2007年10月30日

甘えられるものがあるということ

 
『ひまわりのような母』 (2007年06月23日)
 
幼い頃、母はひまわりのようだった。
真夏に咲くあの花のように、明るく元気な人だった。
当時の事柄をよくよく思い返せば、母は怒ったり、泣いたり、感情の起伏がずいぶん激しい人だったようにも思う。仕事に子育てに手一杯で、生活に追われて、大変だったのだろう。しかし、全体としてのイメージはひまわりなのだ。私の中の記憶の母は、いつでも笑っている。
そんないつも明るい母が、ある日、仕事に行く時間になっても起きなかった。
お腹が痛いと言う。
大事をとって休んだが、母は一日起き上がれず、寝て過ごした。
翌日の土曜も起きなかった。仕事はない日だった。いつもならば、掃除に洗濯をして、食事の支度をし、同じように休日の、私や姉や父と一緒に過ごすはずだった。
私は不機嫌だった。
なぜ、母は起き上がらないのだ。
母はいつでも笑っていて、仕事をし、私たちの世話をする。それが当然であり、当たり前の義務なのだった。
つまらない休日だった。
私はまったく母の心配をせず、それどころかずいぶんつらく当たったように思う。
次の日、まだ母は寝ていた。腹痛が治まらないと言う。
父は寝ている母の背中を蹴った。
「飯を作れ」
と怒鳴った。
母はよろよろと起き出して、深くうな垂れ、柱に捕まりながらやっとのことで台所へと向かう。そして、苦しそうに顔をゆがめたまま、包丁を持つのだった。
私はそれでも心配もせず、手伝おうともしなかった。
それよりもただ腹が立った。母のつらそうな様子が大げさだと思ったのだ、まるで芝居であるかのように。
母は作った食事も満足に食べられず、すぐまた床に就いた。
そうして、翌日、学校から帰ると母はいなかった。
やっとのことで異変を察した父が、近所の市民病院へと連れて行ったのだ。
急性盲腸炎だった。
医者は言った。「なぜもっと早く来なかったんです。あと少し来るのが遅かったら、危なかったですよ」
「土日だったので、病院が休みだったので」母は答えたと言う。
「救急外来もあるんですよ!」
誰もそんなことを思いつきさえしなかった。
私はそのとき、初めて知ったのだ。
母が毎日同じように明るく、元気でいることは、当たり前のことなどではなかったということを。

母は手術をし、2週間ほど入院した。
学校を終えた私が見舞いに行くと、いつも明るく向い入れ、帰るときは窓から大きく手を振った。にこにこと笑いながら。
私は母の笑顔が小さく小さくなるまで、何度も後ろを振り返りながら帰ったものだ。
まるでひまわりのような、いつもと同じ笑顔だった。
けれど私は二度とそれを、普遍だと思うことは、なかった。
   
                               R0010145②
☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 
母という存在は、私にとって不思議なものだった。 
敬愛し、いなくなったら誰よりも嘆き哀しむくせに、どこかで自分は違うと見下している。
「母のようにはなりたくない」と。
たぶん甘えだったのだろう。
母は常に元気で、何があっても笑ってくれて、冷たくあしらっても許してくれて、それが普通であり、そうでないときは異常なのだった。
 
私がそんなふうに甘えられた存在は、母だけだった。
これからは、出来る限り私が甘えさせてあげたいと願う。
 
 
 
 

最後の晩餐

 
昔、義兄に「地球滅亡最後の夜に何が食べたい?」と訊いたら、こう答えた。
「コーヒーゼリーかなぁ・・」
ずいぶんと考えた後、どうでもよさそうにそう答えた。
義兄はコーヒーゼリーが大好きなのだそうだ。
「最後の夕食」を尋ねているのに、なぜ「コーヒーゼリー」なのか。謎だった。そのあとしばしば義兄の気持ちになってみたが、ついに理解することは出来なかった。
ただ、それを聴いてからというもの、義兄にはコーヒーゼリーをお土産に持って行くことにした。姉と姪っ子にはシュークリームかケーキであっても、義兄にコーヒーゼリーでなくてはならなくなった。
 
私はと言えば、最後の晩餐はやはり食事がしたい。
希望は餃子だ。
白いご飯と赤出汁のお味噌汁をつけたい。欲を言えば、秋刀魚を焼いて、白い大根おろしもつけて欲しい。更に欲を言えば、茶碗蒸しとお刺身を。それから食後にはコーヒーとケーキを。
 
もしも一品しか食べられないなら、餃子だけでもかまわない。
豚と牛の合い挽きを少々、韮とキャベツ、野菜をたっぷり刻み、にんにくは入れない。
外はカリカリ、中は瑞々しい餃子を戴ければ、満足して死んでいこう。
 
困るのは、それが「餃子」だと言うことだ。
義兄は正しかった。
コーヒーゼリーならあっさりと逝けるだろうに。
栄養満点のそれだけをたらふく食べた私は、生のエネルギーに満ちている。
 
 
 
              無題②

2007年10月28日

 
『死の過程』 (2007年06月23日)
 
夢はある。
もちろん今の私じゃない。
何十倍も成長している。
進化している。

進化とは今ある自分から変化することだろう。

そもそも変化は、死や滅亡と同義語でさえある筈なのに。
個や集合体は変化することでしか、存続し得ない。
 
形を変え。
姿を変え。
心を変え。
仕組みを変え。
 
 それを怠れば衰退へと向かう。
 
 
 
                    R0011477
 

Newsを見て思うこと ~敬愛するあなたへ~

 
人の悪意に遭遇したとき、過剰な反応を示す癖がある。
悪意だけではない。理不尽な出来事や、事なかれ主義的な人の冷たさに接したときも、腹を立てる。
自分のことではなくても同じだ。
それをされた誰かや、それをした誰かのために、怒る。
怒っても何も変えられず、たいていはますます状況を悪くするだけなのだが、それでも、ふざけるな、と思う。そんなマネは私の目の黒いうちはゆるさねぇ、と。
 
度を越すと、哀しくなる。
悪化した事態、変わらない現実、私と他人の関係性の崩壊、それらに対して嘆き哀しむ。
そうして、もう二度と、馬鹿な正義感など捨ててしまおう、と心に決める。
 
すべては、それのせいなのだと。
 
それでもまた、パブロフの犬のように条件反射してしまうのだった。
正義感はしかし、相手も持っている。
悪意ではなく、正義だと誰もが言う。
自分が間違っていると思って行動する人は少ない。
誰もが、自分こそがヒーローだと思っている。
 
