2009年7月29日

民主党マニフェストを見て思う。

 
 
 
 民主党が27日午後、総選挙に向けたマニフェストを発表した。
 
 
 
 週末にでも見て、ゆっくり検討しようかと思っていた矢先、私の眼に先に飛び込んできたのは、『民主党政権公約ー日米FTAを締結』、この日本農業新聞の見出しだった。
  
 ☆所得補償1.4兆円 日米FTAを締結/民主党政権公約(2009年7月28日日本農業新聞より)
 
 私は驚きのあまり新聞を落としそうになった。うちの会社はたまたま農業新聞も取っていて、私は毎朝部署のメールボックスから新聞を取って重役の席まで持っていくのだ。この日ばかりは挨拶もそこそこに自分が真っ先に読む。何と言うことだ。まだ(どの政党にしようか)検討している最中だったというのに、民主党何たる失態!
 だいたいアメリカと自由貿易協定などを結んでしまったらどうなることか馬鹿でもわかる。
 さっそくマニフェストをダウンロードしてみると、やはり書いてあるのだ。
 『米国との間で自由貿易協定(FTA)を締結し、貿易、投資の自由化を進める。』(7外交の51.)
 マニフェストによると、農畜産物、酪農業、漁業、対して(農畜産物のみ戸別)所得補償制度を導入、それによって農山漁村を再生させ、活性化させる。自給率向上を目標としているらしく、「主要穀物等では完全自給を目指す」とある。
 しかし、自由貿易を結んで、アメリカの安い輸出食品が無関税で入ってくるというのに、どうやって日本の農畜産物を保護し、活性化させるというのか。ましてやこの先自給率を上げていくなどありえない話だ。
 僅かな補償金と引きかえに、日本の農畜産物は死を宣告されたに等しい。
 
 
 そもそも農業を代表として言わせてもらうが、彼ら生産者は補償金を望んでいるのだろうか。私が知る限り、彼らは全然もうかってなどいない。そもそもお金のために農業を営んではいない。先祖から受け継いだ田畑を自分の代で途絶えさせるわけにはいかないと必死の思いで、苦しさに耐えながらも続けているのだ。彼らを支えるのは、ただ使命感だ。
 自由貿易化になって、以前と同じ収入はあってもすでにその生産品は市場に必要とされないモノになり下がったその時、彼らはまだ田畑を続けるのだろうか。大人しく隠居しろと言っているのか。民主党は補償とか手当とか、金銭的な豊かさの面でしか物事を見ていないような思いがする。生産者を馬鹿にしているとしか思えない。
 このマニフェストが実行されれば、確実に日本の農畜産業も漁業も壊滅の道を辿るだろう。
 もちろんマニフェスト隅々に行き渡る崇高な理念は素晴らしい。日本は軍隊も持たず、すべての戦争を放棄し、崇高な理念だけで平和を培ってきた国だ。理念の大切さは良く理解できるつもりだ。だがその理念が成り立っていたのは、日本が経済的に他国を上回るほどの力を持っていたからだと言うことを忘れてもらっては困る。もしも経済が破綻したら崇高な理念だけでは国は守れないだろう。
 民主党は日本経済さえも崇高な理念にしようとしているのではないだろうか。私は自由貿易は防衛上の戦争放棄と等しいと思う。
 日本をどうやって経営して行くつもりなのか、天下を取るつもりなら理念ではなくて構造を、もっと真剣に考えて欲しい。
 おまけにこれだけ地球規模で環境が悪化し、経済だけでは済まずに様々な事柄が破綻しかけているこの時期に、これから訪れるであろう混沌とした時代を乗り越える体力が今の日本にあるかどうか疑わしいと言うのに、
「軍隊は持っていません、食糧は自給できません」
 そんな国がどうやって他国と渡り合ってやっていけるというのだろう。
 笑い種だ。きっとアメリカや周りの国はついに日本がとち狂ったのではないかと驚いているかもしれない。これから政権を取るかもしれない政党が国益をまったく無視したマニフェストを堂々と出しているのだ。
 本来なら政治家がこんな馬鹿を言い出せば官僚がどうにか諭して軌道修正してくれるものだ。だから言いたいだけ言わせておけ、安心ではあると言うものだ。
 ところが、民主党はこの官僚を信用出来ないと言っている。すべての諸悪の根源であり、国民の豊かな生活は官僚に侵されていて、税金を無駄使いしている官僚のせいだ、と言いたいようである。確かに幾つかの問題はあったかもしれないが、国民を煽って官僚を悪者にするのはいただけない。国民の不満や怒りの感情を官僚に向けさせて、すべては選挙のために吐き出させて、民主党を信頼させるため(政権を獲るためだけ)の扇動のように思えてならない。
 第一、政治家のように派手ではない官僚達がこの国のためにコツコツと懸命に働いてくれている、と言うことに少しは敬意を払ってもいいのではないか。これは誤解を与える危ない言い方かもしれないが、彼らは日本の中枢を担う重要なブレーンであって、その労働と代償に対して等価に値する何かを授ける必要性はあると思うのだ。
 それが天下り制度とか独立行政法人や特殊法人等だとしてもいいのではないかと。どうしてそのすべてが「無駄」になるのだろうかと。
 民主党が財源を見直すため、無駄なものとしてあげているのがこの「官僚のご褒美」なわけだが、それがなくなったらもう誰もあんな地味で大変な仕事はしないのではないかと思わなくもないのだった。頭の良い彼らはもう日本になど見切りを付けて、海外にでも行くかもしれない。外資の企業や、笑い話でなくてシリコンバレーに行ってグーグルにでも入社するかもしれないのだ。
 朝新聞とマニフェストを見た時受けた衝撃を、今思っていることを、思うように表現できなくて歯がゆい限りだ。
 どうか他の同胞たちがもっと上手く書いてくれる事を願うばかりだ。
 それから、日本の美しい田畑が、あの水田が、棚田が、いつまでもあり続けてくれることを―
 
 
 先日書いた子ども手当ての件、さらに詳しいweblogを見つけたのでご参考ください。
 
 
 
 

 

 

2009年7月26日

子ども手当てって何ですか? ~総選挙まであと1ヶ月!!~

 
 
 
 
 7月21日、衆議院が解散した。
 総選挙を前にして、ちょっと頭を抱える日々である。自民党にはうんざりだが、民主党の政策が良くわからない。ゆえにどこか胡散臭くて信用できない。
 そこで、民主党の政策の目玉である子供手当てを調べてみることにする。
 
 子供手当ては0歳から中学校卒業まで、一人当たり月額2万6千円が支給されるというもの、親の所得制限は設けない。
 当初、その代わりに児童手当に配偶者控除、扶養者控除を廃止するということで、「65歳未満で子どもがおらず、配偶者が無職の場合」は負担増となり、 年収500万円なら年間約3万8000円の新たな負担が生じる」 と言う下のニュースを目にして驚いたものだ。
 
