2006年12月23日

Merry X’mas

 
 
 
今日は23日土曜日―
 
今年のクリスマスイベントは今日がピークかな?
 
皆さま、楽しいクリスマスをお過ごしくださいね☆
 
 
今年は私、思い返すと、とてもいろいろなことがありました。
 
綺麗なものと、汚いものを、すべて見た一年でした。
 
(汚いものは主に身内の○○○だったりもしますが)
 
 
でも、こんなに充実していて、いいことも嫌なことも、楽しいこともつらいことも、
 
すべてが自分の糧となった、または未来の礎となった、そう感じられた一年はありませんでした。
 
 
皆さまも、元気で充実した一年を過ごされていることを、心よりお祈りしております。
 
人生は生きるに値しない、悲惨な場所です。
 
その中で、いかに笑って、いかに楽しいときを過ごせるか、そこにこそ、人間の器量を問われます。
 
さぁ、すべての馬鹿はほうっておいて、あなたは楽しく過ごしましょう。
 
そうして、来年も頑張りましょうね。
 
 
 
では、Merry X’mas and Happy New Year !
 
よいお年を―
 
 
 

2006年12月21日

ヒデの恋 ~誰かに宛てた自分への手紙~

 
 
 
あいのりというTV番組に、「ヒデ」という青年がいた。
 
私はこのあいのりという恋愛観察バラエティが大好きで、良く見てしまう。
といっても中毒になるほどでもない。
気になるカップルがいるときは続けて見るが、恋の結末を知ってしまうと、またしばらく見なくなったりする。
そんな気まぐれなファンだ。
 
 
ヒデの時もそうだった。
ヒデ自体はまったく恋愛もせず、ただ人の恋を励ましたり、見守ったりするばかりだったから、全然面白くもなかった。
だいいち、ヒデはものすごい人見知りで、初めての参加のときなどメンバーの顔さえもまともに見れない、挙動不審で、なりきり中田(ヒデ)で、突飛な服を着て、メルヘンな詩を書くことが趣味で、メンバーの誰からもまともに相手にされず、とっても「変なヤツ」だったのだ。
なんだ、こいつは。変な素人が出てるなぁ~
くらいの気持ちで見ていたと思う。
 
 
ところが、1年か2年ぶりくらいだったか、久々にあいのりを見て、びっくりした。
妙にサッカーの中田に良く似たカッコいい青年がいるなぁ、と思ったら、なんとそれが「ヒデ」だった。
おまけにその別人の「ヒデ」はふたりの女性に思われていて、そのふたりの女性から奪い合いさえされていた。
 
モテモテじゃん・・・
 
人間が1年か2年のあいだにここまで変わるものだろうか。
美青年で、お洒落で、物腰は柔らかく、忍耐強く、思いやりがあり、メンバーの誰からも信頼され、そう、見た目も性格もまったく変わってしまったヒデを目の当たりにして、私はうろたえたものだ。
この海外の、14カ国のあいのりの旅を通して、彼が成長したのは明らかだった。
 
 
あいのりはよく、やらせだ、と言われるが、やらせがなんだろう?
あのヒデの成長ぶりを目の当たりにしたら、私はどうでも良くなってしまう。
やらせ万歳! 
いいじゃないか、どんどんやったれ。
てか、ホントにやらせだろうか?
前提までもを疑ってしまう。
それほどに、ヒデは変わっていたのだった。
 
 
そうして、私がまたあいのりにはまり始めたころ、ヒデは恋をした。
以前の一方的な、見つめるだけの恋とは違う。
どこかかみ合わない、すれ違うだけの恋とは違う。
勝手に思われ、奪い合いされるだけの恋とは違う。
ヒデは恋をした。
真剣に想えば想うほど、気持ちを伝えれば伝えるほど、思うように行かない恋に、自分に、ヒデは戸惑い、深く苦しむ。
 
『もうだめだ』
 
そう思ったとき、彼はふと自分が書いたメルヘンの詩を見た。
恋に苦しむメンバーをとんちんかんに励ました詩。
別の誰かを勇気付けようと書いた詩。
傷ついた誰かを優しく見守る詩。
 
繰り返し過去のヒデはこう告げていた。
 
 
『君は君のままでいいんだよ。
傷ついたっていいじゃないか。
僕がついているよ。
さぁ、大好きなあなた、とっても素敵なあなた、勇気を出して、恋をしようよ』
 
 
 
ヒデはその他者に投げかけていた言葉自体が、未来の自己に投げかけていた言葉だと知る。
そうして、自らの詩に励まされて、彼はすべてをふり切った。
ラブワゴンへ行き、日本行きのチケットを手に入れる。
想う人と、決して一緒に帰れない、と知りながら。
 
 
 
 

2006年12月19日

アキタさんの憂鬱 ~孤独と結婚する脚本家~

 
 
 
前部署の上司のアキタさんは今よりちょっとばかり若い頃、TVの仕事をしていて、ちょっとばかり名を鳴らした人だった。カンノミホをあと20くらい年食わせたらこんな感じって顔立ち、すらりと伸びた足が自慢で、いつもミニスカートばかりはいている。
でも、アキタさんは独身なのだ。
いくらでも相手がいただろうに、それだけの美人なら。
私は彼女の顔に見とれながら聞いてみる。
 
