2007年9月29日

私がベンチャーに期待する理由

 
『「親方」との関係で悩むのは我々社会人も同じ。とはいえ「悪童が礼儀正しい若者に変身し親が感謝する。それが相撲界の特質でもある。」とまで言い切るのが相撲界。ならば、その礼儀正しい若者がさらに成長した「親方」は素晴らしい人格者であって欲しいものである』
 
 
しきたり、しごきと称したスパルタの訓練は日本の伝統的なものだ。現代では運動理論に則ったトレーニングも重視されているが、伝統を守る国技としての角界は時代に乗り遅れてしまった。だからこのようなことが許されてしまったのではないか、というような所感もあるが、どうだろう?
伝統的な世界とか、現代的な世界とか、そういう時代の背景や業界のルール等に関係なく、私はこういうことは未だ当たり前に存在することだと思う。
いじめのニュースを見れば一目瞭然だ。子供の世界だけではない。
すべては氷山の一角である。
それらは文化や伝統、しきたり以前に、人間の性なのだ。いや、集団の・・と言おうか。
集団と言うものは不安定だ。常にターゲットを作り、そのひとりを「しごく」ことによって結束を保つ。
指導者もこれを利用する。指導する立場から集団から孤立し(または阻害され)やすい彼らは「しごき」をも集団に指導、指示することで連帯感を維持するのだ。また、彼ら自身の(下からの)敬意を守るためにも使用する。
映画業界でも昔からよく使う手だと聞く。ロケに入ると、監督はまずターゲットを決める。そのひとりを叱ることで現場の空気を引き締める。大物の忠告しにくい俳優には、このターゲットに叱り飛ばす言葉を間接的に聞かせるのだそうだ。いい映画を作るためには欠かせないやり方なのだろう。
つまり、集団が成り立つためには、最低限ひとりのターゲットを作らなければならず、そのひとりになることを巧妙に避け続けて、ターゲットが酷い目にあっても見て見ぬふりを続けて、または「しごき」に加担し続けて、生き残った者だけが、上に行く、と言うわけである。人格者であるわけがない。
冒頭の文で言うならば、「礼儀正しいふりをするのがうまかった悪童」のままのやつらが、最終的に集団の上に立つのだ。
 
あなたは違うと言うだろう。実力があれば、そんなものは乗り越えられると。
確かに、実力で「しごいた」やつらをやり込め、仕事そのもの、成績で相手を見返した者たちは大勢いる。しかし彼らは、成長し、成功し、有名になったら必ず別の世界へ行く。しきたり、格よりも、利の多い世界を選ぶのだ。
もしも彼らが元の世界に残って、更に上に行きたくても、周りが許さない。
なにせ標的にされたのにそれをものともせず実力でのし上ったということは、明らかに元の世界の上のものたちより「つわもの」なのだ。恐ろしい。どうして仲間になど入れてやろうか?
 
私は断言する。集団の上にいるやつらはみなクソだ。
やくざより仁義を欠いた、酷い、殺人事件の主犯となったからと言って、今さら何を驚く必要があろう?
(なんだか共犯とか言われてるみたいなんだけど、どうみてもお前が主犯だろう、腹立たしい限りである)
ただし、唯一例外がある。
そのような集団の世界にうんざりして、理想を掲げて自ら集団を作り上げたもの。一から築いたものが上に立った場合だ。
唯一救いのある可能性は、ここしかない。
 
 
 
                                                     ~時太山さんのご冥福を心よりお祈りいたします~
 

最後の審判と人間社会での裁き

 
『パンが見つからない』 (2007年05月19日)
 
かつてマリー・アントワネットが言った。
「パンがないならケーキを食べたら?」
悪名高い彼女なら、いかにも言いそうに思える。
世の中には、パンさえ持っていない人が大勢いるというのに、どうしてケーキを食べられようか?
激怒する。なんと言うことだと。しかし、誰が言おうと問題ではない。自分の幸福に気付かず、安易にこういう発言をする人はどの時代にもいて、また、そういう激怒する対象を求めて誰かが言ったことをそのためだけに解釈を変えてしまう人もどの時代にもいる。
彼らは変わりがなく。
お互い、自分の幸福に気付かず、自分の不幸に目を瞑り。公然と。罪の原因は相手にあると。パンを持たぬ相手が悪いと。それを言う相手が悪いと。叫べるならば。豆腐で作ったケーキだって食べてしまう。自分のパンさえ投げてしまう。
 
私はパンを作りたいのだ。
そうして誰かと分け合いたいのだ。
今日もパンの種を探してうろついている。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 

カミュの『転落』を読んだ。
彼の説によると、すべての人間はひとり残らず有罪なのだそうだ。
キリストさえしかり。
彼自身自分が完全に無罪ではないことを知っていた。だからおとなしく十字架に架けられた。『彼の親たちが彼を安全な場所に移しているちょうどそのときに惨殺されたユダヤの幼児たち、この幼児たちが死んだのが彼のせいでないとしたならば、一体誰のせいだというのか?』(原文より)
人は誰の無罪も請け合えず、しかし万人の有罪を確実に断言できる。
日々、自分以外の者の罪を証言しているのだ。しなければ、自分が有罪として裁かれる。
最後の審判など待つ必要もない。
人は人によって最も残酷な判決さえも下されるだろう、この世で、生きている間にだ。
 
読んでいたら、途中から凄まじい気迫を感じて恐ろしくなった。
私はよく人から裁かれるが、それで諦めたり、自分を責めたりする前に、もっと積極的に他人を裁き返す癖を身につけたほうがいいのかもしれない。
それは間違っている、と、以前のようには否定できない自分がいる。
人生は過酷だ。殺さなければ、自分が殺される。裁かなければ、自分が裁かれる。
カミュの言うことは、たぶん正しい。
 
しかし、人間社会での判決を「最後」と呼ばないように。
この世界で裁かれた人間が死の間際に、またはもし「それ」が訪れた際に同様に裁かれるとは誰が断言できるだろう?
なぜ、カミュはそのことに触れないのか。
 
彼は答えを知っているのだ。
秋は読書が進む。
 
 
 
 

2007年9月28日

ああ、曼珠沙華

 
彼岸花、別名曼珠沙華を撮りました。
赤に白に黄色、色とりどりでまことに美しい。
 
 
             
 
 
で、ふと家に帰って、そう言えば大昔、この華の歌を誰かが歌っていた、と言うことを思い出しました。
確か、引退した山口百恵でした。
そう、彼女特有のちょっと陰のある雰囲気と声で、ライトタッチの情念をしっとりと歌い上げていたように思います。
撮ってきた美しい写真を眺めながら、是非その名曲を聴いてみたくなったので、YouTubeで検索したところ。
ありました! ↓下です!
 
 

        

 

懐かしいなぁ~とわくわく胸をときめかせながら聴きはじめたのですが・・曲が進むにつれ・・・

無言になりました。

 
え? こんな曲だったか??
どうも記憶の中で美化されていたようです。
こぶしを利かせて歌う百恵ちゃんは、どうみても、一年後大麻取締法違反で捕まる頃の内藤やす子か研ナオコにしか見えません。
「弟よ」だの「あばよ」だの、あの本格的歌謡ロックと謳いながら、どう聞いても演歌の世界の楽曲なのでした。
 
百恵ちゃん・・・
私の中では百恵ちゃんは完璧です。幼少の時分に人気絶頂にありながら引退したと言う伝説がそうさせているのだとは思いますが、しかしこれはちょっとひどすぎるのではないでしょうか。美しい曼珠沙華の写真も、美しく撮れたと思っていたこと自体が大きなカンチガイだったような、色褪せたものに見えてきます。
 
 
しつこいけどもう一度、曼珠沙華登場。↓
 
 
     
 
 
 
しかし、よけいなお世話ですが百恵ちゃんの名誉のために言っておくと、この曲がたまたま彼女に合わなかっただけだと思うのです。
引退間際の貴重?な映像を発見したので、是非ご覧くださいませ。
ロックンロール・ウィドゥを大胆に歌い上げる百恵ちゃんは、これぞ本格ロック歌謡といった趣きです。
美しい。(曼珠沙華より)
 
 

        

 

2007年9月27日

会社と言う刑務所の義務、または飲み会と言う強制労働について

 
『鳥かご通信』 (2007年05月19日)
 
鳥は大空を羽ばたくから鳥なのであって、鳥かごに閉じ込められている飼われた鳥は鳥と呼べるだろうか。
ふと疑問を抱いたら、どうしても訊きたくなって、1年前に死んだペットのぴーちゃんにインタビューしに出かけた。

「あなたは鳥ですか?」
 
「ぴっぴ」(そうです)
 
「鳥かごに閉じ込められていて、私たちと一緒にいて、幸せでしたか?」
 
「ぴっぴ」(もちろん)
 
「他の鳥がうらやましいと思ったことは?」
 
「ぴっぴ」(ありません)
 
「なぜ?」
 
「ぴっぴ」(他のたくさんの鳥たちが外に存在していて、大空を羽ばたいている、それを思うだけで私は幸せでした)
 
「ははぁ、鳥類愛ですか?」
 
「ぴっぴ」(いえ、私がそこにいる必要は特になかったというだけです)
 
 
☆☆☆☆☆☆                        
 
 
 
『会社』の飲み会が嫌いだ。
別に私がいてもいなくても、飲む人は飲むし、盛り上がる人は盛り上がる。
私はそもそもお酒が飲めないし、自ら盛り上がるのも苦手だ。なので、周りが盛り上がるよう最善を尽くすほうにいつでもまわるのだった。
または盛り上がる人の笑い屋に徹する。
この笑い屋や気遣いが、かなり疲れる。家に帰るころには、頭がガンガンし、顔の筋肉は痙攣をおこす始末だ。
そんなに無理をしなくても・・・盛り上がらないときは盛り上がらなくてもいいんじゃ・・
と言う人は、ならどうだろう。
盛り上がっている、または盛り上がらない席で、ひとりぽつりと仏頂面(または楽しくなさそうな顔)をしている人がいるのを見つけたら。いい気分だろうか?
盛り上がった雰囲気は水をさされ、盛り上がっていなければますます盛り上がらなくなること請け合いである。
またそれを同僚に見つけられた仏頂面の張本人だって、「私が楽しくないんだから正直にそうしたのよ」とは開き直れない筈だ。翌日、同僚たちに「協調性がない」だの「私たちなんかとは楽しく飲めないのよ」などと、評価を受け、それなりの裁きを受けるに違いないのだ。
その席に参加したからには、いやが上にも盛り上がり、それが無理なら笑い屋を演じる義務がある。
なので、私は自主的に盛り上がれそうもない席は、遠慮するようにしている。
出席を問われたときは行くと答え、当日急に体調を崩したことにして会社を休むのだ。(最初から断るより角が立たない、この方法が一番差しさわりがないことに気付いてからはそうしている)
あまり頻繁に社内の飲み会を催されると、当日休みが増えてしまうので、本当に好い加減やめてほしい。
仲のいい人たちだけが飲みに行けばいいのだ。どうして、会社の(部署)全員が参加しなければならず、全員が同じように楽しむことを強要するのか。
私は私がその場にいなくても、みんなが楽しく過ごしているならば、それで幸せなのだ。
それでももし、集団の一員としての私がいなくてはならないというならば、どうか。
皆と同じように盛り上がれない、協調性のない私を、赦してくれ。
 
 
 
  

ビジネスとしての刑務所

 
『十字架を背負うと言うサービス』 (2007年05月13日深夜)
 
初の民間刑務所が開庁式 法相「質の高い矯正教育」
 
国内で初めて、建設と管理運営の一部を民間に委託した刑務所「美祢社会復帰促進センター」の開庁式が13日、山口県美祢市であった。名古屋刑務所で起きた刑務官による受刑者への暴行事件で失われた刑務所への国民の信頼回復と、新たな刑務所設置による経費の節減を狙ったもので、民間の資金や技術、経営能力を活用した「PFI方式」を採用。コンクリートの塀に囲まれた閉鎖的なイメージを一新し、ハイテク機器の活用によりスマートな監視体制を敷いている。
 式には約300人が出席。長勢甚遠法相は「民間の創意工夫を生かした質の高い矯正教育などで、安全な社会の実現に向け、期待と信頼に応えることを願っている」と述べた。
同センターは、国が約28ヘクタールの用地を確保。大手警備会社などで構成された民間企業グループ「社会復帰サポート美祢」が建設し、管理運営の一部を平成36年度までの18年間担当する。民間委託額は総額517億円で、これまでの方法に比べ約48億円節減できたという。
初犯の男女各500人を収容。コンクリートの外塀や鉄格子はなく、強化ガラスの窓は10センチ程度開くなど開放的なつくりになっている。受刑者の上着にICタグを付けて居場所を監視するほか、居室に出入りするたびに指静脈画像による本人確認を行うなどハイテクを駆使している。
職員は法務省の刑務官が約120人、民間職員がパートを含め140人。受刑者を取り押さえるなど公権力の行使は刑務官が行い、民間職員は警備、監視業務や職業訓練、食事など担当する。
引用:http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/51650/
 
刑務所とは何のためにあるのだろう?
罪人は、刑務所に入って、罪を償えば良かった。
社会復帰とか、その後の難しい問題もあっただろうが、『罪を犯す→罪を償う』と言うその図式は、刑期を全うすればそこで一旦区切りがついた。単純なものだった筈だ。
しかし、刑務所が民間になったとき、それは明らかに変わる。
目的は罪を償うことだけではなくて、彼らが民間サービスの一環として、商品となることが含まれたのだ。
そうだ、民間に委託して、成り立つからには、刑務所はビジネスとして十分通用するのだ。FPI(プライベート・ファイナンス・イニシアチ)と呼ばれる民間の資金などを活用して公共施設を整備する手法とやらは、民間の設計、建設、維持管理のノウハウを活かした経費削減だけではない。それなら民間だって乗り出さない。運営を一手に引き受けれられる、ここが利益を生み出すのだろう。
スマートな監視体制、外塀や鉄格子はなく、開閉可能な強化ガラスの窓など開放的なつくり。囚人にそれだけのサービスを提供するには、彼らが金になるからだ。
労働力だけではないだろう。
この刑務所の運営に乗り出した美称株式会社のHPを見ると、彼らは融資団や数々のスポンサー、そうして省庁と繋がっていることがわかる。
太いそのパイプラインは、刑期中の囚人と彼らの社会復帰(復帰させること自体とさせた後の人材活用)によって、確実に美称株式会社に利益を生み落とすのだ。

囚人はもはやビジネスのひとつの駒になった。
罪を償うことさえ、大きな利益の流れの渦に組み込まれたのだ。与えられた心地よさとサービスと引き換えに。
この刑務所に行きたい、と願う囚人がいたら、私は頭を疑う。
魂を売り渡すことは、罪を償うことから最も遠ざかっている。
刑務所の意味はない。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
ずいぶん以前のニュースだが。
自分が書いたものながら・・・ 読み返すと我ながら手厳しいと思う。
初犯とか量刑の軽いもののために作られた、社会復帰促進センターと言う位置づけなのだろう。
まぁ、どちらにしても、やっぱり刑務所ではないわな・・
特にコメントなしです。(失礼しました)
 
 
 
 

2007年9月26日

可能性のツケを取る

 
『母の笑顔 ~幸せを象るもの~』 (2007年05月12日深夜)
 
