2007年1月31日

『愛の奇跡を否定する要望』 ~チャーリーズエンジェルはマハトマ・ガンディ ーを007に出来るのか?~

 
 
たとえばもし、愛する人と、お互い気遣いのない穏やかな関係を切実に望むのならば、答えは簡単だ。
自分と一番近い人と愛し合えばいい。
感じ方や考え方の近い人、それを左右する環境、つまりお互いが接するお互いの世界が同一の相手を選べばいい。
この傾向が昔からあるからなのか、それとも私の持論が単純に正論なのか、日本では職場(結婚or恋愛)とか、学生(結婚or学校やバイト先の相手との恋愛)とか、傍にいる人と付き合ったり結婚するパターンがどうも多いようだ。
しかし、時々困ったタイプの人がいて、そこでは相手を見つけれなかったり、またはそこで見つけた相手に満足できなかったりするわけだ。
彼(彼女)はたまたま寺の跡取りだったりする。
彼女(彼)はたまたま国際的なスパイ(それが大げさなら産業スパイ)だったりする。
そうして、寺には絶対向かない詐欺師や泥棒の女を好きになったりする。
官僚や警官のカタブツ男を好きになったりする。
攻撃性を孕む、恋というゲームのスリルで、相手を求めてしまうのだ。
もちろんそう簡単に巧くはいかない。
間逆のふたりがたとえ惹かれあったとしても、真っ逆さまに恋に落ちてたとしても、絶えず言い争いばかりしているのだ。
こんなふうに―
 
『てめぇ、さっさと犯罪から足を洗って坊主の嫁になりやがれ!愛が足りないぞ!』
『あんた、さっさとお国の仕事なんか捨てて私と逃避行でもしちゃいなさいよ、意気地なしね!』
 
不毛な、愛に纏わる、その争いは耐えないのだ。
『朱に交われば赤くなる』と言うことわざを全うして、どちらかが出家(するほど)の覚悟をしたり犯罪者に身を持ち崩したりするまでは。
 
穏やかな関係は遠い。
 
 

女は子供を生む機械でも心のないダッ○ワイフでもない

 
 
誰かに犯される女は女自身に罪がある。
男を誘うような要因と隙があるのがいけない。
そんな台詞を偉そうに語る御仁がいるとする。
アホか、と思う。「女は子供を生む機械だ」と同じくらいの阿呆度だ。
その台詞が成立するには一定の条件があるだろう。
 
初めて就職した会社で健康診断を求められた。
指定の病院もあったが遠かったので、近所の診療所へ行くことにした。どうせ診断費は会社持ちだ。近いほうがいい。
忘れもしない、その医院は父が営業上でお世話になっている医院長がいた。
「○○先生に頼んでおいたからね」
父が笑顔で言う。安心して行って来い、と言う意味だと認識した。土曜日に向かった。
50代か60代くらいの脂ぎった顔の医師がにこにこ笑う。病室には看護婦もいず、ふたりきりだった。
医者はなおざりに腹だの胸だの音を聴いたあと、訊いた。「身長はいくつですか?」
答えると今度は体重。それから胸囲。さすがにそれはわからない。
「では、計りましょう」
耳を疑った。相変わらず医師は、ある意味人の良さそうな、と言えなくもない笑みを顔に張り付かせていた。
「今ですか?大体ならわかりますが」
「正確じゃないとダメでしょう」
そういうものなのか。何しろ相手は、父の知り合いであり、偉い「お医者さん」なのだ。私は医師の指示するとおりに下着をはずした。
その瞬間の、私の胸を見たときのあの医師の顔は一生忘れない。
まるで漫画のフキダシで「ウホッ」とでも書かれそうな、鼻の下を一気に延ばした、「医師」とはほど遠い顔であった。
私は不快だった。
その時は若く、恋愛とは無縁の学生生活を送っていたので、異性の性質も知らなかった。性愛の意味も良く知らなかった。意味はわからないが、楽しそうに裸体の胸囲を計る医師が不愉快だった。
なんで身長と体重は量らないんだろう。自己申告でカルテに書いただけだった。なんで胸だけ念入りに測るんだろう。
そんなふうに考えていた。
私は動転してお金も払わず、ふらふらと帰って来てしまった。帰り道、そのことにはっと気付いて、お金を払い忘れた旨を病院へ電話したら、「では、払いに来てください」と言う。父の知り合いだが、やはり当然お金は取るのだった。なぜか「胸を見たのに・・」と言う思いがこだました。
後日、私はそのことを父に話した。
「あの先生、体重も身長も測らないし、診断全部が全然なおざりだったのに、胸だけ脱いでくださいって言ってしっかり測ったよ、おかしくない?」
黙っていようと思ったのに、口にしたら涙が出て、感情が高ぶった。
訴えかける私は、父に慰めや怒りを期待していたのだろう。「大丈夫だったか?」「俺の娘に何をする・・・」というような・・
ところが父は、なにも、答えなかった。
なにも、返事を、しなかったのだ。
聞こえなかったような顔をして、ずっと前を見つめていた。
(ふたりで車の中にいて、たまたま車を止めたときに話していたのだった)
私は何かの勘違いかと思って暫く父の横顔を見ていた。なにか言葉を返してくれないかと待っていたが、父が口を開くことはなかった。
耳に入っていないふりを、能面のような表情を、ずっと崩さなかった。
 
今だから、ずいぶん経った今だから、ああ、と思うのだ。可笑しみと共に。
私は『おぼこ』だった。
きっとあれは、父と医師とのあいだで、暗黙の了解さえも、あったのかもしれないと。
仕事を回してくれる恩のある医師と、若い娘を持つ父。診断料はただではなかった。ありえない話ではない。
でなかったら、なぜ父は、あの時、聞こえないふりをしたのだろう。
あれは「それくらいわかってくれよ、お父さんだって仕事もらわなきゃお前を食わせられないんだ、つらいんだよ」と言う意味だったのかも知れぬ・・
そう、今思うと、胸を見られただけで済んで、私は幸運だったのかもしれないのだ!―
 
私が純朴な娘などではなく、父を信じていなかったら、医師を信じていなかったら、男と言うもの一切を疑う癖が身についていたならば、当然「なんで服を脱がなきゃいけなんですかっ?」くらいの台詞は言えただろう。
自分の身は自分で守れていたことだろう。
痴漢にあう女子高生だって、常連者は知らないが、みんな始めは無垢で無防備だったのだ。
そうして、動転し、その暴力にも近い犯罪行為に心から傷ついたに違いない。
 
レイプだってそうだろう。そんな悲痛な経験をした人達は、自分の身を守るのは自分だけだと知る。
痴漢にあわないように、ミニスカートをはかなくなったり、タイツやジャージやショートパンツを下着の上に厳重に重ねたりする。女友達とつるむ。女性専用車両に乗る。暗い夜道は決して一人では歩かないように気をつける。
無防備に信じても、いつでも女を性の餌食にして、その信頼を裏切るのは男なのだ。
愛する人(と出逢った時)のために、女は自ら自分を守ることを覚えていく。
しかし、もしもそれを覚えずに、いい年をしても犯されたり襲われたりする女がいたとしたら、それは女自身のせいだ。
冒頭の意見に、アホか、と言う突込みが出来なくなることは間違いない。確かにお前も悪いだろう、と。
彼女はごく若い無防備な時期に何も学べなかったか、または逆に無防備なものを犯したり襲ったりする立場だったに違いない。
 
 
余談だが、この健康診断の経験をしてから、私は付き合った男性と初めて寝るときに、この「ウホッ」と言う顔を見つけると、たとえ死ぬほど愛している相手であろうが一瞬で冷める、嫌悪感を抱くようになった。
好きで付き合っているのだから、だから別れると言うわけでもないのだが、一度、あまりにも露骨にこの顔を浮かべた相手がいて、不快のあまり私は行為もせずに(ホテルからひとりで)帰宅してしまったことがある。確か車で入ったのに、2時間くらいかけて歩いて帰ったと思う。
その彼氏に私が殴られたのは言うまでもない。
それでも、あの顔の男とは寝たくなかった。
 
 
 

2007年1月28日

『今日の出来事』 または 『今日感じた事』

 
 