『なんで独身なんですか?』
 
実際はそう露骨には聞けないので、確か「彼氏と出かけないんですか~」とか何とか、休日の話かなにかのときにさらりと言ったと思う。
アキタさんはこう答えた。
 
『去年別れちゃったのよ~長年付き合ってたから・・ ちょっと私ぼろぼろなの』
 
 
私の頭には図式が浮かぶ。
 
『長年一途に彼を思い、共に過ごす → アキタさん結婚適齢期を過ぎる → 破局 → ズダボロ → 次の恋が出来ない』
 
 
とてもわかりやすい、社交的な、ご回答であった。
テレビの仕事をしていた割に、アキタさんは常識人だ。とても普通のいい人だ。でもちょっとつまんない。
その社交的な会話を交わしてから、私は少しがっかりした。
業界のめくるめく華やかさ、強烈な個性を、勝手にアキタさんに押し付けて、ひとり期待していたのだった。
 
 
退屈な私は、アキタさんにこう語らせてみる。
以下想像。
 
 
 
『はぁ・・・』
 
(アキタさん頬杖をつき、ためいき)
 
『私は孤独と結婚したの』
 
(私びっくり)
 
『えっ?!孤独とですか?』 
 
(アキタさん引き続きアンニュイ)
 
『そう、好きだった人が言ったの。僕はずっとひとりで生きる。だからね、私もそうしたの』
 
(私唸る)
 
『なるほど~深いっす! で、どういう意味っすか?』
 
『彼がひとりでいるなら、私もひとりでいようって決めたのよ。だから私は孤独と結婚して、そうしてね、彼と結ばれたの。永遠に』
 
『ははぁ・・・・』
 
『私ね、ちょっと名の知れた脚本家だったのよ』
 
『ええ、わかります!わかります!』 
 
私は喜々と叫んで、彼女の手を握り締めるのだった。
 
 
 
ああ、孤独って・・・
 
(私絶句)
 
 
 
ちなみに実際のアキタさんは広尾に住んでいて、週末には桜水産という居酒屋に通い詰めている酒豪である。
 
 
 
 

2006年12月18日

公務に息子を介入させる本末転倒の某都知事を叩くことの本末転倒を問う

 
 
 
石原都知事が叩かれている。
来春の都知事選出馬を表明したため、共産党やら民主党やら反抗勢力から足を引っ張られ、『税金の無駄遣い』と言うヒジョーにわかりやすい国民レベルの批判的根拠をかかげられ、東京都民及び国民を巻き込んでの吊るし上げを食らっているのだ。
で、もうひとつの批判材料がこれ。
 
『余人をもって変えがたい』
 
自身の四男石原延啓氏をこう形容したこと。
知事の発案で2001年から始められた『トーキョーワンダーサイト事業』、日本の現代美術と若手アーティストの支援を目的としたこの事業に都知事の四男を深く介入させたと言うことで、身内びいきだの、公務の私物化だのと騒がれているのだ。
 
お金の問題なんだかモラルの問題なんだか、話を聞いてるとよくわからない。
(都知事が出演したニュース番組ではその両面から、議論されていたようだが)
しかし、私から見ると、そんなことどうでもいいんでないの? という気がしてならない。
 
 
相変わらず、日本は枝葉の突付き合いばかりをしているようだ。
奥様の社交の場でも、会社の派閥でも、政治の世界でも、日本人は主導権争いにこれを利用するのがまったく好きだ。
いったいどこまで好きなんだ、と疑問に思う。
何を寝ぼけたことを言っているんだと。
私はこのトーキョーワンダーサイト事業にとても好感を持っているのだ。
大体、公募で選ばれた誰もが、贅沢にも都内のレジデンスを三ヶ月も借り切って、悠々自適に創作に没頭し、完成したら展示までできる、そうしてそこから世界規模のクリエーターへの道が開けるチャンスがある、今までそんな芸術(現代美術)支援事業があっただろうか。
選ばれた一部の人を中心に与えられてきた日本のアートは、低レベルに廃れていくばかりで、スターもカリスマも見つけられない。
太い幹を作るためにはそれなりのリスクが必要だろう。
目的を忘れ、いつも枝葉を突付きあうばかりが好きな日本人は、いかに幹を創ることが苦手な人たちばかりが存在しているかが良くよくわかる。
 
 
物事は細部ではなくて、本質を見たらいいのに・・
そうすれば、きっと頑丈な幹を作れるだろうに・・
 
 
いつでも深いため息と共にそう思ってしまう私は、たいてい枝葉の突付き合いが好きな人たちに、圧倒的に多いその集団に、いつでも敵いはしないのだ。
ああ、本末転倒大繁盛―
 
 
しかし思う。
税金の無駄使いは誰が一番しているのだろう?
本当に癒着しているのはいったいどこの誰なんだ?
石原都知事『レベル』をわざわざ吊るし上げてる場合でないんでないの??
国民の皆様、お気に障ったら、失礼。
 
 
 
 
 
トーキョーワンダーサイト 
 
 

2006年12月16日

ベルナールは今朝も10時にあらわれる

 
 
 
ベルナールは毎朝10時にやってくる。
彼は暇なのだ。一言の挨拶もなく、私のオフィスに入り込み、一脚の客用ソファーに深々と腰をかける。
そうして、取ってつけたように『ベニスに死す』を読み始めるのだ。
 
 
『青白く優雅にうちとけない顔は蜂蜜色の髪にとりかこまれ、鼻は額からまっすぐ通り、口元は愛らしく、優しい神々しい真面目さがあって、ギリシア最盛期の彫刻作品を思わせた』
 
