2009年1月24日

白梅と紅梅と素心蝋梅の廻り道 ~浜離宮恩賜庭園梅見散策~

 
 
 
 目的の梅を撮り終えて浜離宮庭園の出口に向うころ、私の疲れはピークに達していた。
 思えば忙しい一週間だった。やっとの週末だと言うのに休む間もなく梅の花を撮りに来たのだ。もうじゅうぶんだろう。時刻は午後2時をまわっている。そろそろ帰ってのんびりしよう。
 私は出口前の紅梅をなおざりに一枚撮って、さぁ帰ろうと踵を返して、そうして気が付いた。「だけど蝋梅を撮っていない」
 時期の終わりかけたこの花を私はまだ直接目にしていなく、今日こそは見ようと考えていたのだった。今日の場所に浜離宮庭園を選んだのもそのためでもあったのだ。ふと気がつくと隣に庭園のスタッフらしき作業着を着た男性が立っている。
「すみません、蝋梅はどこに咲いているんでしょう」つい、訊いてしまった。
 もう心は帰途へ向っていると言うのに。
「蝋梅ですか。蝋梅は花木園のほうにあります」
「カボクエン・・」
 とっさに音の意味が理解できなくて呟くと、男性は「そこの白いガードを真っ直ぐ行ってその先を・・」と詳しく説明を始めた。「・・に一本、それからその奥のトイレの先にも一本」そんなところに咲かせているのが申し訳ないかのように声を落として、「もうだいぶ枯れていますが、まだ花が見れると思います」
 ありがとうございますと歩き始めた私を追うように言葉を繋げて、
「素心蝋梅と言うんです」
 はっきりと言うのだった。ソシンロウバイソシンロウバイ。呟きながら、私は最後の力を振り絞って花木園へと向かっていった。
 花は男性の言うようにもうずいぶん枯れていたが、それでも私はこの花を生まれて初めて直に見たように思った。(もしかしたら見たことはあったかもしれないが、それが蝋梅だと認識して見たことはなかっただろう)その事実が私を素直に感動させるのだった。戻って来て良かった。微笑んで一息つくとどっと疲れが襲って来た。走るように来た道を戻って、最後にと出口付近のトイレに入るとふと気がついた。「だけどハンカチがない」
 お気に入りのハンカチ、確かさっき蝋梅を撮ったときにポケットから出した。私は気温4度程の冬のさなか濡れた手を払って顔をしかめる。もったいないことをした。今頃北風に吹かれて茂みかどこかへ飛ばされているだろう。あるいは誰かが踏んづけているかもしれない。私の中に「取りに戻ろう」と言う選択肢は生まれなかった。疲れた。もう戻りたくもない。ないとわかった瞬間にあきらめていた。だけど私は疲れのあまりか出口傍のベンチに座り込み、動こうとしない。目の前には白い梅の花を纏った小さな梅木が立っている。先ほど蝋梅を教えてくれたスタッフがこの木の前にいたときも私は見ていたのだった。彼が付けた梅の種類が書かれた名札、小さな木の札を眺めていた。煙草を一本吸って、チョコレートを一切れ食べた。深呼吸。それから立ち上がって私は花木園へと向っていく。なぜか落とした場所そのままにハンカチがまだあるような予感がして来るのだった。
 
 
 
 
 