「私が、悪者を、たたくのだ」
 
いじめをされるものが悪者ならば、いじめは正義か。
常識が正義ならば、非常識は悪業か。
 
誰もが正義を自分に都合よく使いわける。
風向きに従って、あっちにこっちに傾いては、正義の声を高らかに掲げる。
 
てめぇらいい加減にせぇよ。
 
もしも風向きに反してでも、それをひとりで叫べるならば。
あなたの正義は本物だ。
たとえ、まったく正義などではなく、間違っていようとも、「本物」だ。
私はそれだけを基準にしよう。
あなたを尊敬するために。
 
 
 
 

2007年10月27日

雨の休日

 
『Rayの傘を買う日』 (2007年06月16日)
 
決して雨音だけじゃなく
雨は優しい
陽光と同じように
誰にでも平等に降り注ぐ
私は雨の恩恵を浴びて濡れそぼつ
天を見あげて涙を流す
 
 
傘が欲しかった
 
 
お気に入りのある傘を選び
持っていき
さして歩く
スキップして
雨音も雨の雫も
今以上に楽しめたなら

もうただ濡れてばかりじゃない
 

インターネットで骨の多い話題の傘を買った
 
 

☆☆☆☆☆

 

   R0011444② 

 
 
 
ずいぶん以前から心待ちにしていた休日だったが、あいにくの雨が降ってしまった。
台風20号だそうだ。
舌打ちをする。私は台風が嫌いなのだ。
 
予定があるときと、洗濯物がたまっているとき、それらは困るが、しかし雨がそう嫌いと言うわけでもない。
 
皆が自分と同じように外出を諦めて、この雨の情景を窓の裡から眺めているような、錯覚を起す。
すると、自分がひとりではないような、雨を通じてすべてと繋がっているような、温かい想いがしてくるのだった。
雨は、優しい。
 
台風は明日の朝にははるか東海に消えるそうだ。
 
 
 
 
 

2007年10月25日

カエルが我が家にやって来た。

 
 
最近、私のパソコンライフはかなり自堕落な状態に陥っております。
 
                   R0011431
 
写真上、物置と化したPC用デスク。もはやここで創作する意欲もあらず。
で、どうしているのかと言うと。
 
                   R0011432
 
床にあります。(ラップトップ)
大抵は座り込んで、ここで見る、書く。寝転がることも多々あります。
私がPCを見る姿(ブログを書く姿)を、もしも欧米系外国人が見たら、十中八九人間とは思われません。
(きゃつらは床にいる物体は犬か猫だと思うに違いないでしょう)
 
 
                  R0011433 
 
で、本日やっとのことでミニテーブルを買いました。
このマンションに引っ越してからと言うもの、ずっとテーブルなしで過ごしていたのです。いささか遅いと言う感じもしますが。
可愛いでしょ。大好きなカエルの絵柄の黄色いテーブルです。
これからはここでご飯も食べられそうです。
 
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
 
『変わらぬものと変わるもの』 (2007年06月09日 深夜)
 
小雨が降る中、自転車を飛ばして隣町へ出かけた。
目指すは中華料理屋、ラーメンがメインの、アジア系の夫婦が経営する小さな店である。
カウンターだけの店内は、先客が二組。労働者風の中年男のふたり組みと、仕事帰りの若い男のふたり組み。一斉に見る。
私は鷹揚に足を運び、丸い椅子に腰をかける。
気取った声でこう言う。
「レバニラ炒め定食ひとつ」

厨房にいる経営者のおじさんは私を一瞬見て、すぐに目を伏せる。
気まずそうだ。明らかに誰だか知っている。覚えていたのだ。
 
昔、この店によく、彼氏と一緒にラーメンや定食を食べに来た。ふたりでお酒を飲みに訪れたものだった。
 
レバは一旦揚げてから、とろみをつけ、しゃきしゃきのもやしと韮と一緒にからっと炒める。相変わらず、巧い。
空腹を急に思い出す。
労働者の中年男と、若い、いかにももてなそうな男達は、思わぬ女性客の登場に色めき立つ。会話が急に弾む。
おじさんに大口の宴会の注文をする。

おじさんの愛想よい返事も、レバニラの美味しさも、あの頃とは何も変わっていなかった。

私は後ろを通りかかるおばさんに、ギョーザの追加注文をする。
 
 
 
 

2007年10月23日

最近映画見てないですが。

 
『映画監督というマラソン ~『大日本人』を観て~』 (2007年06月03日深夜)
 
 
松本人志監督「大日本人」公開初日で早くも興行収入一億円突破

ダウンタウンの松本人志が映画を創った。
思えばコメディアンとしてより、作家性の強い彼のことだ、今まで撮らなかった方が不思議ではある。
私の中で、まっちゃんはもう終わっている。
「ダウンタウンの時代を逆行した4ビートの漫才を見たとき、そのあとすぐに吉本へ直行して、引退を宣言した」と当時紳介竜介として漫才界の頂点にいた紳介に言わしめた、あの天才ぶりはもう感じられない。
自分の世界観に固執し、小さくまとまって、内輪ネタだけが目立ち、「面白くない」というのが正直な感想だった。エンターテインメント性が感じられなくなっていた。
しかし、土曜日、迷った末に、彼の映画を見に行くことにした。
もう私の中では「笑いの神」ではないが、映画監督としての松本人志は未知なのだ。
そうして、松本には、面白いつまらないに関わらず、「何かをやってくれそうだ」という期待感が常にあり、それだけは今も失われていない。
この期待感を持てる人間か、そうでないかの差は大きい。
私は常々それを評価の基準にしている。
松本は確かに未だその期待感を持てる存在であり、期待を適える才能、その持続性は未だ失われていないと確信した。
映画館へ足を運ぶ決心をした。

私が松本を本当に好きになったのは、ずいぶん昔のこと、何かの番組の企画で、確かホノルルマラソンだと思う、42.195キロを走る姿を見たときだ。ダウンタウンとそのファン、一行としての参加だった。
浜田はいかにも日ごろから運動をしているらしく、スポーツマンらしく軽快にスタートした。それに比べて松本は、のろのろと歩き出したのだった。ファンの女の子とお喋りしながら、にやけて、とろとろと。
浜田が汗を流し、炎天下の中懸命に走る姿がクローズアップされる。
私は当時浜田のファンであったから、その彼の姿に好感を抱き、松本がふざけていると思ったのだった。
しかし、浜田は16キロを過ぎた地点でダウンした。
一人で懸命に走り、飛ばしすぎて、足が動かなくなったのだった。
確か20キロ持たなかったように思う。彼はリタイアした。苦しそうに顔をゆがめ、悔し涙を浮かべ。動かぬ足が痛々しかった。
一方その頃、松本ははるか後方をとろとろと歩いていた。
時々気まぐれに走る。疲れるとまたお喋りしながら歩いている。相変わらずファンの女の子に囲まれている。
そうして、浜田がリタイアした箇所を難なくクリア、7時間近い時間をかけて、完走しきったのだった。
夕陽が沈む頃、ファンの子達と並んでゴールする彼の姿が、私に衝撃を与えた。
したたたか、というのか、持久力、というのか。見栄とか、体裁とか、そういう目に見える何かよりも、継続させることの強さを何よりも知っている人だと理解した。
その時から私は、浜田よりも松本に好意を抱くようになったのだ。