一年ほど前、母が倒れた。
くも膜下出血だった。
遡ること20年前、祖母が同じ病で倒れた。
2週間ほど寝込んだ後、そのまま意識を戻さぬまま、祖母は帰らぬ人となった。
母が倒れたとき、まず思い出したのはそのことだ。すぐに手術も出来ぬほど重態だと聞いて、思わず母の死を確信した。
瞬間、脳裏を過ぎったのは現実的な未来だった。姉は結婚しており、私には伴侶がいない。父と母、ふたりの老人の死に水を取るのは私の役目だと思っていた。もしもどちらかが寝たきりになったら、もしもどちらかが痴呆になったら、もしもそれが両方同時に起こったら。肉体的にも金銭的にも私にできるのだろうか。絶えず、不安はあったのだ。
しかし、母があっさりと死を迎えようとしていた。
これは母が私に与えてくれた幸運ではないか。
ふとそう思ったとき、父がつぶやいた。
「母さんはぽっくり死にたい、寝たきりになって誰かに迷惑かけたくないと言っていたから。もう目を覚まさないかもしれないな・・」
私は明らかに動転していた。
そんなとき、人はもっとも残虐になる。
その現実的な判断が、冷静な思考から生まれたものではないことを忘れていた。

母の病、その死へのカウントダウンが日常的なものになってきたとき、私は初めて未来を描き始めた。
老後の母の面倒を見ることが出来ないかもしれないこと、そうしてもう二度と母は目を覚まさず、そうなったらもう二度と母の笑顔を見ることが出来ないこと。
そのことがつらかった。
私は毎晩願った。
「神様、もう一度、母の笑顔を私にお与えください」
それは感傷かもしれない。夢かもしれない。
現実的ではないかもしれなく、現実的に見たら、今ここで母の死を受け入れていたほうが遥かに幸運と呼べるのかもしれない。
ただの快楽かもしれない。欲望かもしれない。
しかし、私はそれを望んだ。
もう一度母の笑顔を見たかった。

私の強い想いは天に通じた。
心優しき神は、私の願いを受け入れてくれた。
1ヶ月と半を過ぎたときに、母は目を覚ました。
そうして、朦朧とした意識で、歪んだ顔をふと向けて、私に幽かに笑いかけたのだった。
奇跡だった。
死ぬと断言さえした医者はばつが悪そうだ。禍事を避けていた親戚は慌てて戻ってくる。私と姉は泣いた。義兄も姪たちと一緒に。母の笑顔は太陽のように眩かった。

幸せを象るものは、いつでもそんなところからやってくる。
現実的な思考とは程遠い、いつでもその狭間から。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
あのころを思い返すと、私たち家族が宇宙の真ん中でぽつりと孤立させられたような、そんな感じだ。
すべてのそれまでの人々との付き合い、関係性、華やかな事件は、母が繋ぎ合わせていたものだった。
いい年をした私はといえば、丁度その時分、それまでの自己の世界を放棄し、または見捨てられていた。
家族は漂っていた。寒く、暗い地に置き去りにされて。不安だけを道連れにしていた。
 
もし、母が目を覚まさず、その事実を乗り越えていたら、今頃どうなっていただろう。
乗り越えられると言う仮定だが、つらい経験は時とともに癒え、これで良かった、と思えていたかもしれない。
 
しかし、私は不安と言うものがそう嫌いではない、と言うことに最近気がついた。
不安、その不確かなもの、安定しないもの、気がかりなもの、それらには無限の可能性がある。
変な言い分だが、はっきりしていない分、どの要素にもどちらの方向にも転ぶように思われてくる。
この母の事件は、それを証明してくれた。不安はどちらにでも転ぶものであること、それと同時に新たな不安の芽を私に与えたわけだが、それでも私は可能性を失わずに済んだのだった。
私は自主的に自らを不安に晒す。
私の人生がいつまでも限定されないのは、常に可能性に満ちているのは、今まで無意識にそうしていたからかもしれない。
 
あと何十年、何年、母の笑顔を見ることが出来るだろうか。
それを見たいという私の欲望を満たすためなばら、私は悪い可能性のツケをも取ろう。
腹を括る。もしそれが訪れても、決して悔いず。
 
 
                            
 
 

ただいま巡回走行中

 
『ミニクーパーで、走る。』 (2007年05月12日)
 
ローバーのミニクーパーを買った。
念願の車を手に入れた。
神話に出てくる英雄が、神殿とトイレを行き来するために作られた仕様だ。
偉大な車は目が飛び出すほど高かった。
40年のローンを組んでも惜しくない。意気揚々とドライブに出かけ、そうして、誰かの私道に迷い込んだ。
長さ約300メートル、幅約3メートル、中途半端な住宅地の狭間を行ったり来たり繰り返す。出口はない。どこにも行かない。
私道は幹線道路でもないくせに威張っていた。所有者はやはり神話に出てくる英雄だそうだ。迷惑だから出て行け、と再三言うが出口が見つからないから仕方ない。ぐるぐるぐるぐる走るだけだ。
絶望を通り越したら、楽しくなった。
ふと気付けば、ミニは可愛らしく、美しくさえもあり、元気で、ガソリンは切れなかった。
鼻歌交じりにぐるぐるぐるぐる走り続ける。

ぐるぐるぐるぐる。
ぐるぐるぐるぐる。
ただ走った。

そのうちに話題を呼んだ。好奇の目が集まった。
ミニクーパーがただ走り続ける私道は、面白かったようだ。
いつしか幹線道路よりも有名になってしまう。 
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
 
 

2007年9月24日

jeansバンザイ

 
『Levi's 502』 (2007年05月10日)
 
もとはデットストックを安く譲り受けた。
60年代のものだと思う。
太目のシルエット、ジッパーフライ(TALON42ジッパー)、赤タブビッグEにもちろん赤耳。
27インチの『LEVIS 502』だ。
 
体重計に乗ったことはない。一年に一度の健康診断を抜かして、もう何十年にもなる。
体重は気にしだすと切りがない。0.5キロの差に脅える。食べることに過度に敏感になり、おかげでますます食欲が増え、太ってしまう。または食べなくても吸収が良くなる。結果は同じだ。
しかし、気にかけなければ、不思議と変わらないものだ。
食欲を管理したければ、制限するより、気にしないことを勧める。
それが一番の抑制方法だと思う。
そんな私でも、体重が気になるときがある。
たいていは、仕事や遊びが過ぎたとき、忙しさにかまけて自己管理を怠ったり、不摂生が祟ったりして、体に異変を来たす時だ。
どうも調子が悪い。なぜか。
私の体に、何が起こっているのか、それを教えてくれるのは、体重計代わりのお気に入りの一本、前述の『LEVIS 502』である。
このジーンズがきつく感じるときは、ベスト体重を上回っている、危険信号だ。意識的に食欲を節制し、食生活を気にかけなければ、体調は治らない。
夏バテの時は、ゆるく感じられる。ウエストに腕が一本入るくらいならば相当やばい。冷房を控え、養生し、精のつくものを食べなければ。
またはウエストがきつく、他はゆるいときもある。反対に腰はゆるく、尻または腿あたりだけがきつく感じられるときも。
体の痛んでいる箇所が、穿き心地でわかる。
私の体をもとに、私の生活を管理してくれる優れものだ。
この『LEVIS 502』が美しく、自然に、穿けていればそれでいい。
私の愛しき看守である。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 
会社に行くにはそれなりの格好をしなくてはいけないと重々承知なのだが、うちの会社はジーンズが禁止ではない。
なので、どうしても履きなれたジーンズをはいてしまう。
最近のお気に入りは¥3900で買ったスキニーのブルージーンズだ。腿のあたりが切れていて、動くと足が見えてしまう。
通勤風景で、私だけが遊びに行くような格好をしていると思えるときもあるが。
看守は仕事中も私の体を管理してくれるのだった。
 
 
 
 

 

日本よ、どこへ向かう?

 
安倍首相の陳謝の会見と、自民党福田新総裁の党役員人事のニュースを見た。
党の人事について、古い自民党の体質が戻るのではないか、と批判するような声も上がっているようだが、意外だ。
それを国民も野党も自民党も各省庁も、国そのものが望んでいたのではないかと思われてしまうからだ。
たしかに小泉さんの(構造)改革はそれなりの結果を出した。政府の公共サービスの民営化に国から地方への経済(地域活性化)、そうして「聖域なき構造改革」と謳った特殊法人や特別会計の改革。天下り、癒着などの問題に切り込み、派閥からの解放も勧めた。古い体質から脱却した、国の新しい方向性を示して、描いて見せた。しかし、改革には反動が伴うものだ。安倍さんに取って代わったとき、その反動が一気に押し寄せたのだ。
安倍さんの会見は痛々しくて見ているのがつらくなった。彼はある意味で小泉構造改革の犠牲者だ。
それに比べ、うまく切り上げ、今回の件では安倍さんと比べられて株まで上げた小泉さんの手腕は見事だ。
 
小泉さんが革命を支配していたときは、国(民)は変革が耀かしく見えたものだ。「どこへ向うのだろう?」と。今までの悪い、古い、体質を打ち破り、新たな国を見せてくれるかもしれないとワクワクさせられた。
しかし、安倍内閣になって新しく見せ付けられた「美しい日本」の姿はワクワクする夢の出現とは程遠い現実的なものだった。蓋をし、隠し続けていた問題はここぞとばかりに一気に露呈し、叩かれて問題は悪化し続け、国民は不安に晒された。
「どこへ向うのだろう?」と言う輝かしい期待は、「どこへ向ってんだよ!」と言う激しい突っ込みに変わらざるを得なかった。
構造改革の反動が安倍さん個人に転化されたとき、すべてが彼を打ち負かせてしまったのも致し方ないとさえ思えてしまう。彼には手腕が足りなかった。
しかし、そうなった後で、古い体質が復活するなどと批判するならば。
安倍さんが小泉さんのようにワクワクさせられなかったからといって、あれだけ叩いたのはどこのどいつなのだろうか。
今この混乱した日本には、福田さんのような安定した存在が必要だ。だけど、続きが見たかった。改革をし続けて、この国がどのへ向かうのか、見届けたかったような気がしてならない。もはや、時は遅い。
福田新総裁に期待するしかないだろう。
 
 
  
 

記憶を憧憬しながら今の姿を見たい人

 
『夜に浮かぶ陽炎を探して ~私と煙草の物語~』 (2007年05月07日)
 
隣町へ向かう途中に広いとうもろこし畑があり、その先には深い森があった。
昼間でも人通りはほとんどなく、まるで山奥のように静まり返っている。
同級生のマツオが言った。
「夜中になると、光るんだって」
森の中から蜃気楼のようにゆらゆらと、光が現れ、暫くすると観覧車や回転木馬が闇に映し出される。きらきらと輝くのだ。
まるで、森林にそびえ立つ遊園地、光り輝くそれは、それは、美しい光景だと言う。
ノンちゃんやヒロミは笑い出した。
ガキ大将の彼がまたほらを吹いている。平凡な田舎町にそんな不思議なことが起こるはずもなく、そんな美しい光景が見られるはずもなかった。
ならば見に行こうか、と言う話になる。
線路を越えて、少し歩けばいいだけだ。
幸いもうすぐ夏休みだった。
その計画はいかにも面白そうだった。
 
煙草を初めて吸ったのは19歳の時だ。
本格的に吸い始めたのは20歳だった。きっかけはたわいもない、就職先の友達がみな吸っていたのだった。
学校にいた頃だって、吸っている友達はいた。喫茶店や部屋に行って彼女たちは煙草を吸い、「コレ吸うと痩せるんだよ」と私に勧めた。
その頃私は部活動をやめて太り始めた体型を気にしていたので、その誘いに惹かれないでもなかったが、彼女たちと一緒に吸うことはなかった。
そちら側には行きたくなかった。
煙草を吸うということは、「一線を越えること」であり、田舎の女学生だった私にとって、そのこちら側とあちら側の隔たりはとても大きく感じられた。私は超えたくなかった。
みなが楽しそうに煙草をくゆらすあいだ、いつもつまらなそうにコーラやピクニックを飲んでいた。
しかし、就職先の仲間は違った。
年の若い私は、社員の先輩たちよりも、アルバイトの大学生や短大生と仲良くしていた。
彼女ら(彼ら)はもちろん不良ではない。職場に近い都会に住んでいて、ある程度の品のいい家庭に育ち、優秀な学校へと通っていた。
それは田舎から通う私にとって、眩い存在だった。
きっと煙草がファッションとして成立する時代だったのだろう、彼女らは煙草を楽しんでいた。まるで彼女らの人生と同じように。笑いながら。
それは、スタイルのひとつだったのだろうと思う。
私はまるで処女や童貞であることを恥じるかのように、彼女たちに対して、こちら側にいる自分に対して、負い目を感じた。
一線を越えたかった。
その先には、私の知らない、輝かしい世界があり、私は切実にそこへ行きたかった。
私が煙草の美味しさに気付き、愛し始めた頃、彼女らは卒業をして去っていった。
ひらひらと笑いながら、たくさんの思い出を残して。
たぶん彼女たちはそうして大人になって、相変わらず軽やかに笑いながら、煙草を吸ったのと同じ理由で、恋を楽しみ、結婚をし、今を過ごしていることだろう。相変わらず輝きながら。
そうであって欲しいという希望だけかもしれないが。
もちろん煙草は、今は吸っていないだろう。
私だけが取り残されたのだった。
 
友達たちは、夜の森が輝き始める前に帰ってしまった。
十分楽しんだ。夏休みの遊びは終わる時刻だった。
取り残された私は呆然とたたずんで、まるで意地になって、夜道に座り込み、ひとり呟くのだ。
「もう少しだけ待っていれば、きっと見れたのに・・」
きっと輝き始める。
立ち上がって、踵を返して森へと向かうのだ。 
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
煙草を吸うのがお洒落で粋な時代だった。
現在は吸わないほうが健康でスマートな時代である。
だからと言って、では吸わない人々に憧憬を抱き、吸わないと言うスタイルに共感を覚えるわけでもない。
若かったのだ。自分が一番耀いていた時代に憧憬を抱いた事柄、もの、人々と言うものはそうそう代えられない。そのころの想いや感じたことと言うものはその後の人生やその後の生き方を左右してしまうだけのインパクトがある。
たとえばそのころ憧憬を抱いた人々、漫画家で言ってみると萩尾望都やくらもちふさこや木原敏江が今どんなにおばあさんになっていて、くだらないデッサンの狂った漫画を描いていようと、私は幻滅しないだろう。彼女らの漫画と言うだけで、きっと頭が上がらないようなひれ伏すような気持ちに陥るはずだ。
私の人生に影響を与えた彼女たちを幻滅する、と言うことは私の生きてきた人生そのものに幻滅すると言うことだ。そんな馬鹿はしない。たとえメタくそにけなしたい新作を出そうが関係ない。私は当時の記憶、若かった私の時代そのものに今度は憧憬を抱き、自慰行為をするように、彼女らの作品をいとおしんで読むに違いないのだ。
そういう意味で、どんなに落ちぶれても決して幻滅せず、時代に憧憬しながら現在を見てみたいスターが何人もいる。
いつか海外に行って、場末の落ちぶれたbarでキース・リチャードとスティーブン・タイラーがギターをかき鳴らし、歌う姿を見てみたい。彼らは決して落ちぶれないかもしれないが、落ちぶれた姿と言うのがまた当時の耀かしさを盛り上げる要素になるのだ。(なので私の想像上の未来の彼らはいつも落ちぶれている)
ロックスターで言うと3大「時代と記憶の自慰行為的ライブ鑑賞」を希望する人たちだが、最後のひとりはもう死んだ。
言わずともがな、ジョン・レノンである。
やつは落ちぶれた姿どころか現在さえも見せてくれなかった。彼自身の耀いた記憶のまま死んでしまった。
生きているときだけでなく、死んでからも。
ファンに対してわがままなのだった。
 
 
                                 
  
 
 

楽園ツアー

 
『楽園の崩壊 ~大阪府エキスポランドの日本初のジェットコースター事故を憂う~』 (2007年05月06日深夜)
 