『鍵』
 
家を出ようと施錠をしたらまたしても鍵が抜けない。これで何度目だろう。ドアから突起しているシリンダー部分を回すと巧く抜けるので、今日もくるくる回していたら、シリンダー自体が取れた。ドアには鍵穴がぽっかり開いている。青くなった。はめて回すと元通りになった。しかし、施錠した後また回したらかちりと開錠してしまう。「鍵の救急車」のおじさんが言うには、シリンダーの取り付けミスですね。昨年入居してからずっと、この家の鍵は意味をなさないシロモノだった。壊れていたのだ。鍵をかけたつもりでいても、誰でも何時でも入り込める状態だった。まるで住居人に良く似ている。
 
 
『教祖様』
 
家族と言うものも一種の宗教のようだ。金のなる木を期待した父と言う教祖にとって、私はだめな信者だった。就職してもしがない給料しか稼げず、家に寄生する私にうんざりした頃、父は家を買った。私の住む部屋のない、小さなマンションだった。私はあのとき破門され、捨てられたのだと今日気がついた。
 
 
『嫉妬』
 
もてる男が好きだ。彼に何人の彼女がいようと、何百人の女と寝ていようと、私は嫉妬しない。たとえうすうすわかっていても。いや、確信していても。しかし、私の目の前で、故意に別の女といちゃついたり、故意に別の女と寝てる場面を見せられたならば、私は鬼になる。「浮気(あるいは本気)」されることよりも、「故意」に傷つけらることが赦せないのだ。嫉妬する。
 
 
『クリネックス』
 
昔「本は友達」と言うキャッチコピーの本屋があったが、私のキャッチコピーは「ティッシュペーパーは友達」だ。男ならば卑猥な意味に取るのだろうが、関係ない。長い夜に、私を慰め、涙をふき取り、ただ癒してくれたのは、クリネックスだ。私は良くこの愛しい箱を抱えて蒲団にこもった。泣き疲れ、眠りに堕ちるまで。
 
 
 

2007年1月27日

『チボー家の人々の希望』 ~この不毛なシステムを叩き壊すのはいったい誰 だ?~

 
 
当時夢中になって読んだ小説の、その内容をすっかり忘れてしまうことがある。
『チボー家の人々』もそうだった。
あんなに胸をときめかせて全13巻を一気に読んだというのに、今は主人公の名前さえ覚えていない。
しかし、結末は―
 
 
会社の同僚がまた一人辞める。
上座が好きなA子ちゃんだ。
彼女は今よりもっと条件のいい企業にヘッドハンティングされ、旅立っていく。
給湯室の前で彼女は言った。頬を高潮させて、少し声高に。
「要するに私はトラブルシューターなのね」
「トラブルシューター?」
横文字に弱い私はゴミを吸い取るあの、しかしちょっぴり近代的な掃除機を思い浮かべる。
「そうよ。トラブルを起こしそうなね、いかにもややこしい仕事を押し付けれるの。そうしてこっちがやり玉に上がっている間にみんなは平和に過ごすわけ。当て馬だよ。冗談じゃないよね」
なるほど、しかし、当て馬にされるほどややこしい仕事を押し付けられるならば、それだけの器と業務をこなせる実力とやらを見込まれているのだろう。
私の慰めは、彼女の怒りに油を注いだだけだった。
「誰かや何かの盾にされるのはいや。出来る人に出来る仕事を任せないのもいや。ただの当て馬にされて、こんな人を大切にしない会社はいや」
なるほど、彼女の言うことはもっともだとも思う。
だけど、会社に勤めるということはイコールシステムの歯車のひとつになるということで、多かれ少なかれ誰でも当て馬にされるのではないだろうか。
私だって、今の会社でよく「悪意」の当て馬にされるのだ。
自分に向けられた悪意を他に逸らすために、嫌われ者の役を押し付けられたりする。いや、違うな、叩くのだ。私を叩いて、他に迎合する。悪意の連帯感を結んだりする。
そうして、仕事中に給湯室の前で立ち話をして、私に延々と愚痴を言い続ける彼のA子ちゃんだって、多かれ少なかれ私のことをこの「悪意の当て馬」にしていたのだった。(私が気付いていないとでも思っていたのだろうか・・)
私はちょっぴり哀しくなる。彼女が辞めていくのはとても寂しかった。その理由さえも、なんだか淋しかった。
たとえ自分は他人を利用しても、他人が自分を利用することは決して赦さない。
人間と言うのは不思議だ。
このA子ちゃんは私の所属する課で一番若かった。上昇志向も強かった。本当に実力があったから言える言葉だ、だから、まぁ、多少の哀しさは赦せる。
しかし、彼女が辞めたあと、うちの課は40代近い派遣さんと社員、いや、うちの課だけじゃない、周りを見回せば、20代がほとんどいない。
若者はいったいどこにいる?
いつも夜中まで残業しているのは、30代から50代の『大人(じじばば)』だけであった。
 
若者はいったいどこにいる?
 
ランチでよく行くカレー屋さん、大学生くらいの若い女の子が汗を光らせお皿を運んでいた。
休日のショッピングモール、高校生かフリーターか、そんな男女が楽しそうにパンやら洋服やらを売っている。
ふと店先の張り紙を見ると、「アルバイト募集・時給850円より」と書いてあった。
 
システムの歯車のひとつになることを拒んだ彼らは、まるで学生時代のサークル活動の延長のような仕事を選ぶ。仲間を選ぶ。
そこにはシステムからの恩恵は何一つ存在しないというのに。
 
私は時々こんなふうにも思うのだ。
日々ニュースを見て、「これは日本の誤算だった」と。
国民に娯楽を与え、テレビや恋愛やゲームや映画やファッション、そんなもので目眩ましをし、システムの危機が訪れれば、当て馬のニュースで関心を逸らし、そうして日本は一部のエリートだけが中枢を支配し続け、あとは「すべてが盲目に」と育てられてきたけれど―
そこからゾンビのように這い上がった若者達は、システムを拒否し、自分達の道を貫いていく。
強かに、逞しく。
もしも、この先、誰もが就職しなくなり、まともに、責任を持って、働こうななどと思わなくなったら?
いや、サークル活動のような仕事をし、わずかなお給料で満足し、全体よりも自分と仲間との生き方に固執したら?
システムを継続しなくなったら?
 
そうして、システムを守り続ける日本は崩壊していくのだ。
30代、40代のニートが70代80代の母親の年金で暮らし、またはその母親を叩き殺し、かと思えば親を子を刺し殺し、兄は妹を、妻は夫を。最低限のことさえ学べなくなった盲目の人々が、その社会のツケが、日本を不毛の地に変えていくのだ。
 
 
ならば私も賛成だ。
いっそ壊してしまえばいい。
そうして、滅びる前に叩き壊すのはいったい誰だ?
システムを拒否したゾンビはどこだ?
 
私は彼らに希望を託す。
まるでチボー家の人々のように。
新しい、新種の生命に創造を託すのだ。
再生する力などもう残ってもいやしないこの終焉の世界を、いっそあなたが壊してしまえと。
 
 
 

2007年1月25日

『霞ヶ関のマノン・レスコー』

 
 
魚を下ろす変わりにカップラーメンをすする半月の今宵、帰宅途中の虎ノ門交差点で、女が叫んでいた。
「サイアクよっ!」
何がどういうわけでどのように最悪なのか、多分女はこと細かに連れに説明していたとは思うのだが、私は疲れ切っていた。いや、たとえ疲れていなくても、まったく興味がないせいだろう、台詞が頭を通り過ぎる。
通りすがりに確認した限りでは黒っぽいコートを着た、小太りの、老けた女だったように思う。
それより今夜は何を食べようか。漠然と想像する。お腹が鳴った。
「仕事はダメだしッ! 男は逃げるしッ!」
背後ではまだ女が呪縛霊のように騒いでいた。
「男は逃げるしッ!」
二回繰り返した。
「逃げてねぇじゃねーかよ!」
ふと足が止まりかかる。
女の叫びにおっかぶせるように男の憐れな叫びが響く。
「逃げてねぇじゃねーかよ! 逃げてねぇじゃねーかよ!」
三回繰り返した。
思わず振り向いてしまった。
 
この時点で、『ただの女のヒステリー』というありがちで無関心にならざるを得ないただの出来事から、『ほのかな男女の色恋沙汰』という興味津々の物語へと姿かたちを変えている。
見ると、小太りの女の連れは背の高い、これまた体格のいい男だった。今どきというくらい前髪を七三にわけて、なのに不潔そうにやや長い。女とお揃いのように黒のロングコートを着ていた。年は30代後半から40代初頭くらいか。
女のほうは肩までの髪の前髪だけを後ろにひっつめ、おでこを全開にし、やはり気のせいではなく小太りだった。いったいなぜこんなところにいるのか、という純朴そうな、しかしイカレた雰囲気、○浦あたりにいそうなタイプだ。
 