松本の映画は盛況だった。
小さな地元のミニシアターのような映画館だったが、それでも田舎だ、最近は話題の映画でも空席が目立つ。しかし、その日は満席だった。
この訪れた人々の期待を裏切るだろうか、いい意味で、悪い意味で。それとも期待通りのことをしでかしてくれるだろうか。私ははらはらしながらスクリーンを見つめた。
映画が始まる。出だしは最悪だった。だらだらした掛け合い。地味で、退屈なシーン。あらー、やっちゃったな、と直感した。冷や汗をかく。
しかし、期待感はまだ失せない。
続いて、物語が急展開を見せ、私は次第に彼の映画の世界に浸っていった。
ドキュメンタリーとして描かれるその虚構の世界は、独自の世界でありながら、決して、観客を忘れていなかった。

いつしか私は、マラソンをする彼と並んで歩いていた。

一緒にゴールに辿り着いたとき、思わずため息を吐いた。
天才だ、と心から思えたのである。
そう思えたことが何よりも嬉しかった。
「この世界観を笑いにしてしまう」ところが何よりも、すごい。
そうして、やはり「期待を裏切らなかった」と言うところが、すごい。
映画監督としての彼は、スタートしたばかりだ。
これから、たくさんの非難や、挫折や、困難が待ち受けていることだろう。
しかし、これだけは言える。
松本人志はこれでやめない。
2作目、3作目を必ず撮るだろう。
きっと継続させる。たとえ誰に何を言われようとも。
そうして、私たちと一緒に、ゴールへと向かうだろう。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
              R0011415②
 
その後どうなったのだろうと、最終興行収入を検索してみたが、ヒットさせることが出来なかった。
いったいこの映画成功だったのか、大失敗だったのか、せめて数字の上からだけでも量ってみたかったが、さすが吉本、ガードが固い。
DVDが11月28日に発売だそうです。(公式サイト新着情報より http://www.dainipponjin.com/news.html
私的には出だしの間の悪さ以外はすべて良かったです。
是非、ご覧になってみてください。
 
 
追伸・まっちゃんへ
「絶対2作目作れよ、コノヤロー!」
 
 
 

2007年10月20日

さようなら私の喫茶店 ~25年間どうもありがとう~

 
買い物に出かけたら、行きつけの喫茶店が潰れていました。
9月25日を以って閉店していたらしいのです。仕事に追われ、まったく気がつきませんでした。
 
何十年間もの私を知っているお店です。あの店は暫く行かなくても、あそこに在り続けてくれるものと信じていました。
 
 
入口の真上に青いビニールシートがかかり、中では急ピッチで解体工事が進んでいました。
3人ほどの内装工事の職人が大きな音を鳴らして店を壊しています。
通行人が思わず振り向いていました。
あまりの騒音に驚いて。
 
私には泣き声のように聞こえてしまいました。
または、悲鳴です。
 
 
私は何も買わずにそのまま帰りました。
またひとつ、私の居場所がなくなりました。
 
 
 
             
  
 

マーケティングするのは誰ですか。

 
 
不思議な思いがした。
この中の記事の一文にこうある。『今回の初音ミクの件が世の中的にほとんど騒ぎにならないのは、「アッコにおまかせ」の取り上げ方が、世の中の多くの人々とそれほどズレてはいなかったからだ。地上波テレビは常に視聴者が求めているものに迎合する。読者の中にはこのことに全く納得できない人もいると思うが、テレビは数字が取れないことはやらない。』
つまりテレビの制作側と国民の認識はほぼ一致していると言うわけだ。
もちろんその国民とはテレビを見る層を指す。
私はこの記事を読んで、テレビを見る層と、その層を意識して作り出すもの、つまり元来から日本の文化とシステムを作り上げてきた(作り上げている)層と、その他の層が大きく二分化して来ているのではないかと言う思いがした。
以前からそうだったのだろうか、格差社会とはよく聞くが意識したことはない。あるとすれば貧富の差ぐらいだった。
富んでいるほうが強者で、貧しいほうが弱者、そんなイメージだったが、そうではない事に気づかされたということかもしれない。
ここでは明らかに強弱を超えた文化の格差がある。
IT革命などと言う言葉ももう古いが、それ以後分断された層は確実に、文化の格差を広げていっているように思う。
 
『初音ミク』、ヤマハが開発した音声合成ソフトウエア「VOCALOID」を利用した音源ソフトウエアで、バーチャル歌手として設定されているキャラクターの名前だ。小さな北海道の企業が発売した。
これが国内最大の広告代理店、電通が作ったバーチャルアイドル「伊達杏子」よりも売れてしまった。
ユーザーのターゲット層が違うこともあったかもしれないが、面白くない電通側が初音ミク(画像)を検索エンジンにヒットしないようにしたのではないかとかいう話も浮上した。
このことも私には文化の格差を感じさせる出来事だった。
私にとって電通は、テレビ等の日本文化(システム)を支えている、元来の日本の姿とだぶる。
それらは商品そのもののクオリティよりも、流通プロセスにより関わる多くの企業に配当金としての利益を生み出すひとつの大きな流れ、流通システムのひとつの駒だ。そこで働く人々はこの大きな流れに組み込まれるために日夜努力を強いられる。
もしあなたがAと言う商品を作りたければ、それ以外に多くのものを要求されるだろう。たとえば学歴、学歴を得るための経済力、幼少の頃からの努力に家柄。社会人としての協調性、組織の一員でいることの忍耐力にサービス精神。家にこもって一日24時間のうち20時間以上PCの前に座っていてはやってられないことだろう。
しかし、私が格差を感じる層はユーザーの違いなどはるかに超えた、これらとは一線を置く新種の層で、日本が海外に輸出して大きな利益を生み出す文化を作ることが出来る層だ。オタクと言う言葉に縛られない、PCユーザーすべてと言おうか。その中から生まれる、大きな流れに属さない個々別々の人の集合体のことだ。彼らはこれら既成のシステム、商業の流れを一足飛びに超えてしまう。
戦国時代の下克上を思い出す。または自殺と醜聞を繰り返し働かぬ作家が有名人になるのと似ている。
彼らは人格や社会的適合性とは無関係で、最大の商品を作り上げてしまうのだ。
もちろん作るのはひとりではない。文化となるからには大勢のユーザーがいる。そのユーザーはまたしてもそれを土台にして新たな文化と商品を作り上げるための人材を自動的に排出する。
 