 
 浜離宮恩賜庭園。もとは徳川将軍家の鷹狩場から始まった庭園で、明治維新ののちに皇室の離宮となった。昭和20年東京都に下賜され、翌年から公開された。都内で唯一残された海水を引き入れて塩の干潮によって趣を変える様式の潮入の池に、徳川将軍家時代の三百年の松や、安永7年(1778年)製造の鴨場など、数々の史跡を残すこの庭園は昭和27年に国の特別名勝及び特別史跡に指定されている。私は以前ここに来ようとして数々の芳しくない思いをした記憶がある。そのときも梅の時期だった。私は前回の失敗を思い出して、ミスを繰り返さないように慎重に行動していた。そのおかげか今回は前回の失敗が嘘のように順調だった。人間とは学習する生き物だとあらためて感心しながら梅の花を撮っている。
 そう、今回の目的は梅だった。先日、人が撮りたい、その本人から喜ばれるほどのストーリーを創りたいと思った私は、水仙や梅の花たちを綺麗に描いてあげたいと願うのだった。出来れば彼女たちから喜ばれるほどに。浜離宮庭園を選んだのは早咲きの梅の種類が豊富だったから。週に一度の貴重な時間を無駄にしないよう冒険を避けたわけだった。
 入園するとすぐに白梅の木が立っていた。蕾が九割、一割ほどが花をつけていた。私は持参した携帯用の小さな三脚を広げ始める。あいにく天気は曇り空。陽射はなく、風がけっこうあって花が揺れている。手持ちでは難しい。ところがすぐに主婦のようなちょっとした年配者のグループがやってきて、お喋りをしながらあっという間に貴重な白梅を占領した。高価なカメラに明るそうな大口径のレンズを装填し、頑丈そうでかつ軽そうな三脚を広げて撮り始めた。追いやられた私は負けじと三脚の足を広げて侵入し返してやろうとするのだが、ちゃちな自前の三脚は大事な場面で失態をさらすのだ。足の一本が今まさに調整している最中にポロリと取れた。ギャグとしか思えなかった。恥ずかしさのあまり、明るくお喋りを続けながら白梅を独占する彼女達の方向を見れない。冷静を保って足を直してカメラを固定するも普段三脚を使い慣れていないので撮影位置をなかなか合わせれず、手当たり次第にねじを締めたり広げたりと醜態を晒し続ける。梅は一枚も撮る体勢にすら入れない。焦り始めた。
「じゃあ○○さん、またね~私たちあっちに行くからね~」
 と一人を残して、主婦連カメラ愛好家グループは軽快に去っていく。私がもたもたしている間に、さっさと撮り終えているのだった。
 占領者たちが一人になったところで、私は少し心の余裕を取り戻した。一対一なら何とかなりそうだ。体勢を整えよう。相手を解放して、ベンチ位置に下がり、そこでのんびりと三脚の使い方を思い出し、壊れかけた足をチェックして丹念に直す。心を落ち着かせながら口では危うく聞こえるような呟きをもらしている。
「後から来たのに占領しちゃって。あれじゃ撮れないじゃん。いい機材持ってるとそんなに偉いのかって言うの」
 もちろん撮れないのは、自分が戦えなかったからであり、彼女達から押し出されるまま、白梅から退かざるをえなかった所為であるが、この際棚に上げて嫌味にようにぶつぶつ言うのだ。テキもしかしさることながら動じない、この惨めそうな呟きを気にかけるそぶりも見せず、黙々と白梅を撮っている。相変わらず高価なカメラにでかいレンズに立派な三脚が輝いている。白梅も彼女に撮ってもらいやけに嬉しそうなのだった。ひとりでも手ごわいようだ。嫌味路線を変更して、私は白梅に近付いた。目を光らせて、本気モードを見せる。小さな口径のレンズにクローズアップフィルターとソフトフィルターを装填し、てかあるもの全部つけてやって、パシャパシャと撮り始める。格好をつけずに泥臭く必死の様相。何度も何度もファインダーを確認して、カメラの位置を直している。こだわるんだからね。機材はイマイチだけどいい仕事目指してやってんだからね。お遊びとは違うんだからね。と言うオーラを放つのだった。
 
 まるでドストエフスキーの小説に出てくる貧乏役人の主人公みたいだな、と後になって思った。つぎはぎだらけの服を着て、鶏がらのように痩せていて、誰から見ても惨めな乞食のような有様なのに人並みはずれた矜持だけは忘れない、そのちぐはぐな言動によってますます見る人(読む人)の哀れみと滑稽さを誘うような男。主婦は呆れたのか、哀れに思ったのか知らないが、どうやら私のアピールを感じ取ったらしい。早々に撤退して行った。
 私は白梅をついに独占して、ここからは集中して彼のストーリーを描くのだった。
 
 
 
 
 
 
 いい三脚がほしい。いいカメラとレンズが欲しい。そうすればもっと綺麗に撮ってあげられるのに。
 灯台跡地に座り、東京湾方面を眺めながらお昼を食べて考えている。でもそれは白梅のためではなくて、訪れた彼女達との戦いに惨敗した所為だとも感じている。
 私の過去はそんなことの繰り返しで、私は世間一般から幸福の象徴として認定されるアイテムをまったく身に付けることをしなかった。そのおかげでいつも私は私の本来の幸福を惨めなものに置き換えられて、笑われたりバカにされたり哀れまれたりしたものだった。
 たとえ本来の私の幸福を失っても世間一般から認定された幸福とされる道を選ぶべきか、私はずいぶん悩んで、傷ついた。結局そのちっぽけな迷いと比較のおかげで本来の幸福をなくすはめになることも多かった。
 華やかな紅梅は私をなぐさめる。光も射さず、青空もないというのに、彼女は美しく輝くのだ。私は三脚を放り出して、ブレを覚悟で彼女にファインダーを向け始めた。やはり三脚だと微妙な角度が出せないのだ。アングルを変えて、後ろのボタン園の方に張られた青いビニールシートを背景に入れて青空に見立てる。雑草の緑も彼女を引き立てるために協力してもらう。
 ずいぶん永く思っていたものだ。あの時、別の道を選んでいれば、今のようにはなっていなかった。今があるのはあの時選択しなかったからだ。良かった。もしあの時選択していたら絶対に失敗していた。今のようには物事を考えられなかったし、心も成長できなかった、などと。
 でもそうじゃない。紅梅を撮りながら私は確信するのだ。どんな道を選んでいても、私は今にたどり着いただろう。私ならたどり着いただろう。どんな道をたとえ選んでも。
 ただ、あの時は選べなかった。別の道を選べない私だった。ただそれだけのことなのだ。
 