霞ヶ関の夜は早い。車のほかの歩行者は私だけだった。男と女の外見を確認した時点で私の興味は空腹へと戻りつつあった。しかし振り向く視線に男は気付いて、慌てて向きを変えるのだ。挙動不審にうろうろし始めた。
女はうっとりと男を見つめ、―なぜならどう考えてもそれは、恋愛向けの台詞だったから― ええ、私なら小躍りして喜んで、仕事やら何やらの『最悪』もすっ飛ぶだろうと思われたのだが、そうではなかった。
 
女は挑むように、ただ男を見つめていた。
 
私は前に向き直ってそっとため息をつく。
いつだって女は、『あなたしか見えない』。
周囲を見渡すのも、役割を忘れないのも、男のほうが一枚上手だ。
私は空腹を忘れ、考え始める。
そういや、そもそも男は狩猟する人たちだったんだっけなぁ、そか、そか、だから視野が広い、あんなにいつでもすぐさま獲物や危険を察知できるようにひたすら辺りを見回して・・・偉いこっちゃな・・・うんぬん。
 
その割には、太古の昔から決まっている。
ラブロマンスで、恋で破滅するのは男の役目なのだ。
 
 

スタンドバイミーと魚を三まいに下ろす夢を見る。

 
  
なんだか無性に、瑞々しくて、清々しい、思い出のひとこまでも書きたくなった。
甘酸っぱい、青春時代のひとこま、でもいいだろう。
同じことだ。
まぁ、出来るならば、欲を出せば、『スタンドバイミー』のような感じが好ましい。
高望みして記憶の引き出しを捜してみたが、瑞々しさとは無縁の人生なのか、さっぱり思い浮かばない。
便意を我慢するときのような、または苦虫を噛み潰したような、そんな顔で気分転換のお風呂に入って、ふと思う。
 
『そうだ、来年は結婚しよう』
 
決定的な閃きだった。
(が、この場合、スタンドバイミーとはまったく関係がない)
  
そうだ。
良く考えれば、来年は運勢がいいのだ。
細木和子が言っていた。
ジャガー横田だって、子供を生んだし。
まだまだ希望はあるかも知れぬ。
  
そこまで一気に思い込むと今度は、ウェディングドレスがいいか、文金高島田がいいか、などとおのれの晴れ姿をうっとり想像する。
新居は絶対○○に構えて、夕方には成城石井に買い物へ行こう。
そうして、犬を飼う。何がいいか?
いや、その前に料理を勉強しなければ。
 
想像がどんどん膨らむ。
思わず、にやにやする。
はじめから何の根拠も具体性もない夢想なだけに、心浮き立つ純粋な楽しい想像である。
明日あたり、本屋で魚の下ろしかたが書かれた料理本を熱心に眺める私がいるかも知れぬ。
どちらにしても、料理を学ぶのはいいことだ。
 
 
 

2007年1月23日

『コーヒー&シガレット』 ~キャリア層は程遠い・・私の愛する場末のカフェ ~

 
 
最近、寄り道が好きになった。
どうせ急いで帰っても待つ人がいるわけでもない。
ふらふらと立ち寄る先は―
 
  
登場人物が煙草を吸ってばかりいる小説を読んだ。
大概のシーンで煙草をすぱすぱと燻らすのである、しつこいほどに。
読んでいると胸が悪くなるようだった。
そうして、主人公の『僕』はバイクで20キロあまりをかっ飛ばして、コーヒーショップへと行く。
ただ一杯のコーヒーを飲むために。
煙草を吸いながら、泥水のような苦いコーヒーを飲んで、なのに、それがしびれるくらいカッコいい。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
 
 
思い出したのがこの映画。
 
『COFFEE AND CIGARETTES』
 
最初から最期まで、登場人物が煙草を吸ってコーヒーを飲んでいる。
「カフェ」と紹介するライターもいるようだが、この舞台はどう見ても日本人が認知する「カフェ」ではない。
場末の「コーヒーショップ」という感じ。いや、「レストラン」や「喫茶店」か?「お洒落なホテルのロビー」なる場所も出てくることは出てくるのだが、しかし全編にわたって不健康さが満載の廃れた場所という雰囲気である。
そんな昔風の「カフェ」で、登場人物たちがただニコチンを吸って、カフェインを取る。
それだけだ。
途中、指先に力が入らなくなる。(あまりに胸が悪くなりすぎて・・)
「絶対禁煙しよう・・」
くらくらしながら、そう心に誓う。
ずいぶんと良く出来た「禁煙用ビデオ」だ、と思ったりもする。
しかし、ラストに至る頃には、その考えも消えうせる。
 
こんな人生もありだよな・・・・
 
などと、その味わい深さに納得してしまうのだ。
こんな人生も満更悪くはない。
あんなふうにはなりたくない、でもあんなふうに老いていくのもいい、煙草はやめたほうがいいだろう、だが絶対死ぬまで煙草を吸い続けてやる、などと心に誓ったりもするのである。
煙草を吸わない人には一生理解できない、矛盾した気持なのかもしれない。
そうして、そんな愛しい煙草にはやっぱりあの苦い、泥水のような、不健康そうなコーヒーが一緒でないと。
仕事が終わった後は特に美味しい。
苦ければ苦いほど旨い。
 
 
今日も私は「カフェ」に寄って帰る。
 
 
 
2007/01/21

スタメンを見て思うこと ~「華麗なる一族」を見逃した代わりにそのまんま東を応援しよう!の巻~

 
 
 
恒例スタメンを見てのんびりしていたら、ふと現時刻が10時半をまわっていることに気がついた。
しまった・・・
『華麗なる一族』の第2回目を見逃してしまった。
いったい何をしていたのか、としばし歯軋りをする。
歯軋りしても過ぎた時間は戻らないので、仕方ない、来週こそはこんなバカはしまい、と自らを戒める。
 
 
今週のスタメンのトップニュースは、『そのまんま東宮崎知事選当確!』だった。
耳を疑う。
私は「これは絶対ギャグだ」と信じ込んでいたのである。
しかし、背水の陣のそのまんま東は本気だった。
本気と見せかけたギャグでも、一発逆転のネタでもない。
まさしく、彼の今までの人生と、これからの人生を、この宮崎選に賭けていたのだった。
用意周到な綿密なるマニフェストを掲げ、自慢の足で宮崎中を走り回り、芸能関係絡みの派手はパフォーマンスは一切拒否。
はじめは各方面からの圧力、誹謗中傷もあったらしい。
「マラソンにたとえれば、中盤くらいから自分らしい走りが出来ました」
当確という吉報を聞いても、にこりとも笑わず、そうのたまうそのまんま東の顔はただ険しい。
そうして、「これから自分を応援し、支持してくれた宮崎の人たちの想いにこたえなくてはいけない」
責任と重圧をどしりと受け止めていた。
 
 
私はこのニュースに疎かった。
今回、選挙に当たるそのまんま東の顔をはじめて見たのだ。
反省しました。
一瞬でも、ギャグか一発逆転のネタか、などと皮肉的に考え、嘲笑したことを。
それくらい本気の顔でした。
 
 
人間の生き様というものは顔に表れる。
言葉巧みに嘘を重ねても、虚勢を張っても、本気だと自分に信じ込ませても、何をしていても、顔だけは嘘がつけないのだ。
そんなわけはない、と言う人がもしいたら、夜中にこっそり自分の顔を鏡で見てみるといい。
私の顔は『そのまんま東』に絶対負けている。
後がない、何があっても、待ち受けているものがたとえ地獄であろうと先に向かうしかない、貫くしかない、そんな本気に憑かれた人間の顔には、哀愁だけではなく、死相さえも浮かびあがっているのだ。
 
おお、恐ろしや、そのまんま東・・・
(無事を祈ります!)
 