 
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◆子供なしで配偶者が無職→負担増◆
 所得控除の見直しに伴い、「65歳未満で子どもがおらず、配偶者が無職の場合」は負担増となり、年収500万円なら年間約3万8000円の新たな負担が生じる。
 ただ、年金受給世帯は、配偶者控除を廃止しても、公的年金等控除の拡大や老年者控除(65歳以上)の復活により、差し引きで負担は軽減されるとしている。
 民主党は、衆院選立候補者に「(一部世帯では)負担増となるが、子どもは『未来の担い手』であり、将来の社会保障は子どもたちにかかっている」と理解を求めるための文書を配布し、有権者にアピールしていく方針だ。
(2009年7月19日03時05分  読売新聞)
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 子どもがいない家庭は負担増は困るだろう。
 たとえ老年者控除が復活したとしても、子ども手当てを幾らもらったとしても、児童手当や配偶者控除や扶養控除がなくなれば相殺されてたいした得はないのではないか?
 具体的な数字を求めて、web-seitを見ていくと、こんな記事を発見してますますぎょっとする。
 
 
 
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『民主公約「子ども手当」2万6000円の、控除廃止のからくり。本当に2・6万もらえるか』
Sat, October 25, 2008 15:54:13

民主党が昨年の参院選「子ども手当」2万6000円の創設
0歳から中学3年生(15歳)までの子どもを対象に、
親の所得や国籍に関係なく、
一人につき毎月2万6000円円を支給する。
現在、同様の制度に児童手当があるものの、民主党の公約を実現するとなると、
総額5~6兆円の財源が必要になる。
その財源をどこから、同党は扶養控除などを全廃する方針を示している。

 扶養控除は、扶養家族ひとり当たりにつき年間38万円分を非課税とする制度だが、
その分に新たに課税するわけだから、2万6000円もらえるといっても、実質的な「増税」分は目減りにすることになる。それらを差し引いて試算すると、実際は「月2万円」の支給でしかなくなるのだ。
 さらに従来、民主党は扶養控除だけでなく、
配偶者控除(38万円)も全廃してこの財源にあてると主張してきた。
そうなると、配偶者控除を廃止する「増税分」も加算して計算しなければならない。
すると、実際は≪公約の半額≫にすぎない約1万3000円の支給でしかなくなる。
 さらに教育費が最もかかる世代として知られる16歳から22歳までの特別扶養控除(25万円)まで廃止するとなれば、
中学・高校生を一人もつ家庭は、扶養控除38万円に加え、
年間63万円分の控除が廃止されることになる。
単純に、この家庭は6万3000円の所得税(10%で計算)と
6万3000円の住民税が「増税」されることになり、
計12万6000円の大増税となる。
さらに配偶者控除の廃止が加われば、増税幅はさらに増え、
約20万円の「増税」になる。
 加えて、高校・大学の子どもがもう一人いると仮定すれば(つまり2人)、
合計33万円もの大増税となる。
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 全然減税じゃないじゃん!!
 子供のいる家庭も増税じゃん!
 この計算を鵜呑みにしてもいいものだろうか。特別扶養控除って何?それも廃止されるというが、税金に疎い私には言葉が飲み込めないのだった。
 最後の頼みの綱は、と民主党の反論を見にいく。
 きっと納得のいく説明をしてくれているはず!!
 
 
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2009年7月24日のニュース(民主党の公式web-siteより抜粋)
 
子ども手当の創設と所得税(国税)の控除見直しによる影響」
 
○中学卒業までの子どものいるすべての世帯で、手取り収入が増える(約1100万世帯)。

○単身世帯、子どものいない共働き世帯に影響は無い。

●子どものいない65歳未満の専業主婦世帯の内、納税世帯では税額が若干増える(対象は推定で全世帯の4%未満)。増加額は、平均的な収入(年収437万円)の世帯で年間1万9000円(月額1400円程度)。

<子ども手当創設/所得税制改革による手取り収入の変化>単位:万円
 給与収入300万円の世帯の場合
  子ども無し   -1.9
  子1人(2歳児) +15.4  子2人(小学生と中学生) +45.1

 給与収入500万円の世帯の場合
  子ども無し   -3.8
  子1人(2歳児) +13.4
  子2人(小学生と中学生) +42.7

 給与収入600万円の世帯の場合
  子ども無し   -3.8
  子1人(2歳児) +11.6
  子2人(小学生と中学生) +39.4
○年金受給世帯の税負担額は現在より軽減される。配偶者控除は廃止するが、公的年金等控除の拡大、老年者控除の復活により、手取り収入額は増加する。

○住民税(地方税)の配偶者控除、扶養控除は見直しの対象とせず、現状のままとする。
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 なるほど、やっぱり減税なのね。とうなずいてみたものの、納得のいく説明とは程遠い。特別扶養控除はどうなったのだろう。見なおしたと言うことなので、廃止ではなくなったのだろうか。また住民税は現状のままと言っても、やはり所得税の計算は変わらないはずでは??
 頭の悪い私はこの重大な岐路の大切な問題をまったく理解できず、唸るばかり。
 もう少し民主党さん、丁寧に説明して欲しいなぁ。
 あと、思うのは、控除の場合は税金を払う人に対して支払われていたものでしょうが、今回の子ども手当ては税金を収めない人にも払われるんですよね?
 低所得者とか、在日外国人とか、極論を言えばネットカフェ難民にだって、税金を収めなくても仮に子供がいれば支払われる、と言うわけで、それって何となく公平なようでちょっと差別っぽくですかね。一生懸命働いて税金を収めてもまったく収めなくても、同じお金をもらえるわけですね??しかも、税金を収めない人の分もお金をあげちゃうわけだから、物凄い財源になるように思われるのですがどうなんでしょう。
 疑問を持って、ついでに子ども手当て以外の事も見てみることにする。
 人権とか、どうなってるの?
 
 
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【09衆院選】民主がマニフェスト原案 外国人への地方参政権付与も(msn産経ニュースより)
2009.7.23 20:03
 民主党は23日、衆院選マニフェスト(政権公約)の原案となる「政策集INDEX2009」を発表した。外交政策で現実路線に舵を切る一方、永住外国人への地方参政権付与など結党以来の政策はそのまま踏襲。戦時中の日本の加害行為を調査する「恒久平和調査局」設置や、「慰安婦」調査への取り組みも表明しており、内政政策で従来の政権との違いが際立つ内容となっている。
 政策集は、第一ページに「戦後諸課題への取り組み」を記載。先の大戦で「内外に多くの犠牲が存在したことを忘れてはならない」と総括、国立国会図書館に恒久平和調査局を設置するための国立国会図書館法改正や「慰安婦問題への取り組み」を打ち出した。
 自民党内に賛否両論がある夫婦別姓についても「民法を改正し、選択的夫婦別姓等を導入する」と言い切った。人権侵害救済機関の創設も盛り込んだ。
 「慰安婦」問題で民主党は「旧日本軍による『慰安婦』問題の解決を図る」と主張してきた。元慰安婦だと名乗り出た外国人に国家が謝罪と金銭の支給を行う「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」も過去10年間にわたり国会提出しており、民主党が政権を取れば、法案を成立させる可能性が高い。
 法案提出の事実は、昨年の政策集に記載されたが、今回から削除された。永住外国人の地方参政権付与問題でも「党内に永住外国人地方選挙権検討委員会を設置した」などの記述が消え、分量も圧縮。世論への配慮をのぞかせた。
 一方、外交政策では、海賊対策での自衛隊派遣容認や、国連決議に基づく北朝鮮貨物検査の実施など、これまでの国会対応を転換する内容を盛り込んだ。自衛隊によるインド洋での給油活動については08年政策集で「法案延長に反対」としていたが、記述が消えた。
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 ここに来て、言葉を失ってしまいました。
 さすが人権にも手厚い保護だ。党の基本政策を見てみると、『アイヌなど少数民族、被差別部落、在日外国人、障害者・難病患者などに対するすべての差別の解消に取り組む』とある。さすがに崇高な理念であることは間違いなさそう。
 でもね、子ども手当てはお金絡みなので、得なのか、損なのか、計算が良くわからないってこともあったんですが、こちらは完全に日本の国益を損なっているような思いがします。
 ここって、本当に日本だろうか。
 もしかして、もうすでに中国とか、韓国になっちゃっているんではないでしょうか。
 ラストの一文も結局自民党と変わらないしなぁ。
 それに、転換期で変革もいいのだけれど、これだけ国が弱っていると、変わる前にぶっ壊れて消えてしまいそうですしね。
 8月30日の選挙までにもう少しゆっくり、慎重に考えてみることにします。
 この国の存続がかかっているかもしれません。

