2009年3月29日

世界の中心で花を愛でる ~千鳥が淵緑道と靖国神社参拝~

 
 
 
 
 堀端の染井吉野を撮りながら、これが桜の季節だったらさぞかし綺麗なことだろうと考えた。
 苦笑いをした。まだ五分咲き、木によっては二分咲きやつぼみだけと言うものもあった。千鳥が淵緑道を訪れたのである。
 地下鉄の九段下駅を降りて地上に出ると、武道館と北の丸公園方面に向って人々が流れていく。私は以前何度も何度もこの駅を降りて、今よりももっと混雑した中を流されるように歩いていたことを思い出した。
 日本武道館、それが武道の聖地と言うよりはロックの聖地としての意味しか持たなかったあの頃、私は友人のマーシーとむら(愛称)と一緒に長い階段とエスカレータを登って地上へと出て行った。後ろも前も横も人人人、時刻は大抵夕刻~夜なので景色などよく見れないし、見てもいない。はぐれないように友人のあとをくっ付いて流れていくだけだった。心の中は音楽とこれから会うはずのロックスターのことだけ。この場所がどういう意味を持つかも知りはしない。
 ふと地上出口へ向うエスカレータを登りながら、大切なことを忘れてしまっているような気がした。
 若いときの、何か大切な想い、思い出そうと私は当時の様子を思い出すが、流されている人々の黒い頭がシルエットになって浮かんでくるのだ。岩のように私の周りに立ちはだかる沢山のごつごつした黒い塊。そして、ある夜マーシーが叫んだ一言。
「○○のばか!」
 数々のミュージシャン、今でも有名なロックスターをここで見たはずなのに、思い出すのは日本の小さなバンドのことだった。
 卑猥で下劣な歌詞とは裏腹に高い音楽性とヴォーカルの歌唱力が印象的だったレッドウォーリアーズの解散コンサートで彼女が言ったのだ。バンドの中心人物だったひとりの名前をばかと大きな声で。ステージに向って、声が張り裂けるほどに。
 私はこの一件に酷く気分を害した。心の中では彼女と同じ思いだったが、せめて最後のコンサートを楽しもうと自分を騙し続けていたのだった。白けた気分で、私は彼女に冷たい態度をしたように思う。いつもはコンサートあと過熱しすぎる私を邪険に扱う彼女もこの日ばかりは遠慮がちに言ったものだ。今日、○○の家に泊まりに行ってもいいかなぁ。
 多分あの時武道館にいたすべてのファンに「ばか」と心の中でののしられたメンバーの一人は消えてしまった。多分一番の才能があっただろうリーダー格のギタリスト。解散を受け入れたヴォーカルは今も当時の愛称のままテレビに出続けていて、あの頃よりも一般に広く受けいられていて、私は人生の妙を感じながらその一人の健在を嬉しく、懐かしく思い返すだけだった。
 
 武道館を通り過ぎて、北の丸公園から千鳥が淵公園を堀沿いに歩いていく私は、ずいぶん遠いところにきてしまったように思う。通り過ぎる人々はみな私よりも若いようだった。恋人同士も、家族連れも。半蔵濠沿いの広場のベンチに腰をかけて休憩をした。まだたいした写真は撮れていない。スズメが寄ってきたので、お握りのご飯粒を地面に置くと、見向きもせずに去っていく。見るとあちこちにパン屑が散らばっていて、餌は十分に足りているようだった。
 すべての道が、鉄道が、千代田に通じていると知ったのはつい最近のことだった。写真を撮り始めて、下町の地図をよく見るようになってからだ。ロックの聖地のすぐ傍には皇居があって、それ自体は知っていたが、こんなにも繋がる場所にすぐあって、この国の象徴としてのお方がいらっしゃって、道だけでなく政治も文化もここが中心であったことなど世界から耳をふさいでイヤホンでロックを聴いて黒い岩のような人々の頭ばかりを見ていた私に知る由もなく、何も知る由もなく、だけどあの頃はまだ良かった。そのあと私は当時拒絶していたことのすべてのツケを世界から負わされるかように、消し去りたい記憶を抱え込むことになる。もうロックは死んだ。私の耳は膿が流れてポンコツで、髪を巻いて女性誌を見てヴィトンのバックを抱えているのに、私は始終思考を中断することにばかりに捕らわれていた。すべての過去は思い出したくもない、嫌なことの積み重ねでしかなかった。
 
 
 
 
 スズメの後は烏がやってきた。黒光りして、大きな羽を広げ、いかついくちばしで威嚇している。私は立ち上がって、千鳥が淵沿道へと向った。人々の波にまた流されていった。
 ここを撮ったら道の突き当たりを左に折れて靖国神社に向う予定だった。緑道は二本に分かれていて、左側通行だと警備員が叫んでいる。賑わっていた。緑道には千代田市の祭りの実行委員らしき人々が出店をしてさくら祭りを宣伝している。私は左の道を歩いて靖国神社に向っているのに右の堀端沿いの景色を撮りたいのだ。時々道が合流する地点に来ると人の波を見計らって、右の道へと入っていく。写真を撮って、また人の流れの途切れるのを待ち左の道へ戻って歩く。その繰り返しをしてやりすごす。
 もし警備員や流れる人々に非難されたとしても、今の私には非難させないだけの最低限のルールを護って行動を貫く自信があるし、万が一何か言われたとしても、そのときは素直に謝罪して反省するだけの覚悟がある。しかし、武道館が音楽の聖地だった頃の私にはなかった。いや、つい以前までなかっただろう。
 私は注意が足りず、安易に非難される材料を与えてしまっただろうし、そのことで自分を責めて、過剰反応して更に事態をややこしくしたり、または相手と衝突してやはり事態をややこしくしたものだ。あんなにも自分を責める必要もなければ、相手を責める必要もなかったのに。人はみな違う道を歩んでいるのだから、何を言われても、ただ受け流して、または時には参考にさせて頂いて、自分の道を貫いていれば問題はなかったのだ。迷子の私は道が見えず、右往左往しながら人々の波に押し流されて、気がつくとくたくたにくたびれていた。もう記憶は消せない。あったことはなかったことには出来ないのだ。
 