GWの惨事…ジェットコースターで1人死亡、21人重軽傷
 
5日午後零時50分ごろ、大阪府吹田市千里万博公園2、万国博記念公園内にある遊園地「エキスポランド」で、6両編成のジェットコースターが走行中、2両目が脱輪して大きく傾き、乗客の20代の女性がコース脇の鉄柵に衝突して死亡、女性1人が重傷、男女20人が軽傷を負った。
エキスポランドによると、2両目の前方左側についている車輪の金属製の車軸(長さ40センチ、直径約5センチ)が折れたのが原因。車軸を検査したのは昨年5月に解体した際が最後で、月1回の定期検査や日常的な目視点検の対象ではなかったという。
府警捜査1課は業務上過失致死傷の疑いで吹田署に捜査本部を設置した。関係者から事情を聴くなどし、事故原因の特定を進める。
吹田市消防局によると、事故を目撃した客ら10人以上が気分が悪いと訴え、病院に運ばれた。
調べなどによると、ジェットコースターは「風神雷神II」(全長1050メートル、高さ約40メートル)。1両当たり乗客4人が立って乗る形式で、定員は24人。最高時速は75キロ。
事故はコース後半で発生。エキスポランドによると、コースが旋回している付近で車軸が折れ、一部が地面に落下。さらに約100メートル進んで2両目が左に傾いて止まった。真下の地面に外れた車輪が落ちていた。
車軸はナットで覆われた部分が破断した。
事故当時は男性4人、女性18人が乗っていた。同消防局によると、死亡した女性は2両目の左前部に乗り、顔面を強く打って即死したとみられる。
事故の約20分前に乗った女性客によると普段より揺れが強く、「ガガッ」という異常音もしたという。
エキスポランドによると、遊園地はゴールデンウイークでにぎわい、正午現在で約5000人の客がいたが、事故を受けて臨時休園した。
引用:http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/50520/
 

遊園地と言うと思い浮かべるのは、休日。
家族揃って出かける場所であり、恋人同士が過ごす場所、人々が楽しむところだ。
楽園、と言うのは大げさな表現だが、ディズニーランドを例に出さなくても、やはり非現実的な「夢的な世界」と言うイメージがある。
その夢の休日の象徴である遊園地で惨劇が起きた。
しかもゴールデンウィークの最中にだ。
続報によると、エキスポランドは1992年3月の運行開始以来、今回折れた車軸を一度も交換していなかったそうだが、それ以前に月1回の定期検査や日常的な目視点検の対象ですらなかったというところが凄い。
人間だって日々快適に過ごすためには、年に一度くらいは会社や行政機関で健康診断をするというのに、大勢が楽しく過ごすための空間である、その夢の担い手としては、あまりにもお粗末な話だ。

楽しいことは度を過ぎると快楽になり、必ずそれを誘発するビジネスが絡んでくる。
人は禁欲的に生きられるほど強くはないし、日本のビジネスは世界的に見てもレベルが高い。その筋のプロから誘われたら、いちころだ。易いほうへと流れてしまう。
快楽からそれにのめりこみ不摂生に陥らなければ、またそれがたたって破滅するようなことさえなければ、人は自己責任において、楽しいことを選択して生きていくのもありだと常日頃から思う。
しかし、今回の事件によって、日本のレジャー産業自体に疑問を抱き始めた。
おいおい、そんな好い加減だったの?
それってありなのかな?
と正直驚いてしまう。

エキスポランドは例年1-2月、コースターを解体して超音波や磁気で部品の内部亀裂がないかどうかを確認する探傷検査を行うが、今年は作業場所がないとの理由で、ゴールデンウイーク後の今月15日に先送りしていたそうだ。また同施設の管理部長は、「金属疲労の場合は日々の目視点検では見つけられない」とのたまい、「加工上の欠陥はメーカーの問題になる」とメーカーの責任を示唆している。
(製造したトーゴと言うメーカーはすでに倒産していて、責任転嫁のしようもないが・・)
また、園内の大半の遊具では、部品の耐用期限を定めておらず、問題が見つかるまで使い続けるのが一般的だそうだ。
 
この事件、様々な波紋を呼びそうだが、日本のレジャー産業に不信感を与えた、その打撃は大きい。
こうなってくると、現代では自己責任において、禁欲的に生きるのもありかなぁ、などと神妙に思ってしまう。
もしかしたら今後、不摂生により破滅するのは、個人レベルでは済まなくなってくるのだろうか、と。
快楽どころか、日々楽しいことさえない人々が、不幸せとは呼べなくなる日も近いのかもしれない。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
最近禁欲的に生き過ぎて、破滅はしないが幸せとも呼べない。
少し楽しい気分を味わってやろうではないか、と三連休の昨日意気込んで遊園地へと行って来た。
向かうは花やしき、日本最古の遊園地である。
ここのジェットコースターは大丈夫だろうなぁ、と不安に思うが、それ以前に高所恐怖症&スピード恐怖症のためジェットコースター自体が苦手なので、悩む間もなく乗らない。日本に現存するコースターでは最古の「ローラーコースター」がある。花やしきは戦後再開園(昭和22年)した際に東洋娯楽機(後トーゴとなる)との共同経営で、2004年になるまではトーゴが経営していたので、このコースターも少なからずトーゴの影響を受けていてる。もちろん点検はしっかりしているだろうが、私の恐怖症を打ち消すほどの魅力は感じられない。きっと逞しい彼氏と一緒だったら違っただろう。「怖い!」などときゃつの腕につかまりながら恐怖症や危険の可能性をも顧みず、トーゴ製かも知れぬコースターにホイホイ乗ったと思われる。
花やしきの入場券が可愛らしかった。
昔のキップを覚えているだろうか、あんな感じの硬い紙の小さな紙片の券である。子供と大人とシニアがあり、色が違う。(私は記念として大事にしている)
コピーも面白い。パンフレットによるとこうある。「古くて、狭くて、こりゃまた愉快!」
確かに愉快だ、こんなに狭い、ごちゃごちゃした遊園地を始めて見た。ディズニーランドやディズニーシーの何十分の一なんだろう、と想像してみる。(知っている人いたら教えてください)たぶん私の過ごした小学校の校庭より狭い。その中にわんさかと人がいる。アトラクションや遊具が所狭しと存在する。が、その割りにけっこうまとまりが良いのだ。外枠を店とジェットコースターが囲み、内側の空間に人(道)があり、真ん中に池と小高い丘(展望スペース)があり、それを囲むようにスカイシップとヘリコプターと言うふたつの園内周遊のアトラクションがある。(これ短すぎて乗ると一分くらいで終わります、笑)ちょうど二重丸みたいな造りであった。これだけ狭いのにうまく工夫して、よく空間を生かしているもんだ、と妙に感心してしまった。
 
 
  
 入園してすぐの景色(左)すぐ真横をコースターが走っていきます。Beeタワーとスカイシップ(右)写真はよく見えませんが、花やしきだけあって園内は花だらけです。
 
三連休だけに、園内のステージで可愛らしい女の子が制服姿で歌って踊るショーもあり、なぜか物凄い数の本格的な長いレンズのカメラを携えたプロのお兄さんがおり、(失礼、もしかしたらアマかもしれない)激写連発、私も負けじと激写をし、とにかく楽しい一日でした。
パンフレットのキャッチコピーにはこう続く。
「笑顔の老舗、花やしき」
うーん、なるほど・・・思わず唸ってしまいました。
幸せでなくてもいいから、年に一度くらいは遊園地に足を運びたいものだ。
好きな人と一緒なら、死んでもいい。
そんな気分にふとなった、花やしきツアーでした。(了)
 
 
              
 
 

 

2007年9月23日

いじめに対する認識を変える

 
いじめごっこで鬱憤を晴らす (2007年07月16日深夜)
 
小学校6年生のとき、いじめごっこが流行った。
のーちゃん、ヒロミ、ヤヨ、ジン、私、5人グループの一人ずつを順番にハブにしていく。
私は一番最後で、一番最初のターゲットはたしかヒロミだったと思う。
ヒロミ、ジン、ヤヨ、のーちゃん、私。大抵は3週間から一ヶ月で仲直りをする。今までクソミソにけなしてシカトしていたのに、一定の期間が過ぎるとふとした何かをきっかけにまた、何事もなかったかのように仲良しになるのだった。
印象に残っているのは、のーちゃんのときだ。
のーちゃんはもともと5年前、私がこの町へ引っ越してきたとき、一緒に同じクラスに編入した転校生だ。
境遇が同じだったせいか、席が隣同士になったためか、私とのーちゃんはすぐ仲良しになった。
毎日一緒に登校し、帰宅し、放課後にふたりで遊んだ。お互いの家をよく行き来し、両親公認の親友となり、お正月には私の母が姉妹のような私たちに着物を着せて、ふたりで近所の神社へとお参りに出かけた。
年が変わり、2年生になっても、友情は変わらないと信じていた。
だけど、のーちゃんは新しいクラスの友達を作り、私がどんなに遊びに行っても、相手にしてはくれなくなる。
彼女の家には常に新しい親友のアケミがいて、決してその仲間には入れてくれないのだった。
そんな経緯があったせいか、私はその後グループの一人として彼女と再び仲良くなったときに、「そういう人だ」という認識を作っていた。
決して以前のように深く友情を抱くこともなかった。
これを知らなかったのが、ジンだ。
ジンは5年生のときの「のーちゃんのステディ」だった。
6年生になって、グループで遊ぶようになり、のーちゃんは決してジンとふたりきりで遊ばない。ジンはふられた男か捨てられた子猫のように落ち込んでいた。私たちに「のーちゃんのーちゃん」と彼女の話ばかりをしては、自分は他の仲間より彼女と特別な関係なのだと言うことを誇示しようとするが、その度にのーちゃんから他の皆と同じ、公平な扱いを受けて、うなだれていた。

のーちゃんは仲間はずれになっても、屁とも思っていなかったと思う。
そもそもが人気者、美少女で、学校の成績も良い。友達になりたがる子はたくさんいた。
彼女は他の(少し派手めな)グループに入り、私たちのグループのことなど忘れたかのように、学校生活を楽しんでいた。
私たちはそれが気に食わなかったのか、積もる鬱憤でもあったのか、それともそろそろ仲直りをしたかったのか、記憶は定かではないが、ある日のーちゃんを呼び出して、話し合いをすることにした。
私たち4人と新しいグループの友達ふたりと、計7人で団地の空き地に腰を下ろして、輪になって語り合った。
しかし、話し合いとは表向きで、ほとんどは個人攻撃だった。
傍観者ふたりを除いて、4人の仲間はそれぞれのーちゃんに不満をぶつけた。その間、のーちゃんはずっと斜め下を向いて、石ころを睨んでいる。
一番ひどかったのは私だったと思う。
話しているうちに感情が高ぶってしまったようだ。
4年の前のこと、2年生のときの仕打ちまでも思い出されてきた。
彼女の家の玄関先で2時間くらい待たされたこと。
その間、彼女はアケミとふすまで仕切られた先の部屋で笑っていたこと。
エトセトラ、エトセトラ。
私たちは彼女にこうして欲しい、そうしてくれたら仲直りしてもいい、と言うような横柄で傲慢なことを言ったのだと思う。
そうして同じように横柄で傲慢に、のーちゃんは最後まで斜め下の石ころを睨んでいたのだった。

子供は邪気がない。
悪気などない。
私たち4人とのーちゃんはその後何事もなかったようにまた遊び始めた。
いじめごっこのローテーションが終わったのだ。
皆が同じように味わったことだった。
しかし、このときの傷のせいか、ジンは二度と私たちと対等には付き合わなかった。ハブられたとき仲良くしていた自閉症のチハルちゃんをグループに入れようとして、なんとなく皆とギクシャクしたりした。

卒業式を迎えた。
卒業文集が配られて来て、私は仲間たちの作文を読んだ。
のーちゃんとヒロミとヤヨは私たち5人の友情の話を書いていた。
ジンはのーちゃんとの深い友情について。
私は1年生から6年生までにお世話になった先生について書いていた。
なぜかそれが不思議だった。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
TVのニュースで若者が言う。
「直接いじめられるなら殴り返せる。しかし匿名だと相手がわからないから殴り返すことも出来ない。ただ人間不信に陥る」
そうして徐々に追い詰められ、死を選ぶ。
これは殺人なのだ。
 
はじめはいじめられる対象といじめる相手、または集団との問題だろう。だけど、そのいじめの手段としてネット(上のサイト)を利用することによって二次的な問題が発生する。
まず、いじめの現場を他の人に見られること(トイレやたまり場ではないのだ)、それによっていじめれらる相手がますます集団(または社会)からの疎外感を持つこと。
よく知らない相手にまで見られることで羞恥心や傷つけられる自尊心はますます深くなり、周囲に顔向けが出来なくなってくる。
次に、そのサイトを見たすべての人が、中傷記事を読んで対象をそういう人間だと少なからず信じること。
最悪なのは、信じようと信じまいと、よく知らない人々までが尻馬に乗ってしまうことだ。中傷は集団だと心が痛まない、憂さ晴らしにはもってこいである。
二次的な問題がここまで来ると、もう打つ手はない。
100人いる島で、99人に非難されるようなものだ。
最後の一人である自分だって、きっと自分のことを99人が言うような人間だと信じてしまうことだろう。時間の問題だ。
どんなに強靭な精神力を持っていようと、関係ない。誰だってまいる。ましてや少年や少女ならひとたまりもない。自殺の道を選んでしまうのは致し方ないとさえ思う。
 
しかし、私はそれを認めるのはどうしても悔しい。
相手を殺せなくても、誰かさえわからないそんな人々のために自分を殺すならば、他に解決方法はないかと思う。
繰り返すがこれは精神力の問題ではないし、ターゲットにされたら100%勝つ見込みはない。戦うにしたって負け戦になることは必至である。
ならばどうする?
相手(いじめる側or集団)のやり方は変えられない。
人間の存在感、この重たいもの、それと面と向って対峙できない人々だ、頭の中で作り上げたターゲットのイメージとしか対峙できない相手でしかない、そして中傷を信じる人々も尻馬に乗る人々もそもそもが無責任だ、決して反省したり味方にはなってはくれないだろう。
だからこう考える。
生きると言うことは難しい。
何事もなく生きていける人生は稀であり、そんな人がいたら奇跡だ。すべての人々は決してのほほんと生きているわけではなく、生は食うか食われるかの戦いなのだ。
ネット上の、匿名であなたを批判する人々は、生きると言うこのサバイバルゲームであなたが勝利を修めるためのアイテムだ。
彼らすべてはあなたを鍛えるために天から遣わされた恩人である。
もちろん、恩人といっても卑屈になる必要もない。ただ相手は自分の欠点を教えてくれ、現実世界で存在を消す、または大きくする方法を諭してくれ、この世の掟を身を持って叩き込んでくれる存在で、ここはサバイバルレースの訓練場、あなたが成長するための道場であり、それ以上でもそれ以下でもなく、ましてや死ぬ必要などまったくないということを頭に叩き込む必要がある。
つまりは認識の問題だろう。(本当に鍛えるかどうかはこの際置いておこう)
 
一度ターゲットにされたらこの発想をいやと言うほど叩き込まない限り、生き残ることは不可能だ。
そして、この問題を乗り越えない限り、寿命を全うすることもありえない。
人生はもっと過酷で残酷だと言うことだ。
 
 
                               
 

2007年9月21日

燃え尽きる余暇

 
『あなたのエネルギーとなるものは何ですか?』 (2007年05月05日深夜)
 
最近本で読んだ言葉だ。

“人生で必要なものは、じつは驚くほど少ない。
一人の友と、
一冊の本と、
一つの思い出があれば、それでいい。”

五木寛之さんの『林住期』と言う本の中にあった。
 
“人は生まれてくるためにもエネルギーは必要だが、
死んでいくためにはさらなる生命力が必要なのだと。
ひまわりは燃えながら枯れていくのである。”
 