私の想像だが、このままでいくと日本の二分化は更に進み、完全に分断されるのではないだろうか。
ITマーケティングをいかに進化させよとも、ニーズの融合に留まるだけだ。初音ミクと伊達杏子の件でもわかるように、与えられたものを育て上げることよりも制作する方が遊びとしてははるかに面白い。
遊びを知った新種の彼らは、冒頭の記事にあった「なにがわかっていないのかわかっていない」層や社会システムそのものに組み込まれることはないだろう。
TBSや電通やホリプロや大手企業が反省し、大金と引き換えに彼らを優秀な人材として迎え入れようにも無理がある。両者の接点となりうるのはアウトソーシングだけだが、それでは今までと同じで、彼らを飼いならすことは出来ない。
いったいどういう方向性で結末を迎えるのか。
今後の動向がとても楽しみだ。
 
 
 
                   
 
 

2007年10月18日

ある朝、神社で鳩に訊いてみた。

 
『君に質問』 (2007年06月30日深夜)
 
『life style』
ライフ、スタイル。
私たちは生き方をデザインする。
より自分らしく、洗練された趣味を持ち、その趣味で武装する。
誰かよりも、特出したいと願う。

もしも、趣味が複数あったらどうなのだろう。
ひとつが優れているならば、もうひとつは劣っていてもかまわないのか。それとも2番目も3番目も勝っていたいものだろうか。

あれは特出し、それは卓抜し、そっちは卓越し・・・

すべてにおいて、優越したいものなのか。
どうなのかと考えてみる、超越した君よ。
 
 
 
                         
 

森に火をくべろ!

 
『他の人間にとってこの世界はまっとうなものに思われる、そのわけはまっとうな人間は去勢された目をしているからだ。彼らが淫らなものを恐れるのはそのためだ』 G・バタイユ
 
 
ある日の午後、むさぼるような眠りから目を醒ましたAは、壁につるされた白いコートを眺めて、思った。
「私はBを愛している」
なんの脈絡もない、突然の気付きだった。
そして、それはいかにも、滑稽な事実のように思えた。
まるでオタクの中年が架空の少女に入れ込むように、老年の後家が宝塚や新宿コマ劇場に通いつめるように。
 
もちろんBは実在する人物で、アイドルでもスターでも、ましてや神でもない。
しかし、実体がなかった。
Aは愛という快楽を金で買うこと、それを犯すことのできる社会的な力というものこそを愛しているのではないか、と自分を疑った。
Bと言う存在は、金だけが実際との接点だった。
あらゆる知力によって創り上げられた、金と力だけが実体として君臨していた。
彼の王国だったのだ。
 
Aはこの倒錯の森に囚われた。
幽閉され、その王国で迷子になった。
出口はなく(単純にAには見つけられなかっただけだ)、そうして、Bを見失った。
 
 
いつかAが実在する愛を知りえたならば、この迷路のからくりをも見破ろう。
 
しかし、その時Aは、同時に去勢と言う洗礼を受け、ますますBの実体は遠ざかるような気がしてならない。
 
 
 
 

2007年10月16日

現状が至福と感じられる方法

 
えー、みなさん、こんばんは。
今日は少し、くだらない小ネタを。
 
つらい状況に身を置いているとき、あなたならどうします?
まるで針のむしろのような状況、シカト、四面楚歌、過酷な大量の仕事など。たいていの人は現実逃避をするかと思われますが、つまりユートピアを想像するまではないとしても、「あと○時間すれば美味しいランチ!」とか、「あと○時間で解放されたらビール」とか、「これが片付けば南の島へ旅行!」とか、そういう楽しいシチュエーションを想像をして、現在を耐え、乗り越えようと努めるのではないでしょうか。
私の場合は、それが違うんです。
私が想像するのは、今よりもっともっとつらい「拷問」のことです。
あなた、拷問を想像したことありますか?
もしあったら、どんな拷問をされたら一番嫌ですか?
そして拷問に屈しない場合訪れる死、その死に方で一番嫌なものはなんでしょう。
 
現在の苦痛が吹っ飛んで、現在こそがユートピアだったのだ!と確信してしまうほどの、私の最高の拷問を教えてあげましょう。
まずひとつ目、「生きたまま火あぶりの刑」。
①あなたは丸焼きされる豚になった気分でいてください。
②はしごの最上段にくくられてください。
③拷問者が火をくべます。(2階の天井に届きそうなくらい大きな火と仮定)
④はしごをゆっくりと倒され、火の山に近づけられます。
もちろん拷問に屈しなければ、顔など露出している肌の部分からゆっくりと溶けはじめます。次に服が溶けます。
あなたが豚の丸焼きになるのも時間の問題でしょう。
 
ふたつ目。「生きたまま皮剥ぎの刑」。
①まず、絶対口を割れないと観念して下さい。
②木の台にくくりつけられてください。
③アジア系のナイフの達人が現われます。陽気に挨拶を交わしましょう。
④達人が縛られたあなたの体の皮をむいてきます。(りんごの皮のようにキレイにつなげて人間の皮を剥くのが彼は得意です)
これは村上春樹の小説にありました。
この拷問シーンを読んでいて、私は全身の力が抜け、ふぬけになりました。本を持つ手に力が入らず、落としそうになった記憶があります。
最悪なのはこうやって生きたまま皮を剥かれても、毛細血管しか切れず、あまり出血しないので、なかなか死ねないのだそうです。
 
どうでしょう。少しは現在の悩みなどへでもなくなったりはしませんでしょうか。
 
最後に少しユニークな拷問を紹介します。
これはまったく怖くはありませんが、想像するとキーッと叫び、イライラ感を爆発させたくなる拷問です。
まず、手足を固定させられます。完全に自由が聞かない状態と仮定してください。
その上で、体の一部分、(柔らかい二の腕やももの部分がいい)を細い針かとがった葉か何かで、ちくりと刺されます。
ちと痛い。それよりむずむずするかもしれません。
思わず手を延ばしかけますが手は固定されています。我慢する。そこを何度もちくちく刺されます。
極めつけに縛りつけた張本人の拷問者がこういいます。「掻きたいなら掻けば?」。
発狂しそうになります。
 
その前に縄を解け!
または、いっそひとおもいに刺しやがれ!
 