 
 
 
 
 
 今の私だったら当時頭に来たことで自分をあんなにも責めずに、秋葉原の無差別殺人犯みたいにやつらを皆殺しにしていることだろう。または、何を言われても、屁とも思わないだろう。私はもう人を殺すほどに人を愛せなくなり、心を感じないほど強く鍛えていって、捨て去りたい記憶の山は、なぜ?といぶかるのだ。
 なぜ、あんなことにあれほど苦しんでいたのだろうか。
 殺人犯にもなれないまま年を重ね、ただ当時の私は(今の私でさえも)そういう人間だったのだと言う哀しい諦めをもって受け入れて、八十歳にも老いたような気分になって、千鳥が淵の写真を撮っている。美しく、少しでも美しく、この世界が耀くようにと。
 
 ところがだ。
 そんな老女の私に青天の霹靂が訪れる。千鳥が淵沿道の終着点に見えたのは、大きな、大きな、靖国神社の鳥居だった。
 
 
 
 
 
 
 靖国神社はニュースで見知った。あれだけ各国からも一部の国の人々からも非難を受けるめずらしい神社もない。私はこの話題性を不思議に思っていた。
 だって神社じゃん。各国からの非難には誰を祀ろうとその国の勝手じゃないか?なぜそこまで干渉するのか、理解が出来なかったのだ。納得がいったのは、ある日靖国神社のホームページを見てからだった。それが過激な、右翼の総本山と始めて知ったのもこの頃だった。私は生まれて初めて生で見る靖国神社の鳥居の大きさにまず驚いた。靖国神社にあるものはすべて大きい。石碑も石灯籠も銅像も、だけどとりわけ第一の鳥居の大きさといったらどうだろう。あきらかに道の木々やビルの真上高くから突き出していて、映画で見る怪物やヒーローのような巨大さなのだった。見上げると、その大きさの所為かたまたまの曇り空の所為か異様に見える。人々も参道も小さく映る。千代田市のさくらフェスティバルの会場となっているため沢山の人々が集い、縁日が出ていたが、その笑顔や華やぎが明からにそぐわない。私はこの鳥居をなかなかくぐる事が出来なかった。なぜか悪寒がするのだ。なぜみな何事もないように笑顔で通り過ぎていくのか、信じられない思いで見つめる。道を逸れて、駐車場で一服をした。鳥居を見上げてじっと見ている。この先にはたくさんの人々が眠り、神として祀られているのだろう。鳥居のすぐ横には大きな国旗があった。風がなく閉じていたのでしばらく気が付かなかったが、確かに日の丸の旗だ。
 日本の中心地としての千代田に、皇居のすぐ傍に、ある靖国神社。それから日本国旗。
 
 
 
 
 私は立ち上がって鳥居の先へと向う。参道に続く縁日(祭り)の屋台はよく見ると全国各地の名産品だった。今日はふるさと祭りin靖国と言うイベントも開催されていた。大村益次郎の銅像前には舞台が設置され、郷土芸能の発表会として、人々が鮮やかな着物や衣装をまとって踊っている。盛岡さんさ踊りに、佐渡おけさ、山形花笠おどり、琉球国祭り太鼓も始まった。私は山形名物の玉こんにゃくを頂いて、これはどこの名産だったか山菜入りのおやきも食べた。すべては全国の公認だった。もしかしたら、靖国が、中心としての東京だけが人々(国民)を欺いてしていることではなかった。私は一瞬そうではないかといぶかったのだが、全国から集った人々はみな楽しそうに歌い、踊り、食べて呑んでいた。私は思わず笑ってしまう。おまけのここの人々はみな異端児の私を受け入れてくれるのだった。地方の祭りにいったときのような疎外感を感じることが一切なく、私は沢山の店を巡って楽しく拝見して、屋台の食べ物を食べた。誰も私をいぶかるような目つきで見るものはいない。みな、同罪だと言うことか。
 この国ではあからさまに「それ」を言わなければ排除されることは決してない。それどころか、公では否定しても非難しても、みな同じ意志なのだ。もしかしたら無意識か、それともしぶしぶ文化や規則に準じているだけなのかは知らない。だけど、すべては暗黙の了解であるかのようだった。
 
 靖国神社の売店ではさよなら純ちゃん饅頭や麻生太郎や小沢一郎の饅頭がお土産として売られていて、店員の女性が大忙しで客をさばいている。会社に買っていこうかと眺め、ふと奥に進むと饅頭の横に日本の国旗が胸に刺繍された白と黒のTシャツ、菊の御紋や日の丸のステッカーに携帯ストラップ、昭和天皇と皇后の写真に現天皇と美智子様の写真が飾られていた。売店はテントになっていて、中では椅子とテーブル、人々が食べて呑んでやはり楽しそうだった。
 つられてどんどん楽しくなってきて、記念に日の丸や菊の御紋グッズを買って帰ろうか、そう思ってそれを持ち歩いて同僚の新入社員が目を白黒させるところを思い浮かべて笑った。古い、まるで朽ちるような雨風のあとが際立つ第二の鳥居を抜けて拝殿へ向う。この周辺も桜はまだ咲いていない。千鳥が淵よりは桜の花が開いているようにも思ったが、まだまだだった。満開の時期に来たらさぞかし美しいことだろう。参拝をして、すぐその足で左手の鎮霊社へ行った。この国のために、今の私達のためになくなられたすべての方々のために深くお祈りをする。ずうずうしくても未来も託してお願いをする。拝殿よりは少ないが、あとからちらほらと参拝者たちが訪れて、祈りを捧げていた。
 私は拝殿の方へ戻り、南門から外へ出た。参道の賑わいと花見の人々の笑顔を心に刻んで靖国神社をあとにする。
 