なんと、死んでいくには、今まで生きてきた以上のエネルギーを要するらしい。私は今後の人生を、余暇としてのんびりすごしたい、と思っていたが、それは甘い考えだったようだ。まだまだ、燃え尽きるまでがんばらなくてはならないらしい。
しかし、自信はある。
一つの思い出があればいいところを、幾つも抱え込んで生きてきた私のことだ。
必要なものは、すでに私の中にある。
たくさんの方々から、すでに与えれたから。 
 
退屈凌ぎで燃え尽きる、そんな余暇を過ごす予定だ。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
現在の退屈凌ぎは写真だ。
凄いと思う人に声を掛けることはたやすい。一目置いていても平気である。そう緊張しない、人の上に立ちたいとか、力を誇示したいとか、さっぱり思わないタイプらしい。下で甘んじる癖がある。たぶん次女のせいだろう。(と自分では分析している)
しかし、度を越えて凄いと思う人に出会うと、もう駄目だ。借りて来た猫のようになる。
凄すぎて、恐れ多い。声を掛けられなくなる。
そういう場合、努力し、何とか実力をつけて、その人にまず認めてもらうことがその日からの私の目標になる。
相手が声を掛けてくれるのをじっと待つのだ。
まぁ、度を越えてすごいと言う人はそうそう出くわすこともないので、私の人見知りも度を越えることはないようだ。
 
写真と言うのは誰でも撮れる。間口が広いが、実際はそううまくはいかない。同じ被写体を撮っても、実力の差が歴然と現れてしまう。
その世界は、アマチュアでも凄い。プロでもないのに、度を越えて凄い方々が大勢いらっしゃる。
何人かにはお声を掛けていただいたが、死ぬまでにすべての方と会話を出来るようになるかは疑問である。
新しいカメラがほしいと思いつつ、今日も余暇を過ごす。
 
 
 
 
                 
 
 

2007年9月19日

美味しいカレーの食し方

 
『美味しいカレーの作り方』 (2007年05月04日)
 
生まれて初めて、サンジェルマンのパンを食べたときは、その価格に驚いた。味ではない。それならヤマザキの菓子パンのほうが美味しいと。
味オンチだ。
そんな私だが、本物のカレーを作ってみたい。
スパイスを複合して作った、インド人をもびっくりさせるような、本格的なカレーを作りたかった。
ハウスのルーを使ったカレー味のカレーではなく。
何種類ものスパイスを買ってきては、試してみる。
ウコン、コエンドロ、シナモン、コショウ、オールスパイス、ガラム・マサラ。

けれど私は知っている。
味オンチの舌ではなくて、別のところで覚えている。
この世で一番美味しかったカレーのことを。
子供の頃。真夏の夜の草の上、田畑の傍にぽつりとあったグラウンドで、キャンプファイアのような大きな火を焚き、それを囲んでカレーを食べた。
自治会の役員さん、大きい子供に小さい子供、そのお母さんにお父さん、それからおばあちゃんにおじいちゃん。みんなで一緒に食べたのだ。
風が恋しくなるほど汗をかいて、それでも空気は澄んでいて、笑い声が聞こえてきた。どんなスパイスも敵わない。
夢に見る。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
カレー味のうんこか、うんこ味のカレーかと言う究極の選択があったとする。
あなたならどちらを食べますか?
もちろんどちらも嫌だ。究極だけあるのだ。で、しばし考える。
 
まず、カレー味のうんこ、これは味がカレーなのだから、見た目さえ気にしなければ(目でも瞑って食べれば)いけないことはない。普通のカレーと変わらず、美味しく食べられるかもしれない。
ふむ。こっちで決まりかな、と思いかけ、ふと食べる瞬間を思い浮かべる。
だめだ。たとえ味がカレーだろうが、今、口の中に含んでいるものが、お尻の穴から出てきたものだと想像したらもういけない。きっと私はどんなに本格的なインド風味の美味しいカレー味うんこでも食べられまい。
一方、うんこ味のカレー、これは一見いかにもまずそうだ。だって、うんこ味だもん。。
見た目がカレーだって、うんこ味はうんこ味だ。食べられまい、と断定しかけてふと思う。まてよ。
うんこの味って、どんなだっけ??
幸いにも私はうんこを食したことが生まれてこのかた一度もない。うんこの味がわからない。想像できかねる。
とすると、ただのまずいカレーとそう意味は変わらないかもしれない。
決定だ。私の究極の選択は、うんこ味のカレーなのだ。
 
と、ここまで考えて、もいちどまてよ、と思う。
これがうんこ味だからいいものの、もしうんこの匂いだったらどうだろう?
だめだ、だめだ。絶対食べられそうもない。
だってうんこの匂いだもん。。。自分のおならの匂いだって我慢できないのに、うんこの匂いのするカレーなんて食べられまい。
一方、カレーの匂いのうんこならどうだろう?
こっちはいけそうである。スパイス、トマトやナスなど夏野菜を炒めてトッピング、とろけそうな牛肉、そんな薬味と炒め物の香ばしさとバターの匂いでもしていたら。
醤油とソースをちらりとかけて、ぱくぱく食べてしまうに違いない。
ああ、絶品なる、我がカレーの匂いのうんこよ・・・
 
だからなんだと言うことはない。
もしあなたがカレーを食べるとき、大勢で美味しく食べるその一瞬に。
今宵の小ネタを思い出してくれたら幸いである。
これだけうんこうんこと連発したのだ、ふと連想し、カレーがうんこに見えてくるかもしれない。
 
私はそれを想像し、家でボンカレーでも食べてやろう。
むふむふとほくそ笑み、ひとり楽しくカレーを食べよう。
 
 
 
   
 

 

2007年9月17日

ベストセラーの怪

 
『人間失格』 ~愛のために欺き続けた男~ (2007年05月26日)
 
傍から見たら不幸だと思われる理由が何一つないのに、幸福だと感じられず、不幸だ、とはよく聞く悩みだ。
もちろんよく聞くのは決まって物語の中で、世間の人はそんなことは口にしない。大抵理由は、自分が思う(見る)自分と、世間が思う(傍に見せる)自分とが食い違っていることから生じる悩みだ。
この作品も然り。『人間失格』

誰でも一度は読んだことがあるだろう。
長い間、私はこの小説の意味を、解説通りに捉えていた。
つまり、「真に人間的にあろうとするものは、人間であることの権利を剥奪される」という―
太宰は「人間失格」と言うタイトルに現される主題を、強烈な皮肉を込めて書いたのだと。
人間としてまともに生きていくためには、まともであってはやっていけない、それが世間的なまともな人間だと。
「ねぇ、そうじゃないですか?あなた。あなた、失格してませんよね?」
そんな太宰の問いかけが、聞こえてくるような気がしてならなかった。

しかしだ。
最近それは、誤解ではないか、と思い始めた。深読みだった。太宰は額面どおり、単純に、人間失格の自分の話を書いたのではないかと。
彼は小説の最後に、他人の口を借りて自分をこう評している。
「私たちの知っている葉ちゃんは、(中略)神様みたいないい子でした」
この小説が太宰の失格した人生を正当化するために作られたものならば、ラストにこの一文を選ぶだろうか。
最後の最後に、彼はこの言葉を書いた。唯一の救いとして、遠慮がちに主張してみせたのだ。
太宰は、本当に自分のことを「人間失格」だと信じていたのではないだろうかと。
そうだ、この小説は、それをただ言いたかった。
人として、生を愛するひとりの男が、愛するがゆえに、魂を売り続けて堕ちていくその末路を。
彼は書き記したかったのだ。
身を持って、私たちに、示したかったのだと。

哀れだ。
絶望さえも尽きるほど自分を欺き続け、ついに持ち堪えられず死ぬ間際になって、それでも、私たちに嘘の愛を投げつけた。
俺を見ろ。目を逸らさずに見ろ、と。
わずかに残った魂を売り尽くして、私たちに与えてくれたのだ。
そうだろうとも。
たとえ、誰がなんと言おうとも太宰は、
「神様みたいにいい子でした」 
 
 
 
☆☆☆☆
 
 
 
テレビで「あらすじで楽しむ世界名作劇場」なる番組を見ている。
スティーブンソンの「ジーギル博士とハイド氏」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」、綿矢りさ「蹴りたい背中」、どれもよくプレゼンされている。感心しながら楽しんでいる。
しかし、なぜか太宰の「人間失格」だけがひどすぎる。
プレゼンターはウェンツ瑛士だったが、もう少し何とか、うまく紹介できなかったものか。
太宰の作品の中では一番暗くて、あまり好きなほうではないのだが、それでも何ともいえないやるせなさを覚えた。
まぁ、彼の作品は「見るより読め」と言ったところか。読まないと価値がわからないのかもしれない。読んでいる人も多いようだから(日本の2大ベストセラーだそうだ)今さら詳しいプレゼンをする必要もなかったと言うこともあるのかもしれない。
そろそろ読書の秋、読み直してみるのもいいかもしれない。
何度目になることか。
 
 
                               
 
 

仮面を見る

 
『趣味としての制服 ~わたしたちを繋ぐ愛しきもの~』 (2007年05月03日深夜)
 
制服が好きだ。
理由はふたつある。
中学校はセーラー服、高校時代は白いシャツにブレザーだった。
現役の学生時代、私は制服に守られていた。
思春期になると、いろいろな優劣が際立ってくる。
主に外見的なもの、形成され始めた内面を現すものの象徴として、服装、ファッションと言うアイテムは私にとって脅威だった。
制服を着ていれば、皆同じでいられた。
私は肉付きが良くなった体型も、敗者を決め込みたるみ始めた心も、比例するように鋭利になっていく自意識も、すべてを隠すことが出来た。制服によって。
他者と同化し、それによって他者からの評価、その残酷な審判さえも拒絶できた。
もちろん制服だって最大限にお洒落はできる。
ある友人はセーラー服のリボンを○センチにし、スカートの丈は踝から○センチと決めていた。それが当時の「お洒落」のルールだった。
別の友人はブレザーの丈を短くした。ウエストの○センチ下、スカートの丈は膝上○センチと決めていた。
彼女たちはお洒落で、私よりも何十倍も美しかった。
しかし、変わりはなかった。
制服とはそのように、私たちを「個性」という怪物から守ってくれる聖域だった。
私たちを繋ぐ、唯一の存在として君臨していたのだ。

もうひとつの理由は現在だ。
私は卒業し、様々な個性が渦巻く社会へと放り出された。
見よう見まねで借りてきた外見上の個性を経て。何度も転び痛い目に合いながらやっとのことで形成された自我と、飽きるほどに持て余してやっとのことで失いつつある自意識を引っさげて。
私はファッションを純粋に楽しむ。
私は他と違うことを誇る。
個性を現すことを、高らかに謳い、歩いていける。
時々は疲れる。
「それ」をいまだに脅威とする人々は、社会に溢れている。
私はそんな心優しき人々と、私自身との狭間で、調整して生き、時に戦い、昼を終え、夜はそっと仮面をつける。
守るためではなく癒しとして。
私と彼らを繋ぐために。
無個性に変わるのだ。 
 
                          
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
とあるblogでマスコットメーカーなるものを見た。
元総理の安倍さんが面白い。涙目キャラと呼ばれていた。
それでふと思い出したのだが、長い間、私は涙目キャラだった。
20代の頃、会社のパートの主婦に言われたものだ。
「この子、見てよ。涙目なの。ほら、いつも目が潤んでて、色っぽいわぁ」
微笑ましいものでも見るかのように、彼女は艶やかに笑って言った。
涙目が色っぽいなどとのたまう彼女のほうが何十倍も色っぽく、若い社員と色恋沙汰を起したりなどしてたのだが、当時はそんなものかと妙に感心したものだ。
 
いつの頃からか、たぶん最近だろう。
鏡を見ると、私の目は枯れている。
涙目ではなく、ましてや色っぽく潤んでもいない。
何かの間違いかと目を凝らしてみるが、やはり目は目のまま存在している。
 
ついに涙も枯れ果てたか・・・
それとも老化現象か。
 
一抹の淋しさをもって、我が顔を眺めるのだった。
 
 
 
 
 
 

愛と友情を乞う

 
『五右衛門と新左』 (2007年05月02日深夜)
 
最近、青空文庫にはまっている。
パソコンで本を読むのは、そう読みやすいというわけでもない。
しかし、膨大な量の作品群から読みたい本を選べる。
まるで自宅に図書館があるみたいだ。
4月30日付の新規公開作品で「五右衛門と新左」と言う物語があった。
忍術に長けた五右衛門と頓知で世を渡る新左、世は戦国時代、ともに秀吉閤に仕えている。
ふたりには共通点があった。
「世の中が莫迦(ばか)に見えて仕方が無い」
と言うのがそれであった。いつもふたりで語り、世を見下し、笑いあった。
ある日、太閤殿が五右衛門に訊いた。
「お前は飛行できるかな?」
五右衛門は、「いと易いことでございます」と答え、忍術で祇園会の場所へと飛んでいく。驚く秀吉にさらに美膳や珍酒、菓子を振舞い、騒がしいほうがいいだろうと人々を喧嘩させて見せたりする。
それ以来、秀吉は五右衛門を疎むようになった。
恐ろしいやつだ、と思ったのである。
その気持ちが五右衛門にも伝わり、五右衛門はやがて城を去ってしまう。
根が快楽主義らしく、剽盗になって愉快に過ごす五右衛門だが、彼が去ってがっかりしたのは新左だった。
悠々と飛び出した五右衛門と比べ、城に居続ける自分がつまらなく思える。
彼は得意の頓知がうまく出ず、日々、楽しまなくなってしまった。
あらすじを書くと切りがないのだが、この物語、対極的な五右衛門と新左を通して、いろいろな教訓を私たちに伝えているようだ。
忍術(力)よりも、頓知(頭)が勝ること、または放埓に生きるよりも、地道に耐えて生き続けることのほうがより難しく、尊いこと。
物語の最期に五右衛門は新左の機転によって捕らえられてしまう。
無敵の忍術も新座には敵わなかった、と言う結末がそれを静かに匂わせている。
しかし、そのような教訓よりも、私が心に残ったのは、この五右衛門と新左、ふたりの友情の深さだった。
五右衛門は秀吉を暗殺しに向かう。
しかし、あと一歩と言うところまで追い詰めておきながら、新左の頓知に出くわして邪魔される。
久しぶりの再会、五右衛門はさも嬉しそうに「アハハハハ」と笑いながら頓知に答え、秀吉の変わりに坊主を奪って去っていくのだ。
坊主は翌日死骸で発見された。
暗殺を失敗した五右衛門は面目を失い、新たな雇い主のもとを浪人し、再び剽盗の賊になる。
新左によって捉えられるまで。

辻堂の縁の下から伸びた足。傍にある瓜を見て、あれは昼寝をしている賊だと新左は自信を持ってそう言った。
まさしく賊。それが、石川五右衛門だった。

この時、新左はどんな想いがしたのだろうか。
頓知が勝ったこともあろう、しかし、秀吉ではなく坊主を殺したのは、それだけではないはずだ。もちろん新左も知っていた。五右衛門が去ってあんなに嘆いた彼のことだ。五右衛門が賊に戻った経緯を必ず。
新左の想いを想像すると、やるせない。
美しい友情物語だった。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
愛や友情と言うのは、愛や友情の概念とは似ても似つかない。
されとて、私が抱く愛や友情の概念は、映画や小説や感動的な物語から得たものだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、世間一般の人々だってそう変わりはない。
愛や情に飢えて、淋しく、空しく、感じるときは大抵、物語の既成概念を基準としている時だ。
 
 
 
 
 