  
 

『小説・星影のステラ(続編)』~あるいは『失われた時を求めて私編』~

 
  
起きたら、ベルナールが戻ってきていた。
今にも雨が降り出しそうな、曇った朝だった。
 
ベルナールとは先日出て行った私の愛的な幻想である。
私の気持ちを察して、先手を打って出て行った彼は、またしても先手を打って出戻ってきたのだった。
そうして、一言も口を聞かず、どっかりとマッサージチェアーに腰をかけ、本を読み始める。
『失われた時を求めて』
であった。
 
どうやら『ベニスに死す』に飽きたらしい。
 
(続く)

2007年1月20日

『小説・星影のステラ』 ~または『ファイトクラブ私編』~

 
 
 
起きたら、ベルナールが消えていた。
雪の降る朝だった。
 
 
ベルナールとは私のサイドビジネスの拠点であるシェアオフィスの管理人で、小太郎と桃尻子と権三郎という名の3児の子を持つオヤジ、いや、美青年である。
暇をもてあました彼は、さらに暇になると言うのに、前後の見境なしに突然管理人をやめてしまった。
そうして相変わらずの年不相応ぶりを遺憾なく発揮し、家出青年のように私の部屋に転がり込んできたのだった。
 
「奥さんと小太郎たちが心配してるよ・・」
「あんたの居場所はここじゃないよ」
 
諭すようにやさしく訴えても、きゃつは聞く耳を持たない。返事もしない。
耳と口に障害があるのではないか、と疑い始めた。
まぁ、いい。どうせ害は無い。
根負けした私は、彼を部屋に置くことにした。
 
 
ベルナールの一日はこんなふうに始まる。
まず私が出社してから随分経った頃起き出して、私がボーナスの大枚はたいて買ったマッサージチェアーにどっかりと腰をかける。
働きもしないくせに、働くもののご褒美として天から与えられたその権利の象徴に深々と腰をすえ、本を読むのだ。
何の本かは知らぬ。一度ちらりと見たが小説ではなく、小難しい理学か法律か、何かの専門書のようだった。(私が帰ると必ず『ベニスに死す』に変えてしまうのだ)
読書に飽きるとぐーぐー寝てしまう。
睡眠に飽きると私が買い込んだ食材を勝手に使って、豪勢な食事をする。
私の分を残しておいてくれたことは一切ない。
私は『星影のステラ』という物語を思い出し、もしきゃつが最後の卵を使い切ったら、その時こそは追い出してやろう、と心に決める。
睡眠と食事に飽きるとゲームを始める。
私の買ったばかりのマンションに存在するすべてのものに、あらゆる仕掛けをほどこす。
そうっと。
たとえば本棚の本のなかに、自分がチョイスした本を紛れ込ませたり。簡単には気づかぬよう、私がその前後にある本を買った年代の版をわざわざ古本屋で見つけて来るという手の込みよう。
レコードも、洋服も、小物置物、すべて同様だった。
帰宅後、または休日に、私がそれらを見つけて、まるではじめから自分のものだったように読んで、聴いて、体感して、そうして人知れず自分の世界を広げていく、それが楽しいようなのだった。決して彼のおかげではなく、自ら―
彼のゲームに気づかず、また仕事が忙しく、時間と心の余裕がなくなって、この遊びをないがしろにすると、とても怒る。
そうして、2、3日帰宅せず、小太郎と桃尻子と権三郎のもとへといって、一緒に妻に可愛がられてくるのだった。
 
 
あほか・・・ 初めからそっちにいろよ。
 
そう毒づきながら、私は彼を追い出せない。
彼がいる風景が好きだった。
いや、慣れたのだ。
いることに馴染んだその部屋は、いないと味気なく、寂しく、また彼の魔法で生まれ変わった本やCDや一切は、宝石のように輝き始めていた。
私は彼に詫びを言い、ここにいてくれるよう、必死で頼み込むのだった。
 
しかし―
私はこんなふうにも思う。
切実に。
 
ひとりになりたい―
 
私にはプライベートがまったくなかった。
会社でも家でもお金や愛や快楽や、何かと引き換えに、必ず、煩わしさが纏わりついた。
ベルナールもそうだった。
最近どんどんずうずうしくなった彼は、私のリビングだけではなく、ベッドルームにもバスルームにもトイレにまでも着いてくるのだった。特に何をするわけでもなく、ただ「いる」のだ。退屈凌ぎのように、眺めながら。
私は病んできた。
うんちをする姿や自慰行為を見られるのが特に辛かった。
そうして、気づくと、家にいるときは押入れで過ごすことが多くなった。
真っ暗な、ひとりきりの空間を、切実に求めはじめたのだ。
リビングを覗けば、そこにはマッサージチェアーに深々と腰をかけ、ワインで口をしめらせて、プラズマテレビで映画鑑賞なんぞを楽しみながら、にやにやと笑っている『きゃつ』の姿があった。
―醜い。
ふとそう思った。
 
 
たとえば彼が、トーマス・マンが形容したとおりの絶世の美男子であろうと、私に輝ける世界を示してくれる神であろうと、しかし私が自ら押入れに閉じこもるはめになるならば、それは、いったい何の価値があるだろう?
 
 
私はベルナールを追い出そうと心に決める。
そうだ、夜が明けて、明日の朝には。旧友にでも手助けしてもらって― いや、生ぬるい、警察に来てもらって―
そうだ、明日こそは―
 
 
 
目醒めると、ベルナールが消えていた。
カンの鋭いきゃつは、私の気持ちを察して、先手を打って出て行ったのだ。
きっと、小太郎たちのもとへと戻ったのだろう。
 
私の本箱には彼の残した本がある。彼のレコードや服や小物が。写真がある。
彼が紛れ込ませた数々の輝ける品々。
 
それは私が買ったのだ。
かつて私が、手にしていたのに忘れたもの。
手にしたのに、日々に追われ、読みそこねて、それさえも気付かずに、放っておいたものたちだった。
ベルナールという幻想を失った今、もう、それらが再び輝くことは決してない。
窓の外では、雪が雨に変わっていた。
 
 
 
 

『Draw The Line』 ~限界ぎりぎり~

 
 
 
長い間、音楽についての想いを書いたり、話したりすることが嫌いだった。
それは私にとっては、理屈ではなく、理論ではなく、ただ救いだった。
唯一、私であることを保てた、私の存在理由でもあった。
私はメールフレンドや音楽の本を読んで、理論や商売としての媒体として、私の音楽が穢されるのを憎んだ。
 
いつの頃だったか、私は耳が悪くなった。
ウォークマンの聞きすぎだった、と気付いたのは、あまりに耳が痛くて、ウォークマンで音楽を聴けなくなってからずいぶん経ってからだ。
今日私は古びた家庭用のラジカセを少しマシにしたようなシロモノで、大好きな音楽たちを聞く。
彼らは決定的に違う。
他の、本や画や漫画や映画や友人、恋人、私のたくさんの私が私であることを赦し、受け入れてくれる、私の大事なものたちとは。
特別なのだ。
そう、スペシャルな恋人、というところ。
 
 
たとえばお酒を飲む人は内臓(肝臓)を早くやられるだろう。
目を使う人は目がやられる。
私はそれが耳だった。
ずいぶん若い頃から、私は耳をやられ、気付いた。
人間の体の機能には限りがある。
それは大事な資源のように、限界があったのだと。
 
 
耳からしばらく遅れて、最近私は目がやられてきた。
長年の読書が祟ったのだ。
少し酷使するとすぐに眼精疲労になり、視力はますます落ち、本を一冊読むのも一苦労となった。
 
そうして昨日またひとつ。
心がやられた。
 
 
『DRAW THE LINE』
 
 
これからも私は少しずつ失いながら、きっと君より先にたくさんを失いながら、無様に生きつづける。
 
 
 
 
 
 

2007年1月15日

ドメスティック・バイオレンスで何が変わる?