 これだけの人々が集い、ここが人々から愛されていることが嬉しかった。また終焉や破滅の影を感じ始めていた日本と言う国に、可能性を見出した思いだった。知らないのは私ひとりで、すべての人々はずっとずっと知っていたのかもしれない。まつり好きの人々が集う日本と言う国の、深い、沼のような、底の知れない恐ろしさを。
 来週もまた千鳥が淵と靖国神社に来たいものだ。きっと来週ならばもっと桜を撮っている気分になることだろう。私は何十年も若返ったような気分だった。老いている場合ではない。この世界には私の知らないことが、未知が溢れていて、そしてこの国の軽快さと強かさは確かに私のなかにも存在し、尊くも受け継がれていることだろう。
 私は九段下の駅へと向っていく。地下鉄から吐き出された人々とすれ違う。千代田には今日も人々が流れ、流されている。
 
 
 
 

 
 
 

2009年3月15日

花の標と七福神への道と。~小石川七福神参拝~

 
 
 
 赤信号みんなで渡れば怖くないとは言っても、人々が十回に一回つい渡ってしまうのに対して毎回渡っていたらひんしゅくを買うだろう。ましてや百メートル先に車が見えないときは渡っていいとか人と車の割合が○対○の時は渡っていいとか、道路交通法とは別の規則を作ってまでも堂々と渡っていたら、たとえ罪にはならなくても良心をいぶかってしまう。だからと言って、一緒に赤信号を渡っていたり、その都合のいい規則を享受していた人たちが彼を批判するのはどうかと思うが、なるほどと納得する話ではあるのだ。
 現民主党の小沢一郎が昔から決して表には出ようとせず、影の存在に甘んじていたのは、その気になれば幾らでも吊るし上げを食らう、その材料を抱えていると、自ら知っていたからなのだった。頭のいい彼だ。
 私がブログを友人に宣伝したり、ブログで他者と交流を持とうとしないのは、小沢一郎ではないが自分の後ろ暗い過去や罪を充分に承知しているからだ。誰かがその気になれば、今すぐ炎上させて抹殺することくらい簡単なことだろう。
 だけど、最近首を傾げることが多い。私が承知していたのは私が思う私であって、世間には善人面をしてまたは紳士淑女のような顔をして、えげつないことを平気でするとんでもない人々がごまんといるのだった。もしかしたら私などはかなりマシな、善良なほうの部類の人間かもしれない、などと思い始めた。
 この考えが正しいか、間違っているかは、そう遠くない将来明らかにされるだろう。小沢が都合のいい規則を作ってまで得た利潤などもはや問題ではなくて、彼が問われているのは今までの人生のすべてで天に積み上げて来た財産のことであるように。そのとぼしさと今まで彼が関わったすべての人々の憎しみと怨みと涙と。彼を法的に裁く材料よりも多く、彼を闇へと誘う深い念と言う材料は多く存在しているように思えてならない。行いは必ず、自分に戻ってくるのだった。
 
 
 恒例になった週末プチ撮影旅行で小石川植物園へ行った。ついでに近いので小石川七福神も周ることにする。
 小石川七福神は平成七年に始まった七福神で、比較的新しい所為か由緒ある寺や神社を巡ると言うよりはまるで下町の宝探しゲームをしているような遊び心のある参拝コースなのだった。例えば東京ドームの一角に福禄寿像が立っていたり、マンションの敷地内に弁天が祀られている祠があったり、何でわざわざこんなところにと思う箇所も多かったが、その分見つけたときの喜びが増し、楽しい。二時間程で周れる距離なので、散歩がてらにチャレンジしてみるのも面白いかと思う。
 
  そうだ。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で花を撮ろうと思ったのだ。雨だし、風は強い、あいにくの天候なのであそこの温室ならば雨風しのげていいだろうと思ったのだった。温室の公開時間は13:00~15:00とあったので、その前についでに七福神を巡ろうとしたのだが、私は温室公開曜日を見落としていた。いや、たとえ曜日があっていても、温室は現在閉鎖されているようだった。目的は幻と消えたのだが、変わりに植物園の桜やツツジを楽しむことが出来た。また、思いのほかに七福神探しに時間を撮られたので、逆に良かったのかもしれない。もし開園していたら、花を撮る時間を奪われたと七福神の神々に八つ当たりをしていただろう。
 ところでこの小石川七福神巡り、あくまでも植物園がメインで出来たら周ろうと言う程度の軽い気持ちだったので、あまり下調べをしていかなかった。しょっぱな、調べていったはずの東京ドームの福禄寿像が見つけられなくて困った私は携帯でGoogleから小石川七福神のサイトを検索し、行き方を調べたのだが、文章を何度読んでも迷うばかりだった。写真や地図を添付してあるからそっちを見てよ、と言う感じなのだろうが、出先からだと大きなサイズの写真や地図は見れなかったり見づらかったりでやはり文章を頼りにしてしまう。もう少しわかりやすく書いてくれないかなぁと神々を巡りながら何度も思ったので、自らわかりやすく書くことにチャレンジしたいと思う。まぁ、私だったらこれを読めばわかると言う程度に書きたいとは思うが、私が参拝したコースとは違う順序で周ったりした場合は進行方向や右左が逆になったりするのでやはりわかりづらいかもしれない。万が一何かの役に立てば幸いだ。
 