もしそんなものを蹴飛ばしてしまえるならば、誰だって、私だって充分愛や友情に満ち溢れた人生を歩んでいると断言できるが。
哀しいかな、私は物語の世界観が大好きである。
淋しさや空しさを味わえば味わうほど、私の裡の物語性は耀きを増していくのだ。
 
 
 
 
 

思えばありがたい話

 
『崩壊した神話を嘆く』 (2007年05月02日深夜)
 
少し前、チョコレートのCMでこんなものがあった。
男の子が隣にいる恋人の肩を抱いている。
後姿から映すショットに切り変わる。
肩を抱かれている少女は、恋人のまた隣にいる少年とこっそり手を繋いでいる。
少年はたぶん恋人の友人で、知らぬは当人ばかりなり、友人と少女は深く繋がっていた。
このCMをはじめて見た時、恋人の男の子が可哀想だな、と思う反面、とてもよく状況を理解できてしまった。
こういう色恋的なシチュエーションこそないが、私は他人と秘かに、より深く、繋がっている感を持つのが得意だ。
たとえば3人でいて、私以外のふたりが仲良く喋っていても、私はそのふたりの各々とより深く繋がっていると思うことが出来る、たぶん喋っているふたりの間よりも。
より、相手と通じている、と確信してしまうのだ。
何の根拠もなく、深いつながりを意識できる。
たぶんこれは持って生まれた資質のようなものだろう。
幼い頃、この資質のおかげで私は、幸せな幼少時代を過ごすことが出来た。
姉は絶えず母を独占していたが、私は深く母から愛されている、と心から信じることが出来た。淋しさも、嫉妬も、感じることはなかった。
この私の持って生まれた才能、その神話が崩れたのは、思春期だ。
姉が就職した。
家に生活費を入れるようになって、我が家のバランスが微妙に変化した。
それまで主として君臨し、女三人を従えていた父にとって、それは自尊心を傷つけられるに十分だった。
父は姉に対して卑屈になり、機嫌を取り、そうして私は彼の傷を癒すための道具となった。
父は私を以前に増して「ダメだダメだ」と言っては殴り、蹴り、姉のことをただ可愛がった。
そんなシチュエーションで、それでも、より深く父に愛されている、とは私はどうしても思えなかった。
私の幸せな時代は終わった。
それでも、今でも才能は残っている。
会話をしていなくても、まわりにいる誰もと、より深く繋がっていると感じ、満ち足りていることも多いし、遠く離れている友人とも、(まったく会わなくても)深い絆で結ばれていると根拠もなく信じては、安心していることが出来る。
しかし、時々、相手にまったくこの資質がない場合がある。
そういう人とたまたまぶつかると、うまくいかない。
彼ら(彼女ら)は他人との繋がりを意識できず、私の些細な行動や言動から、私や、私と繋がる第三者に対して、嫉妬しては突っかかってくる。
けんかを売ってくるのだ。
(私は売られたけんかを買ってしまうタチなので、すぐに関係は悪化する)
こういう人たちは、基本的な人と人との繋がりを信じられず、人を無条件では信頼できない。
そうして、せっかく繋いだ絆も、信頼関係も、すべて壊されてしまう。
私は哀しみでいっぱいになるのに、彼らはそれさえも私のせいだと信じ、まだ怒りをとめない。

そんな時、私は思う。
彼らは、私ほどの資質を、生まれながらに持たなかったのだ。
または彼らも過去に神話が壊れたのだ。
私よりも、より深く、強く、崩壊した。
憎むには及ばない。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
私はよく他人から意地悪を受ける。
その意地悪に屈しないと、集団で阻害される。
それらを行う他人の理由は、嫉妬や私に対しての嫌悪感(または悪意)であり、それまでの信頼関係を壊してしまう彼らは実は人を信頼できていないのだ、という正論的なオチを付けさせていただいたのが、上の記事である。
実際のところ、それは疑わしいと思っている。
公然とのたまうのが何となく憚られるから、妥当なところでオチをつけてしまう、と言うことがあるかもしれない。小心者だ。
 
私は、人間と言うのは、好きになった人間、または愛情を得たい相手に対して、力を持ちたい動物なのだと思っている。
だから好きであればあるほど、弱味を見せない。
力ある強い人なのだと思われたいとか、好きな相手に対してカッコつけていたいとか、そういうわけでもなく。
文字通り、力を持ちたいのだ。
その相手に力を振いたいのである。
影響力とも言えよう。相手のほうから愛を乞うて来るよう持って行きたい。
それが人間の本質だと思う。
だからもし、誰からも自分の行動に対して影響を及ぼされたり、制限を受けたりされず、自分に対して力を及ぼす人物を作りたくないなら答えは簡単だ。
出世しなくても、金持ちになったり権力を持つ必要などもなく。
嫌われればいい。眼中にないほど、相手にされなければいい。
そうすれば、愛されずとも誰とでも平等に付き合えるだろう。
 
哀しいかな、私は人間が好きだ。
好きで、好かれたいと願う。
その思いは、必ず相手に通じ、彼らは私に力を振うことを願う。
善意と悪意と、なぐさみものを弄ぶかのごとく、私に力を振うのだ。
彼らの好意のお返しとして。
 
 
                    
 
 
 
 

2007年9月15日

関係性と恋愛の微妙

 
『男女7人秋物語』 (2007年04月28日深夜)
 
たいていの場合、人を好きになるには理由がない。
気がつくと、ふと好きになっている。
恋をすると、ありきたりだった日々は、魔法のように輝き始める。
しかし―

昔見たドラマが忘れられない。
『男女7人秋物語』という物語があった。
トレンディドラマの発祥かもしれない。
『夏物語』の続編でもあった。
再会する恋人のふたり。
しかし、男(明石家さんま)には職場の同僚である仲間と、新しい恋人がいる。いつも楽しく遊んでいる6人組。
女(大竹しのぶ)はその輪に入れない。
彼女が戻る場所はもうなかった。
女は男をあきらめ、忘れようとする。
すると、男が言うのだ、何気なく。
「ノンフィクションライターになる夢、どうしたんや?捨てたんか?」
彼女が夢を持っていたのは、男と共に過ごしていた時の話で、夢は男の夢でもあった。
「俺はな、お前の夢が実現するチャンスだと思ってアメリカ行かしたんや。なんでそう簡単に捨てるわけ?」
彼女は夢をあきらめないと決意をする。またペンを取り書き始めるのだ。
ある日、書いたものを男に見せに行く。しかし、彼の部屋には恋人がいて、彼女は原稿を渡すのがやっとだった。追い出されるように帰っていく。

『恋物語』という楽しそうな響きの割りに、シリアスな、つらいドラマだった。
切ない演技をさせると、大竹しのぶは最高だ。存在自体が哀れになる。
彼女を冷たくあしらう男の背中に、大竹しのぶは叫ぶ。
「どうしてーー! どうして言ったのよー! どうして言ったのよー!」
歩道橋の上から、夜の街を去っていく男に向かって訴える。
「どうしてあんなこと言ったのよ!」
男は舌打ちをし、周りの目を気にして不愉快そうな顔をする。
「ややこしい女だなぁ・・」と吐き捨てながら、きびすを返して、戻る。
女のもとへ駆けていくのだ。対峙するふたり。
「私あなたに会ってからずっとつらかったんだよ。会う前からずーっとつらかったんだよ。会ってからもつらかったんだよ。
私もあなたのこと忘れようと思ってたのに・・・ どうして言ったのよ・・ どうしてあんなこと言ったのよ!」

恋を輝かせるのは、それが一方的なものだけではなく、関係性があることが前提となる。
他者との関係性、その中での二人の関係性、それが起こりうること、それが発展する可能性があること。
その前提の上でこそ、お洒落も、生活も、未来も、努力も、世界のすべてが輝くのだ。
しかし、同時にそれが最大の悲劇でもある。
もし私が、ひとりで想うだけならば。
誰も傷つかない。
何も壊れはしないのに―

男女7人秋物語のラストは寂しい。
男は付き合っていた彼女と別れ、職場の同僚からも、仲間のすべてからも非難され、弾き出てしまう。すべての関係性から断ち切られ、失ってしまう。
木枯らしの吹きはじめた夜の道、大竹しのぶとふたり、肩を寄せ合って歩く。
「もうどこにもやらへんぞ。
どんなことがあってもなぁ、お前離せへんねや」
固い決意と言うよりは、頼りないつぶやきのように、夜の闇にかき消されてしまう。
ふたりはもう世界にいないのだ。
 
 
 
              
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
恋愛と人間関係と言うのは切り離せない。
家と家の結びつきとしての結婚は崩壊しつつあるが、職場や学校や、仲間内での恋愛は未だ強いしがらみがあるように思う。
 
二度目に就職した会社は若い会社だった。
社員たちは仲が良く、いつも一緒に行動していた。実際カップルも何組か存在していた。社内恋愛は表向き禁止している会社が多いので、その親密さを不思議に感じながら傍観していた。
若いグループのボス的存在が、少し太めの貫禄のある女性社員、Aさんだった。(見た目は40代に見えないこともなかったが22,3歳だったと思う)彼氏は仲間内で一番イケメンのB君だった。どう見ても釣り合わない。B君にべっとりするAさんはまるで母親のようだ。
Aさんと一緒にいて、相好を崩すB君をついぞ見ることはなかったが、B君はきっと居心地が良かったのだろう。
Aさんの彼氏と言うことで、社員から一目置かれていた。仲間との関係も良好だったようだ。あの会社に居続けるならば、彼女と付き合うことこそが最善だったに違いない。
しかし、私には、時々美形の彼が、囚われの身のしょぼくれたサルのように見えたものだった。
 
また、派遣時代のある会社ではこんなことがあった。
社内で親しい仲間を作り、社員旅行や全社飲み会等でつるんだり、就業後に遊んだりを繰り返していたある女性の先輩。
仲間の一人に恋をした。
明るく前向きな彼女は思い切ってデートに誘い、夜の公園でいいムードになったものの、ある日突然連絡が来なくなる。
メールしても返事が来ない、あのデートはなんだったのか?彼女は派遣の私に訴えた。涙目で。当然社員の仲間には言わない。失恋したのは明らかだった。
それからと言うもの、彼女はその彼を一切誘わなかった。グループのキャンプだの飲み会だのがあるときもだ。
電話でのやり取りを何度か聞いた。
「○○君と、○○ちゃんと、○○と~」
メンバーを選出しているその中に、彼の名はなかった。
相手が「○○君(彼の名)は?」と言ったのだろう、彼女は眉をひそめて、「え、いいんじゃない?○○君は最近忙しそうだし・・」と答えていた。少しばつが悪そうに。
それから何年かの月日が経ち、未だその会社にいる人と先日飲みに行って聞いた話だ。その後、今なんとふたりは仲がいいらしい。
恋が実ったのか、何が起きたのか。
大体の察しはつくのだった。
 
 
 
 
 

荷は一人じゃ背負えない ~安倍首相辞任から学ぶこと~

 
『晴天下の中、革命せよ ~参議院選挙の速報を聴いて思うこと~』 (2007年7月29日)
 
自民党が惨敗した。
参議院選なので、政権の交代には直接の関係がないとは言え、国の与党である政党が過半数を取れず、参議院の第一党を野党に奪われると言うのは、極めて異例である。ありえない事態だろう。
正直、ここまで負けるとは意外だった。
苦戦するのは承知していた。それでも最低限は取れるだろう、それくらいは揺るがない基盤を持っているだろうと甘く見ていた。
安倍総理個人の危機管理能力を問われたようだ。
または、強固な政策を押し進める政党への、国民の不快感が露呈したとも取れる。
どちらにせよ、手厳しいお灸をすえられたと言うことだ。
雷鳴が轟く夜にはふさわしい。
難破船日本国が揺さぶられている。嵐の中。

私は嵐が嫌いだ。
もちろん何事も晴れの日ばかりではないだろう。
窮地を乗り越えてこそ、新しい国作りもできると言うものだ。
この雷雲が去れば、そこには「美しい日本」が輝きと共に現れるのかもしれない。
だけど、思う。
出来ることなら、嵐など起さずに改革して欲しい。
私が変わったことになど気づきもせぬほど。
晴天の最中、水面下で、激しく渦巻いて欲しい。

国民に真実を知らせる義務があると言うならば。
国民を不安に陥れない義務だってあるはずだ。

私は騙されていたい。
信頼して、すべての舵を任せ、嵐の心配などせずに、鼻歌を歌っていたい。
冷やかしでも、嘲笑でも、まだマシだと、そうしていたい。
今は、晴天なのだと―
政治のプロだろう。それくらい出来ないのだろうか。
安倍内閣を、初めて馬鹿だと思う。
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
これから恋愛に発展しそうな気のある相手と初めて食事をしたとする。
一番困るのは、会計のときだ。
相手は、男が払うべきだと考えるか、それともワリカンを好むか。
まだ気が置けない相手と言うわけではない。イマイチ掴みきれていない。
そこで、たいていの場合、財布を取り出し、支払う心意気を見せる。状況によってはお金を実際に取り出したり、相手に言葉をかけたりする。
すると、たいていの場合、相手は「いいよ、払うから」と告げてくれる。(告げない場合は、「迷った振りしてねぇでさっさと払えよ」くらいに思う人かもしれないが、それはそれで早いうちに相手のタイプがわかるのでよしとする)
内心は面白くない場合もあるかもしれないが、この一連のやり取りで了承を得ておけば、たいていの場合、問題がない。
相手が男のコケンを重んじているか、または男女同権を重んじているか、どちらのタイプであったにせよ、
「あの女、ちょっとばかり金持ってると思って(または年上ぶって)俺の顔をつぶしやがった」
だの、
「けっ、女ってのは男が払うのを当然と思ってやがる」
などと、帰宅してから悶々とされなくて済む。
恋愛自体もスムーズに運ぶような、そんな気がしてくるから不思議だ。
 
崩壊した安倍内閣を思うとき、どうもこういった一連のやり取りや、互いの承認が欠けていたのではないか、という気がしてならない。
安倍内閣vs.国民だけではなく、安倍首相vs.自民党からしてすでにおかしい。
今回の突然の辞任で一番の批判の的となっている、「このタイミングでやめるのは無責任」と言う問題だってここが発端だ。
参議院選挙大敗の後に承認を受けておくべきだったのだ。
 
  
 
 
私の記憶では参議院選挙大敗の前までは「たとえ負けても安倍続行」と他の党員が表明する記事を読んだが、大敗決定の後はない。7月30日朝、すべての投票を終えてすぐ、安倍総理が続行の意思を示し、それを受けて党が安倍続行の方針を固めたと覚えている。
安倍さんは早すぎたのではないか。もっと悩んで見せたり、周りの意見を聞いたり、するべきだったのではないだろうか。
どうせ、ポスト安倍になりうる花形スターは育っていない。大敗してすぐ首相を挿げ替えるのも党として体裁が悪い。ましてやこの更に悪化していきそうな局面を押し付ける人物も必要だ。もう少し安倍さんには頑張ってもらわなければならないところだっただろう。
「ぼく、やめたほうがいいかしら」「でもここで辞めたら無責任かしら」「もう少し続けたいようにも思うけど」
それを匂わす時間を置けば、内心「辞めろよ」と思っている議員だって、健康状態を心配している議員だって、「もう少しやってくださいよ」「あなたしかいないんですから」という党内の雰囲気が自然と出来上がったに違いないのだ。
それを待ってから続行の表明をしていれば、党内が一枚岩ならば、野党だって国民だって「しゃーないなぁ」という雰囲気になっただろう。
どうせ、本気で民主党に政権をとらせよう(政権をとろう)とは思っていない。きついお灸をすえて、「これからは気をつけて、しっかりやってよ、自民党さん」と言う流れになったのではないかと思われる。
なのに安倍さんは確認作業を怠った。
ずっと怠っていた。安倍内閣自体にそもそも問題があった。
しかし、この転げ落ちるような崩壊は、そこでついに堰止めを失ったのだ。
 