 間違った道を何度選んでも、何度失敗しても、きっと私ならばたどり着く。
 何度回り道をしても走って、走って、追いつくだろう。
 
 
 
 
 
 
 ブルーのハンカチは蝋梅の真ん前に落ちていた。どこにも吹き飛ばされず、誰にも踏まれず、落としたときのままの綺麗な様子で、まるでひらりと零れただけのように置いてあった。
 私はその姿を見つけると駆け寄って拾い上げる。待っていてくれてありがとう。
 さぁ、今度こそ、帰ろうね。
 満月枝垂、旭滝枝垂、八重寒紅、梅の木にはひとつひとつ、名前の木札が垂れている。素心蝋梅の場所を教えてくれたあの男性スタッフが、私の横で枝にくくりつけていたのだった。名前が読みたくて作業が終わるのを待つ私に気付きもせず、彼はずいぶん長いことそうしていた。枝を傷つけないよう、花の邪魔をしないよう気をつけながら、くくりつけては何度も、何度も、直しているのだ。まるでいとおしそうに。
 梅の名前を読み上げながら私は出口へと向っていく。心地良い疲労感。
 白梅と紅梅が笑ってくれたような気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年1月18日

葛西臨海公園で陽を浴びて。

 
 
 
 
 金曜夜七時の「太田光の私が総理大臣になったら …秘書田中。」と言う番組にホリエモンこと堀江貴文が出ていた。
「お祭り騒ぎみたいな状態だったじゃないですか。当時を振り返るとどうなんですか」
 と言うようなことを太田光さんに訊かれた堀江さんは、う~んと少し考えた後こう答えた。
「一番良かったのはね、僕って人見知りなんですよ。知らない人と喋れないんです。でもあの時は誰もが僕を知っていたでしょ。だから誰とでもやぁって挨拶してすぐに仲良くなれて、人々からいろんなことを学んだり吸収できたりした。世界が広がったわけです。」(録画してなかったため正確な言葉ではなく大意です)
 思わず唸った。あれだけの騒動を巻き起こし、投資家のみならず一般国民すべてを巻き込んで、お金の話だけではなく、彼らの些細な夢をも打ち砕いて失望させた張本人が、元来人見知りである自分の世界が広がった、それが一番良かった、などとぬけぬけと言うのだ。もしも私が虎の子の貯金を注ぎ込んでライブドアの株を買っていたら、この瞬間テレビの中の彼を殴り倒したくなったかもしれない。彼の世界を広げさせるために私は金と希望を奪われたのかとがっかりするだろう。
 番組の対談のテーマは定額給付金をどう思うか、しいては資本主義経済をどう考えるか、と言うような内容で、「資本主義経済はもう終結を迎えていると思うんです!」と語気を荒げて捲くし立てる太田さんを尻目に堀江さんは涼しい顔。
「いやいや、僕は終わっていない(終わらない)と思います。不況不況だと言っててもまた何年かあとにはバブルの時代とかがやってきて、あの時は大変だったね~なんて思い出話を語りながら国民たちはみな平気な顔をしているんじゃないですかね」
 それが資本主義の社会と言うものですよ、と言わんばかりにしれっとしている。ライブドアで損害をこうむった人々のことも多分同じように考えているのだろう。
 たいした玉だ、と感心せざるを得なかった。脚光を浴びる人間はやはり違う。
 私はというと脚光を浴びるのが大の苦手である。陽のあたる場所を避けるように生きてきたと言っても過言ではない。
 別に日陰者を自負しているわけではないが、目立つのが嫌いなのだ。堀江さんと同じように人見知りでもあることだし、輝いている人の邪魔をしないように、ひっそりとだけど穏やかに生きていたい。だけどたとえ好きでそう生きていても、それが当たり前と言う扱いをされると少々面白くなかったりもする。日陰の私に誰も気付かず、まるっきり透明人間のように扱われてははなはだ悲しい気分になる。普段は地味に生きていて、だけど時々気まぐれに、ふと気が向いた人々からスポットライトの前に引きずり出されたりする。嫌だなぁ、と思ってもそうやて周りからかまわれると悪い気はしないものだ。そして役目が終わるとすぐに引っ込んでまた地味に生きる。この「時々」の光がまったくないと、目立たない人生と言うものはかなりつらいものかもしれない。自殺をしたり、誰でもいいから人を殺して、自分の存在を周りの人々や世間に知らしめたいと思う人たちの気持ちもわからなくはないのだった。
 
 
 