 ■東京ドーム(福禄寿) 東京都文京区後楽1-3-61
 水道橋からスタートの場合は301号線、後楽園からは434号線の道沿いから東京ドームへ、22番ゲートの傍に総合案内所がある。総合案内所の裏手に行く。正面に壇上になっていて、何かのイベントの時にはここがステージになるのかなと言う感じのスペースがある。そのステージ(風壇上)の両脇に東京ドームホテルへと向う連絡通路がある。(下は東京ドームシティアトラクションズ)その左(東京ドームホテルを正面に見て)の通路に進む。すぐに左手に屋上庭園風の茂みが見える。けっこう奥まっているので七福神の赤いのぼりが見えづらいが、ちゃんと茂みへ向う通路がある。白い鉄柵でふさがれているがよく見ると人一人分だけ通れるほど開いているので入ってしまおう。(もしくは天候や季節によって常に開いているのかもしれない)写真の気難しい表情をした福禄寿像が出迎えてくれます。
 
 
 
 ■源覚寺 こんにゃくえんま(毘沙門天) 東京都文京区小石川2-23-14
 434号線から後楽園駅へと向う。右手に東京ドームを見て後楽園駅前の信号を右に曲がり、301号線(白山通り)平行した道(436号)を真っ直ぐ行く。右手に文京春日郵便局。宮坂下の交差点を通り過ぎて更に真っ直ぐ行くと左手にファミリーマートがある。そのすぐ隣、こんにゃくえんま前信号機の左手に鳥居が見えます。
 
 
 
 ■福聚院(大黒天) 東京都文京区小石川3-2-23
 もとの道(436)に戻る。後楽園方向へ戻らず、そのまままた真っ直ぐ先へ行くと436号がY字路になる。(Y字路の角はガソリンスタンド)Y字路には行かず、その手前、グルメシティの前の道を左に曲がる。道なりに真っ直ぐ。右手に古い信州善光寺が見える。そのままさらに真っ直ぐ行くと右に淑徳学園中学校と高校が見える。そのすぐ先のT字路(右手が伝通院)左手に福寿幼稚園の門が見えます。門に大黒天と書いてあるが、幼稚園の中に大黒天の福聚院があります。(大黒天像は門のすぐ隣)
 
 
 
 
 
 ■真珠院(布袋尊) 東京都文京区小石川3-7-4
 もとの路に戻って、伝通院を右に見て真っ直ぐ、一つ目の(右手へ曲がる)T字路を右に曲がると五十メートルほどで左手に真珠院の門が見える。中に入ると本堂の左手に地下通路のような暗い連絡通路が見える。入ると先はお墓になっていて、その墓場の一番奥に布袋像が立っている。
 
 
 
 
 ■極楽水(女弁財天) 東京都文京区小石川4-16-13
 真珠院から直接行くと近いがわかりづらいので、福聚院のT字路に戻って、福聚院を右手に(伝統院を後ろに)見て進んでいく。すぐに大きな春日通りに出るので、真っ直ぐ行かずに春日通り(254号)を右に曲がる。右手にセブンイレブン、小石川郵便局、スーパーマーケット三徳らが見える。そのすぐ先の小石川五丁目の信号の交差点を右に曲がる。その播磨坂桜並木を(突き当たりの小石川植物園方向へ)真っ直ぐ行って、途中の播磨坂桜並木の信号右手の小石川パークタワー(マンション)の敷地内に入る。右手に極楽水の看板が見える。看板奥に(二十メートルほど先)祠かのぼりが見える。
 ちなみにスタンプをもらう場合は次の宗慶寺さんにあるそうです。
 
 
 ■宗慶寺(寿老人) 東京都文京区小石川4-15-17
 小石川パークタワーの並びにある。特徴のある寺の屋根(の飾り)が見えるのですぐにわかると思う。わからない場合は播磨坂桜並木のひとつ隣の道(先ほどの春日通りを歩いた進行方向から見ると手前となる道)に行けばすぐに見つかるだろう。寿老人像は本堂のなかにある。
 
 
 
 ■徳雲寺(男弁財天) 東京都文京区小日向4-4-1
 春日通りに戻って先ほどの進行方向どおり真っ直ぐ行く。(右手にスーパーマーケット三徳や播磨坂)小石川五丁目の信号機からすぐ百メートルも歩かないで左手に徳雲寺への案内板が見える。左に曲がるとすぐ徳雲寺。弁天様は弁天堂に祀られています。今日は残念ながら姿を見ることは出来なかった。
 

 
 ■深光寺(恵比須神) 東京都文京区小日向4-9-5
 春日通に戻って先に行き、サンクスとミニストップの間の道を左に曲がり線路を越えるとすぐに丸の内線茗荷谷駅に出る。駅を後ろに、真っ直ぐ拓殖大学の方向へ進むと左手に林泉寺があり、更にその百メートルほど先の左手にあります。道がY字路になっていて、来た道を振り返るように見ると左手に参道へ続く坂道があるので登る。布袋像が出迎えてくれます。
 
 
 
 
 さて、ざっと小石川七福神の案内文を書いてみた。
 自分だけでなく知らない人が読んでもわかるように書いたつもりだが、何を基準とするかが難しいものだと改めて思った。進行方向がどちらを向いているかが重要だ。
 これは多分、すべてにおいて同じなのだろう。
 誰かと私が同じ方向を向いていたら、何号線だとか、何が後ろで何を右に見てとか、そんな説明は必要ない。すぐに分かり合えるのだろう。
 時には赤信号を一緒に渡ることもあるのかもしれない。
 それでもそれは個の利を潤すものではなくて、道を行く同じ標を持って、犯す危険なら深い友にもなれるだろう。
 私が表の道を、赤信号を、堂々と行くことは多分この先もない。
 だけど進行方向さえ気を付けていれば、そう満更でもないのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年3月8日