 
 
 
日曜恒例、大好きな『スタメン』を見る。
今日のニュースはセレブ夫婦のバラバラ殺人事件と特定のブログを炎上に追い込む匿名君達について。
またしても私の大好きな爆笑問題の太田さんが説得力ある意見を述べていて、ふんふん、と感心しながら聞いているのだが、私にはこのふたつが同じ問題に思えてしまう。
 
 
『ドメスティック・バイオレンス』
 
 
暴力は体の痛みだけではない。
夫の暴力も誹謗中傷も同じことだ。
私はDVについてはかなり詳しい。専門家だ。正確に言うとその痛みについて。
幼い頃から友達だと言ってもいいだろう。
痛みを与えた相手をずいぶん憎んだ。
長年の時と共に、私はその痛みを与えるものが特定の人間(対象)ではないことに気がついた。
そうして痛みを与える根源すべてを赦すすべを覚えた。
そうしなければ生きていけない。
対象を殺しても何も解決しない。
特定の相手を殺すほど、自らが追い詰められない為の最低限のすべも覚えた。
(その直前に逃げるのだ)
 
 
ただ、忘れてはならないのは、問題は心や体の痛みではない。
痛みを与える他人や物事、根源そのものも何の関係もない。
一番のDVによる問題点は、その受けた痛みが、傷ついた本人のその後の生き方や人格に大きく影響を及ぼす、という点である。
 
 
たとえば悪気なくしたことでも、たまたま相手によってそれがDVに繋がれば、DVを受けた行動は二度と出来なくなる。
たとえ出来ても、恐怖感はぬぐえない。
行動に苦痛が伴う。
恐怖感と苦痛が更なる新しい痛みを生み出す。
相手を刺激してしまう。
過剰に防御すれば、それが元でまたDVを受けることになる。
 
 
そうしてDVを与えてくる対象がもし同一ならば、対象は傷により行動が出来なくなった私を責めるだろう。
人格が未熟だとか、包容力がないとか、だめな人間だとか。
自分がそういう人間にしたことなど、まったく忘れてしまうのだ。
(いや、気付かないのだ)
 
 
 
私はDVを受けて苦しんでいるすべての人たちに言いたい。
あなたが出来ないのは、あなたのせいではない。
あなたの性格の問題でも、あなたの人格の問題でもない。
あなたが出来ないのは過去に受けた傷のせいであり、それは向上心や努力では解決できない、一種の病(やまい)なのだ。
 
 
病気で会社を休めば同僚に迷惑をかける。(あなたの分の仕事が増えるから)
病気で家事を休めば家族に迷惑をかける。(家族の生活に支障が出るから)
 
 
責められることはつらいだろう。
だけど、病であることを受け入れて、決して無理はしないことだ。
そのうち同僚も家族もあなたの病が仮病でないことを知る。
そうしていつしか無理な要求は突きつけなくなるだろう。
 
 
 
そうだ。
DVを与えた人間や過去を憎んだり恨んだりする必要はない。
それよりも、病を治し、その病を抱えて生きている自分を、他人と世間に認知させることだ。
 
 
 
考えてみると私がブログを書くのも、この認知のためかもしれない。
自分という人間を、根気強く、伝えようとする― 
その作業。
伝えたいと願う人に。
傷つけられることで傷つけた人たちに。
それは、愛にも似ている。
 
 
 
 

2007年1月13日

心とポーズ

 
 
 
君が退屈そうにあくびをするなら、私は哀しい涙を流そう。
 
どちらにしたって、同じことなのだ。
 
それは―
 
 
 

香水と老化現象

 
 
 
良い香りは魔除けになる。
mixyで辛酸なめ子がそう言っていた。
 
そう言えばまだ魔除けが必要のない時代、私は香水が好きだった。
20代、何の影響か、シャネルのNo.5が好きで、毎日会社に行くたびにふりかけた。
私が歩いた道はすぐわかる、と友人や同僚にいやみを言われたがまったく気にしない。その香りに包まれていると自分が気持ちよかったので、また客観的に判断してもそうキツイ悪臭だとも思えなかったので、はた迷惑にもやり過ごしていた。
30代初頭、ゲランのミツコに惑わされる。
(これも今思うと何の影響だか・・)
後半になると、ニナリッチのレールデュタン。軽めの甘い匂いがよろしかった。
 
この頃になると、もう外へ行くときはつけなかった。
湯上りにつけ、香りに包まれ、満たされ、うっとりといい気分で眠りに落ちる。
下手な睡眠導入剤よりもよほど効果があるだろう。
 
 
そんな過去をふと思い出したので、そうだ、最近の殺伐とした生活には香りが欠けていたのだ、と根拠もなく断定する。
そう思い込むと行動は早い。
私は休日、町へと走り、熱心に香水を眺めるのだが、欲しいものが見当たらない。
香りに対する影響を受けていないのだろう。
仕方なく、ロクシタンに入る。
フェイスケア、ボディケア、ヘアケアに関連する商品を取り扱う店である。
いろいろな種類のテスターをかいでみたが、特に欲しいと思える香りでもない。
悩んだ末に、瓶の柄で決めることにする。
一番気に入った容器のボディシャンプーとボディクリームを買ってきて、気まぐれに使ってみる。
 
これがなかなか良かった。
お風呂で使っているときはそう変わらない。いい香りなのか、変な匂いなのかも、たぶん鼻がバカになっているのだ。老化現象だ。
しかし、仕事を終え、帰宅したとき、ドアを開けると、とたんいい香りが襲い掛かる。
ふわっと。
部屋の中が甘い香りで包まれているのだった。
 
 
多分、私のマンションの玄関はすぐ隣にバスルームがあるので、そこで昨夜使用したボディシャンプーの残り香が漂ってくるというだけの話だろう。
だけど私にはそれがまるで信じられないことのように感じてしまうのだ。
だって、たかだかボディシャンプーである。
シャネルでもゲランでもあるまいし・・
一晩経っても消えない。
そうして住人の帰宅を優しく迎えてくれる。
香りって偉大だ。
 
 
 
下、ロクシタンのボディシャンプーとボディクリーム

混沌の地とその果てと

 
 
 
私はいつも
 
穏やかで 温かくて だけど混沌とした地にいて
 
時々浮かび上がる
 
 
声がして
 
まるで信号のように 繰り返し
 
『焦れ!』 と
 
そう告げられているようで 耳を澄ます
 
 
 
そこにいるな!
 
とどまるな!
 
こちらへ来い!
 
 
 
遠くから音楽のように聞こえてくるその声が 近くなり 近くなり
 
繰り返される信号が 警告になっても
 
私は動けない
 
 
 
焦れ!
 
 
 
鼓動が早くなり
 
走り出そう
 
ついに そう決めても
 
私は動けない
 
 
 
躯と切りなはされ 心だけが 駆けていくのだ
 
ひとり―
 
 
 
その先にあるのは
 
愛か 死か 夢か 破滅か 何の果てか
 
それさえも知らぬまま
 
 
 
 
 

究極の愛を叩き壊す私の愛用の○○

 
 
 
私の好きな愛の色は赤の色。
鮮やかな赤ではなくて、錆びた、不純物が混じったような、暗くて哀しい赤の色。
 
私の好きな愛の色は青い色。
深く、深く、底まで透けた水の色、音もなく、一切が届かない、美しくて孤独な水の色。
 
 
愛する人のために自分の手を汚す。十字架を背負う。
または自らの命を賭ける。
そんな愛を描いた小説を読むと、私は心臓を摑まれて、えぐり取られたみたいに、痛くなる。
そうして、ふと思うのだ。
 
 
 
この作家、いったいどういうシチュエーションでこのような究極の愛の物語を書いているのかしら。
などと・・・
 
 
たとえば冬だったら?
当然、執筆活動をしていても部屋は寒いはずだ。
筆が乗ってくる夜中になるほど冷え込んでくる。
ならば、ある程度お年を召した作家ならば、ルームウェアの下にらくだのシャツだのステテコだのをはいているかもしれない。
文学者風にどてらを引っ掛けてるとか。
それともこういう胸も痛むような愛の物語を書くときは、しかしまさかスーツ姿で正装というわけでもあるまい。
夏だったらパンツ一丁とか。
いや、さすがにそれはないだろうけど、ふと隣を見ると、本棚に余計なものを発見してしまったりはしないのか?
最近薄くなった髪を気にしての、愛用の脱毛用育毛剤の瓶をふと見てしまうとか。
妻に頼まれて毎晩飲んでいる精力剤の瓶が置いてあったりとか。
 
 
「私は 彼を 睨むように 見つめていた― その時」
 
 
などと言う緊迫した描写の途中で、ふと育毛剤とか精力剤の瓶を見てしまったあかつきには。
ステテコ姿の自分をふと思い出してしまったならば。
 
 
私だったらまず書けなくなるな・・
 
 
 
愛とか世界とか、信念でもいいや、何かを貫き、成し遂げるという時には、見てはいけないんだろうきっと。
自分の姿とか家の中を「お洒落な作家」のイメージではじめから固めておくか、または一切を見ない。
ただ、突き抜けるだけ。
 
 
 
もしかしたら冬は寒いとか夏は暑いとか、脱毛だの精力だのに現実問題がある人は、突き抜けられないのだろうか。
はじめから無理があるのかもしれない。
 
 
 
きっと愛を描く作家はうんちもしやしないだろう。
長い長い彼の物語を脱稿するまで。
そこまでの覚悟はあるはずだ。
 
 
 

2007年1月9日

私がジョン・レノンから愛される理由

 
 