 土曜の今日、江戸川区にある都立葛西臨海公園に出かけてきた。
 先週三浦の水仙祭りに出かけたものの、海ばかりを撮ってしまったので、リベンジである。都立葛西臨海公園では明日の土曜日から水仙祭りが始まるが、今年は例年より暖かいため、公式サイトの情報ではすでに見ごろを迎えていると言う。私はリュックとキャノンを抱えて旅に出た。
 都立葛西臨海公園。隣接する海浜公園の人工渚と鳥類保護区、または核となる鳥類園に(バード)ウォッチングセンターと、まるで野鳥の楽園と言った様子が楽しめるこの公園は昭和60年1月から葛西沖開発土地区画整理事業の一環として着手され、平成元年度に(その一部約38ヘクタールが)オープンした。海沿いの歩道からは東京ディズニーランドが良く見える。大観覧車があるほか、多種多様な植物が植えられていて休日を中心に行楽地として賑わっているそうだ。(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋)
 西葛西を降り立った私は臨海公園行きのバスを30分以上も待たされた。都心から地下鉄ですぐに行けるものの、ディズニーランドがすぐ傍に見えるだけあってやはり遠いようだ。それでも行った価値があった。今まで行った都内の公園のなかではダントツに素晴らしい。まず広い、5つのゾーンがそれぞれ楽しく飽きさせない、人工渚の眺めが綺麗、園内の景観もいい、何より私の大好きな野鳥がいたるところにいるのである。ふと気がつくと隣をちょこちょこと歩いている。人馴れしているようだ。可愛らしいことこの上ない。難点はトイレに紙がなかったことくらいか。まぁあれだけの広い土地でのんびり出来て、美しい景色を見させていただいて、入園は無料、それくらいは自分で用意しないとバチが当たるかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 展望広場の芝の上では人々が寝転んだり、凧揚げをしたり、キャッチボールをしたり、バーベキュー広場では大勢の人々が宴会の準備に追われ賑わい、恋人達は浜辺を歩き、池の周りや渚橋では音楽を聴きながらマラソンする人や学生達に出会い、大観覧車の傍の芝生広場では何組もの家族連れが集っている。年老いた夫婦も多かった。お互いをいたわるように園内をのんびりと歩いている。憩いの場として地元の人たちから愛されている様子がすぐに伝わってきた。みな笑顔が絶えない。
 不況不況と言っていても・・と堀江さんの言葉がよみがえるのだった。年末年始を日比谷で生き抜いた人たちや、今も陽のあたらぬネットカフェで難民を続けている人々、それからあの秋葉原の無差別殺人犯だってここに連れて来てあげたいものだ。少しはましな気持ちになっただろうに。
 
 
 
 
 
 
 私は陽を避ける自分のことを考えている。一刻も早く意識を飛ばしたくて、朝から飲めないお酒を飲んでいた日々とか、その部屋の暗さとか、無益な学生時代とか、それから子供の頃のサッカーの試合とか。
 あれは小学生のときだった。体育の時間にいつもサッカーの試合をしていた。クラスの女子はふたつに分かれて、今思うと自習のようなものだろう、先生の姿が記憶にない。運動が苦手な私は輝くクラスメイトたちの邪魔をしないようにいつも後ろをくっ付くように走っているだけだった。ひときわ輝くヒーローは運動神経抜群の人気者、彼女がボールを蹴って走ってくれば、私はお体裁のように立ちはだかってすぐに抜かれてしまう。フェイントをかけて何人も抜き去ってはゴールに向っていく彼女は喝采の視線を浴びて。きらきらと輝き。ボールはゴールネットを揺らすのだった。
 お決まりのいつもの時間、そうやってやり過ごしていた私にある日戦力外通告が下された。私のチームはディフェンスとしてさえ何の役にも立たない私をいらないと言い、私は今まで敵として戦っていた相手チームのメンバーになった。たぶん、誰かが風邪で休んだかして、人数あわせも合ったのだろう、私は当時仲良しだった五人組の仲間とも切り離され、私的には居心地のいい慣れたポジションから剥離され、新しいチームの面子からはどうでも良さそうに受け入れられて、何だか悲しい気分になったものだ。
 ゴールの前に、まるでゴールキーパーのただの暇潰しの話相手であるかのように配置された私は、チームが攻めている間ずっとぼそぼそとお喋りしている。キーパーのクラスメイトと並んでいる。そのとき、運動神経抜群の彼女がディフェンスを抜いて向ってきた。ひときわ輝いて、私には彼女の周りがスポットライトに見えたのだ。突然走っていって、彼女と向き合った。フェイントに食らいついて、どきんと言う鼓動を感じながら思い切って足を伸ばすと、何のまぐれだろう、彼女の足元にあったサッカーボールが消えた。はっとした表情。彼女も私も驚いていた。私の方が一瞬立ち直りが早かった。すぐに逸れたボールを追って奪う。そのまま蹴って相手ゴールへ進んでいく。5人組の仲間がディフェンスに入った。もみ合うようにして友人をも避け、走って、走って、私は味方にボールを送る。パスは繋がらなかったように思う。もしかして繋がってゴールをしたかもしれない。が、点は入らなかった。それでも私はこの出来事に高揚して、そのまま攻めに転じた。さっきまで話をしていたキーパーは暇を持て余すように立っている。今日はずいぶん待ち時間が長いようだと。
 試合が終わると私は笑顔だった。ずいぶんの活躍をしたようだ。これで仲間もチームを私を認めてくれて、呼び戻してくれると思っている。ね、私だってなかなかやるでしょう。うん、すごいよ!○○!これからはずっと一緒に戦おうね。期待の言葉と裏腹に、笑顔で駆けつけた私に仲間の一人が言った。苦々しそうに、顔を歪めて。
「相手のチームだと頑張るんだもんなぁ」
 やっぱりと確信したかのような。なぜいつも私達の邪魔をするのか、と言いたそうな表情だった。
 