鎌倉七福神 ~鎌倉の神々を巡る旅~

 
  
 
 
 鎌倉七福神を巡って来た。
 北鎌倉からスタートして、まず布袋尊の浄智寺。布袋は中国唐末~後梁の禅僧で明洲奉化県の人。名は契此(かいし)。四名山に住み、布袋腹といわれる肥えた腹を露出し、杖と大きな布の袋を持って喜捨を求めて歩き、雪中に寝た。弥勒の化身と言われ、十八羅漢や七福神のひとつに伝説化された。浄智寺のうら庭の隊道を抜けると、洞窟にはこの布袋尊がまつられており、「お腹を撫でると元気をもらえる」とある。静寂な寺のさらに裏手にひっそりとまつられていると言うのに、後から後から人々が訪れてはお参りして腹を撫でている。ゆっくり写真を撮ろうと参拝者たちが途切れるのを待っていたが、一向に止まない。一組が終わり、カメラを構えるとちょうどまた後ろからかしましい話し声が聞こえてくると言った調子だ。
 朝から晴れたり曇ったりを繰り返す一日だった。雲間から太陽が出るとさすがに焦る。来た早々何枚か撮ったので、もう次の寺に行こうかとも思ったが、納得の行く一枚が撮れていない。花弁を落とした椿の木の下のベンチに腰をかけて、辛抱強く待つのだった。
 人々は大抵三人から四人で訪れる。鎌倉巡りにはちょうどいい人数なのか。女同士若い子たちに男女混合の年配者が多かった。時々中国語が混じる。彼らはまず参拝し、次にお腹を撫でて、それから布袋と一緒に写真を撮る。その間三分ほど。笑い合って写した写真を見あって帰る頃には次の三、四人が待っている。ついに、痺れを切らして人々の中に飛び込んだ。写真を撮っているひとりの邪魔にならないように気をつけながら隣に立って、撮る。一発OKだった。試行錯誤して何枚も撮る私にしてはめずらしい。途切れぬ人々と時間制限と言う観念もけっこう役に立つものだ。
 
 
 
 
 
 すぐに踵を返して駆けていく。鐘楼門と曇華殿を見て次の寺へ急ぐ。弁才天、鶴岡八幡宮の旗上弁財天社だ。
 徒歩で二十五分から三十分ほどあったが一本道なので迷うことはない。ただし県道21号線の狭い歩道は人ひとり通るのがせいぜいで、二人で並んで歩かれると後続は通行止め状態になる。鎌倉へ向う人々は多い。年配者の夫婦連れも多い。歩くスピードは遅い。いつも七福神を巡る時は午前中いっぱいとか、二、三時間とか、目標タイムをもうけている場合が多いが、今回は一日かけてゆっくり周るつもりでいた。それでもなるべく写真を撮る時間に多くの時間を使いたい私は車が途切れたところを見計らって人々を抜いて行く。
 弁才天は音楽、弁才、財福などをつかさどる女神だ。琵琶や武器をもつ姿に表され、妙音天、美音天とも言われている。もともとインドの河神で、のち学問芸術の守護神となり、吉祥天とともにインドで最も崇拝された。日本では後世、吉祥天と混同し、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一つとして信仰されている。(広辞苑より)
 鎌倉で最も人が集まる場所と認識している鶴岡八幡宮、家からそう離れていないので子供の頃からよく来ていた。近すぎて敬遠していたのがこの鎌倉七福神だ。今さら鶴岡八幡宮を巡礼してどうなると言うのか。
 ところが見慣れた源氏池の脇の赤い社が弁財天だと言うことを意外と知らなかったのだ。白い幟も銭洗い弁財天のようなものかと思っていた。七福神の一つとしての弁財天社だったとは思っても見なかった。地元のくせに何にも知らないものだなぁと我ながら可笑しくなる。八幡宮に辿り着いた時に浮かんだ「いい国作ろう鎌倉幕府」と言う言葉にもどきりとしたものだ。よく東京近辺の県の方々、例えば茨城県や埼玉県や千葉県等の人々がお互いそれら相手の県の人々に田舎モノ呼ばわりされるのは腹が立つが神奈川県の人なら許す、と言うようなことを言う。私はあれは横浜が東京にも負けないほどに人気があり、土地価も高く、港町特有の神秘的な雰囲気とステイタスがあるからだと思い込んでいた。しかしそんな理由ではないのだ。神奈川は長い歴史の一時期に国の天下を取ったものが「ここにいた」と言う、お膝もとの土地だった。日本でもそう多くはないだろう場所だったのだ。首都の東京とそういう意味では変わらない。鶴岡八幡宮の境内を歩きながら、神奈川(鎌倉)って凄かったんだなとしみじみ思う。他県の方々の「神奈川の場合は許す」的発言を聞いて、いつも内心可笑しいような不思議なような気持ちに思っていたが、これからはもう少し誇りを持ってもいいかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 鶴岡八幡宮の次は先日も枝垂桜を撮りに行った毘沙門天の宝戒寺。それから寿老人の妙隆寺、夷尊神の本覚寺と続く。この辺りは土地勘があるので、すいすいと進む。東京下町や先週の新宿七福神の時のように地図を何度も見て頭を痛めることも道を間違えることもない。そういう意味では今回の七福神巡りはずいぶんと楽をさせてもらった。見慣れたはずの近しい土地を新たな発見を伴いながらのんびりと、楽しく、巡らせて頂いた。
 
 
 
 毘沙門天は仏法を守護する天部の神。四天王、十二神将の一人。 須弥山中腹北部に住し、夜叉と羅刹を率いる。常に仏法の道場を守り、日夜、法を聞くので、多聞天とも呼ばれている。左手の仏塔を持ち、武装した憤怒の形。日本ではことに武士の間に広く信仰された。
 