 
では、明日も皆様頑張りましょう。
良い夢を。
 
 
 
 
 

伝説のスピーチ 環境サミット@リオ

 

        

 

10月15日に少し遅れましたが、Blog Action Day にちなんで、上の画像をアップしました。
力強いスピーチですね、12歳の少女とは・・とても思えません。
 
私には子供がいないのですが、時々それを良かったと思うことがあります。
ふと怖くなるんですね、私の子供は寿命を全うできるだろうかと想像すると。
 
たぶん、考えすぎよ、といつものように言われてしまうことでしょう。
だけど、環境問題は、私たちが思っている以上に深刻だと思います。

ファッションでエコを楽しんでも、おいつかねーだろうなぁ・・と、笑

 

          

http://blogactionday.org/

2007年10月14日

亀田大毅は悟りを開きなさい。

 
『菩提の樹の下で』 (2007年06月02日)
 
『悟り』
①理解すること、気づくこと。
②迷いが解けて、真理を会得すること。
 
欲望は尽きない。
人間である限り、付いてまわる。
満たしたいと願う。満たされないと苦しくなる。
しかし、欲望を果たせる割合が極端に減ったら、どうなるか?
望みを持っても叶うことはないだろう、と自覚できたとしたならば。
長い間、私にとって、老いとは、諦めの極致だった。
老いこそが平穏を与えてくれる、唯一残された手段だった。
所詮凡人は老いて悟りを開くしかないのだと。

しかし、最近不思議に思う。
若い人を見ていると、どうもみな、悟りを開いているように見えるのである。
みな、諦めている。
果たせる割合は限りなく減ったのだと。
真理を会得して、穏やかに過ごしているようだ。
 
あんなに願っていたのに、私より先に達した彼らを見ても、特にうらやましいとは感じられない。
それよりも、憂う。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
 
ババ臭い愚痴を言わせてもらう。
どうも若い者からアテにされることが多い。
彼らは美味しいポジションと自分の未来には興味があるが、今現在やらなければならない実質的な業務には関心がない。
面倒くさいことは上任せなのだ。
その面倒くさいことこそが仕事の本質すべてであり、そこをかっ飛ばしては大事な未来も意味をなさないと思うのだが、まるでお構いなしのように見える。
日本と言う見た目は豪華だが中はぼろぼろの沈没船で、胡坐をかいて生きている今の彼らの姿とだぶる。
若い人たちにはもっと頑張ってほしいと思うが、どうだろう。
 
きっと彼らは彼らなりに頑張っているが、必死なところを見せるのがみっともないだけかもしれない。
きっと見えないところで努力をしていることだろう。
そうは思うのだが、ならば老兵をアテにするなと言いたい。
率先して、お前がやれ、と。
 
 
亀田兄弟なんかはまだマシだと思えてくる。
明日の処分がどうなろうが、バッシングが酷かろうが、たいしたことはない。
彼らは私たちより確実に、この国すべてに貢献している。
対戦相手の内藤大助選手のファイトマネーは100万から、今回1000万だったそうだ。
それだけの金を流通させられる若者は貴重だ。
あとは、周りのためではなく、自分の未来のためだけに頑張ってください。
彼らは逆に、多少胡坐をかいて生きていった方がいいだろう、これからは。
内藤選手のように、コツコツと。自分のためだけに。
 
                                    R0011302
 
 
 
 

2007年10月8日

外堀通りのユダ

 
 
衝動的に辞表を書いてCD-Rに落とす。通勤鞄にしのばせて家を出た。
朝日が映え、緑が眩い。毎朝立ち寄る神社の景色は、だけど確実に秋へと向っていた。
上着を一枚多く着込んだ「学者」が隣に座る。
この神社に住み着く浮浪者は、政治家や官僚や企業や国への提言を繰り返す。大きな声で、いつも呟いている。
ぼんやりと煙草を吸っていた私の耳に、彼の言葉が飛び込んだ。
 
「やつらは、命を削って働いて。毎日命を削って。命を削って」
 
学者を避ける人はここにはいない。みな彼の警句を聞きながら朝の一時を過ごすのだ。
彼は、透明人間だった。
しかし、この日に限って、学者の言葉に私ははっとさせられた。
 
「命を削って。命を削って。働いて。やつらは死を急いでいく。俺は、ごめんだ」
 
辞表は書いただけだった。
書いたらすっきりとして、鞄の底にあると思うだけで勇気が湧いた。出すつもりなどなかった。
だけど私は、デスクに座るとすぐにCR-Rを差し入れ、ワードを立ち上げ、プリントアウトした。
10分後、書いたときと同じように衝動的に、一枚の紙切れは、上司の手に渡ったのだった。
 
 
仕事を成功させたいなら他で運を使うなと言ったのは、萩本欽一だ。彼流の哲学なのだろう。
プライベートで運を使い果たすと、仕事は成功しないのだそうだ。
もちろん、何を自分の仕事と定義付けるかにもよる。お笑いで身を立てたい若者が、生活の糧を得るために始めたバイト先で、上司に見込まれ、社員になり、のし上ったと言っても、それは成功したとは言えないだろう。
何を、自分の使命とするか、による。
 
私は「えっ」と言ったきり、言葉を失った上司を見下ろした。
私たちの2倍の大きさのデスク、肘掛付きの椅子に深く腰をおろしていた。背後には東京の高層ビルと大使館。
「これは預かっておきます」と彼は言った。
神妙に一礼をして離れる。
ほんの3ヶ月前、私の年収は約600万に達したばかりだった。
私は自分をユダのように感じていた。
 
 
学者とは、その夜、また会った。
一日に二度会うのは初めてだった。
外堀通りの、東京メトロの入口のすぐ傍にある自動販売機の前に立っていた。
紙袋を片手に提げ、長い髪を吹かせて、崩れるようにかがみ込んだ。
お釣の出口に顔を近づけ、手探りをしている。相変わらずぶつぶつと、だけど大きな声で、警句を吐いていた。
 
彼の仕事運はどうだったのだろう、私はふと考える。
きっと最高だったに違いない。
 
私は透明人間から目を逸らして、地下鉄の階段を下りていく。
もう言葉の意味は聞き取れなかった。
 
 
 

社会の異端児御伽噺作家はなぜか御伽噺ふうには生きられない

 
『髪』  (2007年05月30日)
 