 
そのけだるい姿態と凛とした横顔は、トーマス・マンが表現したとおりの美少年ぶりなのであった。
彼はそれを知り尽くしていて、私が思わず見とれてしまうのを腹の中であざ笑う。美少年特有の残虐な一面があるのだ。
とは言っても、彼はとうに二十歳を超えていて、それどころか三十路をも超えていて、このシェアオフィスの管理人でさえあるのだった。
 
 
オヤジじゃん・・・
 
 
こちらこちらでベルナールの年不相応の気障振りをあざ笑っているのだが、どうも頭が上がらない。
見とれるほどに彼が美しいからだけでなく、彼は不届き者の利用者とオフィスのオーナーに告げ口し、私をここから追い出す権利があるのだった。
 
 
 
都心にシェアオフィスを借りようと思ったのは、先月の人事評価の見直しにより、年収が一千万を超えたことからだ。
特に趣味はなし、恋人はいないし、洒落っ気もないので、お金の使い道に困った。ましてや貯金をする悪趣味もなかった。
ホストクラブに通い詰め、若いツバメに投資しようかとも思ったが、私はお酒が飲めないのだ。他人が飲む姿、華々しく叫びながらイッキされても面白くも可笑しくもなんともない。
それに世間の目が気になった。盛りを過ぎた年増の女が若い男に入れ込んだ、などと噂をされては聞こえが悪い。
寝る暇も惜しみ、結婚もせず、やっとのことで手に入れた自身のキャリアに傷がつく。
そこで、私は六本木に約2畳ほどの小さな小さなオフィスを借りた。現職場のフレックスタイム制を利用してサイドビジネスを始めることにした。ここなら企業用の登記も取得できる。設備はOA機器に電話にインターネット回線、会議室も充実していた。これで月5万円なら、失敗してもどうと言うことはない。趣味のビジネスにはぴったりだった。
特にやりたいビジネスもないので、私はオンラインショッピングの店を作った。貴重本やエロ本を安く買い付けては、欲しがるマニアに高く売りつけた。
すべてが巧くいっていた。ベルナールが住みつくまでは。
 
 
きゃつは私が追い出さないのをいいことに、毎日私のオフィスに上がりこむ。
本を読み、退屈そうにあくびをしては、あくせく働く私をあざ笑い、5時になると任務を終えて帰っていくのだ、彼のマイホームに。
ずいぶんあとで隣のオフィスの某起業家に聞いたところ、彼は既婚者で、3児の息子と娘の父親だった。ちなみに子供の名前は『小太郎』と『桃尻子』と『権三郎』。
 
 
オヤジじゃん・・・ しかもベルナールの子供なのにその名前は何だよ・・・
 
 
げんなりする私を尻目に、何が楽しいのか今日もベルナールは私のオフィスに上がりこみ、一言も口を聞かずにただ過ごし、5時になると帰っていく。
こいつの給料は私の賃料からも出ているのだ、と言う事実を思い出すと、時々頭にきて追い出してやろうかと思うのだが、どうも立場が弱い。
騒いだら、モテない年増女が管理人の彼をオフィスに連れ込んで、セクハラしただのナニをしただの、妙な噂を立てられそうだ。そうなると寝る暇惜しんで結婚もせずにやっとのことで手に入れたこの自身のキャリアが・・うんぬん・・・(永遠と続く)
痴漢に間違われないように満員電車の中でびくびくしているオヤジのような心境なのだった。
 
 
 
しかし、私はまだマシだった。
先日、久々に大学時代の友人に会ったら、彼女のマンションには色付きの眼鏡をかけたやくざのような管理人がいて、黒地に白い縦じまの三つ揃いのスーツ姿で毎朝毎晩掃除をしているそうだ。めぞん一刻の管理人さんみたいにえらく熱心だが、どうも箒の使い方が下手で、丸く掃くので、通路の排水溝にはいつでも落ち葉やらタバコの吸殻が残っている。文句を付けたいが恐くて出来ない、と嘆くのだった。ちなみにおっさんの名前は『虎二郎』である。
 
 
私なんかはまだ幸せだったのだ。
最近ベルナールはどんどんずうずうしくなってきて、私が居ぬ間もオフィスに勝手に上がりこんでは私の代わりにエロ本をさばき始めた。『犯される女教師』だの『淫乱三獣士』、『手淫一筋又三郎』だのそんなタイトルの本を私より高値でマニアに売りつけるのだった。にやにやとあざ笑いながら。
 
 
 
働いてんじゃん・・・
 
 
 
 

2006年12月14日

きらきら光る、薄紫の傘をさした私の道

 
 
風は前から吹いていた。
雨が向かってくるから、前傾に傘を持ち、下を見ながら私は歩く。
アスファルトの上の水溜りが、街灯に照らされ輝いていた。
ふいにそれが群青になり真紅になり、薄紫の傘は水色と桃色に変わり、清涼飲料水の最新型自動販売機にしてはやけに明るい。
飲み屋のネオンかと思い、傘を少し持ち上げると、不動産屋の看板だった。
広告の文字が入れ替わり立ち代り、光る。
 
 
『安心』
 
『信頼』
 
『ご相談ください』
 
 
やり過ごし、10メートルほど歩くと、道は橙色に輝きはじめる。
今度こそ、飲み屋の立て看板式の装飾で、オレンジのそれは道の端からこう告げる。
 
 
『飲んで!』
 
『唄って!』
 
『楽しいお店』
 
 
私は可笑しいやら空しいやら、脱力感に満たされて、また風に向き合うのだ。
 
こんな片田舎の場末の店に、安心と、信頼と、相談相手は落ちていて、飲んで、唄う、その楽しさは転がっている。
こんな片田舎の場末の世界に―
 
 しかし、こんな場末の世界にだって、安心と、信頼と、楽しい世界はあるのであって、そんな中、私はひとり、薄紫の傘をさして歩くのだ。
風と向き合い、少し猫背になって、きらきら光るアスファルトをただ見つめ。
 