 
 寿老人は福禄寿と同体異名の神で、長頭短身髭髯の老人、杖に経巻を結び鶴を伴う。幸福、富貴、健康、長寿を表し、南極星の化身とされる。
 
 
 
 
 夷(恵比須/戎)は異郷から漂流来臨する神。今日では風折烏帽子をかぶり、右手に釣竿、左手に鯛を抱えた狩衣姿の夷三郎に描き、海上漁業の神、また商売繁盛の神として信仰される。
 
 
 
 昼食の後、鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷寺で降りる。大黒天の長谷寺へ向う。長谷寺は拝観料が三百円と高い。鎌倉には美しい景観のお寺がたくさんあるので、ならばとつい他にばかり行っていた。今回鎌倉七福神の一つなので初めて入ってみた。中は参拝客が多い。にぎわっている。梅や紫陽花の季節でもないのに不思議だなと思って周ってみると、大黒堂、観音堂に阿弥陀堂、弁天堂に経蔵に鐘楼に眺望散策路と、すべてがみな美しく、また見どころが多い。特に観音堂の黄金の十一面観世音像には圧倒された。今回は七福神巡りなので、本堂の神々へのお祈りはおざなりにしていたが、この観音像は目にしたとたん衝撃を受け、理屈も何も抜きにただこうべが垂れてしまう。大黒堂の愛嬌のあるさわり大黒(尊像ではない)も良かった。金の小槌を抱えて満面の笑み。撫でるとやはりご利益があるそうなので、たくさん撫でさせて頂いた。
 大黒天は天竺(インド)の神の名。密教では自在天の化身で、仏教の守護神、戦闘神、あるいは憤怒神、あとに飲食を豊かにする厨房神とされる。頭巾を被り、左肩に大きな袋を負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。わが国の大国主命と習合して民間信仰に浸透、えびすとともに台所などにまつられる。
 
 人々に紛れて参拝し、眺望散策路を登り、見晴台から由比ヶ浜や相模湾を眺める。並んで、見て、並んで、ゆっくりと進む。日本人は並ぶのが好きだ。電車の乗換えでもランチの行列でも、日々とにかく良く並ぶ。待って、歩いて、待って、進んで、待って、見て、待って、食べる。その繰り返しだ。
 いつの頃からかこの行列を追い越すことに負い目を感じるようになった。いや、行列に割り込むということではなくて、人の列にいらだって例えば駅の連絡通路などをすいすい抜いて行く人がいる。私も急いでいる時はよくやるのだが、どうもいい気持ちがしない。たぶん宮沢賢治の詩、春と修羅の中で「一人は全部(全体)であって、全部(全体)は一人のすべてである」と言うような意味の詩を知った頃からか。
 (すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから)
 時々、朝や夜、料理をしている時に火を使っていて、焦る時がある。早く鍋の湯が沸騰しないかとか、フライパンの野菜に火が通らないかとか。そんな時私は火を強めて、いっそのこと終わりにしたくなるのだ。その火が私のアクリル素材の服の袖に燃え移って、一気に自身が燃えてしまえばいいと。そうすれば一瞬で終わってしまう。この苛立ちも共に消滅してしまうとか。駅の階段を下りているときに、足がもつれて、転がり落ちたらどうしようかと言う一瞬の恐怖に打ち勝てずに、いっそのこと自ら転がり落ちてしまおうかとか。燃えて、落ちて、そうすれば、苛立ちや不安やすべて消滅する。特に苦しみだの絶望だのを感じて、死にたいと思っているわけではない。ただ一瞬で想いを「終わらせたくなる」時があるのだった。なぜ料理の火や駅の階段を終わらすことが死と繋がるのかよくわからないまま、ただしこうは思わない。
 いっそ放火して、またはこの混雑した階段の前の人を突き飛ばして消滅させて、終わらせてしまおうとは。
 私の中で人々の流れと同調すると言うのは自分を大切にすることと同義語で、終わらす時はその流れに沿わない自分だけを終わらせたいと思っているようなのだ。そのせいか、だからたとえ急いでいても人々を抜かすように進んでいくのは心が痛む。ただ明らかなのは一人で焦っている時よりもよほど慎重に進んでいると言うことで、終わらせたくなる気持ちなど微塵も起きぬほど神経を張り詰めて人混みを縫っている。
 

 七福神の最後は御霊神社。福禄寿がまつられている。この神社の古く、落ち着いた雰囲気が好きだ。鳥居の目の前を江ノ電が走るところもいい。私はこの神社を好んでいたので、七福神巡りの最後に持ってきた。この神社で終わらせたい。

 もう四時を回っていた。時間のせいもあるだろう。だけどこの神社はいつもこんな調子で人がいないのだ。並ぶこともなく、私は神社をゆっくりと周って、嬉しいようななぜか独り占めしているような罪悪感さえ抱きながら、いいのだいいのだと呟いてみる。私は寛いでいて、満たされた想いに溢れ、焦りも不安ももちろんなくて、終わらせたいなどとは一瞬たりとも感じる余裕もなく、すべての分も享受するのだった。今日も無事七福神の神々を巡った。彼らに願いを託しましたと。
 
 (すべてがわたくしの中のみんなであるように みんながおのおののなかのすべてですから)
 
 
 
 
 
 
 

2009年3月1日

新宿山の手七福神 ~廻り続ける私の旅~

 
 