青空文庫の5月26日付の新作である。
主人公は若さや青春を持ち合わせていない男。20代の頃から若さを失っている。
彼は言う。恋物語を例にあげ。
「三十面をさげてあのような美しい狂気じみた恋はできまいと思われるのである。よしんば恋はしても、薄汚くなんだか気味が悪いようである」
老いた心は恋さえもできない。
そんな彼にも青春の思い出がある。
老けた容貌の中で、唯一年相応の、房々とした黒い髪。それだけが、無疵で残っていると言う。
男はこの黒い髪に固執した。
理由は簡単だ。頬骨が高い顔と、形の悪い頭を隠すためであった。当時(昭和20年発表)の主流は坊主頭だったが、それではコンプレックスが際立ってしまう。破戒僧のような形相になるのを嫌った彼は、髪を伸ばすことが出来そうな自由な校風の学校を選ぶ。そのために、進路を決めるのだ。
しかし、入学後、憧れの寮に入った彼は、その髪の毛を切るか切らないかの選択を迫られて「俺は俺の髪を守る」と宣言して寮を去る。郷に入れば郷に従え、と言う寮の委員の教えも、寮の規則にも納得することが出来なかった。
それがきっかけで、反感を買い、意欲を失い、健康を害し、ついに学校を辞めた彼は就職を探すが、それも髪のせいでうまくいかない。戦時中の点呼訓練も、髪の毛のおかげで、落ち度がないにも拘らず目の敵にされ殴られて、散々な目にあうのだった。
最も落ち度がないというのは男の弁だが。
(この作品では、始終、一貫して、自分の髪を守る男は鼻持ちならない男として描かれている)

若い頃、30代の頭くらいまでだろうか、そんな頃は、部屋の小物ひとつ、普段着のTシャツ一枚に、ポリシーがあり、こだわりがあった。
それは、信念と呼ぶには中途半端で、主義と呼ぶには軽薄で。
どちらかと言うと、アイデンティティーなのだが、しかし、定義とは異なり、その存在証明は「他者や共同体からは認められていな」かったりする。
何者かであろうとして、何者にもなれず、それだけが確かで、望んだわけではないのに世界と相反し、自分も周りも傷つけてしまう。
惨めの一言だった。
若さとは。

この小説も反吐が出るほどだ。
読んでいて、思わず目を背けたくなるほど、惨めで、そして若かった。
ラストに彼は言う。
「私の長髪にはささやかな青春の想い出が秘められていると書いたが、思えば青春などどこにもなかった。ただにがにがしい想い出ばかりである」
しかし、鼻持ちならない主人公は見事に書き記している。
彼の青春を。
なぜか、読後には清々しささえ感じてしまう。
「近頃人々はあわてて髪を伸ばしかけている。
それを見るとますますにがにがしい。一番さきに丸坊主になった者が一番さきに髪を伸ばすだろうと思うと、にがにがしさは増すばかりである。
しかし、こんなことを言ってみても仕方がない」
仕方がない。
心が老いたものはいつの時代も存在し、そうして圧倒的に多い。
器用な大人の彼らは「御伽噺のような美しい青春」を謳歌するのだ。
 
 
 
 
  
 
 
 

人の噂も七十五日、エリカ様頑張ってくださいませ。

 
エリカ様謝罪で、マスコミは未だしも、外野は飽きた感のある一連の騒動
ファンの方々は今どんな胸中なのだろうか。
確かに、映画の舞台挨拶のときの彼女の態度は酷かった。
プロとしてあるまじきものだっただろう。
しかし、私は昔から何でも当たり間のことを当たり前と見ないで、表面化していない物事の理由を模索してしまうタチなので、今回もあれこれ考えた。
マリリン・モンローとダイアナ妃は暗殺されたと答えを出したし、ジョン・レノンは政府にマインドコントロールされた工作員(ファン)に、尾崎はオウムに殺されたと今でも疑り、エリカ様はと言えば、誰かや何かしらにハメられたのではないか、と仮定してみるのだった。
そもそもあれだけ急激に人気を博したのだ。(2005年から数えて出演した映画は9本に及ぶ)生き馬の目を抜く芸能界で不動の人気と地位を手に入れて、面白く思わない人がいても不思議ではない。
明らかに自分の不利益にしかなり得ない、酷い態度を見せなければならなかったのならば、それだけの理由があったのではないか。
当然のごとくそこまで考えれば、(ここから飛躍します、笑)前々から嫌っている竹○結子が怪しい。主演を脅かされて、撮影当初からずっと続いていた嫌がらせをまた直前にかましたのではないか、などと思い巡らせて見るのだった。
まぁ、それらの想定は、本人が「諸悪の根源は私」と結論付けた以上、深追いするまでもない話になってしまったのだが、今回の件で、私は意外にも沢尻エリカが好きになった。
今までは、生意気そうな子だなぁと思いながらTV等で拝見させていただいていただけだった。
が、今回の件で、意外にも純粋な子だったのだな、と思わされ、自分の先入観を反省したのだ。
 
女王様キャラはいつものこと、だけどあそこまで大胆に、公の場で披露してしまったのならば、よほど許しがたい何かがあったのだろう。
映画経験の多さから、ただプライベートを持ち込んだとも思いにくい。あの映画(または映画出演者)に対してきっと何かがあり、普通ならばファンとカメラの前だと心して、感情を殺して笑顔を作るべきところを、それが出来なかった。女王様キャラの域も超えている。ファンと周囲の期待値に相当する真似が出来ないほど、自分の気持ちを正直に出してしまった。自分の不利益を省みるよりも、その気持ちを通すことのほうが先決だったと言うことだ。
これがピュアじゃなくてなんだろう?
 
残念なのは、その3日後に、すぐに謝罪文を発表し、謝罪会見を行ったことのほうだ。
それだけのピュアな思いが、なぜ「諸悪の根源は私」になるのだろうか。
彼女の「ああせざるを得なかった思い」はその程度のものだったのだろうか。
バッシング程度で揺らぐ気持ちだったのか。
プロとして最低だったと言うならば、同じようにプロとして女王様キャラを演じ続け、度を越えていようがなんだろうが、覚悟を決めて貫くと言う選択もあったのではないか。
それで芸能界から干されるならば、諦める。
どうせ女王様キャラを返上して新たに人格者キャラ、愛想のいいアイドルキャラを演じようにも、無理があるのだ。今まで通り、順調にはいくまい。どちらにせよ、「あの日で台無しになった」ものは取り戻せないのだ。ならばたった数日で謝ったりせず、自分のしたことを貫いて、それで人気が落ちたら、その時はじめて、「人間が未熟だった」と反省すればよかったのではないだろうか。
 
残念だ。
バッシングを収拾するよりも、理由は大切ではないと言ってたその理由に対する彼女の思いをこそ、もっと、重要視して欲しかった。
彼女にとっては、自分の思いなんかよりも、芸能界で生き残ることのほうがはるかに大事だったと言うことだろう。
たとえ、少しでも可能性が多い選択肢であるならば、キャラを返上しても、それに賭ける。
関係者や、ファンの方々、自分を応援し、愛してくれる人々にこたえるために。
彼らを裏切らぬために。
たった3日でピュアな思いを返上して、すがったのだ。
 