  
 

ロイヤルホストのコーヒーは苦かった・・・

 
 
 
彼女は私を信じて疑わないのだ。
友人のYさんの話だ。
私には物を書く才能があり、大勢の誰かに何かを伝える使命を持って生まれて来たのだと。
そのくせ彼女は私の書いたものなど、ろくすっぽ読んだことさえないのだった。
 
 
何を根拠にそう思うのだろう? 
突っ込みたく思ったが、某田舎のロイヤルホストでする話でもないような気がした。
 
 
代わりに私は彼女の象徴画を何枚か見た。※
写真に撮ってきてくれたので、来年の個展よりも一足お先に見ることが出来たのである。
それは― 
まったく意味のわからない絵だった―
 
 
『私はねー未来は知らないけど、今は使命なんかで書いているのではなくて、ただ感情の捌け口を求めて書いているだけなんだよぅ~』
 
 
いい子ぶって、そう弁解してやろうとも思ったが、やめた。
彼女の画に鳥肌が立って、嫉妬したのである。
 
 
『そう、私には使命があるの・・・○○さんの言うとおりかもね・・』
 
 
うっとりと演じて見せるのである。
歯軋りと痛みをかみ締めながら。
 
 
 
その夜、私は計7杯のコーヒーを飲んだ。
 
 
 
※作者注・ここは抽象画というべきなんだろうが、あえて象徴画というのがふさわしい、そんな絵でした・・ 
 

時を犯す愛と言う名の銃

 
  
たとえば誰かが醜い嫉妬に囚われたら、彼らが見下している隙を脱ぐって私は走ろう。
軽やかに、千里を翔んで、追いつけぬくらい遠くへ行ってしまうのだ。
  
または誰かが冷ややかならば、彼らが笑い飛ばしている隙を潜って私は歩こう。
亀のように、一歩ずつ、確実に。
 
 いつか彼らは笑いを止める。
 
 彼らが気づき、冷たい汗をかいたなら。
もし―
 
 嘆きと共に過ぎ去った時さえも掴めたならば。
 
  
そのとき私はきっとそうする。
その咽喉もとに、愛と言う名の銃を突きつけて。
破滅するまで犯してやろう。
 
  
 

芸達者な誰かは犯罪と犯行との美を謳う、たとえば愛をして

 
 
 
『犯罪者の弁護人が、犯行の美しい恐ろしさをその行為者に好都合なように転用するほどの芸達者であることは滅多にない』
 
 
かつてニーチェは言った。
ならば私は犯罪者の弁護人になれるだろう。
または、犯罪者の一面を心に抱える誰かの弁護人になれるだろう。
私は私の弁護人にだってなれるはずだ。
 
 
 
ニーチェのこの言葉は犯罪だけとは限らないのではないか。
人の蠢くこの世では、人と人は利益相反を繰り返し、その狭間で戦いながら生きている。
ならばその権利を守るために、借りてきた弁護人によって、自己を演出することは必要だろう。
正当防衛とはあえて言わない。
 
これは、必要不可欠な、必須な、生きる知恵だ。
 
 
そうして利害だけではなく、もし私が私の弁護人に足る人を見つけることができたならば。
たとえそれが幻想であっても、きっと私は愛するだろう。
芸達者な彼は、そこまでして、私を愛している。
だから謳うのだ。
その法廷で。喜びも、哀しみも、痛みも、すべてを剥き出しに。
 
 
 
『犯罪者の弁護人が、彼を愛さずして、その犯行の恐ろしさから行為者の美しさを見つけられることは滅多にない』
 
 
 
 

自己の死と愛

 
 
 
人間関係について深く考えるときがある。
たいてい心が病んでいるときに違いない。
そういう時は思考も冴えるのだ。
 
 
私が何十年か生きていて気づいたこと。
 
 
それは、私が嫉妬されやすい人間だと言うことだった。
 
 
私を愛する人は私を独占できないことに。
私を愛さない人は彼らの領域を奪われてしまうことに。
 
 
私はいつでも誰かにとっての脅威だった。
 
 
私は無能で、無害なふりをして、しかしたいていはそれはそれで、また目立ってしまうのだ。
人より目立たないでいることは、別の意味での存在アピールに他ならなかった。
 
 
自分を責めた。
私が愛する人はみな汚い心になるのだった。
 
堕ちていった―
 
なんでうまくできないんだろうか。
自分がみんなを苦しめるのだろうと確信したが、解決策はなかった。
 
 
(あるとしたら自己の死だ)
 
 
そうして、愛しながら、生きながら、自分を殺すことを覚えたら、だんだんと人間関係が面倒くさくなってきて、やめた。
「その世界」では、適当に付き合うことにした。
 
 
そうしたら私が泣き出した。
もっと愛したい、と渇望するのだ。
 
 
いつでも。それは続き、自己をもてあまし、それは、人間関係よりも、面倒くさい。
 
 
 

私がジョン・レノンを愛する理由

 
 
 
良く自分が世界から断絶されているような気がして――
でもそれは自分自身が世界を拒否し、自ら断絶させているのだけれど、そんなふうに思って傷つくときがある。
そんなとき、多くの場合、私を切り離された世界へ連れ戻してくれるのは、漫画だったり、小説だったり、映画だったり、音楽だったり、友達だったり、愛しい恋人だったりする。
断絶した世界とは全く異質の異次元のそれらが、私とすべてを結びつける唯一の鍵となり、その尊いきっかけとなってくれるのだ。
 