 
  
 
  
 堀江さんは最後にこう訊かれた。
「あれだけ脚光を浴びて散々持ち上げられて、それから急に落とされ非難を浴びて、どうでした?なんて勝手なんだろうとか思いませんでした?それともそれがあるから今があるとか、肯定的に考えているんですか」 
 またしばらく考えて、例のようにしれっと言うのだ。
「まぁ、そんなものですよ。それが世の常と言うかね。いちいち考えたり感じてたらやってられないでしょう」
 彼はこれからは焦らず、急がず、のんびりと穏やかに生きていきたいと言葉を結んだ。
 
 
 
 臨海公園の日本庭園や鳥の観察窓の向こうでは梅の花が咲いていた。
 1月とは思えない麗らかな陽射しを浴びて、人々が歩き、笑っていた。ジャケットが暑く感じられるほど暖かい。
 恋人同士と。父と母と子供と。仲間と。いたわりあう年老いた夫婦と。資本主義経済による勝ち負けも、時代の寵児も、創られたスポットライトとも無関係なところで、彼らは一様に陽を浴びて輝いていた。
 臨海公園の入園は無料だ。ハクセキレイが私のすぐ横の芝に降り立って小首をかしげている。
 愛らしいその姿にカメラを向けて、私は今ここにいられることの難しさと幸運とをかみ締めている。
 
 
 
 

 
 
 
 
 

2009年1月12日

海と灯台と城ヶ島

 
 
 
「自分のことのように嬉しい」と言う言葉に弱い。
 そう言われると、言ってくれた相手に好感を覚える。もちろん「自分のことのように」と前置きをするということは「イコールそれは自分のことではない」と言う事実もはらんではいるが、そうだろう、他人事でいいのだ。所詮、貴方と私が同じ人間であるわけがなく、私も貴方の気持ちを正確に理解することはできないし、貴方も私の苦しみや喜びを正確に体験できるはずがない。それがある程度できる場合はただひとつ、相手の置かれた状況(そのリスクや待遇)が自分に深く影響を与えるほどお互いの利害関係が一致し、結託している場合のみで、そうでもなければ他人の悲しみや喜びなど所詮は誰にとっても他人事なのである。
 つまり「あなたは私ではなく私はあなたではない」と言う前提に基づいて考えれば、たとえそれでも、何の利害関係もないただの他人のことを自分のことのように考え、自分のことのように(相手の喜びを)喜び、自分のことのように(相手の哀しみを)共に哀しむと言うことは素晴らしい人間愛的な行為であると思われ、またそれを言葉に出せるというところがさらなる感動を与えるのである。考えてもみれば、たとえ好感を持つ相手だとして、その喜びを同じように喜んだとしても、それを口に出すことはなかなか出来ない。余計なことを口にしないことが美徳であるかのような文化で育ち、無口でシャイな日本人ならなおさらのことで、心の中では共に喜んでいたとしても、あからさまに表現することは難しい。
「自分のことのように嬉しい」
 それは、私はあなたに好感を持っています、と言う表現なのだ。それを相手へ伝えようとする行為のひとつだ。相手と近しいものとして、友情の証としてやっとの思いでそう口に出してみる。上っ面で安易に言う人間もいるのだろうが、そういう相手のことはどうでもいいのだ。その人は私ではない。私が嬉しかったならば、その喜びはもう私のもので、そうして私は自分が言われて嬉しかったことは他人にも言うタチなので、今度は私がやっとの思いで誰かに返すのだ。「自分のことのように嬉しい」と。全くの利害関係のない者でも、だから好意を持つ相手には必ずこの言葉を口にする。喜びの循環が生じるのだった。
 