味方である同じ党の、しかも新人議員からも新たに抜擢した閣僚からも批判を浴び、ますます野党や国民からなめられて、自分の首を絞めてしまった安倍さん。
誰よりも「やるべきことをやる」というやる気と責任感がありすぎて、一番無責任な辞め方をするほど追い詰められてしまった安倍さん。
国民からも政界からも、信用を失った彼の政治家生命は、52歳と言う若さで跡を絶たれた。
何とももったいない結末だ。
 
 
「私には一番大きな責任がある。その責任とはこの問題を解決して皆様の不安を解消していくことだ。すべてを私の内閣で解決していかなければいけない」
個人の力を過信しすぎたのだ。
 
 
 
 
 
 

2007年9月14日

欠片を呼ぶ

 
『欠けたままの私』 (2007年04月28日)
 
初めて来たのか、それとも以前に訪れたのか
もしかしたら、以前居た場所にとてもよく似ているだけかもしれないが
何かの用事で、ある場所を訪れて、ふと駅を降り立つと
町の景色が、懐かしく思えるときがある

まるで、デジャビュ
夢の中にいるみたい

私は町を見回して、何か徴を見つけようと必死になったり
どうしても、その町の「あるところ」にいかなくてはいけないような想いに駆られる
まるで、置き忘れた自分の一部分を
取り戻そうとするかのように

でも、たいていの場合
その「あるところ」は見つからないし
私はたどり着くことが出来ないのだ
 
 
                        
 

夢は夢でしかないのかもしれない
欠片は見つからないままだ
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
独り言を良くつぶやく。
大抵は以前付き合っていた人の名を呼びかける。
初めて、自分が完全だと感じさせてくれた人だった。
完全なる幸福の一時を、教えてくれたのも彼だった。
 
記憶は消え、傷は癒え、新たな恋をして。
その人の名は、失った私の片割れ。
私の欠片の象徴なのだ。
 
 
 
 
 

2007年9月12日

タニノ・クリスティに守られた夜

 
『靴フェチの末路』 (2007年04月27日)
 
靴フェチだった時期がある。
とにかく、高い靴を履きたかった。
お気に入りは、J.M.ウェストン、オールデン、エドワードグリーン、タニノ・クリスティ、主にローファーやストレートチップを選んだ。
表革の靴以外にもカジュアルではクラークスがお気に入りで、またトニー・ラマのウェスタンブーツを好んだ。
私の足は幅が広い。
なので、それらの靴がなじむにはかなりの時間を要した。
店長は言った。
「いい靴はね、○○君、自然と足になじんで来るものなんだ、足の形にぴったりとね、靴が変わって来るんだよ、雨の日に履いてみなさい」
雨の日はどうかと思ったが、たしかにコードヴァンのオールデンは一度濡らすとなじみがいいようだった。
かなりの靴の圧力に耐え続けた。
そのうち私の足は変形してきた。
靴が私に合ったのではない、私の足が靴に合ってきたのだった。
そんな痛みの中でも履き続けていられたのは、彼らがとても美しかったからだ。HARUTAやリーガルなんかメじゃなかった。
私はよく、うっとりと眺めたものだ。
専用の靴墨を買ってきて、きゅっきゅと磨きながら、見惚れつづけた。
それともうひとつある。
それは、『ウオノメ』の存在であった。
海外の靴に凝りだしてから、私の足の指に魚の目ができたのだ。
初めはびっくりした。
足の小指がずきずきと痛む。時々激痛が走る。
私はウオノメシートとか言う絆創膏を買ってきた。
丸い形で、患部にあてる、周りは靴ずれや衝撃を守るために円形クッションが付いている。
これを2週間~3週間つけっぱなしにしておくと、ある日、突然ウオノメが取れる。ぽろん。と。
芸術的なほどキレイに剥がれると、あとには赤ちゃんのような、生まれたてのきれいなお肌が表れるのだ。つるつるの指。
これにはまった。なんせ面白い。気持ちがいいのだ。
あまりに痛快なので、キツイ靴を履きたくて、ウオノメを取るのか、ウオノメを取りたくて、キツイ靴を履くのか。だんだんとわからなくなって来た。
しかし、続けているうちにふと気がつくと。
ウオノメは芯が残るのだ。その芯がだんだんと核となり、その核が大きくなり、いつしか、ぽろん、とウオノメが取れた後も、くっきりと残るようになってしまっていた。
そうして、赤ちゃんのような生まれたての肌は、もう二度と表れなかった。
 
 
                   
 

ウオノメ取りに飽きた頃、私の足は変形しすぎて、もう少しで外反母趾になりそうに進化した。
美しい靴とお別れするときがやってきた。

その後暫くは後遺症に悩まされた。
残ったウオノメの大きな芯は、婦人用の幅広い靴を履いても、たとえおばさん向けのEEサイズの靴を履いても、少しでも靴とあたるとずきずきと痛むのだった。
私はびっこを引いて歩いた。しょっちゅう痛くない靴を捜し求めていた。
ようやく治ったのは、仕事を変えてからだったか。
確か立ち仕事をやめた頃から、自然とウオノメは痛まなくなっていたように思う。だが、それにも、ずいぶん長い時を要した。
靴とウオノメに入れ込んだツケは大きかった。
今でも時折、高いヒールの靴を長時間履いているとずきりと痛むことがある。
不意に激痛が走るのだ。
私は苦笑いをし、懐かしい古傷を思い出してみたりする。

 
☆☆☆☆☆
 
 
先日、忘れもしない7月7日だ。
久しぶりに靴箱を開けてみる。悩んだ末、タニノ・クリスティの箱を取り出し、蓋をあげる。
良質の革の匂いがした。
木製のシューキーパーを外すと、美しいお姿がお目見えした。
思わず胸が高鳴った。
彼女にそっと足を入れると、驚いた。
履き心地がぜんぜん違う。
最近よく私はABC-MARTで買った二千円のバレエシューズなんぞを好んで履いていたのである。
楽だから。疲れたらかかとを踏んづけても惜しくないから。もう二度と足を傷つけたくないから。
私は私の足を守っているつもりだった。
 
ところが、タニノ・クリスティは、履き易さのみを優先して履いていたつもりのバレエシューズよりも何千倍もの感触を、私に提供してくれた。足を通したその一瞬で。
 
私はうな垂れた。
長時間履き続ける仕事履きには適わなかっただろう。
しかし、それは靴のせいではなかった。私の彼女の扱いが、ぞんざいで間違っていたのだ。
 
美しい彼女に仕事は似合わない。
私は軽くスキップをして、パーティに出かけた。
 
 
 
 

2007年9月11日

浅草に住みたい!

 
引越しが好きだ。
就職してから数えても、9回引越している。
不動産屋を見かけると足を止める。部屋の図面(まいそくと言う)を見るのが楽しくて仕方ない。
そんな私が、次の獲物として虎視眈々と狙っているのが、『浅草』だ。
なぜ、浅草なのか?
気が付くと、住みたくてたまらぬ、食指が動きまくっていた。
 
直接のきっかけは、いしいしんじの小説だろう。
浅草が舞台の物語があり、主人公の彼自身が浅草に住んでいた。たぶんそのスタイルがかっこよく見えたのだろう。
しかし、それだけではないように思う。 
あの下町情緒がいい。町が日本の名残りに満ちている。人情味も溢れていそうだ。神や仏に守られていそうだ。気取っていない。じじばばばかりがいそうである。浮浪者も多そうだ。未だにキセルを吸う人もいるかも知れぬ。(流石にそれはない?)
 
どうもDNAが騒ぐ。
遺伝子が震撼する。
きっと前世は浅草に住んでいたに違いない。
町にはそれぞれ、そこに居つく人々や企業や、町そのものの文化によって特徴と言うものがあるものだが、浅草のそれはどうも私の肌に合うようだ。
 
ただの思い込みなのだが、私は私の思い込みをそう馬鹿にはしていない。
こんなに、無知で、無謀で、粗忽な私ごときが、たいして危ない目にも合わず、逆境にもめげず、無事に生きて来ることが出来たのは、すべてこの思い込みのおかげである。
 
私には運がある。天が味方している。
才能がある。私なら出来る。
それは危険だ。
あの人は私を愛している。
 
自分を信じることはいつでも苦手で、相手を信じることはいつでも難しい。
それでもそんな堅苦しいことじゃなく、軽薄な思い込みによって。
今日も私は救われる。
 
                                       
 
※この記事を書いた後、こんなサイトを教えていただいた。 「浅草吉原復興協会」。なるほど、吉原ですか・・・

2007年9月10日

神の申し子としての私たち

 
『史上最悪のバージニア大銃乱射事件はなぜ起きたのか?~』 (2007年04月22日)
 
さて、私は理由を探すのが大好きだ。
今日もはじめてみよう。
4月16日、米南部バージニア州のバージニア工科大学で連続2件の銃乱射事件が発生した。午前7時15分(日本時間8時15分)頃、学生895人が寄宿するウエストアンブラー・ジョンソンホールで男女2人が殺害され、その2時間後、約800メートル離れた工学系の教室棟ノリスホールで30人が殺害された。
犯人は同大4年生の韓国人学生、チョ・スンフィ容疑者23才。史上最低の銃乱射事件殺人犯は犯行後自殺をした。
この事件についていろいろな憶測が飛んでいる。なぜ、チョ容疑者はこのような事件を起こしたのか、問題はなんだったのか。
大きく分けると5つのカテゴリーがあるようだ。
 
1.チョ容疑者の個人的な問題。
韓国系米人であったチョ容疑者は、幼い頃からいじめを受けていた。
チョ容疑者と高校で同級生だった同工科大の男子学生によると、英語の授業で生徒が順番に音読していた際、チョ容疑者は自分の番が回ってきても黙ってうつむいたままだったそうだ。教師が落第点を与えると脅かすとようやく読み始めたが「口の中に何かを入れているような」変わった低い声だったため、クラス中が笑いだし、韓国出身のチョ容疑者に対し「中国に帰れ」などと指さす生徒もいたという。
容疑者がテレビ局に送りつけてきたビデオには、カメラに語りかけるこんな言葉がある。
「おれを追い詰めたのはおまえらだ」
「顔の上に座られて、ごみをのどに押し込まれるのはどんな気持ちか分かるか」
容疑者は治療を必要とするほど心を病んでおり、病理的人物の異常行動だった。容疑者はパラノイアだったのではないか?
 
2.チョ容疑者の出身地、韓国の問題。
韓国では所得、世代間の社会的断絶が深刻化しており、 韓国開発研究院(KDI)は昨年末、全国1500人を面接調査し、こうした内容の報告書「社会的資本実態総合調査」を最近、企画予算処に提出した。
報告によると所得が異なる階層と対話をする際「不便だ」と感じる人は22.3%、「非常に不便だ」は2.5%だった。 所得の違いで排他・異質的感情を感じる人が4人に1人いるということだ。
金持ちの学生が多い大学内で、チョ容疑者が排他的な断絶感を抱いたのもお国柄ならではの資質であり、また韓国では、殺人で国家的ヒーローになれるお国柄でもあるそうだ。
「チョが日本で、日本人学生を銃撃したら韓国では英雄として迎えられるだろう」などと言う意見もあるほどで、あるブログでの記事によると、韓国人にとって偉大な人物ベスト3は安重根、李舜臣、李朝4代王世宗。(人気の順番もこのとおり)韓国国民にとって安重根は、事実上の国父であるが、彼はは1909年、満州のハルビン駅で伊藤博文を暗殺した殺人犯だ。
もちろん伊藤博文と決闘して倒したわけではなく、不意打ちで人殺しをした人物、典型的なテロリストだ。
韓国人特有の資質を持つチョ容疑者は、この偉大な国父に傾倒し、テロリスト的行為を犯したのではないか?
 
3.アメリカの銃社会の問題。
韓国系米国人は、珍しいバックグラウンドではない。この事件を誘発した原因を環境だけに求めるのは難しい。問題を抱えた人間は常にいて、比較的容易に銃を入手できる社会が大量殺人を可能にしてしまったのではないか?
 
4.恋愛沙汰の問題。
事件当初チョ容疑者は恋愛のもつれから乱射事件を起こしたと伝えられてきた。しかし、米CNNテレビは18日、容疑者の大学寮のルームメートだった学生らのインタビューを放映し、彼らはガールフレンドは空想の産物で実在しないと述べた。また大学当局は容疑者が2005年12月に女子学生2人にストーカー行為を行い、女学生らは警察に聴取されていたと明らかにしたが、彼女たちは被害届を出していなかった。
容疑者は妄想を抱いてストーカー行為をしやすいタイプだったのかもしれない。しかし本当に妄想だろうか。
22日付けのCNNmobileには事件の捜査当局が、最初に寮で銃殺されたひとり、エミリー・ヒルシャーさんと自殺したチョ容疑者の間に何らかの接点があったかどうか、確認中であるとの記事が掲載されていた。
彼は失恋により傷つけられた自尊心を、思想的な理由へと置き換えたのではないか?
 
5.テロ的犯罪の問題
チョ容疑者は何かの集団、組織によってマインドコントロールをされていたのではないか?
『米NBCが流したチョ容疑者のメッセージは、仮に北朝鮮当局が読み上げたとしても何ら不思議な点はないものだったそうだ。彼がビデオに映る姿を見てると、所々で原稿らしきものに視線を落とす場面がある。
「事前に用意したものでまさに計画的だ」とか「まさにパラノイアだ」という議論で終わらせてよいのだろうか?』(extremist5123さんのblogより抜粋)
『容疑者がたったひとりで、たったあれだけの武装で、32人もの人たちを次々と殺すことが果たして可能だったのか。
容疑者には今のところ軍隊経験やそれに類する訓練等を受けていたという情報はない。となると次は薬物反応の有無だ。麻薬や覚せい剤などには感覚神経系を過敏にさせる効果があるという。犯罪に際してはそれが大胆不敵で精緻な行為へと導く場合があるともいう。しかしその情報もない。むしろ抑うつ的な症状を見せていた面があるようで、薬物をもってしても大胆不敵で精緻な行為には程遠かったであろうことは想像できる』
チョ容疑者のバックには闇の、もっと大きな何かが存在しているのではないか?