 
私はひとり部屋にいて、本を読む。
私はひとりウォークマンで、TheBeatlesを聴いた。
私はひとり映画館へ行き、映画を見た。
私はひとり友人から受けた優しさを反芻する。
私はひとり恋人に話しかける。
 
 
思春期の話ではない。
それは現在も続いているのだった。
 
 
彼らを通して、私は拒否した世界とかろうじて関わりを保ち、そうして思う。
どこにも帰属しない私を、世界に連れ戻してくれる彼らが、私の帰属する相手だと。
このろくでもない世界に対して、決定的に優しくなれるとしたら、一体感をもてるとしたら、それは偶然出逢った彼らが、より素晴らしいのだ。
私の芸術や人間への評価は、いつでもそんなところにある。
 
 
『より多く、あたしと、世界を、繋いでいるか』
 
 
そうして、素晴らしい彼らは必ず存在している。
たとえ一生をかけても、私程度の人間が知りきれず味わいつくせないくらい必ず存在しているから、私は糸を紡ぐように、優しく、神妙に、それらを選ぶのだ。
感謝の念に満たされながら。
 
 
しかし、ときどき、この奇妙な世界との繋がりが、破壊されてしまうときがある。
そんなとき私は傷ついて、断絶されていると思ったときよりもっともっと傷ついて、(なぜならもう私を繋ぎとめるものなど何もないからだ!)
もうひとりでもいられない。
 
 
私の見知らぬろくでもない世界のろくでもない何かと、断絶されたまま、愛し合うのだ。
根が楽観的な私にとって、それは一日と持たない。
短い浮気と知りながら。
 
 
 
 

2006年12月10日

黒猫に名前をつける

 
 
 
人形やぬいぐるみに自分の想いを投影させる癖がある。
良くあるだろう。悪い例では丑三つ時にわら人形に五寸釘を打ち付ける、古来からあるそんな伝統、まぁそれに近い。
満たされない愛や想いや、嫌がらせを受けた人への憎しみを、何かに投影させて解消する。そっと、人知れず、こっそりと。すると、意外と根に持たない。円満に付き合えたりするのだった。
 
 
 
最近では、母に強烈な憎しみを感じたとき、これをやった。
私の極めて一般的で、誰が聞いても正論と思われるとある理論を聞いた母が、彼女にはそれが理解できなかったのだろう、私を見たのだ。同情を寄せた目で。じっと見つめた。ずいぶん長い時に感じられる秒間。
 
彼女は確かに私を憐れんでいた。
 
 
その刹那、私は母に殺意を感じた。
同情と言うものは、不思議だ。
深い愛の証であると同時に、どんな武器より強暴な凶器となる。
向けられた相手によっては、それは何より激しく破壊され得る物なのだ。
 
 
 
母は6人兄弟の下から2番目(しかも末っ子は男だった)として生まれた。
体も小さく、学校の成績も良くはなかった。幼いころから、兄弟達の知恵や力にはいつでも及ぶことはなかっただろう。
成長し、若くして結婚し、そうしてあの父の妻となって、彼女は覚えた。暴力の痛みと、忍耐強い愛を。
同時に愛に含まれる他者への憐れみ、厚い同情の心をも。
力もなく、知性も兄弟や父や世間に及ばぬ母には、愛だけしか武器がなかった。
 
 
私が憎しみを感じた瞬間、母は確かに私を愛していた。
 
 
私は母の愛を憎んだ。
その憐れみに打ちひしがれた。
だから大好きだった熊のぬいぐるみに母の名前を書いて、その脳天をはさみで刺した。
真夜中にひとり。何度も、何度も、刺し続けた。
 
 
その1週間後に母は倒れた。
くも膜下出血、脳の病気だった。
 
 
 
それ以来、私はやめたのだ。
憎しみを何かに投影することは。
それより、直接本人にぶつけることにした。
たとえ関係が悪化しても、そのほうが健全だと思うようになった。
 
 
しかし、愛への渇望は、やめない。
いまだに癒し系ぬいぐるみのお世話になっている。
こっちの場合はいい。
もともと愛への渇望が私自身の心的問題であり、対象が存在しないものなので、そのほうが健全だと思えるのだった。
 
 
 
日曜の今日、いい天気だったので母と散歩に出かけた。
母はずいぶん長い距離を歩けるようになった。
隣町まで行き、以前の母が大好きだった雑貨屋に入る。
ゴブラン織りやレースの生地で作った小物や手提げ、ハンカチなど、年配の女性が好みそうな可愛らしい雑貨。
母はちりめんで作られた猫の小さなぬいぐるみを熱心に選ぶ。
孫達に買ってあげようとしているのだ。
白い猫と黒い猫の二匹を買って、大事そうに抱えて帰ってきた。
私はだめもとで言ってみる。
 
「それ欲しいなぁ」
 
テレビを見ていた母は振り向いて私を見つめ、
「欲しいの?いいよ」
 
すぐに返事をして、孫のために買ったそのちりめんの黒猫を私にくれた。
白猫は孫の姉妹たちがケンカしないよう、姉にあげることになった。
 
 
 
私は黒猫に名前をつける。
そうしてつついたり、顎をくすぐったりして、可愛がるのだ。
なぜか涙が止まらなかった。
 
 
 
 
下、ちりめんの黒猫。私に可愛がられてご満悦。
 
 