 
うちのマンションの1Fにある、まるで誰かに蹴られたようにへこんだシルバーの郵便ポストに、手紙が入っていた。
たまにしか開けないので光熱費の振込み票や不動産会社のカラフルな広告、そんなたくさんのごみのようなものにまぎれて、白い封筒が申し訳なさそうに。
あて先は書いていない。裏返すと差出人の名前は「世界」と書いてあった。
あけると白い便箋にたった一行。
 
「ぼくはあなたが嫌いです」
 
読み終わった私は便箋を丁寧に折りたたんで、また封筒に入れる。
そうして大切そうにカラーボックスへ収めるのだが、そのくせどうしていいのかよくわからない。
またか・・・
と思うきりである。呆然として、ため息混じりに。
 
 
私は「世界さん」からこの手紙を何度も受け取っているのだ。
何度引越しをしても必ず私の郵便ポストに入っているので、多分私宛てなのだろう。
そうして便箋の裏側には読めないくらい小さな小さな文字で、いつでもこうある。
 
「今のままのあなたは」
 
綺麗な、完璧な、文字だった。そんな綺麗な字を書く人にこんな嫌がらせの手紙をしつこくを出させてしまうことが少し哀しかった。
今のままの私でなくなれば世界さんは私を許し、受けれてくれるだろうか。
手紙を出さなくなくても済むようになるのだろうか。
どうにかやめさせてあげたいが、さりとて私の努力はいつでもとんちんかんで、ますますこの「世界さん」を刺激してしまうのだった。
 
 
 
そんな時、私はこの差出人をこれ以上傷つけないように距離を置くのだ。
赦されざる者として自らの手で私を隔離し、孤独という名の刑罰を受け入れる。
そうして、そんな私を、いつでも救い、導いてくれるのは、音楽や本や映画や絵や友人や恋人や。私であることを最大限に受け入れて、無限に赦してくれる(切り離された世界とは異質の)世界であり、彼らの手によって私は元の世界へと再び戻されていくのだった。
 
 
だから私は私の媒体となってくれるこの彼らに対して、いつでも最大限の敬意を払い、感謝をもって接している。
つもりだ―
彼らは決して、私をどうでもよく扱ったことがないのである。
 
 
 
ポストに手紙を見つけると、私は音楽を聴く。私の大切な彼らに尋ねる。
私はよくウォークマンで、The Beatlesを聴いた。
それは「今のままのあなたでいいよ」と言っているようにも、「ここはこうしたほうがいいんじゃないかな」と言っているようにも、響いてくるのだ。
私はラブレターの返事を書こうと決心する。
私を赦す優しい声は、私を世界へと向かわせる。
いつでも―
 
 
 
 

2007年1月8日

忘れないという選択 or 忘れるという選択

 
 
 
自分を傷つけた過去の人間に対する最大の報復はルサンチマンを抱き続けることではない。
 
忘れることだ。
 
この真理を知ってから、私は完膚無きまでに叩き潰したい相手のことは、綺麗さっぱり忘れてあげることにしている。
 
 

2007年1月7日

スイッチを切る女

 
 
 
私が24歳のときに付き合ったのは19歳の彼氏だ。
ヒロ君、と言う。
ハンサムな彼はだぼだぼのブラックジーンズをはいていた。見た目も音楽の趣味も見るからに聞くからにダサかった。
私は彼のサイズの合わないリーバイス606を脱がせ、オリジナルの501をプレゼントした。
ブルージーンズをはいて蛹のように変身したヒロ君は、若い女の子のところへ行ってしまったけど―
 
 
 
ボーナスをもらったのでマッサージチェアーを買った。
17万8千円だった。そう高くはない。私は今までもっと高い買い物を何度もしている。だけれどこの家庭用電気器具が私にとって夢のまた夢だったのは、単に置き場所がなかったからだ。あんなどでかい電気椅子が居座るリビングなどない、ワンルームマンションは椅子だけの空間になり、寝る場所もなくなる。
しかし、私はついに手に入れたのだ。このマッサージチェアーを。それがもたらす癒しと快楽を。それを毎日貪る権利とやらを。
 
ついにここまで来たか・・・
 
私はマフィア映画の悪役みたいに「うわっはっはっは・・」と豪快に笑い、窓の外の目新しい都会の空を眺めた。そうしてワインで口を濡らし、50インチのプラズマテレビでのんびりと映画鑑賞なんぞを楽しみながら心と体の疲れを癒し、ほぐすのだ。ああ、今日も良く働いた。これは天からのご褒美だ。
ちなみにマッサージチェアーには肩中心とか腰中心とか揉み方の種類が色々あるのだが、一番気持ちがいいのは、足だ。
リクライニングにすると、体が倒れるのに比例してシートの足部分が持ち上がり、まるでひざから下が延ばす様に引っ張られる。そして徐々に締め付けてふくらはぎを強く圧迫し、それからゆっくりと解放していく。足に溜まった血行が一気に逆流していく感じ。何とも言えず気持ちがいい。
 
ピンポーン。
 
ふと玄関のベルが鳴る。
舌打ちをして椅子から離れ、モニターを見ると、若い男が立っていた。
 
「○○新聞いかがですか?」
 
新聞の勧誘のお兄さんだった。アルバイトか、または新聞奨学金の学生といった感じ、時代錯誤もいいところだ。
どうせ邪魔されついでだ、暇つぶしに相手にしてあげることにした。ドアを開ける。
 
「ネットで済ませてしまうんで新聞読まないんです」
「じゃあ野球観戦のチケットおまけします。あとキャラクターグッズ、○○君タオルとか・・」
「○○経済新聞なら読んでもいいけど。ありますか?」
「うちは○○新聞だけです。あっ、でもスポニチなら・・・」
見下すように眺めていたら泣きそうな顔になってしまった。
「1ヶ月でいいんです・・」
チケットを差し出す指がかすかに震えている。
 
なんでこんな子が新聞勧誘員になんてなっちゃったのかなぁ・・・
 
私はふと彼に、私のマッサージチェアーを自慢したくなった。
「ねぇ?お茶でも飲んでいかない?」
そう有閑マダムのように誘ってみてもいいかもしれない。
なにせ、私はマッサージチェアーを手に入れた女なのだ。なにを遠慮しよう?
 
 
 
私はヒロ君をまた思い出している。
初めて彼と一夜を過ごした日。
私は勇気を振り絞ったヒロ君に誘われて、彼の部屋に行ったのだけれど、ただふたりでバカのように音楽を聴き続けていただけだった。
終電もないのに。夜が更けていくのに。時々退屈そうにミュージシャンの話をするのだった。
私はこのダサいヒロ君をうっちゃっておいて、タクシーで帰ってしまいたくなった。またはその辺に寝転んでぐっすりと眠ってしまいたくなった。
だけど我慢した。忍耐強く待ったのだ。
勇気を出した彼にとっての、大切な思い出を守るために。
夜は更け、音楽だけがただ流れ―
そのうちヒロ君は笑い話をし始めた。身振り手振りを交えて、ちょっと自虐的なネタで。
いたたまれず、私はスイッチを切ったのだ。
もちろん唐突ではないけれど。
部屋を暗くしてあげたのだった。
自ら―
 
 
 
この青年は自分からスイッチを切るだろうか、と私はしばし考える。
ジーンズはリーバイスではなかった。エドウィンでもない。
色落ちしたブルーの、きっとユニクロあたりだろう。
 
私は婉然と微笑んで、
「ありがとう。でもね、新聞は要らないの」
 
 
 
彼の後姿を眺めながら、私は愛用のデザイナーズジーンズとマッサージチェアーのことだけをただ想う。
もうそれを高らかに笑う気分にはなれなかった。
 
 
  

想像力があってよかった・・・・。

 
 
 
なるほど、それなら真実に辟易したあなたに遠慮する必要など何ひとつないだろう。
 
あなたのおかげで嘘か真実かもわからずあなたのように『創作』にしか意味や価値を見出せなくなったとしても。
 
そんな私の言う言葉にあなたはきっと真実を見つけるのだ。
 
迷わずに、少しの痛みと共にきっと。
 

めざせ、おならの調香師 ~華麗なる満員列車での愛と戦いの日々~

 
 