いろいろな意見が出ているが、個人的には最後の5番目の意見が怪しいと思う。
ただのパラノイアとはどうも思いにくい。
ビデオで読み上げる犯行声明文は、韻を踏んだ、完成度の高い文章だったそうだ。犯行の計画的な面からしても、キレた異常者などではなくて、かなりのIQを有した頭のいい人物だったのではないか、と想像するに十分だ。
個人によるナルシスト的殉教者の犯行に見せながら、ちゃっかり組織ぐるみの政治的犯行だったりして。しかも、真犯人のその裏組織は、ちゃっかりアメリカのものだったりして。
などと想像して、いや、妄想してしまうのであった。
また、妄想は置いておいても、5番目が一番説得力のある仮説のような気がするのですが、いかがでしょう?
説得力抜きならば、4の恋愛沙汰だろう。
これも十分にありえると思う。
笑われるのを恐れずに言うなら、本当はこれがすべてじゃないかとさえ思う。「チョ容疑者失恋でもしたんじゃないの?」と。
私が常日頃から思うのは、「恋愛と言うのは物凄いエネルギー」だと言うことだ。
人を強く愛する気持ちは、みっともない。
失恋も、片思いも、ストーカーも、みっともない。
だけど、そのかっこよくないものこそが、時に偉大なものを創りあげる。
人を愛する気持ちは、芸術にだって犯罪にだって何にだって変わり得るのだ。
みっともないことをなめてはいけない。
 
 
☆☆☆☆☆
 
これはその週哀しかったこと、「逢いたい人に逢いたいときに逢えない」と言うことをテーマにしたとき、書いた記事だ。
この頃の記事を読むと、やけに気張っているのがよくわかる。主題もやはりこじつけ感があることはいなめない。
恋愛が物凄いエネルギーだと言うことは、しかし変わらない見解だ。
愛がなければ、私は何もしないだろう。きっと一日中寝て過ごし、最低限食べられる程度にしか仕事をしないに違いない。
 
愛の代わりとなりうるものに、憎しみと野心がある。
いわるゆ「シドニィ・シェルダン」ふうの、復讐劇及び上へとのし上がろうとする欲望だ。 
 
 
 
このふたつも力の強さだけから見たら、愛に勝るとも劣らないだろう。
決定的に違うのはそれらが否定的な力だということだ。
愛から発せられた力は、それが純粋で無垢であればあるほど、あるから、たちが悪い。
裏切られたと感じれば、すぐに否定的な力に座を奪われる。
愛を愛の力のままで活かし続けることには、根気と努力とある種の才能が必要なのかもしれない。
神、と読んでしまうのは憚られるが、そういう人の手には及ばない、何か大きな存在に守られてしまうような、才能だ。
まさかそんなものが・・・と思われるかもしれないが、私たちが明日復讐劇を演じないと誰が断言できよう。
私たちがチョ容疑者として生まれてこなかったことは、当たり前の偶然だろうか。
今こうして普通に生きていられることが、尊く感じられたりもするのだった。
 
 
 
 

2007年9月9日

監獄通信

 
『Stジェームスの囚人』 (2007年04月19日)
 
ボーダーシャツが好きだ。
ホームウェアはセントジェームスと決めている。
もともとは、16世紀、スペインバスク地方の船乗りたちが愛用していたウールやコットン素材のもの。バスクシャツと呼ばれるそれは、時を経てお洒落着となった。
横に広いボートネック、ラフに切り落としたような袖口や裾が特徴だが、それよりこのシャツを着ていると、よく外人に突っ込まれる。
「オー!ユーアーセントジェームスねぇー」
と言っているのかどうか知らないが、私のボーダーTを指差してニヤニヤと笑いかけてくるのだ。
船乗りと言う歴史よりは、海軍に愛用されていたと言う歴史のほうが大きいような気がする。(たいてい私が出会う外人はBarを訪れた軍人さんだからね・・)
セントジェームスではないが、縞のものは何でも好きだ。ストライプ、ピンストライプ、マルチストライプ、縞の服を見かけるとすぐに買ってしまう。
必然的にホームウェアの上下はいつでも縞々になる。
肌触りのいいコットンがいい。
縞々姿でだらだらしていると、本当に「休日だ!」と言う気分になるから不思議だ。気が抜けてくるのだ。
ふと鏡に映る私は、まるで囚人のようなのだった。
もちろん、現代ではそのような囚人はいないだろうが、私が夢見る可愛らしい囚人はいつでもこんな格好をしている。
もし、私が罪を犯して刑務所に入ったら、看守に頼み込んでオーダーメードで作ってもらおう。ウィンクのひとつでもして。
しかし、それはこの部屋でくつろぐ私と何か変わりはあるのだろうか。
私は今日もボーダーのTシャツを着て、愛しき私の、部屋と言う名の監獄で過ごす。
何か罪でも犯したのかもしれない。 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
私の囚人ぶりも最近とみに板についてきた。
休日は出かけない。
友人とも会わない。
たまに出かけて、奇跡的に美形の青年と出会えば逃げて帰る。
携帯は鳴らない。
メールはspamのみ。
ただ会社と家の往復のみ、仕事と勉強(?)に明け暮れる毎日。
ストイックな、模範的な囚人といったところだ。
 
特にそれが苦痛と言うわけでもない。
困るのは、時々、鏡を見て、驚くことくらいだ。
いったい誰だろう?
人の目に晒されないと、女はこうも老けるものか。
 
                             
                                お気に入りのセントジェームス
 

ダンサーインザダークという暴力

 
『光と闇の賛歌 ~映画・ダンサー・イン・ザ・ダーク~』 (2007年04月18日)
 
彼女は自ら死刑を望んだ。
なぜか?
いったい、ミュージカルなのか、シリアスなのか、ヒューマンなのか、狭いジャンルに収まらない、不思議な映画だ。
地味で、堅実な主人公が人を殺す。
絵に描いたような「いい人」が罪を犯した。
なぜか?
何が、誰が、どうして、彼女を罪人にしたのか。
まるで罪人擁護、殺人を肯定するかのような物語だが、直接的に思想として訴えられることはない。
それより、この映画から真っ直ぐに伝わって来るのは。
ラストシーンとは対照的な、ミュージカルシーン。
「生への謳歌」だ。
きっと誰もが打ち震えるだろう。
生の喜び、その眩さ、感動と言うよりは衝撃的でさえある。
打ち震えるほどに、私は生など愛していたのだろうか。
愛していたのだ!
だからこそラストシーンは重い意味を持つ。
一瞬にして暗転する死のカットは、二度とこの映画を観たくないと思わせるに十分だ。
「この映画によって」、生を愛した瞬間、その刹那に真っ逆さまに突き落とされる。「真っ直ぐに落ちていく主人公によって」。
残虐な作品だ。
ここでは、死さえも、謳われている。
そうして、後に残された私。
もう二度と観たくないと願う切実な思いは、そのまま主人公の歯車を狂わせ、罪へと導いた中途半端な何かや誰かへの、ありきたりに存在する小さな悪への、軽蔑へと転化される。
光と闇の偉大さを打ち消すのは、いつでもちっぽけなものだ。
しかし、それこそが、私やあなたなのだ。
 
 
☆☆☆☆☆
 
いわゆる名作と呼ばれる小説や映画を目の当たりにして、打ちのめされることは良くある。
一番初めにこの感情を味わったのは、思春期だ。
萩尾望都のある漫画を読んだときである。
 
 
 
私は幼い頃から漫画を読み親しんでいた。敬愛し、尊敬する作家もたくさんいた。
しかし、望都はその誰とも違っていた。
たとえば私が彼女と同じような漫画を描いたら、ただのホモエロ漫画になってしまうことだろう。
少年愛という、当時世間から市民権を得ていなかった題材、ともすればゲテモノと蔑視されかねない題材を使い、彼女は見事に描き切っていた。
ゲテモノどころか、漫画の域さえ超えていた。誰もが認めざるを得ない、芸術作品にしていたのだ。
この事実が私を打ちのめした。
自分が小さく、みすぼらしく思えた。
 
このような思いを、長い間、うまく捉えることができなかった。しかしある日、こんな言葉を聴いた。
「それは、暴力だ」
目からうろこが落ちる思いだった。
私を小さく映し出す、打ちのめす、それはもはや暴力でしかない。
 
ダンサーインザダークは暴力だ。
限りなく暴力的な、見事な芸術作品だ。
 
 
 

愛するもののために

 
『私の大好きだった十姉妹、ピッピのこと』 (2007年04月17日深夜)
 
ピッピとチッチは仲が良かった。
いつも二人で遊んでいた。
真白い、小さな、十姉妹のつがいだ。彼らはかつて彼らが繁殖期の後に使用した大き目の丸い鳥かごと、木製の四角い鳥かごを行ったり来たりした。出入り口が開け放たれて、隣り合うように置かれているのだった。丸いほうは住居用で、四角いほうは寝室だ。そうして、そのふたつの鳥かごと、母の店の中を自由自在に跳ね回り、時にはガラス戸から外に出ては、歩道に落ちている草や餌になりうる何かを啄ばんで遊んでいた。
道行く人はびっくりしては振り返った。小鳥を握り締めて、店に訪れる人もたくさんいた。
「店の前に小鳥が逃げていました、お宅のですか?」
逃げていたわけではないのに。実際ピッピとチッチは飛びもしなかった、まるで鳥ではなくて我が家の家族の「ひとり」であるかようになついていたのだった。
私はよく彼らと遊んだ。
と言うより、仲良く遊んでいる彼らに混じって、一緒に遊んでもらっていたのだ。
両親はけちだった。私は幼い頃一年ほど保育園に行き、小学校に上がる直前に「愛児園」と言う名の、託児所に毛が生えたような施設に預けられたきりだった。(私はかなり大きくなるまで、この愛児園を幼稚園だと思い込んでいた)
だからたいていは家にいた。母は家事と仕事と習い事で忙しかった。たまにしか客の来ない母の店で、鳴きながら飛び回るピッピとチッチに、相手にしてもらっていたのだ。
ある日のこと、いつものようにしゃがみ込んで、足元をせわしなく飛び跳ねる十姉妹を眺めていると、私は足が痺れたことに気がついた。
よくあることだった、幼い私は痺れる足を片方持ち上げて、体勢を変えようとした。上げた右足に重心を移した瞬間、私の今まさに地に着こうとする足の下に、小さな十姉妹が跳ねていくのが見えた。
ピッピだった。長く遊んでいるうちに、いつしか私はピッピとチッチの顔の違いをわかっていて、一瞬でどちらかが理解できたのだ。
私は体勢を変えられなかった。わずかに地に着く足がまるでゆっくりになるように踏ん張れただけだった。
ぐしゃっというやわらかなものが潰れる感触がして、急いで足を上げたときには、ピッピは死んでいた。
私は火が付いたように泣き出した。
台所で洗濯をしていた母が飛び出してきた。
涙は止まらなかった。
たぶん私の大きな叫ぶような泣き声は、3軒先まで聞こえたのではないかと思う。それほど大きな声を上げて、ずいぶん長いこと泣き続けた。
姉が学校から帰ってきても、父が仕事から帰ってきても泣いていた。
泣きながら何度も繰り返してこう言うのだった。
「チッチ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・」
チッチは丸い鳥かごに入れられていた。何が起こったのか理解できたのだろう、その夜チッチは木製の鳥かごには移らず、ずっと丸い鳥かごでピッピを待っていた。彼女は泣き叫ぶ私を時々哀しそうに見つめていた。
それから、私は母の店で遊ばなくなった。
鳥かごを見るのがつらかった。
大きな鳥かごの中にはいつもチッチがひとり、ぼんやりしていた。彼女は木製の鳥かごにも移らず、店にも、外の道路にもほとんど出ることはなく、丸い鳥かごの中でじっとしていた。一羽には大きすぎるそのかごの中で。
私は外に友達を作り、呼ばれもしないのにその子の家に押しかけて行った。暗くなるまで、一緒にテレビを見させてもらったり、チッチのようにぼんやりしたり、時にはずうずうしく夕飯をご馳走になったりもした。そうして、それからと言うもの、私は虫も殺せない性格になってしまった。
その経験があまりにも痛かったので、私は今も、何か事件や事故を目の当たりにするたびに、必ず加害者のほうに情を寄せてしまうのだ。
TVのニュースを見つめて、殺人犯や不慮の事故を起こした人々のことをぼんやりと考えてしまうのだった。
被害者は幸せだと思う。
加害者の痛みこそ、一生消えることはない痛みだと思う。
しかし、もし、それを喜ぶ人がいたら。
私の目の前で、笑いながら小鳥を殺す人がいたら。
私は迷わず、その人を殺すだろう。
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
これも向井亜紀さんの記事と同じテーマのときに書いた記事だ。
いくら私が小鳥が大好きだと言っても、実際は愉快犯を殺すわけにはいかない。
しかし、小鳥は抽象的な意味だ。山口県光市母子殺人事件の本村さんのように、愛するもののために戦うに違いない。
 
人は自分ためだけにはなかなか戦えないものだ。
特に私はいつも加害者に同情的になってしまうため、なぁなぁで物事を済ませ、そのおかげで更になめられて、後で手ひどい目にあうことが多い。
 
優しさは弱さだ。
とかいう有名な言い回しがあるが、疑わしい。
私は強くなければ人に優しくなどできないと信じている。
しかし、善意から人に優しくしていても、人はたやすく牙を向けてくる。自分より弱いと判断した相手には容赦ない。しつこく攻撃され、嫌がらせと侮蔑をも受ける羽目になる。
私がこれほど強くなかったら、とっくに自殺しているだろう。
人間の扱いは本当に難しい。
 
私を弱いと判断したすべての人は間違っていた。
私は加害者を思いやるよりも、その事実を証明するためだけにも生き続ける。
それこそが最優先だ。
私を愛するもののために。
私が愛するもののために。
 
                          
 
 

 

2007年9月8日

向井亜紀さん、頑張ってください。

 
『国のタテマエをぶっ壊せ! ~代理母問題のヒロイン向井亜紀~』 (2007年04月15日深夜)
 
代理出産の問題が騒がしい。
向井亜紀の会見がまたTVで放送されていた。
日本産科婦人科学会は14日、京都市内で理事会を開き、50代母親による娘夫婦の子の代理出産を公表した諏訪マタニティークリニックの根津八紘院長に対して、厳重注意処分とすることを決め、同日の総会に報告したそうだ。
私はニュースの向井亜紀を見て、こんなふうに思っていた。
『どこまで欲が深いんだろう』
産めないと思っていた愛する人の子供を授かった、しかも双子だ、二人にも会えた。それ以上の幸せを望むならば、世の中の子供を産めないすべての女性たちはどうなるのだろう、戸籍などどうでもいいじゃないか。
戸籍にこだわって入るのが、向井亜紀、高田延彦夫妻のほうだと信じていたのである。
繰り返しのニュースにより、興味を抱いたので、早速向井亜紀のオフィシャルウェブサイトへ飛んだ。
ブログの一文にこうある。
『私は、代理出産という方法で子を得るチャレンジをする決心をしたとき、「絶対に、約束違反・ルール違反をせずに真っ向勝負をしよう。将来、事の経緯をすべて子供に話して聞かせなくてはならないのだから」と、自分に誓った。そして、これだけは絶対に崩すつもりはない。
しかし、法務局・法務省の勧める、「高田とシンディの子として、出生届を提出する」というやり方は、あきらかにシンディ夫婦との約束に違反し、ネバダ州裁判所で受けた親子関係確定というルールにも違反することになる』
最初私は、ネバタ州裁判所で認められた親子関係、そのルールを日本のルールにも適用しようと、つまり向井がルールを自己に都合よく解釈しようとしているのではないか、という懸念を抱いた。ルールとはそもそも規制するために作られるのであって、権利のためではない、甘いのではないかと。
しかし、そうではないようだった。
代理母になったシンディは母親であることを放棄している、そうしてこの代理出産契約を交わすにあたっての仲介人である弁護士からは「日本の正式書類の母欄にシンディの名前を書くのは契約違反。書き込んだ名前は戸籍上からは消されるが、役所には残る。それは、州裁判所の命令(コート・オーダー)に背く行為であり、シンディ一家の生活を守るためなら裁判も辞さない」との忠告を受けている。
向井がルールを守るのは別の規制のためであり、代理母を守ろうとする意思でもあるようだった。
そもそも向井亜紀は、2004年1月、代理出産による双子誕生の報告会見を夫妻揃って行ったときにこう言っている。
「アメリカ人であろうが、日本人であろうが、実の親子であろうが、養子であろうが、自分たちが親子であればそれでいい。紙の上のことは後付けでいい。本当の家族であることに変わりない。」
父親である高田も「(法改正に)頑張ろうという気持ちはない。今あることが僕たちの家族のスタイル。」と答えている。
そう、はじめはそうだった。
 「すべてを(役所の)対応にまかせます。2人がすくすく育ってくれれば、(国籍や戸籍上の関係が)どうなろうと、家族が同じ地球の上に一緒にいることには変わりない」
子供の国籍の問題、代理母の問題でリーダー的存在に捉えられているが、そうでもなかったのだった。
私はここまでルールに対して厳しく追求しなければ、いくらでも抜け道はあっただろうに、なぜあんなに騒いだのだろう、くらいも思っていたのだが、騒がざるを得なくなったというところではないだろうか。
『なんて欲が深いんだろう』は私の大きな勘違いだった。
彼女は途中から気付き始めたのだ。
法務省の指導を受けての品川区の出生届不受理、不服を申し立て東京高裁で勝訴するも、わずか2週間で物言いがつき、同区側が最高裁に許可抗告、そうして最高裁での判決。
『子を懐胎し出産した女性と、卵子を提供した女性とが異なる場合は、民法の解釈としては、懐胎し出産した女性をその子の母とせざるを得ない』
この解釈を覆すことがどれほどの意味を持つのか、たくさんの批判や興味本位の不躾な対応や行政の冷たい対応を通して、国(のあり方、秩序とも言える)を敵に回すことの恐ろしさを知ったのだと思う。
向井は双子誕生直後「自分たちをサンプルに」と発言していたが、それを撤回している。
2006年8月18日付のブログ上において「自分は既に代理出産の現場にはもう縁がなく、情報も古くなっているので一個人が見聞きしたことだけで物をいうのは控えたい」と態度を豹変させ、批判コメントが多数よせられた。
批判コメントを寄せたのは、前例を期待していた一般の人々か、ただのキレたオブサーバーかと言ったところだろうが、後にはもう引けない。
誇りは傷つけられた。
戸籍にこだわる国を相手に、真っ向から挑むしか道がなくなったのではないだろうか。
『・・・これが、日本なんですね。私たちがやってきたことは、ものすごくスケールの大きな社会科見学で、タイトルは、“ディスカバー・ジャパン”。この国の考えている“子の福祉”の実態が垣間見えたような気がします。実体がないという実態とでもいいましょうか』
もう社会見学では済まなくなった。
代理母となってくれた女性との契約を守るため、子供たちのため、傷つけられた痛みと誇りのために彼女は戦うのだろう。
馬鹿なことを・・・と、どうでもいいじゃないか、と思ってももう遅い。
象徴として、祭り上げられたのだ。
後に引けなくなった彼女はまるで、第二次世界大戦に突入した誇り高き日本のように見えてしまう。哀れだ。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆
 