すき間産業のダイアモンド ~某アパレルメーカーの業界への挑戦状・・かも~

 
 
 
洋服をクリーニングに出すことはめったにない。
コート以外の普段着は、この「出さない」ことを前提に選ばれている。
一回洗濯機に入れるとシワシワになったり、縮んだり、毛羽立ったり、色落ちしてしまうものは買わない。
私の中で、それはデザインよりも重視されているのである。
 
しかし上記の基準で例外がある。
シワシワになっても逆にそのシワがカッコよく見えるシャツ。これは好きだ。
またはシワになっても、縮んでも、毛羽立っても、色落ちしても、逆にそれがファッションとして成立する素材とデザイン。これは許せる。
そのために素材を選ぶ。物を選ぶ。
いかに安くて、素材が善くて、自分に似合うか、そんなことを考慮して服を買うのだ。
(ファッション誌を見てから買ったことは一度もない)
 
 
そんな私が最近良く思うこと。
 
『なんで同じメーカーのブランドばかりなんだろう・・』
 
 
どこかのデパートやショッピングモールに行き、とあるブランドのショップに入ってみたとする。
素材が書かれた札を見る。たいてい一番下に社名があるのだが、書かれてあるのはたいていこれらのアパレルメーカーの名前。
『オンワード樫山』、『ワールド』、『三陽商会』、『イトキン』、『東京スタイル』、『レナウン』、『ルック』、『ファイブフォックス』etc・・・
新手の新興宗教か、と思うくらい隅々まで広まっている。
逆に老舗であり、その証拠なのだろう。
しかし、自分の基準に合う中で少しでも目新しいものを求めて小洒落たショップに足を踏み入れ、最先端の服の札にこの見飽きた社名を見つけると、本当にげっそりする。
流行までもが仕組まれたレールのような気がしてくるのだ。(いや、もちろんそうなのだろうが)
私はマクドナルドのビックマックのような洋服は着たくない。
それはハンバーガーではない。
ビッグマックと言う名の大量生産されたお菓子の一種でしかないのだ。
 
 
 
ふと社会経験を思いだす。
転職を繰り返した私が入る会社で、私に与えられた仕事はことごとく『すき間産業』的なものだった。
中途採用の社員でなくても、派遣でもいいだろう。もしあなたが女性ならば、きっと一度くらいは経験があるはずだ。
新しくどこかの職場に配属される。するとそこには古参の社員や派遣たちがわんさかといて、あなたに与えられる仕事は彼女らが放棄した仕事、つまりコピーやお茶くみやファイリングが主になる。部署の中で重要とされる仕事は、先輩たちがネットワークを張り、がっちり握って、守って、あなたの手には渡らない。新人に脅威を感じている彼女らに取り入って、巧く仲間に入れれば、おこぼれくらいはもらえるだろうが。
ごく若いうちに経験を身につけてから転職し、前任者の代わりの「経験者」として雇われるならば話は別だ。
またはそんなすき間産業的仕事をしながら熱心に人間関係をこなし、経験を積んで行く器量があれば別だ。
しかし、ただ待っているだけでは、私たちにキャリアを身につけたり磨いたりするチャンスなど永遠に訪れるわけもなく、すき間産業的仕事を気楽にのんびりこなしながら趣味やアフターファイブに生きがいを見つけるしかなくなるだろう。
 
 
 
アパレルの世界ももしかしたらそうかもしれない。
婦人服の流通の中心となるデパートや流行のスポットは大手ががっちり食い込んでいる。
新興企業と名の知れぬ小さなアパレルメーカーはすき間産業的な舞台でのんびりやるしかない。オンラインショッピングのおかげでかなりこの舞台は大きくなったと思うのだが、それでも業界の全体からしたらその功績は軽視されているように思う。大手にはまだまだ絶対的に及ばない、知名度も、品格も、海外ブランドの代理権を買い取ったり、イメージアップを図る力など、彼らにはないだろう。
 
 
 
そんなアパレル業界にげっそりしていた私が最近おやっと思うブランドがある。
 
『axes femme』
 
はじめに買ったのはただ可愛かったからだ。
いかにも10代、20代をターゲットにしたデザインに価格設定。
(その割に大手アパレルメーカーの同様のデザインと価格設定の安売りブランドよりは強烈に個性的だったが)
正直どうでもよかった。遠くまで買いに行く元気も色気もなく、家の近所(しかもスーパー)で買ってしまった。
そんな自分が少し恥ずかしかった。もちろん商品にはなんの期待もなかった。
しかし、洗濯して、その意識は変わった。
ここの服、アイロンがまったく要らない、まったくシワにならない。形崩れも色落ちもない。
おまけにめちゃくちゃ安い。
 
「これはもしかしてとんでもない拾い物なのかも?」 
 
と思い始めた。
好んで良く着るようになり、コーディネートの幅も増えてきた。
とにかく安いから何枚買っても、通常のブランドのニット1枚分くらいの価格にしかならないのだ。
何よりいいのは、服を着て会社に行くとたいてい誉められる。
「いつも可愛い服を着ているね」と言われるのだ。
そうして、同じ服を着ている人に出くわしたことがない。
当たり前だ。すき間産業的なブランドなのだから。
 
 
老舗にはない風合いと質の良さ。
独特のデザイン。
 
 
私は思う。
こういうところにもしかしたらいるのかもしれない。
本当に好きで、いいものを創りたくて、感性の新しい人たちが。
ありえない、そんな人たちは必死に勉強して競争して大手に就職するはずだと思いながらも、夢を見る。
これは奇跡だ。
すき間産業に埋もれた天才だ。
ダイヤの原石に違いない。
 