どうか業界やマスコミは、それでも彼女を許さない、などと言う残虐な仕打ちはしないで欲しいと願う。
謝った彼女を笑いものにすることだけはないようにと。
 
 
 
 

2007年10月6日

祈りの言葉

 
『浄くなれ!』 (2007年07月21日)
 
 
毎朝、毎晩、通勤経路の神社に寄る。
そこで厄を払い、身を浄める。
 
同僚と笑い合った。
『この会社には何かが憑いている』
あながち冗談じゃないけれど。
 
働く大勢の人々の。
野心、嫉妬、蔑み、憎しみ、足の引っ張り合いと。
保身、怠慢、問題の擦り合い、事なかれ主義と。
 
蠢くそれらに感化されず。
まっとうに。
ただ仕事そのものを成し遂げることは。
困難を極める。
 
さらには体勢の管理下、出る杭は打ち抜こうと身構える、目は光り。
化物に見張られているような状況の中で。
私たちはまるで無能で、働いていないかのようなふりをして。
静かに、任務を遂行する。
 

清くなれ!
憤るな!羨望を捨てよ!
悲観するな!
決して、あきらめるな!
 

まともでいることに時に疲れ果て。
今日も安息のやしろにたどり着き。
ふと一服をすれば。
神主が箒を持って現われる。
 
「ここは禁煙です。灰皿はあちらにありますから」
「あ、すみません」
 
退却する私に、神の遣いは追い討ちをかける。
 
「監視カメラで、ちゃんと見てますから」
 
 
  
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
毎日神社に立ち寄ると、願い事はただひとつ。
「すべての禍を払い、私の身を清めてください」
 
 
 

 
家族と愛する人の健康もちゃっかり祈るのだが、それよりも前に、自分がちゃんとしていないと駄目だと思われ。
まず、自分が悪いほうへ感化され、流されないように、祈るのだった。
 
しかし、最近、この定番の祈りの言葉が少し変わって来た。
 
私のような人間が、好き放題に生きて、無事に過ごせて、健康を維持している。
仕事はあり、お金には不自由せず、愛する人も健康だ。(と思う)
そのことがまるで奇跡のように尊く感じれてきたのだった。
少し神憑っているのかもしれないが、有難い、と切実に思う。
清くしていただかなくてもそれは、充分に、有難いのだった。
だからお礼を言うことにした。
 
「今日もありがとうございました。この私が無事に生きていられるのは、すべてあなたのお陰です」
 
 
 

 

大前提→ 『デイモスの花嫁』を知っていますか?

 
『「デイモスの花嫁」 ~ふと思い出したんですが、こんな話じゃなかったですかね?~』 (2007年05月21日)
 
子供の頃に読んだ漫画だ。
タイトル以外すべて忘れている。
暇潰しに創作してみた。たぶんこんな、ありがちな物語だったのではないだろうか?

男は死ぬほど退屈していた。
男と言っても一応神である。平和な世の中で暇を持て余した彼は、退屈凌ぎにある日ふと、自分の裡の、分断される男と女の心に肉体を与えた。
暇に飽かせて、手をかけて、とびきり美しい女の肉体を作った。
優柔不断な彼の憧れる、気も意志も強そうな眉尻、透きとおった白い肌、漆黒の長い髪の毛、大きな瞳にふくよかな唇。彼女はヴィーナスと名付けられた。
ヴィーナスは、創造主に一目で恋に落ちた。もとは彼の心だ。当然だろう。彼はナルシストだった。
ふたりは互いに求め合った。退屈凌ぎに愛を交わした。
しかし、その禁断の愛がゼウスに知れて、男は奈落の底へと堕ちてしまう。分断した心と肉体のまま。
ゼウスは言った。「もとの体に戻れぬ限り、ここへは戻れない」
そして、ヴィーナスは生きたまま体が朽ちていき、男は醜い肉体を持つ悪魔となった。―デイモス、だ。
ヴィーナスは叫んだ。
「私を助けて、デイモス!もとへ戻れぬなら、せめて代わりの美しい肉体を!」
デイモスは彼女のために地の底を這い、地獄の王と会う。
「肉体を捜している、力を貸してくれ」
「ならば地上へ行け」王は言った。
「契約しよう。人々の魂を奪うのだ。清ければ清いほどいい。本性を暴き、貶めて、ここへ連れてくるがよい。お前は亡骸を手に入れよう」
「契約を破ったら?」
「消滅する」
まぁ、こんな感じで物語が進むわけですよ、きっと。これがプロローグと言う感じですかね、そうしてデイモスは地獄の王との契約を守るため、ヴィーナスを救うため、「ここ」へとやってくる。大変だったんじゃないですかね、なんせ、もとは神様ですから、プライドも高いわけですよ、「悪魔家業なんてやってらんないよ」なんてぐちぐちいいながら、せっせと人々の魂を奪っては地獄へと運んでいくわけ。日々大変なわりに目当ての体は見つからない。あったまきたなぁ~とくさり始めていく。

そこで出会うのが、ヴィーナスの生まれ変わり、美奈子だ。
彼女はヴィーナスによく似ていた。瓜二つだ。無論デイモスとも似ていた。しかし、別の人間なので、ヴィーナスのように一目で恋に落ちたりしない。ただ、突然現れたデイモスを畏れるばかり。
デイモスは彼女の肉体を持って帰らなければならない。是が非でも。なので、地獄の王との契約を守りながら、飽き飽きしながら人々の魂を奪い続けて、美奈子の傍に居続ける。人間の醜さを時々披露しては、自分のよさをアピールするが、肝心の魂はなかなか手に入りそうもない。美奈子は意外としぶとかった。
彼女はふと不思議に思う。
「この悪魔、目的はいかにも悪魔的なんだけど、それを達成するための手段はなんて紳士的なのかしら?」
あなた、本当に悪魔?などとずけずけ訊いて、デイモスの自尊心を平気で傷つけたりする始末。
無駄に月日だけが過ぎていく。地獄へ残したヴィーナスは日に日に朽ちていく、魂を貶める契約はノルマがきつくなってきた、イライラして円形脱毛症になったデイモスはある日こう叫ぶ。
「君の心が欲しい!おいらと一緒に地獄へ堕ちてくれ!」
デイモスが地獄へ堕ちた理由、自分の肉体を求める理由、この頃には美奈子もわかってきているわけですよ。なので、デイモスの切実な叫びが胸に響き、ふと頷いてしまう。ええ、と。
「奪って御覧なさい。あなたには負けました」
彼女の魂を力で奪うのはたやすかった。本人も抵抗していない。
だけど、デイモスは動けなくなる。
彼は美奈子の心を愛し始めていた。
初めて、自分以外の誰かを愛した瞬間だった。
彼は悟り、すべてをあきらめた。
同時にそれは地獄の王との契約を反故した瞬間であり、デイモスはその場で消滅してしまう。
一人残された美奈子。よよよ、と泣き崩れて、呟く。
「デイモス・・私も愛し始めていたのに、もう会えない」