 
 哀しみの循環と言うものももちろんある。
 
 
 県立城ヶ島公園に出かけてきた。
 恒例のプチ撮影旅行で、私は今週末もカメラをぶら下げてよちよちと旅に出る。城ヶ島公園は三浦半島の最南端にあり、太平洋に突き出した島の東側に位置している。島からは千葉房総半島に伊豆半島、伊豆大島も見渡せて、日の出日の入りの景色も美しいと言う。確か城ヶ島には以前車で出かけたことがあった。しかし公園内を散策したことはなかったと思う。この時期は10万株の八重水仙が咲いて綺麗なのだそうだ。1月末まで水仙祭りを行っている。撮り頃だ。これは行かなくては、と眠い目を擦りながら家を出た。
 連日睡眠時間の足りない私は休日の当日も寝坊をした。予定の出発時間を大幅に遅れて、11時近くに家を出た。三浦だから近いだろうと高をくくっていたが、これがけっこう遠く感じる。京浜急行の三崎口と言う駅がまたローカルである。降り立つとバス停(大きなロータリーになっている)のほかには何もない。駅の売店と干物のお土産やと魚の即売所があるくらいだった。カンカンと太陽が照りつけた。なぜか真冬なのに暑い。バス停の屋根は用を成さず午後の陽射しが直接顔を照りつける。こんなことなら紫外線カットのファンデーションを使うべきだった。次のバスは20分後だ。私はキャッチコピーを思い出す。
「三浦半島で一足早い春を感じてみませんか?」どうも早すぎるようだ。
 
 
 
 
 

 
 
 バスで揺られること20分、白秋碑前で降り立ち、公園管理事務所のある正面入口から公園に入る。「県立城ヶ島公園」と書かれた木の看板の上にウミウ(の像)が二羽ちょこんと立って出迎えてくれる。入園は無料だ。目当ては水仙と灯台だった。公園から見渡せる安房崎灯台と城ヶ島灯台を見たい。水仙のアップで、後ろに海と青空と灯台が入ればなおさらいい。そんな撮影スポットを探して撮りたいものだ。
 ところが水仙は広場や展望台へと続く道の脇と、水仙畑に集中して群生していて、なかなか海方面の空と重ならない。陽のあたるところに咲いているものさえ少ないのだ。撮りづらいといったらなかった。おまけに灯台が見つからない。「灯台」と言う→(矢印の案内板)を伝って東南方面に道を行けど、見えない。道を間違えたかとピクニック広場を一周したら元の正面入口に戻ってしまった。広場を撮った写真を後で見たところちゃんと納まってはいたのだが、じっくり見て撮ることが出来なかった。私も相当まぬけなのだが、わかりづらいことこの上ない。なんとか水仙畑の水仙を撮り終えた頃には午後も相当まわり、時間がない私はまた安房崎灯台に戻ることをあきらめて、今度は公園の反対側(西側)から見渡せる城ヶ島灯台へと向う。今度こそ水仙を入れて撮ってやろうと意気込んでいる。
 城ヶ島灯台へ向う道は城ヶ島ハイキングコースになっていて、まるで森の中のようだった。高い木々こそないのだが、岩を切り崩して作ったような細い道が続く。暗く視界も悪い。たぶん太平洋からの強い風を避けるためにこのような工夫がなされたのだろう、低い木々、道の両脇の斜面には植物が覆い茂り更に視界を狭めている。安房崎灯台方面から見渡せた海の絶景も、城ヶ島灯台へと続く先の景色も見て取ることはできない。 
 突然視界が開けて、ウミウ展望台へと出た。半島から更に突き出た海蝕崖はおよそ2,000羽のウミウの越冬地で、県の天然記念物にも指定されている。はじめはただの展望台で、美しい海を見渡せるビューポイントだと思っている。しかしよく見ると、断崖にぎっしりと黒い点があり、それが全部休息中のウミウなのだった。
 伊豆大島も美しかった。私はいつしか水仙のことをすっかり忘れている。水仙畑で撮った水仙は群生はしていたものの景色が悪く、満足のいくものではなかった。灯台もしくは海を入れて撮りなおしをしたかったのだが、あまりにも海が綺麗なので、自分が大きな勘違いをしていたことに気付かされる。
 ここは水仙祭りをやっていようが、水仙がメインの場所ではない。あくまでも「三浦半島の最南端」がその存在価値のすべてなのだった。どうだろう、この美しさは。私は次第に気分が高揚し、冬の荒々しい海とその頭上に広がる青い青い静かな空を撮るのだった。
 
 
 

 

 