ラッシュアワーの電車の中でたまにふと悪臭がすることがある。
ぴくりとする。息をするのも苦しいほどのむんむんした乗車率のその中で、前か後ろか隣の誰かがおならをしたのだ。
私は思わず下を向き、息をとめる。こっそりと。それでもあまりにも匂うと首に巻いたストールを目の下まで持ち上げて臭気を遮断する。もちろん何気なく顔を背けたり姿勢を変えたりして、周囲にあからさまだと気づかれぬようにこっそりと。それくらいはこちらも気を使うのだ。
満員電車のなかでわざわざおならをしてしまうほどなのだから、きっと広い構内に出るまで、新鮮な空気に満ちて誰にも気づかれぬ場所に着くまで、その人はおならを我慢できなかったのだ。昨夜の夕飯の食べあわせが悪くて、おなかの調子が悪かったか何かだろう。または朝、疲れてうっかり寝坊して、トイレに行く時間がなかったのかもしれない。自然の摂理である便意を我慢しなくてはならないほど、遅刻はできない環境と境遇であり、そんな場所で頑張って生きていて、だからこそこのラッシュアワーの電車に居合わせた人なのだろう。
 
 
だけど最近そんな私の厚意的な物の見方を裏切るようなあんちゃんがいて、なぜビジネスマンだらけのラッシュアワーにここに存在しているのかよくわからない彼は何十年か前に流行ったような小汚いカジュアルファッションをして、-インナーが赤いニットだからとても目立つのだ!― 彼を見かけると直後に必ず悪臭が訪れるのだった。
最初は偶然かとも思ったが、わざわざ満員電車の中でおならをしては周囲の反応をうかがう愉快犯に違いない、と確信するに至るまでに、そうだな、秋からだから半年はかからなかったと思う。
それからというもの、私はそのあんちゃんを見かけると、匂いが漂ってくる瞬間に、ちょっぴり眉をしかめることにした。
向こうがルールを守らないならこっちだって守る必要はないだろう。
お互い気遣い無用というわけだ。
しかし、この時点でおならに不快感を示した私は相手の思うツボであり、私の眉の動きに気づいた赤いニットのあんちゃんはさらに面白がって、おならのバリエーションを増やすようになった。臭う。息を止める。窒息しそうにくらくらしてしまう。明らかに挑発しているのだ。ここで死んだら親に申し訳が無い。世間に顔が立たないだろう。「娘はおならで窒息死しました」などと・・・無念、それだけは避けなければ。だが、おならをしているのは彼だと言う証拠も無いので責めるわけにもいかない。逃げるのも癪なので、負けず嫌いの私はしかめ面のバリエーションを増やして必死の抵抗及び反抗をするのだった。
 
―そう、無音のおならにだって、種類はあるのだ。
その様々な種類を次第に知っていった私は窒息死を免れた、そうして彼とちょっとした狎れあいの関係になっていったのだ。
おなら攻防戦は終わり、とりあえず私はまだ生きている。
 
 
年が明けて、初出勤でメトロに乗ったら、2007年、彼のニットは黄色になっていた。
久しぶりだったから懐かしく、また、新鮮にかっこよく見えたりもするのだった。
だけど相変わらず、私にはわからない。おならの悪臭というものが何によるものかなどは。
この匂いから推定して、僕の昨日食べた夕飯を当ててごらんよ、とたとえば言われたとしたって、超能力者じゃない私には一生理解できないだろう。
きっとにんにくの芽と青菜と豚肉を炒めた中華風肉野菜炒めか何かではないか、と想像するくらいである。
嗅覚に敏感なのか鈍感なのか、それさえもわからない私はきっと一生かかってもパフューマーにはれない。
それを笑われ、ぎりぎり歯軋りする私も変だけど。
 
ちなみにその日の彼のおならは無音無臭で・・いや、無味無臭だった。
平和ってちょっぴり退屈だ。 
 
 
 

2007年1月5日

退屈凌ぎにブログを書く

 
 
たとえば私が世界ならば、私は私の形の肉体に剣を突いて、果てない空洞を創り続ける。
時が許す限り、そうし続ける。
たとえば私が世界ならば、私は私の形をした空洞に剣を突刺し、その果てなく裂けた肉を埋め続ける。
時が余る限り、そうし続ける。
それだけが唯一の証となるだろう。
私が私であることの。
 
 
だけど、時々、私の肉体は奪われて、侵されて、気付かぬうちに、あなたに変わる。
血が滴り、痛みと空虚に目を背けるまで、あなたは私の形をしたあなたの剣で、私の形をしたあなたの肉を突き続ける。深く―
 
 
私は思わず悲鳴を上げ―
目覚めるとあなたはいないのだ。
私は阿呆のように、血で汚れた自らの手を眺めているだけ。
 
 
私はそれがいやだから、だからけっしてあなたを居れない。
長い長い時をかけて、守るだろう。
あなたに良く似た私の剣と、あなたに良く似た底無しの空洞をもちいて。
まるで退屈凌ぎのように。
 
 
 
 

2007年1月2日

『 求む! 完璧主義を破壊する妖怪 』

 
 
 
小学生のころ貧乏な我が家が引越しをし、私は団地の子となった。
周りはみんな団地の子だ。この地方では団地に住んでいるのが当然だとさえ思っていた。特に気にしたことなどなかった。
しかし、中学生になってから、それは差別の対象となった。
隣町の中学校には団地以外の、持ち家に住んでいる子供がたくさんいたのである。
『団地の子』と言うレッテルは、私の欠陥となった。
私はそれを気にしていないふりをして、勉強と部活動に励み、良い成績と部長の座と引き換えに、『持ち家の子』の友達と対等に遊ぶことを覚えた。
 
 
そのうち家は団地から引っ越した。
私の欠陥は消えた。
しかし、次に待ち受けていたのは血液型だ。
私の生まれ持った血液型は少数派で、なぜかこの国に一番多い血液型の面々に忌み嫌われていた。ことあるごとに非難の的となった。
私はそれを気にしていないふりをして、ひそかに血液型の研究をし、他の血液型の行動とパターンと思考パターンを覚え、盗んだ。
 
 
そのうち私は自身の血液型をバラすと「ええっ!見えない」と言われるようになり、元彼などは「○○は絶対○型なんかじゃない!」と怒り混じりに断言するまでに至った。(しかし、今思うと彼はなぜそんなに私の血液型を信じようとしなかったのか?そんなに○型と言うのは許せないものなのか?疑問だ―)
こうして、私の欠陥はまたしても消えた、かのように見えた。
次に待ち受けていたのは、行動と思考パターンを無理に変えたことによる『歪み』だった。
運命は変えられても、宿命は変えられない。
この当たり前の事実を、私は知らなかった。
愚かな人間だったのだ。
 
 
私は私の欠陥が大嫌いだ。
だからこそ、いつでも努力をし続けて生きてきた。
そうして、今まで生きてきた人生の中で、私の欠陥を非難する人こそは多々いても、その欠けた部分を埋めようと努める私の生き様や姿勢を、その欠陥があるからこそのこの私を、不完全であるがゆえに好いてくれた人はいなかった。
 
 
そうだ―
もし、いたとしたら、そいつはきっと変態だ。
いや、妖怪かもしれない。
この世のものではないに違いない。
 
 
しかし、この歳まで、完璧主義の私は欠けた自分を許せないまま生きて疲れてふと思う。
変態でも、妖怪でもかまわない。
そんな稀な、貴重な人が、もし実在しえたならば、私はきっとこう言うだろう。
巡り逢えたその人に向かって、深々と頭を下げ―
 
 
存在していてくれて、ありがとう。
 
 
あなたのおかげで、私は救われました、と。
いや、でも多分、正体はもののけの妖怪だから、ほんのちょっとの一瞬だけの気まぐれな救いなんだろうけどさ、笑
 
 
 
 
 

2007年1月1日

華の祭典、『紅白歌合戦』 誰か見た人いるのかな・・・・

 
 
 
昨年の年末は、といっても昨夜の話だが、めずらしく紅白歌合戦を見た。
久しぶりだ。
私が子供のころ、紅白は一年最大の歌の祭典だった。その年にブレイクした曲と歌手だけが出演できる、例外はNHKに可愛がられている一部の(ベテラン)歌手くらい、しかし、いったいいつからこんな懐メロ大歌合戦のようなイベントになってしまったのだろう。
徳永英明は「壊れかけのRadio」を歌い、ドリカムは「LoveLoveLove」(などメドレー)を歌い、おまけに布施明は「イマジン」を熱唱し、懐メロ替え歌(?)までもが飛び出す始末。
 