しかし悪魔の愛と、女の美しい涙は天に届いている。
デイモスとヴィーナスはひとつになって、天の国へと戻っていたのだった。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
 
さて、デイモスが天国へ行ってしまった後、美奈子はどうなったのだろうか。
この3パターンしかないように思う。
①デイモスの思い出を胸にひとりで生きていく。
デイモスを愛してしまった美奈子は、もう新しい恋などできない。ひとりで生きていくのだ。
②デイモスの思い出をバネに、新たな恋をし、結婚し、子供を生み、よき母となる。
かつて愛した男になどいちいちこだわってはいられない。種族の存続と繁栄のために、 生の使命を果たすのだった。
③デイモスの後を追って、天国へ行く。
どうやって行くんだろうか。無理やりしつこいほどの善行をして、人々のために命を落とす。(犠牲となるとか?)神から呼ばれるように健闘し、兎にも角にもデイモスのいる場所へと向う。今さら他の人は愛せない、そんな心境&体質になってしまったのだった。
 
私だったら、①かもしれない。美奈子はデイモスを思いながら、夜な夜なコンビニを徘徊し、寂しさを癒す。
寂しさ、切なさ、そういったものから生まれる陰さえも利用して逞しく生きていくのだ。
 
 
                                  
 
問題なのは、③ですかね。
天国でまたしても鉢合わせしたデイモスとヴィーナスと美奈子。三人はどうなるのでしょう。
またしても三角関係を繰り広げるのか、それともなにせ「ここ」はパラダイスなので、三人で仲良く過ごすのでしょうか。
などと想像しつつ。
どちらにしても女は逞しい。
 
 
 

悪魔は戦地へ

 
『悪魔の犯行 ~福島県母親殺し・少年の人間性を懸念する~』 (2007年5月20日深夜)
 
 

福島県会津若松市の県立高校3年の男子生徒(17)が母親(47)を殺害した事件で、男子生徒の所持品に、切断された人間の頭部や手足のイラストが多数残されていることが19日分かった。県警は犯行前の男子生徒の心理状態を解明する手がかりになるとみて慎重に捜査している。
 調べによると、男子生徒の所持品には、頭と手足が切り離された胴体のイラストや、バラバラにされた手足、自殺する人間などが描かれているという。ほかにも「死」や「狂気」などの文字も書かれているという。
男子生徒はこれまでの取り調べのなかで「グロテスクなものが好き」などと供述しているほか、自宅からは殺人を題材にした本などが押収され、人の死や死体損壊に対して強い興味を持っていた可能性が指摘されている。県警では、犯行に至るまでの精神状態の解明を進めるとともに、福島地検と協議の上、男子生徒の精神鑑定の実施を検討する。
また、男子生徒は母親殺害後、母親の頭部をショルダーバッグに入れて自転車で移動し、同市内のカラオケボックスに行っていた可能性が高いことも分かった。
調べによると、男子生徒は15日未明に母親を殺害。その後カラオケ店を訪れて歌を歌った後、さらに自転車でインターネットカフェに移動して約2時間DVDなどを見て過ごし、同日午前7時前に会津若松署に自首したという。頭部を入れたバッグは自転車の前かごに入れていたとみられる。
一方、国選弁護人の小池達哉弁護士が19日、前日に引き続き男子生徒に接見。「なぜこうなってしまったのか、一緒に考えていこう」と小池弁護士が語りかけると、男子生徒はうなずいたという。

親殺し、最近この事件が多い。
本来なら、たったひとりの、最後の味方であるはずだ。たとえ全世界から見放されようとも、唯一自分を想ってくれる存在、その親をなぜ殺す必要があるのだろう。
そう考えたとき、だからこそだ、と思わざるを得ない。
彼らは自分を見放した世界に対して、仕返しさえ出来ない。
わかっている。
そんな自分を「壊したい」のだ。
だから、自分の代わりに親を殺す。手っ取り早く。自分の最大の砦を破壊してしまう。
死や殺人に興味があったのも、オブジェにしたのも、狂気という芸術性に惹かれただけで、本意ではないように思える。
彼らは、美となり得る狂気に憧れながら、それとは無関係に、親しか殺せないただの弱虫の、イカレタ、くずだ。
自分さえ殺せない。
殺したいほど憎んでいるのに、死ぬことも出来ない。
親を代替品にするだけだ。
ひょっとしたら、自分を愛してくれている親ならば、殺しても恨みはしないだろうと、どこかでずる賢く計算でもしているのかもしれない。
(計算するまともな頭があるならば、の話だが)
アホか、と思う。
お前らは、自分が、死ね。
彼らを生んで、大事に育てて、想っていた親たちが不憫でならない。
私はこういうやからは、精神鑑定をする必要もないと思う。未成年だろうが、なんだろうが、更正させる必要さえもなく。
きっと、彼らの心は人間のものではない。
悪魔だ。
常日頃思っていたが、こういう人としての域を超えている極悪人を集めて、軍隊を作ったらどうだろうか?
自衛隊員にわざわざ高い手当てを払い、戦地に赴かせなくても、刑期の一環として、彼らをイラクだのイスラエルだのに送り込んでしまえばいい。
思う存分「ハルマゲドンごっこ」でも楽しんで来ればいいのだ。
もちろん、生きて帰るという恩恵はなしで、死ぬまで過激派テロ集団と戦って欲しいと切実に願う。
少しは世界の秩序と平和に役立つかもしれない。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
 
先日ミャンマーで日本人のジャーナリストが死亡した。
 
『長井さんは愛媛県出身。山路社長は「パレスチナやアフガニスタンなど危険な場所にも果敢に飛び込む記者で、『誰かが情報を日本人に伝えないといけない』と言っていた」と話した。』 (2007年9月28日1時45分 読売新聞
 
父親の寝込みを襲い斧で切りつけたり、若い弟子をぼこぼこにして外傷性ショック死させてしまう、そんなエネルギーが有り余っている人々が多いようだ。
悪魔の犯行などと嘆く前に、政府に嘆願書を出そう。
死刑にするのも、刑務所に入れるのも惜しい。
特殊技能を身につけさせて、戦地にでも送り込んでもらおう。
 
そう、誰かが伝えなければいけないのだ。
 
 
 
 
おまいら、カメラぶら下げて、ミャンマーへ行け! 
 
 
 
 
それも凄い使命だと思いますが。。。