 
さて、これはずいぶん古くなった感のある話題だ。
その週、頭にきたこと、「(魂の)殺人」なるものをテーマにしていたときに書いたものだ。
テーマに沿うようにニュースを選んでいたので、どうも趣旨(主題)をこじつけた感がある。
その後、向井亜紀はどうしただろう、とオフィシャルウェブサイトへ飛んでみた。
で、ちょっとびっくりしました。
記事を書いたときは彼女が戦う勇士に見え、またはそういう「武士は食わねど高楊枝」的な自負心から不利益な戦いに突入してしまうすべての人々へエールを込めて書いたつもりだった。本当に哀れだと思っていたわけでもない。尊敬の念さえ覚えていた。
 
が、今日ブログを読んだ限りでは。
その後の向井亜紀はやたらとおちゃらけていた。
学術会議に呼ばれた際の記事でさえも、「なり~っ」だの、「だすっ」だの、そんな言葉尻を交えた文章で、自己を卑下するような発言もあった。ちょっとしたピエロのようである。
まぁ、よく読むと言いたいことは言っているようだから、アプローチの方法を変えたということだろうか。
敵に回した相手が大きかった。
いろいろと大変なんだろうなぁ、と察するに耐えない。
 
 
 
 

旅は道連れ、いと楽し

 
『あなたの居場所は私です』 (2007年04月14日)
 
人生が旅だとすれば、のんびり歩いていくのもいいですね。
移り行く景色を眺めたり、風を感じたり、時々は鳥と道連れになったり。
楽しい旅ができればいいですね。
でも、もし、車があればどうでしょう。
雨露はしのげますし、強い風から身を守ることもできるでしょう。
どんな車に乗りたいですか?
小さなワゴン?外車?大きな乗り合いバス?
それはあまり重要ではありませんが、選ぶことも可能です。
 
好きな人が居場所になることは良くあることです。
バイクの後ろ、二人がけのソファー、そして車の助手席。
彼の傍らが、私の居場所になるのです。
一時的に腰掛けるだけではなく、その永遠の場所を手に入れるためには、少しばかりの義務が生じます。
あなたはどこにでも行ける足と、のんびりと景色を眺めたり、自然と戯れたりする自由と引き換えに、彼の助手席に座るのですから。
彼が道に迷いそうになったら、地図を見たり、周りの景色に注意を払ったり、彼と一緒に目的地へ着くための、またはただ走り続けるための、努力をしなくてはいけません。
長旅に備えて、お弁当も作りましょう。
彼が毎日元気で運転できるように、心をこめて。
また、眠ってしまったら、危険ですね。
そんなふうにもし彼が疲れているときは、話しかけてあげましょう。
楽しくお喋りすれば、眠気は吹っ飛ぶものです。
そして、何より、彼の運転を信じてあげましょう。

楽しんでくださいね、その助手席に居場所があることを。
時々、こう言ってあげるのもいいかもしれません。
求めるだけではなく、受け止めて。
『あなたの居場所は私です』
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
私の記事は架空の読者を推定して、その人に語りかけるような手法を取る。
これはその旗手、太宰治に影響されたものだ。
しかし、語りかける相手は、大抵は自分なのだ。
私は私を納得させるように、なだめるかのように、教え諭すように。
たくさんの言葉を語りかける。
 
この記事を書いてから、好きな人の運転を信じようと強く思うようになった。
それまでは行き先を聞かされないまま助手席にいると、不安でたまらなくなったものだ。
今はふたりのドライブを楽しもうと純粋に思う。
時々は腹を立てるが、それにつけても。
旅はいいものだ。
 
 
                         
 
 

私の居場所はあなたです。

 
『たったひとつの行き先』 (2007年04月11日)
 
『だって、誰のところにも、どこへも行く先がないとしたら! なにしろ人間って奴は、せめてどんなところにしろ、どこか一ヶ所くらいは行くところがなきゃ困りますからね!だって、人間には是が非でもどこかへ行かなくちゃならぬというような、そうした場合があるもんですからな!』
ロシアの小説家、ドストエフスキーの小説に出てくる言葉だ。
『わかりますかな、先生、わかりますかな、この、もうどこへも行く先がないという意味が? いやいや! あなたにはこれはまだとてもわかりますまいて・・・』
この『罪と罰』には、もうそこにしか行く場所がない人間たちの哀れみがつづられている。
他人はあなたが行く場所であなたを測るだろう。
あなたは、あなたが行く場所によって、友達や、親や、未来の子供に、尊敬を受けたり信頼されたり愛されたりするだろう。
実際、人は成長して、強くなればなるほど、行く場所を多く持てるものなのだ。
しかし、そうだとしても。
もうそこにしか行く場所がないと、腹を括った人間には決してかなわない。

ラストに主人公ラスコーリニコフは恋人のソーニャと「そこ」へ向かうのだ。
『どこへ行くんですの?』
『僕がどうして知るもんか? ただ知っているのは、同じ道を行くということだけだ。それだけは確かに知っている。―それだけは。目当ては同じだ!』
 
彼らがどこへ行ったのか、興味がある人はぜひ『罪と罰』を読んでみて下さい。
私は毎回涙ナシでは読めません。

 
 
☆☆☆☆☆
 
 
このエントリーは居場所をテーマに書いたときのものだ。
ラスコーリニコフとソーニャの結末の行き先はシベリアの監獄だ。
しかし、それは概略的なものでしかない。
 
ラストの名文を引用させてもらおう。
偉大な文豪に対して、私ごときの所感がいったい何の役に立とう?
まだ読んでいないすべての人々のために、私が強制的に読ませます。笑
 
 
『突然、彼のそばへソーニャが現われた。彼女は音も立てずにそばへ来て、彼とならんで腰をおろした。まだ非常に早かった。朝の寒気はまだやわらいでいなかった。
彼女は例のみずぼらしい、古ぼけた外套を着て緑色の肩掛けを頭からかぶっていた。彼女の顔はまだ病気の名残りをとめて、やつれて蒼白く、頬もこけていた。彼女は嬉しそうに、愛想よく彼に微笑んで見せたが、いつものくせで、おどおどと彼の方へ手をのばした。
彼女はいつもおどおどと、彼の方へ手を差し出すのであった。ときとすると、彼がそれを押しのけるのを恐れるかのように、まるでだそうとしないことさえあった。彼はいつも、なぜか不承不精に彼女の手をとり、いつもまるで忌々しげな様子で彼女を迎え、ときとすると、彼女がそばにいる間じゅう、頑固に押しだまっていることすらあった。で、彼女は彼を恐れはばかって、深い悲しみに包まれながら、帰って行くこともあったのである。
が、今は、二人の手ははなれなかった。彼は素早い一瞥でちらと彼女を見ただけで、何も言わずに、眼を伏せた。
彼らは二人きりであった。誰も彼等を見るものはなかった。看守は、その時ちょうど、わきの方を向いていたのだった。
どうしてそんなことになったのか、彼自身も知らなかったが、不意に何かが彼をひっつかんで、彼女の足許へ投げつけでもしたかのような工合だった。
彼は泣いて、彼女の膝をかき抱いた。
最初の一瞬間、彼女はひどく驚いて、死人のように真蒼になった。彼女はその場からとびあがって、ぶるぶると顫えながら彼を見つめた。
が、すぐ、その瞬間に、彼女は一切を理解した。
彼女の双眸には、無限の幸福がひらめいた。彼女は理解した。彼が彼女を愛していること、無限に愛していること、そしてついにその瞬間がきたのであることは、彼女にとってもはや何の疑いもなかったのである・・・・
彼等は何か話したいと思ったけれど、できなかった。二人の眼には涙が浮かんでいた。彼らは二人とも蒼白く痩せていた。しかし、この病み疲れた蒼白い顔はすでに、更新された未来の曙光、新生活に対するまったき復活の曙光が輝いていた。
彼等を復活させたのは愛であった。一方の心が他の心のために生の絶えざる泉となったのである』
 
            
 
シベリアの荒涼とした地、ラスコーリニコフとソーニャの情景を思い描くと、何とも言えない。言葉を失う。
言葉は無力だと感じさせるこの強き想いは、ドストエフスキー個人から発せられた言葉によって、私にもたらされる。
この小説を、後世の私たちに彼が残してくれたこと、そのことに対して、感謝の念が耐えない。
二人がたどり着いた場所へ行ってみたいものだ。
 
 
『それにそもそも、これらすべての、すべての過去の苦痛とはなんであろう!』
『弁証法のかわりに生活がきたのだ』
 
 
        
 
 
すべての人々に、耀かしい生活が訪れますように―
 
 
 

 

ロードワークと人間の多様性について

 
『blogをはじめるにあたって』 (2007年04月07日)
 
私が今の会社に入ったとき、ある女の上司と出会いました。
彼女はこういうのです、ことあるごとに。
「○○さんがどうしたいのかわからない」
彼女はどうにか私の希望に添うようにしたいと願っているのですが、私が何を求めているのか、さっぱり理解できず、ただ私の苦しみだけは伝わってしまうようなのでした。
どうにかしてあげたい、だけどどうしていいのかわからない。
もどかしくて、彼女は私を何度も会議室に連れて行っては意見を求めるのですが、やはりわからないようなのでした。
私にははっきりした希望がありました。
だけどそれを正直に伝えることは不可能でした。
それを言えば、誰かを傷つけることになり、また今の上司のやり方を批判することになり、結局は我慢するしかないこと、そのままを受け入れて(我慢ではなく)その現状を良しとするしかないこと、最終的にはそれを上司も求めていること、その答えが見えているのでした。
だから上司に呼び出されることはいやだった。問い詰められることも、私にとってはなおさらの苦痛でした。
上司はこう言いました。
「あなたの頭の中にあるもの、それをロジックにしてごらん」
彼女は、私が伝えたいことを感情ではなく、正確に理論として伝えることを学ぶように指示したのでした。
「そうすれば、あなたは最強になる」
そう言った何日か後に、私は彼女の部署から異動することになりました。
彼女の言うことが正しいのか、私にはわからず、ましてや彼女は私をさっぱり理解していなかったとさえ今日まで思っていたのですが、今回いろいろなことを経験した後に、思い出すのは彼女のことです。

私は私の伝えたいことを、少しでも近い形で誰かに伝わるように、その訓練をしていこうかと思います。

これは言葉のロードワークです。
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
4月から8月にかけて言葉のロードワークをしていた。
同じテーマを別の角度からアプローチしたり、別の視点から考えたりして、一週間書いた。
月曜になるとテーマを変える。
質より量だと割り切って、とにかく書いた。
ここでの収穫は書くこと(強いては伝えること)に慣れたことだ。
それと、ものの見方が多様化されたこと。
 
もともと私はこの才能があると自負している。
あらゆる角度から物事を捉える癖がある。
しかし、それも調子がいいときだ。
調子が悪いと、自分の考えに固執し、視野が狭くなる。堂々巡りをしてしまう。
だからこのロードワークは書くこと(伝えること)だけではなく、どんなときも視野を広く保つ訓練にもなった。
 
    
 
この視野の広さ、または多様面から物事を捉える私の資質。
それらは、いつもでも私を傷つけた。
そもそも人間は矛盾した多様な側面を抱える生き物であるが、それに気付かず意図しなければ、たいした害はない。
AをBと言い、Cの物語をDという事実に変えてしまう。
ごく当たり前に、タテマエとホンネを使いわけ、自分に都合よく事実を捻じ曲げる。
真意を隠したそれら当然の人間の生業を、悪意をもって操るとき、これも人間の多様化の一面である残虐性がふと顔をのぞかせる。
その瞬間をいつでもリアルに見てしまうのだった。
 
繊細なのだとか、感受性が強いのだとか、そういうありきたりな言葉で自分を慰めた。
しかし、今は違うと断言する。
これは才能だ。
洞察力と理解力の問題だ。
これは劣性だ。
人間の生業を受け流せない生真面目さの問題だ。
そしてあまりにもその資質が私を傷つけるので、私はその対抗策として、私の資質を特出させる術を学んだ。
毒をもって毒を制す。
まさにそれしか身を守るすべがなかった。
 
相手が多様性を操るならば、自分もそれを操り、相手を制すのだ。
たとえば、前のエントリーで、この私のブログを未だに読んでいるとしたらその人は私が好きなのだと書いた。
実際は、ただの野次馬か悪意ある批評家であろう。
しかし、こう言う側面で捉えられ、こう断言されると、彼らは私の記事を匂わす抽象的かつ批判的な記事を書けなくなる。
読んでいることを匂わすこと、イコール私を好きなのだと公言していることにされてしまうからだ。
冗談じゃねぇよ、シカトしてやる。
とまぁ、普通なら思うことだろう。
 
自分を守るために、または憎しみや絶望のあまりに。
ダイアモンドを汚物に変えてしまう世の中のすべての人々のために。
そうして私自身を守るために。
石ころをダイアモンドに変えていく。
今までもこれからもそうして生きていくのだ。
しぶとく、強かに。
 
  
 
     

そして誰もいなくなった

 
「ここ」を再開させようと思う。
本来なら、誰に宣言する必要もない。
読者はひとりもいやしない。
もしも、過去の私を知っていて、未だこのブログを読んでいる人がいたとしたなら。
その人は私が好きなのだ。
 
これから始まるここでの記録は、過去と未来の私に宛てる、私のための物語とする。
 
とりあえず、他のプチ有料ブログサービスに書いていたエントリーをこちらに移して行こうと思う。
ただ移してもつまらないので、その当時の思いを振り返ったり、その後生まれた新たな考えや時世の状況などもつけ加えていきたいと思う。
平行して、秋からの新しい物語を始めていこう。