 
 
 
しかし、ここのホームページ見て、笑っちゃった。
亀有とか武蔵○○とかとんでもないところにばっか出店するなーと。
 
下、大好きな服のコレクションを撮ってみました。
ちなみにブランドコンセプトは『ラグジュアリー』&『ノスタルジック』。おいおい、ラグジュアリーって・・・大ウケしながら着てます。
 
ロングコート¥12,300
長袖タートル¥2,800
キャミソール¥1,900
 
 
2006/12/06

『ハッピー・マニア』 ~庵野夫人の「幸せはどっちだ?!」~

 
 
 
安野モヨコの『ハッピーマニア』が好きだ。
 
安野さんとは漫画家であり、アニメの巨匠のあの庵野さんの奥様であるらしい。
(それを知ったときはビックらこいた。。。いや~ホント??接点はいったいどこにあるんだろう???)
主人公シゲタは幸せを求めてただひたすらさすらう(男性遍歴を重ねて行く)のだが、ことごとく訪れるのは不幸のみ。
それでも、持ち前の勢いと思い込みの激しさで、悲劇を喜劇に変えていく。
 
あ、この場合の喜劇は周りから見たら、の話ね。
 
シゲタが雄たけびを上げて大泣きしていても、失恋の切なさに身も心も引きちぎれそうになっても、友人のフクちゃんやマリは「またか、、」と冷めた目で眺めるだけ、まるで同情もしないし、読者に至ってはつい失笑・・・いや、つい可笑しくなってくすくす笑ってしまう。
しかしシゲタは真剣そのもの、今日も勢い任せに幸せ求めて突っ走り、雄たけびを上げて泣くのである。
あんた懲りないなぁ・・・と思いつつも、いつしか応援してしまう。
そんな「笑えるシゲタ」が大好きだ。
 
 
で、この漫画、恋愛の描き方がやけにリアルだ。
フラれるシゲタは置いておいても、(あんなたくましく可愛らしくはとても生きれましぇ~ん、笑)「あるある」的な、女ならではの、思わず納得の要素が満載なのである。
シゲタを不幸にする数々の男性(みな一様に魅力的だが性格に問題あり)は、いかにもって感じだし、また、そんな中でシゲタを一途に思い続けるダサい「タカハシ」。
裏切られても、コケにされても彼女を誠実に思い続ける彼は、ただシゲタになめきられているだけ。
 
(読者は思う、タカハシとくっつけば、今すぐハッピーになれるのに!ばかね!)
  
好かれていると確信している相手に対して、女と言うものは残虐だ。
そのくせ相手が自分から去っていくことを絶対許さない。
 
安野さんは庵野さんの奥様になる前にいったいどのような恋愛をされていたのだろう。
男性&恋愛観察の鋭さには思わず舌を巻くばかりだ。
 
 
そんな忠犬ハチ公のようなタカハシが(ひょんな事故から)他の女の子と結婚することになって初めて、シゲタは自分の気持ちに気付く。
タカハシがいつでもそこにいてくれたからこそ、のほほんと幸せを捜し求めていられたのだと。
 
彼女は言う。『好き・・』
 
ついにタカハシの愛を受け入れ、自らそう告白したシゲタは、いや~、、、、初めて笑えませんでした。
本物の愛らしい女の子に見えてしまう。
その半面、一抹の悔しさがあるのだ。
 
負けた。。
 
なぜかそんなふうに思う。
別に愛は勝ち負けでもなんでもないのだが、ただ大好きなシゲタの笑えるキャラが崩壊した、タカハシの一途な愛によって。
その事実がなんとなく読者としては面白くないのだった。
 
 
タカハシはシゲタの告白を聞いて涙を流す。
そうして彼女の元を去っていくのだ。
 
 
 
 
2006/12/05

心の壁、愛の橋 ~誰のために生きますか?~

 
 
※ジョン・レノン John Lennon (1940~1980) The Beatlesのギタリスト兼ヴォーカル
 
 
ジョン・レノンが好きだ。
 
なぜかは知らない。歌が巧いとも思わない。ただ街角でジョンの歌声が聞こえてくると、いつもはっとさせられる。
 
心を揺さぶられるあの声が大好きだ。
 
 
ジョンは一時期、荒れた時期があったようだ。 
 
ヨーコが去り、歌も作らず、ヨーコによく似た東洋の女性と飲み歩いた。 
 
ジョンが「帰ってきてくれ!」と懇願すると、彼女は冷たく言い放った。「まだよ」
 
裸一貫になったジョンは、一人ロサンジェルスへ行き、アルバムを作る。
 
『心の壁、愛の橋』
 
 
とまぁ、大した話ではないのだが、このエピソードを聞いてから、ビートルズからジョンを奪ったヨーコがちょっとだけ好きになった。
 
あれだけ「バカップル」のようにくっついていた彼らが、愛する人と離れてでも、成し遂げたかったものって?
 