 

 

☆この問題で上手い表現をしていらっしゃるなぁと思ったWeblog

 


 

隅田川花火大会 ~惜しげもなく与えて、散っていく花火たち~

 
 
 
 ふと老婆と目があった。彼女の横はぽっかりと、「ちょうど良いスペース」が空いていて、おまけにまるで友達のように笑いかけてくるのだった。私は三脚を抱えて彼女の横へ滑りこんだ。「ここがいいわよ」老婆は言うのだ。いらっしゃい、と喜ぶかのように。「ここ、いいですか?」と聞いては断られてさ迷っていた私に向って、やはり親しげに笑いながら。私たちの会話が始まった。
 
 
 
 
 
「あと30分くらいね。暗くならないとね、始まらないわね」
「もう少しですね。あれ、前のはテレビカメラですか」
「朝日が放送するのよ。毎年あそこで撮っているから、ここは第一会場と第二会場の花火が両方見れるのよ」
 隅田川花火大会に出かけたのだった。江戸時代に「両国の川開き花火」として始まり、昭和53年に隅田川花火大会と名称されたこの花火大会は人気が高い。毎年100万人近い見物客が訪れるそうだ。一週間前から場所取りをする人もいる。当日は人々で溢れる上に、会場近くの道路は一方通行になり、交通規制や立入禁止規制となる区域もあるので、人の流れに乗って歩いていたら花火の見えないどこかへ行ってしまったとか、歩きながらビルの谷間の花火を見るはめになったとか、そう言う話も多いようだ。三脚を持ってうろうろするのを警戒した私は多少景色が悪くてもすいているところを選ぼうと思った。
「なんかちょっとおしっこ臭いわね」
「風が強くて良かったかもしれませんね」
 首都高6号のガード下はいつもは浮浪者の住みかとなっている。小屋に青いビニールシートや簡易ベッドは普段にまして隅に押しやられて、今日ばかりは浮浪者たちも追い出されたようだ。老婆は臭いなどと文句を言いながらも陸橋の柱に立てかけられた折りたたみ式の簡易ベッドに寄りかかって、言うのだった。「こうすると楽チンよ!」
 70歳と言う年齢の割りに無邪気に笑う。自宅は近いそうだが年々高層ビルが建ってほとんどの花火が見れなくなった、昔は360度を見渡せて、東京じゅうの花火が見られたのに、と残念そうに言う。また、息子さんがふたりいて、そのひとりのマンションが近くにあるそうだが、そちらもちょうど大きな木が邪魔をして高く上がった一部の花火が見れないそうだ。
「だから散歩がてらにぶらぶら見に来たの。いつもこの辺りで見るのよ。去年は息子と船の上で見たんだけど、今年は仕事が忙しいって。マンションの鍵を預けてあるんだから、そっちで見たらと言うんだけど、仕事してるのにお邪魔してもねぇ。お嫁さんも何にも言ってこないし。おふくろのために買ったマンションだからいいんだよ!とは言ってくれるんだけど。この方が気楽でしょう」
 私は何度も何度も設定やピントを確認しながら頷いていた。時々、「こんな良いところが近所でいいですね~」と間の抜けた返事をする。
「よっぽど家で朝日テレビの放送を見ようかと思ったけど、やっぱり年に一度だからね、近くで音を聞いたり、あのどーんと言うのがまた胸に響いていいのよ。何だかスカッとするじゃない!また一年頑張ろう!と思うじゃない? 不況だけどね、区もよっぽど今年はやめようかと思ったみたいだけど、やっぱり規模は小さくてもみんなこうやって楽しみにしているんだからねぇ、どんな形でもやってくれると嬉しいわよね」
 遠くで花火が上がった。開いた音だけするが、テストなのか空砲のように何も見えない。しかし、あの音からすると空高くまで上がったようだ。私は三脚を下げてカメラの位置を変えはじめる。あれだけ高い位置で花火が開くならば、ちょうど首都高が邪魔をして見えそうもない。老婆は見える?撮れそうかしら?と心配してこちらを覗き込む。老婆の前にはカップルがアウトドアかビーチで使うような椅子を広げて優雅に花火見物をして、その前は若者の集団が騒いでいた。彼女のすぐ横(陸橋の柱の向こう)はカップルがシートを引いて寝そべっており、足だけが見えていた。通行人は絶えず前を行ったり来たり、全員が座ってくれればいいが、カメラの位置を下げると今度は人の頭が入ってしまい空が見えない。テレビカメラが陣取るところだから、そう悪くない位置のはずだが・・ 
 私は首都高で半分隠れた空を心配そうに眺めていた。すぐに老婆の視線に気がついて、
「カメラを下げると人の頭が邪魔なんですよね。前を人が通らなければだいじょうぶそうです」
「高い花火が上がるとちょっと見えないかもね。でも低いのは綺麗に見えそうよ」
 老婆は残念そうに言うのだ。後になって私はこの会話のせいだったのではないかと自分を責めた。
 この町で育って、この町に詳しくて、「ここがいい」場所だと言っていた老婆の顔を潰してしまったのではないかとか。それとも彼女の話に嘘があって、それを暴かれるような思いをさせてしまったのではないかとか。
 とにかく、今私に与えられたのはこの場所であって、フェンスと首都高で塞がれて、空が半分見えない臭いガード下で。そうしてその場所は今横で笑っている老婆が、私がやってくるずっと前から立って、取っておいてくれて、私が入ることを許してくれた場所なのだった。
 辺りは人がせわしなく通り、空いていたスペースはどんどんと狭まって来ていたが、私たちのまわりだけはゆったりとしていた。老婆と三脚を広げごついレンズをセットした私とのペアは最強で、誰も割り込もうとはしなかった。
 そうして、青い空に月が浮かぶ中、まだ闇に包まれないうちに、ついに花火大会は始まったのだ。
 
 
 