 私が安房崎灯台を見つけられなかった頃、私はまったく別のことを考えていた。美しい海を眺め、断崖の下を見下ろし、荒々しい波を感じて訪れた恐怖。それは海を見てはじめて感じた「畏れ」としかいいようがない。海という自然の存在に感じさせられた畏れではなく、もっと別の人的なものだった。たとえば、黒船。
 今まで私が感じていた海は、陸として続いている世界に存在する私の目の前に、切り取られたように現れた景色としての海だった。ところがここは海に囲まれた半島の所為だろうか、突然今まで感じていたことはすべて虚像で、この目の前の海に存在するのが私の続いた世界で、陸での世界(生活)こそが切り取られたものだったのだと気付かされたのだ。日本は島国だった。ここは海に囲まれた地で、そんな当たり前のことを私はいつしか忘れていたのだった。海は美しい「景色」でなどないということを。
 どんなにか恐ろしかっただろう。この海の先に外国の船を見つけたときは。
 当時は灯台などなかったのだ。私はこの小さな島国の日本が、「脱亜入欧」を掲げて力を、強いては軍事力を得ようと躍起になって走り続けた理由がやっと正確に理解できたような気がした。今までは陸続きよりは海に囲まれていたのだから他国よりは安全だったろうに、位に安易に考えていた。同情も出来ない。ただ支配欲に走ったのだと。しかし違うのだ。陸続きではないからこそ、資源のない日本は畏れなければならなかったのだ。
 私は城ヶ島灯台へと向かって崖と植物に囲まれたハイキングコースを歩いていく。景色は見えない。ただ海の音が聞こえる。電車が通り過ぎるときのようなゴォという音がずっと続いている。ハイキングコースが終わり、視界が開けてもなお灯台は見えなかった。ただ広がる海と半島の黒い岩を眺めながら進んでいく。
 今この切り取られた平和の中で暮らしている人々は、日本の歴史を間違いだったと言う。軍部が統帥権を乱用して独走したのだと。
 私はこの目の前に広がる現実としての海を見つめながら当時に思いを馳せるのだった。城ヶ島灯台が見えた。しかし水仙は咲いていない。変わりに背の高いアロエの赤い花が灯台を彩っているだけだった。港の安全、しいては平和の象徴とも思えるその姿になぜか一瞬の失望を覚えて、私の興味は帰途へと向う。
 非難を受け続ける軍部の指令者たち、それから犠牲となった多くの人々に思いを伝えようとしても、声を掛けるものはもういない。
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年1月2日

続・大山を登る ~2009年初日の出編~


 昨年末に叔母が亡くなった。通夜で何十年ぶりかに親戚一同と会したわけだが、その話は置いておいて、つまり今年は喪中期間である。年賀状は出せないし、初詣も神社には行けない。若干、手持ち無沙汰の私は初日の出を見に行くことにした。
 年明けすぐ、深夜一時に家を出て、小田急線に乗る。伊勢原駅からバスに乗って揺られること二十分、大山ケーブル駅に到着した。どうせなら山頂から眺めたい。
 先日の大山登山でだいぶ勝手がわかっている。冬の(しかも夜中の)登山はあなどれない。あそこなら安心だ。問題は山頂の阿不利神社だが、鳥居を避けて、お参りもご遠慮させていただけば、まぁ許されるだろうと見当をつける。
 私は早めに家を出て、山頂で場所取りをするつもりである。バスは三十分間隔で出ていた。深夜二時十五分のバスに乗り、三時から登り始める。初日の出と初詣目当ての登山者が多いだろうから山道が混みあって登りにくいとしても、四時に阿不利神社下社、五時には山頂に着くだろう。
 大山で初日の出を見た方々の体験記をブログで読む。初日の出の撮り方も一夜漬けで勉強した。完ぺきな計画だった。
 ところが出発八時間前になって父親が言った。
「一緒に行こうかな」
「そう? じゃ行こうか」
 軽く答えたものの、かなり驚いていた。父は七十歳を過ぎている。
「途中にお寺と神社があるんだね。そこからの日の出も綺麗らしいよ。あそこまでなら行けそうだなぁと思って」
 どうやらケーブルカーで登るつもりらしい。大山についていろいろネットで調べたようだ。前日私が訪れた際にお愛想でこう言ったのを真に受けたのか。
「それとも○○と○○(父と母の愛称)も一緒に行く?」
「山は無理だよ。気をつけていってきな。ひとりで行くのか」
「うん」
「ふーん」
 多分父なりに心配したのだろう。または正月からひとりじゃ淋しいだろうから一緒に行ってあげたいとでも思ったのか。
 私は父と一緒に山を登ることを考えた。いや、今年は山頂をあきらめて、途中の下社で日の出を迎えようか。それなら、母も一緒に連れて行ったほうがいいのではないか。ひとりで留守番も心配だ。山の中腹から親子で初日の出を見る。それはそれでいいものだろう。しかし、父はまだしも病み上がりの母はケーブル乗り場までのコマ参道を登るのも怪しそうだ。父もそれを懸念している。私と父は受話器越しにあれこれ検討する。やはり初めに言い出したとおり、父だけ行こうか。それなら出発時間をもっと遅くしてもいい。バスは朝まで三十分間隔で・・
 完ぺきな計画は振り出しに戻っている。何なら一緒に山頂まで行ってみようよ、と私が言い、じゃあやめよう、と父が言った。
 父は私の山頂へのこだわりを察したらしい。
「のんびり歩けば大丈夫だよ」
「足手まといになるよ」
 それから何となく今年はやめておこうと言う展開になり、じゃあ来年にでもまた行こうね、と笑って電話は切れた。それで話は終わったはずだった。
 そもそも一緒に行くなどとは想像もしていない。ただふと言葉を漏らしただけだった。まさか父が本気で行くことを検討するとは予想外だった。山頂での初日の出を撮りに行きたい私と、父と母の穏やかな正月とかシンクロするはずもなく、初めからどう考えても無理なのだ。私を気遣って言い出してくれたのだろう。年寄りに心配させて悪かったなぁ、私なら大丈夫なのになぁ。いくつになっても子供のことは心配なのだろう。私は反省して、これで良かったのだと納得する。
 ところがどうももやもやしてしまったのだ。
 本当にこれで良かったのか。自信がなくなってきた。私は先日自分が大山に登った際に体験したことを思い出していた。頂上まで行ける幸運なものたちのこと。
 もっと無理やりにでも誘ったほうが良かったかもしれない。足手まといになる、と言う父の言葉が頭から離れなかった。もちろんただの小さな山だ。健康を害してまで登ることはないだろう。山頂になどこだわる必要もない。本人も特に行くことを願っているわけでもないのだった。それでも、もしも私が何かの手助けをして上げられるならばどうだろう。
 私はもう一度、父親と一緒に山を登ることを考えてみる。自分に出来るかどうか。
 あの山頂の景色を父にも見せてあげたい。
 人は誰かしら手助けをしてくれる人が存在するうちは、山に登ることをあきらめることもないのではないか。