別離より大切なものってなんだったんだろう。
 
なんて想像すると、ふとヨーコに感謝したくなる。
 
ミュージシャンとしてのジョンを奪わないでくれて、どうもありがとう、と。
 
 
愛と言うのは不思議だ。
 
 
他人の何かのために、自分を捨てることだってできる。
 
自分にとっての何かを、相手にとっての何かのために、犠牲にすることだって出来る。
 
誰かのために生きることこそが、それこそが至福の喜びになりえるだろう。
 
それは依存でも弱さでも自己満足でもない。
 
あなたがもしそう思うなら、試しに明日から誰かのため「だけ」に生きてみるといい。
 
とても出来やしないだろう。
 
自分のために生きるより、より多くの強さがないと、それは成し得ないだろう。
 
 
私はいつも自分のためだけに追われてしまう。
 
志すことしか出来ない。でも志すことは出来る。
 
 
 
『誰がために生きるのか』
 
 
 
もし私が成し得たならば、そのあかつきには、人のためは巡りめぐって、私のためになるだろう。
 
それは一対だ。
 
片方だけではありえない。
 
ジョンが死ぬ瞬間まで、ヨーコと共に暮らしたように。
 
 
 
情けは人のためならず。
 
ってね・・・笑
 
 
 
 

2006年12月2日

あなたはまだ失っていませんか? ~踏み絵『東京ゴッドファーザーズ』を見て~

 
 
 
移動前の部署の上司は女だった。
彼女は毎朝スターバックスコーヒーと共に現れる。
洒落たブランドの服に、ぐるぐる巻きの長いストール、顎をうずめ、テイクアウトのコーヒーをすすりながらけだるそうに出社するのだ。
 
「おはよう~」
 
その声を聞くたびに、私は5年程前に流行った『アリーマイラブ』と言う海外ドラマを思い出す。※
弁護士のアリーが仕事と恋愛に悩みながらも、前向きに生きていく姿を描いたドタバタリアルヒューマンドラマ(時々妄想あり)で、確か人気のあまりファイブシーズンくらいまで創られていたように思うあのドラマだ。
どうも現代の女性はああいうキャリアを磨いて生きる姿に憧れを抱いてしまうようだ。そうして結婚もせずに頑張って恋愛は後まわし、たまに素敵な異性と巡り合えば振り回されたりふられたりと、さっぱりうまくいかずに仕事以上に七転八倒してしまう。
アリーマイラブはキャリアへの憧れと恋愛に対する等身大の女性の姿を描き出して、働く女性のバイブルになった。
ちなみに働く男性はどうだろう。
私の会社のエリート街道まっしぐらのとある上司は、これが謎に包まれたプライベートの顔がまったく見えないカタブツ仕事人間なのだが、彼は毎朝ペットボトルに入った黄色の見るからに奇妙な飲料を持参している。情報通のある同僚から聞いた話によると、それはプロテイン入りの健康飲料だそうで、彼はタバコもお酒も一切やらず、休日はジム通いをしているそうだ。
ふふん、なるほど、これが男のキャリアへの憧れのバイブル像か・・・などと感心してしまう。
 
 
もしあなたが、そんなスターバックスや健康飲料を愛する人であるならば、この映画をラストまで見ることは、『苦痛』でさえあるだろう。
 
 
 
『東京ゴッドファーザーズ』
 
 
自称元競輪選手のギンちゃん、自称ドラッグクィーン(おかま)のハナ、家出少女のミユキ、浮浪者の三人がクリスマスの夜に捨て子の赤ちゃんを拾い、その出来事を通して、人生の目的と希望を取り戻していくという奇跡の物語である。
 
 
 
あいにく私はスターバックスも健康飲料も嫌いだ。
しかし、正直に言うとこの世界に入り込むにはかなりの努力を要した。
ましてやあなたがスターバックスや健康飲料が好きならなおさらだろう。
 
この映画は踏み絵であるかもしれないとさえ思う。
 
 
 
『あなたはまだ感動できますか?』
 
 
 
絵がとても素晴らしい。
しかし絵だけにではなく、この映画のすべてに心を揺さぶられるならば、あなたは若く瑞々しい感性をまだ失ってはいない。
夢みる心も、希望も、失ってはいない。
そうして、もしこの世界観に感動できないとしても、それはあなたたち見る側だけの問題ではないだろう。
この監督はかなりのシャイであるか、またはスターバックスや健康飲料を好む人たちと彼らを代表する社会を意識しすぎているように思えてならない。
または、これ。
奇跡を笑い飛ばす冷めた人たちを。
 
 
本当に創り手が訴えたいテーマはとても力強く、愛に満ちたものであるのに、その世界を冷めた視点から裁く『お洒落なリアル』が、台詞やエピソードとして漫才の突っ込のように随所で挿入され、それが「くどい」のだ。
映画の趣旨である世界観にどっぷり浸りかけたかと思うと、すぐに現実に引き戻される。
夢とリアルのあいだを行ったり来たりせざるを得ない。
そのボーダーこそがこの映画のリアルな夢の世界観となっており、それはまったく成功しているのだが、しかし私には歯がゆく思えてならない。
 
 
どちらも中途半端だ。
夢を見させておいて、これは夢だよ、と何度も言われているようだ。
監督が訴えたい思想の本当の世界観に、とことんまで、もっとどっぷり浸りたかった。
 
 
 
照れる必要などない。
誰かに笑われてもいいだろう。
冷めた世界など逆に笑い飛ばしてやれ!
あなたのその世界で突き抜けてしまえ。
 
 
 
安全地帯から創った作品だな、というのが私の正直な感想だ。
これくらいでないと、多数の共感は得られないのかもしれない。
アニメと言う夢の表現方法でさえも、リアルは私たちを縛るのだ。
 
 
 
しかし、過信してはいけない。
そこから何をどう伝え取るかは踏み絵を踏んだ私達次第だろう。
 
 
 
 
※作者注・『アリーマイラブ』のアリーは毎朝カフェのコーヒーをすすりながら弁護士事務所に登場する、そのシーンがとても多い。