 
左はテレビ局のカメラ。ガードとフェンスで空が塞がれた中、花火大会が始まった。
奥は第二会場(厩橋上流-駒形橋下流)の花火、上は第一会場(言問橋上流-桜橋下流)の花火。
だんだん夜の闇が深くなり、あまり絞らなくても空は真っ黒に。
散って消え行く花火と昇っていく新たな花火。
空が狭いため部分的にしか見えない。それでも充分堪能できる可憐な花火たち。
様々な色の花火が上がる。
第一会場がすぐ傍だったため、どんと開く音が体に響いて来た。
花火が散ったあとの空は宇宙の銀河のよう。
フィナーレが近付いて、大玉のものがいっせいに上がる。
最後の花火、弾けるように豪快に開いて、あっけなく散って行った。
 
 
 
 
 残念ながら隅田川は見えず、首を伸ばせば花火の映えた美しい川がかろうじて見えたが、しかし三脚は届かず、もし届いたとしても、前のフェンスが邪魔をして、見渡すことは出来なかっただろう。それでも私は大満足だった。
 初めての花火撮影にしては、撮れただけで上出来だ。散々人混みの道をうろうろして終わるかとさえ思っていた。
 すべては老婆のおかげだった。彼女なくしては、私はこの場所を手にすることは出来なかった。
 高い花火が上がると私たちは残念そうな声を漏らしたが、低い花火がガード下で弾けると一斉に飛び上がった。
「うわ~綺麗ですね!」
「ホントに、きれいねぇ!」
 ハイタッチをするように喜びあい、笑いあった。
 どん、と花火が弾ける音、ひゅるるぅ~と昇っていく音、すべてが体じゅうに響いた。高揚した。夢中になって撮っていると、目の端にふと、老婆が鉄橋の柱の向うに消えていく姿が目に入った。はっとして横を見ると、もう彼女はいない。トイレにでも行ったのか、それとも他のもっと見える場所を探しに行ったのか。しかし、あれだけ話をして、一緒に喜びあった彼女のことだ、すぐに戻ってくるのだろう、と私はのんびり構えている。
 5分、15分、30分、時が過ぎても彼女は戻ってこなかった。
 私は彼女がいた場所に三脚を移して、一人でスペースを陣取るのだった。いや、もう、そんな必要はなくて、佳境となった花火大会に心を奪われている人々は割り込もうとすることもない。美しい夜空をただ眺めている。お酒を飲みながら花火を見ていた前の若者のひとりが立ち上がって叫んだ。
「た~まや~~~~!!!」
 いっせいに拍手と歓声が挙がる。ブラボー!ブラボー!そう何度も言っているかのようだった。
 こうすると楽チンよ! 私は老婆の言葉を思い返して、一人ゆっくり簡易ベッドに寄りかかった。いい気分だ。納得のいく出来ではないが、写真だって撮れた。最高の体験をしたと言うのに、私はどこか淋しいような、キツネにつままれたような、そんな気分で老婆のことを考えている。
 彼女はどこへ行ったのだろう。
 彼女は誰だったのだろう。
 まるで役目を終えて立ち去ったかのように。私のために現れて、あっけなく消えて行ったかのように思われてくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 

2009年7月19日

「BLUE PACIFIC STORIES」 ~青ヶ岳の海を泳いで~

 
 
 
 いつものように週末の撮影旅行に出かけていると、連れからメールが来た。
 土屋アンナが初監督をした映画の話で、海をキーワードにした短編のそれは、環境破壊をテーマに創られたと言う。
「私達は海が青いのを知っているけど、後の世代は黒いと思うかもしれない。そうさせないためにも何かできることがある」
 私は檜洞丸に向う電車の中だった。かつて青ヶ岳と呼ばれていた山だった。
 今日の写真は環境破壊をテーマにしよう。
 ふいにそう決めたのだった。緑の森を青い海と重ねて、私なりの映画(写真)を創ってみようと。
 
 
 
 
 
 
 檜洞丸は丹沢山地の丹沢主稜にある。標高1601メートル、神奈川県で第4位の高さを誇る山である。
 丹沢と言えば、最近深刻な問題となっているのがブナの立ち枯れだ。檜洞丸も例外ではない。立ち枯れたブナの横には、無残に朽ちた倒木が転がっている。
 立ち枯れの原因は、1993年以降から大発生するようになったブナハバチの食害の仕業だと言われているが、私は怪しいところだと思っている。果たして虫のせいだろうか? ハバチは学術的には解明されていないところも多く、また普通なら寄生菌などの天敵によってこれほどの大発生はしないそうである。南極ブナの立ち枯れのように大気汚染の問題、または最近の温暖化の問題等によって、南アルプスや白神山地のように生態系が崩れ、ハバチが大量発生したのではないかと思えてくるのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 立ち枯れた木や倒木はきのこや苔の温床になり、さらに倒木はときどき草の苗床等にもなって、やがて土に返る。それにも長い長い時間を要するから、今はただ転がったままである。どうも痛々しい。
 ところが、これらからクガワタの幼虫が取れると言うことで、わざわざそれを目当てに山に来るものもいるのだそうだ。オオクワガタを見て満足して山を降りるというだけならいいのだが、どうもそうだとは思えないサイトもあって、正直驚きを隠せなかった。懸命にブナの立ち枯れを探し、見つけると狂喜する。倒木を腰をかがめて必死にまさぐる彼らの写真を正視できない。立ち枯れの木も倒木も、宝の山にしか見えないような言いかたである。もしもそれが商売として成立しているならば、そう思うと複雑な思いだった。
 
 参考サイト 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 気がつくとひぐらしが鳴いていた。
 若いころ、私は木の根を触ることが出来なかった。登山道は大抵山を切り開いて作られているので、むき出しになった木の根が斜面から登山者を守る柵の代わりになったり、階段変わりの足の踏み場になったりしているのだが、私はどうも直接触ることが気持が悪いと思ったものだ。そのくせ、滑りそうになると慌てて掴んですがる。すぐに放して、手を払ったり、そのうち軍手をするようになった。なぜ気持が悪いと思ったのか、今になると不思議でたまらないのだが、多分、泥などで汚れるし、また、空気が湿っていたり、苔とかがついていると独特の触感になるからだろうか。とにかく、あまり好ましくなかったことは覚えている。
 今回そのことを思い出したのは、檜洞丸の登山道がそのような自然に近い登山道であり、機械掘削のように大きな石(岩)を積み上げたり、丸太や平木の階段が続いたりと言うことがなかったからだった。しとしとと降り続ける雨の中、ふと滑りそうになると私は木の根を掴んだ。急斜面を登るときもロープのように木の根を掴んで上へと体重を移動させた。時には足場にして、踏んづける。
 山頂に近付いた。この山の初夏の見所であるツツジのトンネルの木道を行く。シロヤシオ(ゴヨウツツジ)やゴウトクミツバツツジの花も、オオバイケイソウも、もう枯れていたが、マルバダケブキの群生が目を楽しませてくれる。
 まるで海原のように青々と茂っているのだ。そのなかを立ち枯れた木々が浮かび上がり、倒木は沈むように横になっている。珊瑚の死骸のようでもあった。
 私は必死で写真を撮った。
「私達は海が青いのを知っているけど、後の世代は黒いと思うかもしれない。そうさせないためにも何かできることがある」
 土屋アンナの言葉が脳裏を横切る。しかし、実際、私は何をしたら良いのか。
 辺りは誰もいない。先週の塔ノ岳と違って、すれ違うハイカーは僅かだ。これだけ人の生活とは遠い位置にある深山のなかでも、これだけ環境の異変は起こっていると言うのに、実際の私ははじめることさえも良くわかっていない。
 歯がゆさを覚えて、山や木々たちに対して申し訳ない気持で一杯だった。
 