 
「民主主義の原則・・・言葉を奪い返せ」
 そんなタイトルを見ておやっと思った。私は新宿に出ると必ず家主のルミネと立ち退き問題でもめているベルグと言う小さなカフェに行く。近状確認と応援の意味を兼ねて一杯のコーヒー、またはモーニングをご馳走になるのが通例なのだが、このカフェ店内の壁にいろいろな読み物が貼られていて、見ているだけでなかなか面白い。毎回いい刺激を受けるので、今日も期待して立ち寄ってみた。
「人間は言葉の生き物であり、言葉による衝突とすれ違いは人間である証のようなものだ。それを暴力的に封じ込めることは誰にも出来ない」
 ベルグ通信(Vol.177)と言う記事のことだ。
 どうやら今フランスで高まっている、民主主義は自然や伝統に反すると言うジャック・ランシエールの思想に反論するものであるらしい。
 私自身ランシエールの「民主主義への憎悪」という書物を読んでいないし、ましてやベルグ通信の著者が言うところの「どんな命令や定義づけも、それに対する疑問や反論が必ずセットで付いてくる。それが言葉の宿命」と言う宿された疑問や反論さえも持ち合わせていないのだが、それでもこの反論記事にはいろいろと感じるところがあった。
 たとえば、「人が人を服従させるには飴と鞭では足りない。相手が言葉で理解する以上、言葉で理解させなければならない。私があなたの主人よ、と言い聞かせる必要がある。ただその言葉が絶対的に正しくあるためには、相手が永遠にいいなりでなければならない。そこにもう無理がある。言葉を使いながら言葉を奪うのだから」と言うくだり。
 本当にそうだろうか? 
 著者がこの考えに至ったのは、性別や年齢や環境が違う人たちがズレながらもなお重なり、そして彼らが世界と繋がる唯一のツールが「言葉」だからと認識している点にある。それは私も共感するのだが、いくら人間が言葉の動物だからといって、永遠に言葉で理解させ続ける必要などないのではないか。
 民主主義の国民主権、言論や信仰などのあらゆる自由、法の下での平等な権利など様々な側面を「言葉」と言う象徴的な表現で言い現しているにすぎないだろう。しかし、言葉を絶対的に正しくするのは言葉自体ではない。
 それはただのツールであって、私が思うに、言葉は無力だ。正確に言うと、言葉だけでは無力な場合が多いのだ。人を絶対的に服従させる力などそもそも言葉自体にはなかっただろう。ランシエールが言う「自然や伝統」の時代にはその背景が存在し得ただけではないか。
 私は朝のコーヒーを飲みながら、人間らしくそんなことを考えては苦笑いをした。
 無力な私は若い頃(いや、今でさえ時々あるだろう)言葉だけに頼っては、「過剰に人間らしすぎる」衝突とすれ違いをよく起こしたものだ。ペンは剣より強と言うけれど、言葉の力を過信しすぎて、配慮に欠けたり、機会を間違えたり、信念の伴わない発言をしたのでは意味がない。言葉が本当に正しく、強くあるには、その背景があってこそのことで、言葉を受け取るもの圧倒するほどの当人の信念、鬼気迫るほどの意志とそれを裏付ける背景が絶対的に必要不可欠なのだ。
 言葉だけならペテン師でも言える。奪い返さなければならないのは言葉では足りない。
 私はコーヒーカップを置いて、リュックを担いだ。左手にカメラ。今日は新宿山の手七福神を巡るつもりでいた。 
 
 
 
 東京の七福神を巡るのが好きだった。
 昨年の夏ごろからボチボチはじめて、モノクロの写真に収めている。見知らぬ町を歩くのもけっこう楽しい。いろんな発見がある。またいい運動にもなるのだった。毎回5キロ~10キロほど歩くので、終わった後に心地よい疲労感を得ることが出来る。
 一番感動したのは浅草名所七福神だった。下町の寺社ってかっこいいなぁと初めて思った。地図を見ながらうろうろして、大抵は簡素に略された地図なので、道を間違えてはまた戻り、住宅街の細い路地を行ったり来たりする。おかげで目当ての寺社に辿り着いたときは喜びも倍増する。鷲神社など黄金に光り輝くスーパーヒーローのように見えたものだ。まぁ、小説でしか知らなかった世界を初めて見た、と言うおのぼりさん的な感動も手伝っていたのだろう。
 行きたいと思っていた近場の七福神は大抵行ってしまったので、遠くまで足を伸ばすか、あまり興味のなかったところを目指すか、考えた末新宿を選んだ。ここは近いが場所が場所だけにちょっと怪しい。本能的に危険を察知した私は、今まで避けていたのだった。案の定、しょっぱなの鬼王稲荷神社が見つけられず、区役所通りから歌舞伎町に迷い込む。新宿二丁目に行くはずが気がつくと歌舞伎町二丁目で、右も左もホテルが聳えているのだった。「あら~迷い込んじゃったわ」と聞こえるほどの大声で呟きながら、興味深そうに見ているおじさんをやり過ごす。やっとのことで辿り着くと、これがまた圧倒されるのだ。ホストクラブやクラブの看板が立ち並ぶ真横にぽつりと建っている。正面にはゴミ置き場。横も裏手ももちろん高いビル、ビル、ビル。新宿山の手七福神は公式サイトもオープンして、お正月だけでなく年間通してご朱印や宝船やご尊像様を用意し、来詣者をもてなしているそうだが、これでは若い女性は敬遠するだろう。七福神しか目に入らないつわものか、物好きか、よほど凝った趣味の方々ではないと来ないのではないか、と危ぶむほどのインパクトがあった。境内ではなぜか年配の女性(圧倒されていたので一瞬恐ろしい老婆に見えてしまった)がひとり、植木鉢のようなずらりと並んだ器を黙々と整理している。
「すげぇ新宿・・横溝正史の世界だ」思わず呟いた。
 多分この歌舞伎町傍の鬼王神社を一番に参拝するコースを選んだのが良くなかったのではないかと思う。心臓に多少毛が生えている私でも驚いたので、もしもこれから巡ろうとする方がいらっしゃったら逆側の神楽坂から周るコースを是非是非お勧めしたい。
 
