必死に愛し続けるからだ。
 
ぶっちゃけ人間はみな愛する価値のない人達なのに、それでも深く愛するからだ。
 
人は愛されている人には傲慢になる。愛されていると知ると甘えが出てくる。
 
愛すれば愛するほど愛されなくなる。
 
いや、返してくれる愛は果てしなく大義名分的な世間一般で認知される「愛」とは質が違ってくる。
 
それは人間が根本的に人を愛することがいかに難しい動物であるかを教えてくれる。
 
そんな人間の本質を剥き出しにしたやつらこそが、大義名分の愛と一般的に認知される「愛」という名目を使って牙をむく。
 
「お前は人を愛せないのだ」と。
 
あほか。
 
私が愛されないのは本質的に人を愛している証拠だ。
 
牙をむくなら、人を愛せない人間の本質を責めろ。
 
ただひとつ本当に人を愛し愛される方法があるとしたなら、言い方は悪いが偽善的に、大義名分的に、人を愛することだろう。
 
そうすればそのお返しも大義名分的にやってくる。
 
つまり愛の定義の問題だな。
 
愛とは本当に愛することではなく、適当に愛することなんだ。
 
それを愛だと決めてしまえば、確かに私は愛せない人間であり、大義名分的に責められても仕方ない人間なんだ。
 
しかしな、責める相手が問題だ。
 
お前は本質的に人を愛する人間だろう!
 
だからお前にだけは責められたくないんだよ。
 
だからお前の言うことは詭弁なんだ。
 
愛の定義を自分の本質と変えて、盲目で善良な市民(それもお前かも・・)に叩き込むなよ。
 
あほか。
 
あーすっきりした。
 
また寝て傷をなめる。
 
 
 
 

2006年11月2日

果てなく実力を凌駕するこのろくでもない世界についての考察。てか、ただの愚 痴。

 
もうゴキブリは入れない。
思う存分書こう。
これでもアクセスがあったらメッセンジャーに苦情を言おう、今度こそ。
 
まず、ご飯を食べて、お風呂に入ったら、少し人間らしい気分になった。
何がそんなに打ちのめされたのか考えてみる。
 
そうだ。僕の言うとおりの現実に打ちひしがれたのだ。
努力してもしても、報われない世界。科学の世界。
私より努力してない人たちがのさばる職場。
人脈や派閥や愛人関係や世渡りの巧さや、そんな裏の権力が本物の実力を凌駕する世界。
人の何十倍働いても、努力しても、使い捨ての駒ように軽く扱う人たち。
実力で負ければ、悪意を持って、軽蔑をあらわにする同僚。
また、本物を書いても書いても、偽者がのさばるブログ。
頭に来るのはそれが偽者ではなく本物だとあのアホらが思っていることだ。
勉強になっただろう、だと? だからあんたはダメなんだ、だと?
それは言葉の暴力だ。愛なんかじゃないし、論理も心も存在しない。
それは屁理屈と揚げ足取りだ。
理論なんかじゃないし、ただの侮辱罪だ。
家事と仕事の合間に寝る間を惜しんで、懸命に本物を書いても、「そんなやつら」がのさばるのだ。
そんなやつらが、教えてやって「いいことをした」と思っていることだ。
その侮辱を本物の正しい正義だと思っていることだ。
また、愛すれば愛するほど、「もっと愛せ」と強要される世界。
まるで私が人を愛さない欠陥人間だからこそ愛されないかのように。
誰が私ほど人を愛してるのか、そいつの名前を言ってみろ!
自分をぼろぼろにしてまで誰かを愛したか言ってみろ!
私より人を愛さない人に、同じ言葉を言ってみろ!
言いやすいから私にだけ言うんだろうが!
死んだ少年が「からかいやすかった」と言ってたあのイジメ教師と同じだっての!
いい加減気づけよ!その理不尽な残虐さに!
どこがダメだか言ってみろ!
あんたはね、真似されたと思ってるんだよ。
「俺が言ったたこと取られた」って言ってたな以前。
あほか、誰でも同じこと考えるっての。
同じ本読んで、同じ時代に生きて、なんでまったく違うことばかり考える人間がいるかっての。
「お前こそ宮澤賢治のぱくりじゃないか」って笑われるぞ、笑
 
君は僕らに奪うことのできないものを武器にして戦ってる、って言ってくれたよね、僕。
その武器を軽く見たのがあんたらとこの世界だよ。
そして、その武器が負けたんだよ。
敵わないと証明されたんだ。
努力が科学だからさ。
 
ああ、こんなにへこむことってあるかな。
 
まるで、私の中からカミサマが消えていくみたいだ。
堕ちていく。
 
いっそ堕ちていこうか。
そう思いながら、なぜあんなやつらとこの社会に私の人生を狂わされなきゃいけないんだ?
って。悔しくて悔しくてたまらない。
 
『哀しいことがあるたびに、私の中のきれいなものが失われていく』
 
きっと立ち上がってやる。
今は負けても、偽者が勝ち続ける世界のわけがない。
もしかしたらこの世界で生きているうちは負けっぱなしなのかもしれない。
それでも、努力は必ず報われるんだ。
笑いたいやつは勝手に笑え!
 
(これ私の処女小説で使った台詞なんだけど、かぶってスマンね、
あそうか、あんたが見たのかな??えっ???ありうる????!!!えっ??!今気づいてびっくり!!
そういゃぁこの間久々に書きなおし前の原本を見たよな??驚愕!!
いやぁ・・まってあれは原本だからホント勘弁して、アセッ どうせならなぜかフロッピーが見つからない完成版を見てくれ!!
 
ああ^^^^「僕が僕じゃなくてもかまわない」ってのもそれかぁ・・・驚愕。そこまで見るかゴキブリ???
 
いや、まさかな・・気のせい気のせい・・・・)
 
しかしなぁ。まぁ、そういうヤモリはどうでもいいんだ。
ずいぶん昔から付きまとわれているから、なんとなくもう自分の一部みたいな感じもするしな。
(たしか2004年の頭くらい?それとも2003年だったかしら。。それより前じゃないよね?)
 
 
『神の喪失』
 
問題はそこだ。
まず努力し続けられる体力をつけないと。
体弱すぎる。
そうして元気になったらたくさん書こう。
 
ああ、少し気が軽くなってきた。
人間そう簡単に変わるものじゃないから、私が馬鹿であり続ける限り、私の神も簡単には消えやしないはずだ。
元気になるまでもう少し待っててくださいね。
 
そうして体力をつけたら、まずはあの馬鹿ロダンを殺す!
今度こそみね打ちにしないで、叩ききってやる。
はぁ~ 私が優しすぎたのだ。
自殺するタマでもないくせに、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬと。うぜぇ。
ほんとに死にたいやつが、なんで自殺がダメなのか、その理論を考えたことがないわけないじゃないか、ボケ!
抑止の理論を考えずに生き続けていられるわけがないんだ。
そんなやつの「死にたい」や「自殺肯定」はファッションかポーズだ。
 
 
あーすっきりした。
いいたいこと言ったらすっきりしたぁ。
 
誰も見てないと思うと、夢だの何だの、ぼやかさなくていいから楽だなぁ。
もしかしたら僕が見るかもしれないが、まぁ僕は分身みたいなヤモリだからどうでもいいや。
ヤモリのうちは可愛い。
ゴキブリになるとたちが悪い。
ゴキブリの姿で現れたら通報する。
 
寝るぞ~