 
 山を下りながら、私は木々の美しさに慰められていた。木の根をしっかりと掴む。また彼らの助けを得ている。
 人間が通る道の分だけ木の根をさらした木がどうなるのかと言うと、大抵は傾いているのだ。残っている根のほうへ、倒れそうなほど傾いでいるのだった。しかし、枯れているものはほとんどない。
 ふと顔を上げると、彼らは青々と若葉をつけて、鬱蒼とした景色に眩い緑の光を差し込んでいる。
 
 そうだ、とにかくはじまったのだ。
 何をしたら良いのか今はわからなくても。
 
 
 

 
 
  
 たとえ誰かのおかげで、わが身が立ち枯れて、朽ちて行ったとしても。
 一方で、同じその誰かの道を作り、彼らを守り続けるかのように。
 
 私は木の根を頼りに山を降りた。そうして何度も呟いていた。
 ありがとう、ありがとう。
 あなたのお陰で道を行ける。
 あなたのお陰でたとえ滑って転んだとしても無事でいられる。
 
 私は来た時と同じ、檜洞丸のツツジ新道の入口に戻っていた。檜洞丸まで4.7キロと書かれた道しるべに、ただいま、と声を掛けた。まるで返事をするかのようにいろは紅葉が一葉はらりと舞って、足元に落ちた。
 沢の音とホトトギスとひぐらしの鳴き声を聴きながらの小さな旅は、終わりを告げようとしている。
 だけど終わりではない。はじまったばかりのこの物語はそう容易ではない。
 すべてはこれからにかかっているのだった。
 
  
 
 
 
 
 
 

2009年7月12日

プラス5キロの愛情 ~ブナに励まされて、東丹沢塔ノ岳を登る~

 
 
 
 最近、髪の毛が薄くなった。
 左につむじがあるので、左から右に七三に流しているのだが、その分け目が妙に目立つ。ワカメを食べてみたが一向に効き目がない。私は幼い頃から変えたことのない分け目を真ん中辺りに変えてみた。ついでに腰まで伸びた髪をバッサリと20センチほど切った。
 髪の長さは禿とは関係ないのだが、髪が長いと抜け落ちた毛の量も多く見える。髪を洗い、排水溝にどっさりと流れていくそれらは私の神経を逆なでし、ますます気にやむようになったので、思い切って美容室に行った次第だ。
 あの頃の私とはずいぶん変わった。
 私は秦野駅からヤビツ峠へと向うバスの中で苦笑いをし、ここが人中だと言うことを思い出した。気を引き締める。見回すと、バスの乗客は若い子達ばかりだった。
 ヤビツ峠は今回の目的、塔ノ岳へと向う出発点だ。東丹沢の盟主塔ノ岳は丹沢山塊で最も人気の高い山で、多方面から山頂を目指すコースがあるが、出発点の標高が高いヤビツ峠から展望に恵まれた表尾根の登山コースが一番登りやすい。シーズンともなると、ヤビツ峠はハイカー達でにぎわうのだった。今日は天気予報も悪く、展望も悪かろう。こんな曇り空の日に眺望の美しい塔ノ岳をわざわざ目指すのは私くらいかと思っていたが、始発のバスの10分前に臨時バスが出た。MILLET、NORTH FACEを背負った若いカップル、男同士、女同士の団体が乗り込んでく。長い列の中央にいた私の手前で満杯になる。が、前の老夫婦が座って行きたいらしく、乗るのをやめた。代わりに私が乗ることができたというわけだ。
 登山と言えば、中高年に人気のスポーツと言う印象があったが、今はずいぶんと変わったようだ。それとも私が老いたのか。私が若いときは周りは年配者ばかりだった。丹沢の山へと向う久しぶりのバスの中で、今の彼らは長い髪を結びもせずにさらりとなびかせ、またはバンダナでまとめて、若さを謳歌し、楽しそうに会話をしている。
 こんな時、以前の私ならば淋しい思いをしたものだ。しかし今は、ほっと胸をなでおろしている。若者が多く、賑わっていることが心強い。また臨時バスが出るほど、これだけ山を登るものが多ければ、私が道に迷うことはまずない。
 私が写真を撮り始めて、様々な場所にいくことになったとき、一番困ったのは「道を行くこと」だった。体力は自信がついている。歩くのは苦ではない。人がいなければ気楽ではある。しかし、それ以上に力を奪われるのが地図を調べて、道を探して、目的地に辿り着く、そのことだった。
 私は今このバスに自分が存在していることを感謝した。私はここにいる彼らに比べれば、登山の経験も少ないだろう。見比べれば一目瞭然で、装備もなっていなかった。単独であることも、もしも万が一の事態が起これば、彼らに迷惑を掛けてしまいかねない立場である。だけど、バスの中で彼らの一員として成立出来ているのは、ここにいることを望んだ私があるからであり、それを当たり前として許してくれる彼らがいるからであった。抜きつ抜かれつで悔しい思いをしたとしても、たとえ厄介者となって一番びりっけつになったとしても、彼らからはぐれない限り、私は山頂に行けるのだ。感謝しなくて何であろう?
 
 
 