 
視聴率が落ちると、もう、何でもアリなんだなぁ・・・
 
 
などとしみじみ思う。
そんな中で瑞々しく印象に残ったのは、昨年流行ったDJオズマ。
歌も演出も面白かったが、バックダンサーが上半身裸になり、エンディングでは股間のみを隠してのスッポンポンに。
 
 
う~む。視聴率落ちるとここまで何でもアリなのかぁ・・・・
 
 
HNKなのに、と絶句した私同様の視聴者はけっこういたようで、抗議の電話が殺到したらしい。
司会者と会場のお客様から失笑が漏れる。
バックダンサーの裸体は着ぐるみだという事実が判明した。
 
 
しかし、いくら「着ぐるみでした」ってオチでもさぁ・・・・
天下のNHKがなんと破廉恥な。
 
 
などと思ってしまう私は、すでに瑞々しさには対応できない、「懐メロ紅白」にふさわしい、立派な、紅白視聴者ターゲットのいち視聴者と化しているのだった。
 
 
そうして、SMAP。
司会が中居君という事も手伝ってか、番組の後半のトリ間際に登場した彼らが歌うのは、『ありがとう』。
何とも言えず、いい歌詞なのだが、いかにせん、歌が下手すぎる。
特に中居君のソロパートになると、もう、もう、「勘弁してください・・・」とただ白旗を上げたくなるほど。
人気と歌唱力は比例しないことを、身をもって証明し続けるSMAP(中居君)は偉大だ。
 
 
それから今井美樹。
昨年のヒット曲もないのに、なぜかダンナの布袋さんをバックギターに従えて、名曲『PRIDE』を熱唱する。
「ほほぅー、プライド歌うのかぁー」
と思わず身を乗り出す私は、ますます懐メロファン獲得に燃えるNHKの思うツボである。
美樹ちゃんと一緒に機嫌よく「わたしはいま~」と口ずさみ、ふと、ダンナ布袋さんがずっとカメラ目線であることに気付かされる。
しかも、美樹ちゃんが歌っているその後に小さく映し出されているときのみだ。
ずっとニヤニヤしながらカメラ目線、で、なぜか本人のアップになるとカメラは見ずにカッコよくギターを弾いている。偶然かな、と思うと、また奥さんと一緒の引きのショットでカメラ目線。
どうも異様だ・・
 
 
私はそもそも、このバカップル、いや、バカ夫婦があまり好きではないのだ。
歌番組のトークで見せる布袋さんの司会者とのちょっとズレたやりとり、そのちょっとした変人ぶり、一芸に秀でた人はこういう個性的な人が多いのかもしれない、などと思わせる常識のなさ。
また、奥様は奥様で深夜近い夜のトーク番組でダンナをべた褒め。
「あの人はね、しょうがないの。だってわかるもの。みんながほうっておかないのよ! 誰が見ても、人間的な魅力にあふれていて、人間的にとても大きな人、素敵な人なの。みんながほうっておかない気持ちがよくわかるのよ!」
と変人布袋を大絶賛し、大きな口をあけて豪快に笑うのであった。
私は、布袋の元奥さん、―離婚後やけになって黒人の子供を宿し出産した某歌手― を思い出し、どうもその幸せそうな笑いと自慢話が鼻について仕方ない。
 
しかし、そんな私を笑い飛ばすかのように、ふたりのPRAIDは素晴らしかった。
 
 
布袋さんは近年最期のギタリストのカリスマで、それ以後ギターヒーローが生まれていないそうだ。
そんな才能あるダンナ様に愛され、紅白という晴れの舞台で、彼女のために(愛する人から)贈られた名曲を誇らしげに歌い上げる今井美樹、彼女の顔はため息が出るほど美しい。
愛されている、満たされている、その内面の幸福感、充実感が、年相応のシワの増えた顔も、妖怪じみた大きな口も、すべてをただ輝きに変える。
 
 
ふ~む。今井美樹ってこんなに美人だったっけ・・・
 
 
そのまばゆさにしみじみ見惚れた一瞬であった。
私がもしも、布袋さんの元奥様であるならば、この美樹ちゃんの美しさを目の当たりにした日には自殺する。
女としても、歌手としても、叶わなかった彼女は、きっと彼女なりの幸せを私が思う以上に全うしているのであろうが、もちろん。ええ、そうでしょうとも・・・
しかし、人間の幸福というものは傲慢だ。
 
 
 
そうして、最期にもの申したい和田アキ子。
私はこの大御所芸能人がけっこう好きだ。さすがに様々な経験をし、年相応以上の苦労と努力を積み重ねているだけあって、言うことに説得力がある。常識的だし、心温かい人情味を感じさせる。
かなりの好印象な認識を持っているのだが、『マザー』を歌う彼女は、・・・醜かった。
今井美樹と正反対だ。
 
和田アキ子が不幸だとはもちろん思わない。ブスだとも思わない。歌はもちろん巧い。
なのになぜか、歌い出しその曲のテーマから自らの母を思い出し感情移入して涙ぐんだ私を、和田は歌のサビでしらけさせ、涙を笑いに変えてしまった。
そうして、彼女が歌い終わると、すぐ、前述の中居君が笑顔で叫ぶ。
「アッコさん、カッコよかったぁーーーーーーーーーーー!!最高ですっ!」
 
 
・・・・・・・。(無言)
 
 
ますますしらける私をよそに、大晦日の夜は更けて行く。
 
 
 
 

『すべては許されている』 ~スメルジャコフの幻想としての罪について~

  
※『カラマーゾフの兄弟』 (Братья Карамазовы) 1879~ 1880(出版) ロシアの文豪フュードル・ドストエフスキー最後の長編小説
  
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟という小説には4人の兄弟が登場する。
長男の直情的なドミートリィ、頭脳明晰で冷血な次男のイワン、末っ子の敬虔なアリョーシャ、そうして私生子である下男スメルジャコフ。
父と母から別の種類の性質を深く譲り受けた彼らが一同し、交錯し、悲劇が始まる。
皮肉にも似たー
私はこの小説を何度も読み返している。
いろいろな意味で、このドスト最期の小説が好きだ。
(厳密に言うと、決して好きではないが、憑りつかれてしまった、といったほうがいいかもしれない)
ストーリー展開も、思想も、ドストが一人の作家であることを超えて、一人の人間として、持てるものすべてを書き記そうと、その死の間際に― 努めたことが感じ取れる、それほど鬼気迫る、圧倒的な、有無を言わさぬ迫力がある。
  
この小説の中で一番私が恐ろしく、印象に残っているのは、悪魔的な私生児、スメルジャコフの性質だ。
彼は次男のイワンに傾倒する。
そうして、彼のために、殺人を犯すのだ。
イワンの思想、「すべては許されている」というその意味を、別の意味に用いて、イワンが心の底で願っていた、あってはならない醜い想いを実現化する。
ただ、「彼のために」―
 もちろんイワンはそれが自分の意図したことだとは気付かない。もやもやとした不快な想いがあっただけだ。しかし、すべてが終わった後に、スメルジャコフから聞かされて、そのときに初めて、彼は自身がそれを願い、その指示をスメルジャコフに与えていたことにさえ気付かされる。
『殺人は彼の願いだった』
イワンはその事実に打ちのめされ、のた打ち回り、スメルジャコフを責める。「なぜそんなことをしたのか」と。
彼は事実を受け入れられず、彼の精神は持ちこたえられず、ついには破壊してしまうのだった。
 そんなイワンを見てスメルジャコフはがっかりする。
彼の偶像が崩壊した瞬間だ。
唯一の、生きるための、指針だった、彼の希望、イワン―
スメルジャコフは絶望し、自ら死を選択する。
すべてを闇に葬ったまま。
  
私は思う。
人は、他人の気持ちをなかなか理解出来ない。ましてや他人の気持ちを思いやることはとても難しい。
しかし、時にはそのほうがいい場合もあるのではないか、と。
もしも、この文豪の兄弟のような賢く超越した人が実在するとして、もしも、彼がはきちがえて誰かを理解したならば、いや、違う、決してその誰か本人が理解し得ない奥深い想いまでをも「正確」に理解して、その人のために、代わりに成し遂げてしまったならば―
そして、もしも、それが罪ならば―
『それはいったい、誰の、何の、罪だろう』
  
いつでも答えは出ない。
決して他人事ではない、イワンとスメルジャコフ、そのどちらにも私が成り得る、あんな聡明な規模ではないが、誰でもなりうる、その可能性があるということだけがただわかり、決して答えのない行き場のない問題を、空しく眺めている。