 さて、今回も長い前置きになったが、初日の出を撮りに出かけてきた。
 大山山頂に着いたのが、五時四十五分。あたりはまだ暗い。だんだんと東の空が明るんできた。
 私は初日の出を見るのが人生で二度目なのだが、一度目は綺麗だとは思ったもののそう感動した記憶がない。
 今回は中腹の阿不利神社下社から山頂まで二時間半近い時間とドラマを要した所為か、それとも年を取って涙もろくなった所為か、やけに心に滲みるのだった。
 ちなみに山頂は凍えるほどに寒かった。ダウンジャケットとフリースを余分に一枚、荷物にはなるが、持って行ったほうがいいかもしれない。あと足元、私はタイツにレギンスに膝までの靴下に普通の靴下をはいていたが、それでも指先がジンジンと痛んだ。足用のホッカイロもお勧めしたい。
 以下、朝日が出るまでの写真。帰ってから気付いたのだが、太陽が二重に映っていた。これはゴーストらしく、レンズによって時々発生してしまう特性らしい。こんな現象がありうることを知らなかったため無防備だった。絞り込めばある程度は防げるらしいので、やはり直前の予習が必要かもしれない。

 


 父は、心配するまでもなく難なく登って行った。私は途中のリタイアを無事山頂へたどり着くことと半々で想定していたので、またしても驚かされた。おまけに翌日聞いたところ筋肉痛にもなっていないと言う。年を取ると翌々日に筋肉痛になるというから明日当たり七転八倒するのではないかと睨んでいるが、日頃の鍛え方が違う、とどこ吹く風である。
 ひとつだけ、下社から山頂までは前述のとおり二時間半を要した。これは当日登山者が多かったこともあって父だけのせいではない。途中私はこのヘッドライトや懐中電灯を持った多くの登山者達と全員で一緒に登っているような気持ちになったものだ。たぶん闇の所為で、いつもの距離感が掴めず、近しく感じられたのかもしれない。
 前回ひとりで登った時の私のタイムは五十分、一度も休憩を入れず登れるところを全員で二時間半かけて登った。
 山頂に着いた時はすっかり人だかり、私は三脚を立てる場所もないだろうとあきらめかけたが、意地悪く肩を入れて、後から来たものに一ミリでも場所を譲らず、まるで撮らせまいとするかのような無礼者に父が言った。
「あんたもうちょっと隣にいけないの?」
 この無礼な隣の写真愛好家は私が頼んだときは「あんたが後から来たんだからもっと向う行け」と怒鳴っていたくせに、父に言われて反論もしなかった。
「ずらすと位置的に日の出が見えなくなるんだよね」
 大げさにひとりぶつぶつ言って、まるで友人に頼むがごとく「ちょっと外すからこれ見てて」とひとしきり父に荷物の番をさせたあと、消えて、そうして二度と戻ってこなかった。どこか彼が言うほどのもっと見える場所が見つかったことを祈るばかりだ。
 一人で来ていたら私はもっと早く着いて、難なく場所を確保していたはずだ。しかし、遅く着いても結果的には難なく場所を手に入れたのだ。
 前の人々はしゃがんでくれた。反対の隣の人は私の三脚の脚が進入することを了解してくれた。父は無礼な侵入者が来ないよう私のすぐ横に立っている。
 朝日が昇り、歓声が上がった。山頂の人々は瞳を輝かせ、同じ方向をただ見つめていた。