 ヤビツ峠から林道をしばらく行き、富士見橋を渡り、すぐの登山口から表尾根登山コースへ入る。私は登山には自信があった。若いときも今でさえも、山をなめているわけでは決してなくて、ただそこに美意識的にも経済的にも重点を置けないと言う理由から装備はイマイチ、もちろん比例して経験も少ないないわけだが、それでもいつも必死で山を登っていた。「そんな格好じゃ登れないよ」と出会ったおじさんに叱責をされたときも、私は多くの登山者を抜かして山頂まで行ってやったのだった。雪解けの山道を。ぬかるみを何度も何度も滑りながら。ジーパンを泥だらけにして。鼻息も荒く、見た目で決め付けるなよ、ばかやろうと内心でほざいて。
 今回もそんな自負心からいつものようにさくさくと登り始めた。もちろん今では自信はあると言っても、あの頃のように傲慢ではない。謙虚に、登山者達に混じりながら、内心では炎を灯して、決して負けない気概だけは持って、ゆっくりと、確実に、一歩を一歩を進めていく。
 ところがどうもいつもと調子が違うのだった。
 塔の岳山頂に辿り着くには、二ノ塔、三ノ塔、烏尾山、新大日と、いくつのも山頂を通り抜け、アップダウンを繰り返しながら尾根沿いに進んでいく。その一つ目の二ノ塔に辿り着く前からだ。どうやら自分の登山のペースが落ちている、と言うか妙に遅いと言うことに気がついた。若者のカップルや、団体に抜かされていく。気にしないようにしてまた行くと、すぐに後ろから声が聞こえ始める。後ろを登ってきた人たちがすぐに私に追いつき、捕らえて、抜かしていくようなのだった。どうもおかしい。
 私は登るスピードを上げた。そんな経験は初めてだった。いつも私は普通に登っていても、追いつき、追い越してしまうことが多かったので、気兼ねしていたくらいだったのだ。ところが今日は写真を撮っていると遅れるので、撮るのはあとで、山頂近くで平地では見られないブナなどの落葉広葉樹や眺望のいい写真を撮ればいいと決め込んで、黙々と登っている。若者はまだしも、年配者のさも経験者と言う男の人はまだしも、さすがに年配者の夫婦連れに抜かれると傷付いた。病み上がりだったから体力が落ちているのか。私は休憩ポイントのベンチに腰を掛けて、みっともなく汗を流して、ふと真後ろの木を見やると、なんとブナの若木なのだった。
 ブナだ! つい声に出してしまった。
 まさかこんな標高の低いところに若木が立っているとは思わなかった。据わっている場合じゃなかった。すぐにカメラを構えて、写真を撮る。えらいね。えらいね。頑張って立ってるんだね。ブナは本来高い山地に生える。標高1200以上の温帯にブナ林を形成するが、最近の温暖化によって、原生林は急速に失われつつある。この若木も植栽されたものかもしれなかった。幹は5センチから10センチほどしかない。しかし青々とした新緑をいっぱいにまとい、誇らしげに立っている。私はブナに力をもらって、また歩き始めた。原生林じゃなくても、ぶざまでもいい、それから撮ることの楽しさを思い出させてもらった。登ることで頭がいっぱいになっていた私にブナの若木はハンマーの一撃をくれたようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 これ以降私は抜かされることを気に止めず、写真を撮ることにした。ただし、彼らからはぐれない範囲内だ。撮ることのみに夢中になって、置いてけぼりを食らわない程度ならいいと自分の行動に許容範囲を与えたのだった。
 ブナは随所随所で私を支えてくれた。きつい登りが続いて、足が止まりかけたとき、私は視界の天辺にブナの木を見た。まるで「ここまでおいで」と呼んでいるようだった。それから、苦しさを感じて、足元ばかりを見て歩いていた時、ふとブナの葉っぱを見つけた。青い若葉がはらりと落ちていた。そんな時私はブナの木の傍で休み、または顔を上げてブナの美しい姿を眺めた。そうしてまた登るのだった。初めて尾根の崖沿いにブナの巨木を見つけたときは思わず叫んだ。
「鳥ですか?」
 写真を撮る私を老人が抜いて行く。
「いえ、ブナ」
 私は興奮して終いまで言えない。それだけでわかるだろうと言わんばかりに声を張り上げる。老人は、ああぁ、とか、うぅん、とか答えにならない返事をして、ブナには一目もくれず、一歩も足を休めず、登っていった。
 烏尾山を過ぎたあたりから増えたブナたちは時に林を作り、時に巨木として佇み、私の目を楽しませてくれるのだった。私はずいぶん彼らに助けられた。写真を撮らなくても、私はずいぶんと遅れを取っていた。人々は私を追い抜かし、そうして私の歩みは標高が上がれば上がるほど、いっそう遅くなって、頂上間際では一歩の歩幅は5センチほどしかなかっただろう。まるで牛の歩みのようだった。
 何かが違う、そう感じた理由はこの頃にはわかっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 なぜもっと早く気が付かなかったのか、荷が重かったのである。
 私の真横を「こんにちは~」と言いながら若者が駆け抜けていった。ずいぶんと早く登るものだ。登山マラソンか何かの練習だろうか。青年は小さなリュックひとつで、格好も短パンにスニーカーなのだった。「そんな格好じゃ登れないよ」私はそううそぶいてみたが、あの頃も今も、いつだって間違っているのは私のほうなのだ。青年の姿はすぐに見えなくなった。追い抜いてくハイカーの挨拶、「こんにちは」と言うのは、あれはこういう意味だ。「追い抜いちゃってごめんなさい」または「お先に失礼します」。私は何度こんにちは~を言わせてしまったことだろう。内心申し訳なく思いながら、ただ黙々と僅かな一歩を踏む。
 私の荷物は水にジュースに弁当、雨具に懐中電灯、防寒着など、一般のそれらを入れる55Lのリュックだけでもけっこうな重さだった。それに写真の道具が加わった。カメラにレンズ、換えの望遠レンズ、三脚、その4点で5kgはあるだろう。プラス5キロと言うわけだ。
 そりゃ重い。5キロはそう重いわけではないが、いつのも荷物プラス5キロとなると重く感じるものだ。まだ髪が多くて、老人に叱責されていた頃の私はこのプラス5キロを持っていなかった。年を重ねて、物欲に走り、物質主義に陥ったのかと言えば、そうでもない。この余分なプラス5キロは、私のバスのチケットなのだった。正確に言えばそのようなものだ。朝のヤビツ峠に向うあのバスに存在するための入場券。私は今生きている世界で、私自身のために、私がバスにいることを許してくれる人たちのために、このプラス5キロを背負っていると言うわけだった。だから絶対この荷を持って登らないといけない。たとえすべての人に抜かされて、びりっけつになっても、行くのだ。
 ブナの木々に励まされ、助けられながら、やっと山頂に辿り着いた。
 訪れたその地は深いもやの中だった。天候が悪かったから雲なのかもしれない。360度の展望が見渡せる塔ノ岳とは思えぬほど、辺りは真っ白で、何も拝むことは出来なかった。私は登りながら、山頂に着いたらまさに頂上に三脚を立てて、誇らしげに写真を撮ってやろう、とずっと考えていたのだが、三脚を立てるまでもなく、ぼけた写真しか写すことは不可能だった。笑ってしまいたくなるほどだ。道々で出会ったブナの木だって、私は三脚で撮りたかったが、道が狭かったこと、ハイカーが多いこと、それらを考慮して三脚を開くことはしなかった。だからこその、思う存分、と思いつめた山頂がこれだ。
 疲れ切った私は写真を撮ることもなく、真っ先にトイレに向う。それからかつてこの山の名称だった尊仏山の名を借りた山荘に入った。いつもなら一緒に登って来た盟友たちの傍に腰を降ろして、一緒に休むものだが、真っ白な雲の中で寄り添うように固まっていた彼らの脇を通り過ぎた。山荘で珈琲を飲んで、煙草を吸う。年配の夫婦連れがカップラーメンを食べている。山荘の主人たちは山男にしては愛想がよく、特にペットボトルの飲み物をやめて珈琲を頼んでからだ、態度を急変させてにこやかになった。丁寧に灰皿を持って来てくれた。私はこんなに珈琲を美味しいと感じたことはない。一気に硬直した筋肉が癒されて、疲れがほぐれるようだった。落ち着いて、ふと山荘を見回すと、綺麗な山の写真が目いっぱい飾ってあった。主人の趣味だろうか、シロヤシオと檜洞丸、ダイヤモンド冨士、丹沢連峰の夜景のパノラマ写真、どれも素晴らしかった。手作りの珈琲を望んだから認められたわけではなくて、もしかしたら私のカメラを見て親近感を抱いてくれただけかもしれない。私は煙草を一本吸うあいだ、それらの写真をいとおしく眺めた。
 山を愛するものがいて、写真を愛するものがいて。それを愛で、その自然の美しさに圧倒される私がいて。カウンターにカップと灰皿を戻し、例を言って、外に出る。山頂の彼らと並んで弁当を食べた。相変わらず三脚を立てる気も写真を撮る気もなかったが、それでも心は落ち着いていた。珈琲が、あの山荘が私に幸福感をもたらしていた。
 食べている最中にふと鹿を見つけた。塔ノ岳の山頂に住むと言う塔太郎だろうか。私はカメラだけを抱えて、走って彼に向っていった。眺望もない。抱えてきた荷物は不用だった。だけど鹿が出迎えてくれた。そのことが嬉しくて、なぜかとても嬉しくて、私は必死にシャッターを切り続けた。
 