 
 
 
 次に周ったのは、福禄寿の永福寺、ここも大久保通り沿いで、途中工事が中断されてゴミ置き場状態になった通行止めの道路や怪しげなビル等が現われる。なかなかスリリングだった。それから弁財天の厳島神社。ここでは年配の女性がずっとぶつぶつとお祈りをしていた。小さな鳥居と祠があるだけの境内だ。邪魔してはまずいと思って写真を撮りながら待っていたが、一向に祈りが終わる気配がない。仕方なく隣に立ってお参りさせていただいたが、呟きが耳に入ってどうも集中できなかった。お経を唱えているのかとも思ったがそういう(経のようなリズムの)節もないようだ。次に行く寺社を探して、その場で暫く地図を見ていたが、やはり祈りが止む気配は一向になかった。
 歌舞伎町から始まった新宿の雰囲気に気圧されているようで、見るもの聞くものすべて異様に思えて来る。そもそも私は新宿と言う町を警戒しすぎるほど警戒する傾向があるのだ。新宿駅近辺で出会う人、チラシを配ったり声を掛けてきたりする人以外でも携帯電話も持たずに笑いながら一人喋って歩いている少女にキャバクラ嬢ふうの格好をして客の男性と笑い合っている派手なおねぇさんにホスト特有のヘアスタイルとスーツを着てふらふら歩いている少年、外国人の集団、なぜかレストラン前にたむろする厚化粧の年配熟女ふう女性の集団、すべてが警戒心の対象だった。下町を歩く時のように親しみやすく馴染み深い町という意識は一切ない。心が閉じている。一瞬でも気を許したら引きずりこまれそうだと新宿の街の雰囲気にある種の恐れを感じながら、口を一文字に閉めて、眉を吊り上げて足早に歩いている。
 次は寿老人の法善寺、それから新宿御苑傍の布袋尊太宗寺。鳥居をくぐるとほっとしている。このあと靖国通りから大久保通りに戻り、大黒天の経王寺と毘沙門天の善国寺に行くのだがこのふたつは同じ大久保通りでも若松町を越えた辺りから一気に雰囲気が変わる。もう口元も眉も緩めて私は警戒心を解き放つ。それまでは本当に緊張しっぱなしだったように思う。気が張っていたのか、私は異常にトイレが近くなり、セブンイレブン、ampm、ローソンとコンビニを渡り歩き、何度もトイレを借りているのだった。
 
 
 
福禄寿の永福寺。この前に本堂があります。これは福禄寿さまの祠。
弁財天の厳島神社。
寿老人の法善寺。
新宿御苑傍の布袋尊太宗寺。
 
 
 
 新宿御苑でよほどのんびり休憩を取ろうかと思ったが時間が押していたので断念した。午後の3時までに終えたいと思っていたが、すでに2時を回っていた。また神楽坂方面の最後のふたつのお寺がけっこう離れているのだった。大江戸線の若松河田から牛込柳町、牛込神楽坂と三駅分歩いていた。終点の飯田橋に着いたのは午後の4時過ぎ、今回も心地よい疲労感は得られたのだが、いつもとは違う妙な(体への)負担もあったようだ。とにかく頭がガンガンしてたまらなかった。私は携帯用の頭痛薬を飲んで歩いていた。
 
 寺社巡りをしながら考えていたのは前回の「継続は力なり」と同じようなことだった。
 例えばこの七福神巡りにしてもだ。お参りを一回してもそう大きな意味はない。お百度参りは一回の参拝を百回重ねるからこそより祈願自体が尊くなるように、何度も何度も繰り返して巡らなければそう大きな意味はない。
 最後の善国寺を見たときおやっと思ったのは、そのお寺は前回神楽坂に下町散策した時に出逢っていたお寺だったからだ。この新宿山の手七福神のひとつ、最後の毘沙門天などとは知る良しもなかった。何となく見知っていた寺が、ひとつの祈りの前で繋がった意味を持つ。以前とは違う存在価値をもたらされて私の前に現われた。
 もしも叶うならば、そんなふうに、この世の中の小さなひとつひとつの寺社がみな繋がっていけばいい。何度も何度も巡り、参拝するうちに、ある日突然見知っていた寺社が違う意味を放ち、価値を持って私の前に現われて、そうしてそれらが次第に増えて繋がって、私の願いがより深く、尊くなって、神仏の前に捧げ出されるといい。
 その頃には神も仏も、もしもそのような大きな力が存在するとしたならば、私を認めてくれるかもしれない。
 継続する意志の力を持って、私の願いをその深さを知り、聞き入れてくれるかもしれない。
 ひとりひとりの願いは小さなものだ。だけど私も、誰しも、願いを持つことは出来るし、願い続けることも出来る。
 そしてもしもそれが継続して、ある日ふとしたことで繋がっていくならば。
 これは希望じゃないだろうか?
 誤解を恐れずいうならば、民主主義の原則のようなではないか。
 意志と希望と、それが絶対的な正しさを永遠にもたらすものかもしれないと。
 
 私は言葉を忘れて以前より少しだけ強くなった。もちろんすべてのきっかけは言葉から始まるだろう。だけどそれだけでは決してなくて。
 私は神に、愛するものに従服する。彼らが言葉だけでは決してなくて、行動を持ってそれを示し続けてくれるからだ。
 痛いほどに降り注ぐ彼らの力は私に反論の隙を与えない。その強い意志と深い希望は、愛にも、祈りにも、似ているのだった。
 
 
 
大黒天の経王寺。
毘沙門天の善国寺。