 
 

 

 一杯の珈琲と、弁当と、草を食べていた鹿、それからずっと支えてくれたブナの木を思い出し、よみがえった私は三脚を立てた。多分山頂の彼らは内心笑っているだろう。だけどいいのだ。望遠レンズも使ってやろう。せっかく持ってきたのだ。案の定望遠にすると真っ白な景色は寄りすぎて何も見えなくなった。それでも遠くの木を(ブナだろうか
?もやが深くて確認できなかった)切り取ってみる。頂上を一周して、360度すべての深いもやの中の景色を収めて、三脚をしまった。
 頂上は寒かった。着ていた服はすべて絞れるほどに濡れていた。私は防寒着を着て、山頂の彼らに別れを告げた。また、山を降りるのだ。生活のために、私は下界に戻っていく。だけどまたきっと来てやろう、そんな風に思っている。
「こんにちは~」
 大倉尾根を歩いていると、通り過ぎて行く4人組が挨拶をする。
「こんにちは」
 私も元気な声を返した。
「お、いいの持ってますね~好きなんですか」
 中でも一番愛想のいいひとりが笑顔で語りかける。笑って頷くと重ねて訊いてくる。
「でも重そうですね~」
「はい。換えのレンズに三脚も持ってきたのでけっこう重いですね」
「三脚も! 大変ですね~いいの撮れましたか」
「ええ、あいにくの天気でしたから。曇っていたので残念ですが」私は終いまで言わないのだ。
「晴れていると富士が見えるんですがね~」
「ええ」
「やっぱり夏は朝でしょ。朝がいいですよ」
 彼が笑いを誘うようにおどけて言うので、私も可笑しくなって笑った。「そうですね」
「じゃあ、お先に。気をつけて!」
「ありがとうございます」
 4人組に姿はすぐに追い越していく。それでも前も後ろもまだ人がいる。朝の眺望を目指して登ってくるもの、下山するものたち、人が途切れる心配はなさそうだ。ずいぶん遅くなったが、彼らすべてからはぐれることはなさそうだった。
 ありがとうございます。小さな声でもう一度呟いてみる。抜いて行くものが快活に声を掛けてくるのは、それなりの気遣いがあるのだろう。そうして私は道に迷う心配もなかった。このまま大倉尾根を下っていけば、2時間もすれば大倉バス停に辿り着く。
 あいにくの天気だった。冨士は見れなかった。ブナだって三脚を立てて丁寧に撮ることはできなかった。大変ではあった。
 劔岳のようなものだ。私は山頂に辿り着いたが、思うような写真は撮れず、それは何も意味のないものだった。荷は不要だったのだ。
 それでも若いときに持たなかったこのプラス5キロこそが私の重ねた時間だった。
 それは私の成長の証であり、信念であり、そうして、すべての愛情だった。
「やっぱり友人で写真が好きな人がいてね、朝の写真がいいって言ってたよ。朝と夕方は陰影がくっきり撮れていっそう綺麗だって」
 4人組の一人が友人に話しかける声は、そのうち小さくなって聞こえなくなった。
 残念ですが、と私は心の中でさっきの言葉の続きを言ってみる。
 そうして、私を待つもののために降りていくのだ。重い荷を担ぎながら。ふと時計を見て。迷う必要もないというのに、急ぎ始めて。
 私はブナ林の中を歩いていった。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年7月5日

今昔夢想的浅草七福神。あるいは、願いをもって武器を放て。

 

 
 
 某宮崎県知事の話だが、私は冗談だと思っていたのだ。あれは衆議院議員のお誘いを断るための方便だと。
 もしくは強烈な社会(政治)批判だ。その冗談によって、腐りかけた政界に一石を投じようというつもりなのか。宮崎のために。地方を輝かせて見せるために。
 しかし、昨夜にいたって彼が本気だということを知った。日テレの「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中。」を見て、おやっ、と思ったのである。爆笑問題の太田さんが吼えている。
「某宮崎県知事!あんたには負けないぞ」
 昨夜のマニフェストは「総選挙のついでに総理大臣も国民が選びます」というもので、アメリカの大統領選挙みたいに総理大臣も国民の直接投票にしようという主旨だった。政治コメンテーターの金美齢にこう突っこまれて太田さんは笑っている。
「だって今夜のマニフェストって太田さんが自分が総理大臣になりたいから言い出したとしか思えない!」
「あなたなんかが本当に総理になったら日本はつぶれますよ」
 太田さんはついに顔を真っ赤にして、涙を流して大笑いを始めた。彼は本当に、本気で、総理大臣になりたいのだ。このマニフェストを現実社会で実現可能なものだと思っており、自己のその理想の頂点に「自らが総理大臣になる(なるかもしれない)」という仮説を想定しているのである。茶化しているようで、某県知事に向って吼えた台詞も大真面目であったのだ。
 私は太田さんの自虐的な笑いからその事実を知って唖然とした。
 日頃頭のいい人格者だと信頼していた太田さんさえも夢想するのが「総理大臣」というものならば、某県知事だって例外ではないだろう。私は甘かったのだ。男というものは多かれ少なかれ権力を求めるものであって、人格者であろうが、お笑いだの県知事だのたとえ他の世界で成功していようがそれらは関係ない。政治家、強いては権力を行使しうるポストに心惹かれるものらしいのであった。そしてその頂点が総理大臣と言うわけだった。
 そのあと中継で登場した某県知事の、太田さんとは対照的な大真面目な様子を見て、私の想像が確信に変わっていく。私はがっかりした。
「地方分権と言うマニフェストを実行してくれること、実行可能なポストを与えてくれること」
 このふたつを衆議院議員として立候補する条件として掲げているそうだが某県知事、そのために言い出した「総理大臣」が冗談ではなくて本気ならば、前提はくつがえる。彼が責任あるポストを目指すのはもう地方の(宮崎の)ためだとは思えない。
 しかし太田総理も某県知事も忘れているのだ。政治家個人で実行可能な、権力を行使できるポストなどない。たとえ大臣になろうが、総理大臣になろうが、そんな権限はどこを探したってないだろう。彼らは与えられた仕事と役割をさせていただくに過ぎない。忘れていない。だからこそ直接選挙を!と太田さんがまた吼えそうだが、そういう権力者のいないところが、そういうシステムを作り上げたところが日本の一番の良さだと私は思っていた。なのに、それでも男達は夢想するのだ。
 淫行に不倫に、芸能界を干されていた彼が地元の人気に支えられて、県知事としてよみがえっただけでも奇跡だと思っていたのに、彼らはどこまで欲深いのだろうか。
 このまま突き進むと、きっと足を踏み外す。きっと誰かに突き落とされる。私ははらはらしながら男達の夢物語を見ているような気分だった。
 
 
 某県知事は太田さんに負けず劣らず頭のいい方である。
 言っていることは筋が通っているし、また大変な勉強家であり、努力家でもある。多くの日本人によく似ているのだった。
 私は「欲深い」などと言ったが、もうこれは人間の本性なのだ。いっそのこと、男はではなくて、「人間とはそういうものだ」という前提にしてしまおう。
 でなければ、頭のいい人間達が、こんなに地球の資源を使い果たして、自らの首を絞めるわけがないのだ。
 またはもう何百年か先にはとんでもないことになっているというシュミレーションも出来ているというのに、相も変わらず車のエンジンをふかし、冷房を使って、排気ガスを撒き散らしたりCO2を放出しまくったりするはずがない。
 100年後、200年後、賢い日本の政治家達はいったいどうするつもりでいるのだろう。アメリカ辺りは月に移住する計画でも立てていそうだ。日本は資源も金で買い続けるつもりなのだろうか。どこかがおかしいとわかっていても、真面目にエコに取り組めば経済が破綻するので突き進むしかないのだろう。まぁ、ハイブリッドカーとか、電気代節約のエコ家電とか、モノ作りの得意な日本は様々なものを開発し、その危機さえも経済を潤す糧にしているようだが、現実的にはかなりやばいのだろうなぁ・・
 と、話がとんでもない方向へ向ってきたので、私はとりあえず思考停止。風邪を引いた体を引きずって、七福神巡りを始めるのだった。
 
 困ったときの神頼み・・・
 
 自虐的に笑ったりしない。くそ真面目でもない。思いというものは強い。この歳まで生きてきて、そのことに多少は気付いている。
 私は某県知事や太田総理やすべての欲深き人たちのために、この星のために、神々のもとを趣くのだった。
 笑うとしたら、なぜ七福神なのだろう、ということくらいかもしれない。もっとご利益がありそうな神々もいそうなものだが。七福神はお正月に廻る神様たちではないか?
「地方分権」、「生活が第一」とか、そんな口実と同じようなものだろうか。七福神は私の「言い訳」なのだ、きっと。
 
 今回の七福神巡りは浅草名所七福神を選んだ。
 もう一度行っているのだが、浅草は私が一番好きな東京の街なので、何度でも行きたいのである。また、前回もう一度廻ろうと試みた時に失敗に終わったことも手伝っている。その時私は二度目だからと気を抜いて、道に迷って、タイムアウトとなってしまったのである。リベンジも兼ねていた。
 なので、今回は早めに家を出て、慎重に巡る。前回迷った鷲神社(おとりさま)を過ぎると、先が見えて余裕が出てきた。初めて巡った時よりも、時間的には遅れたが、それは写真を撮る時間が長かったからで、総合的に見ると順調だったように思う。病み上がりの割りに疲れもそう感じなかった。確実にあの頃よりも体力がついているのだ。
 私は体を鍛えている。わざと厳しいコースの撮影を望んで、毎週汗をかいている。
 なぜか、そうしなければいけないような思いがしている。
 もっともっと強くならなければ。来るべき時のために・・・
 
 9箇所の寺社巡りはまるでトレーニングのようでもあった。私は機械的に行動を繰り返す。遠景を一枚、レンズを換えて望遠で一枚。全体像と一部、自分が最もその寺社らしいと感じている一部を切り取ってみるのだった。
 新しいレンズはまるで武器のようだった。
 長い望遠レンズのことを「大砲」などと呼ぶが、私はその意味ではなくとも、まるで銃や大砲を構えるように狙いを定めている。
 
 ズキュン! 届け。思いも神々へ飛んで行け!
 
 
浅草寺・大黒天
浅草神社・恵比須
矢先神社・福禄寿
鷲神社(おとりさま)・寿老人
吉原神社・弁財天
橋場不動尊・布袋尊
石浜神社・寿老人
今戸神社・福禄寿
待乳山聖天・毘沙門天
 
 
 今戸神社で老人と私よりすこし年上といった感じの女性と出会った。なぜか老人が私と彼女を相手に話を始めたのだった。
 私たちはすこし退屈そうに、彼の長唄の会で宮本信子と一緒だった話を聴いている。ふと彼は、戦争の話を始めた。大学にすべて落ちて唯一受かったのがお坊さんの大学で、そこの仲間たちや教授たちは立派な人たちとなっていること、巣鴨プリズンに通って、戦犯となって絞首刑がきまった人たちのもとへと赴いたこと。
「人は死ぬことがわかると、特にあんな状況で宣告されると気が狂ってくるんですよ。だからお坊さんが行ってね、最後に仏教の教えでもって導くんですね~」
 にこにこと笑いながら、世間話のようにさらりと話す。
 私は老人達から戦争の話を聞くのは初めてだった。今まで会った多くの彼らはかたくなに口を閉ざしていた。
 老人自身も坊主の位を持っているそうだ。よほどなろうかと思ったが、寺を持っていないからやめたと言う。彼が口を閉ざさないように、私は時々写真を撮ったりしながら退屈そうに聞いていた。七福神最後の寺社、待乳山聖天が神社とお寺が混じった独特の寺社で、セックスを崇めているところだということも初めて聴いた。
「だから大根なんですね~」
 待乳山聖天の大根は体を丈夫にし、良縁や夫婦円満等のご加護を頂けるために祈願しているそうだが(公式サイトより)、つまり体を丈夫にして性に励めるようにということからきているのかもしれない。はっきりとは言わなかったが大根という言葉や存在自体が、性の神への祈願の象徴でもあるようだった。
 ひとしきり話をすると、彼は潔く切り上げるのだ。退屈な老人のように長々と自慢話をしたり知識をひけらかすことも無かった。
 相変わらずにこにこ笑って、
「じゃあ、どうもどうもすみません。ごゆっくり。楽しんでください」
 手を振って、自転車を引いて、帰っていった。
 残された私と婦人は並んで歩き始める。世間話をしながら待乳山聖天へ行き、お祈りをし、多分昨日か一昨日の供え物の大根だろう、ご自由にお持ちくださいという大根をもらって、「じゃあここで・・」と境内で別れた。
 彼女は愛知からやってきたのだそうだ。小説で浅草の話を読んで、巡ってみたくなったと言う。近々友人を頼って、東京に出てくるのだそうだ。浅草近辺に住みたい、隅田川を越えると家賃が安くなるので探している、と言っていた。
 老人ともこの婦人とも私は深い話をしたように思う。いつもの写真撮影の旅で出会う人たちとはすこし違っていた。その割りにどちらともあっさりと、まるでただ通りで人とすれ違ったときのように別れた。
 そのことを不思議に感じながら、今の私たちなら当たり前のようにも感じながら、私は大根の写真を撮っている。彼女がいなくなったあとの聖天で、性の象徴の、その祈願の対象を何も考えずに。
 何だか不思議な一日だった。いつも出来ないこと、高いハードルのことがいとも簡単にさりげなく、普通に出来たような、そんな気持。
 偶然で出会った老人も、婦人も、神々のひとりだったのかもしれない。いや、そんなわけはないが、ある意味では、私たちひとりひとりはそんな存在となりうるかもしれない。
 私は山谷堀水門跡地に戻って、一服をした。かつて堀があったこの場所で、私は思いを巡らせている。過去に、そして今に。
 ひとりひとりの気付きがあれば。私もあなたも、誰でも救世主となれるだろう。
 思いはきっと届くのだと。