2009年10月26日

鳩山首相の所信表明演説を聞いて。

 

 

鳩山首相の所信表明演説 「あいまいさ」と「甘さ」目立つ

msn産経ニュース  2009.10.26 14:34
 
衆院本会議で所信表明演説をする鳩山首相=26日午後2時4分衆院本会議で所信表明演説をする鳩山首相=26日午後2時4分
 
 鳩山由紀夫首相の初の所信表明演説からは、政権交代を成し遂げた高揚感と「友愛」にかける首相の強い思い入れは感じられるものの、諸施策に関する具体的言及は乏しい。残念ながら日本が置かれた厳しい国際環境への危機感もあまりうかがえない。
 演説作成にあたり「役所の要望は極力抑え、国民の心に響くメッセージにしたかった」(政府高官)という意気込みは理解できる。だが、通例の1・5倍という12905文字を費やした割には、抽象的で焦点がぼけた印象だ。
 例えば「何よりも、人のいのちを大切にし、国民の生活を守る政治」を掲げているが、これは当たり前すぎてことさら強調する意味が分からない。「大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に」という表記も、どこを目指したいのか方向性が見えない。
 あるいは、1月のオバマ米大統領就任演説にある「今日問われるべきなのは、政府が大きすぎるか小さすぎるかではない」との言葉を意識したのかもしれない。しかし、オバマ演説は同時に国民に「忠誠や愛国心」を求め、義務を果たすことが「市民権の代価」であるとも指摘している。上面だけをまねても、本質があまりに違う。
 
 これだけ長い所信表明演説の中で、教育についてほとんど何も触れられていない点も気になる。その半面、日教組のドンと呼ばれる民主党の輿石東参院議員会長(幹事長職務代行)のキャッチフレーズである「『居場所』と『出番』」は盛り込まれている。
 そして、特に懸念されるのが外交・安全保障に関する部分だ。民主党の政権公約(マニフェスト)通り「対等な日米同盟」をうたい「日本の側からも積極的に提言」する関係を目指すとしているが、それには日米同盟の片務性をただす必要がある。端的に言えば「集団的自衛権の行使を可能にする以外にない」(首相経験者)が、鳩山首相にその考えはないようだ。
 東アジア共同体構想は高らかに主張するが、喫緊の課題である米軍普天間飛行場の移設問題に関しては「在日米軍再編については」と表現をぼかした上で「真剣に取り組む」とあるだけだ。日本は何もせずに“いきがる”一方、「大統領には分かってもらえる」(政府高官)といった、甘えの姿勢すらうかがえる。
 だが、米国は契約(日米合意)を重視する冷徹な国だ。演説からは、改めて鳩山首相の危うさが浮き上がってくる。(阿比留瑠比)
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 第173回臨時国会が召集された。
 帰宅早々、政府インターネットテレビで鳩山首相の所信表明演説を目にする。
 50分間の長い演説だった。最後まで聞いていて、驚かされたのは、これが政治家の言葉なのか、と言うことだ。現職の内閣総理大臣がこういう所信表明演説をするとは全く想像もしていなかった。
 まぁ、何でもかんでも「友愛」一色の鳩山首相ならありえなくもなかったが、それにしても妙だ。
 これは私が無知なためかと、念のため、麻生前首相の所信表明演説をYou Tubeで見る。が、やはり違う。
 何がおかしいのかと言えば、素人の私が聞いてもわかるほど、「政治的な中身」がないのだ。
 まるで、ガンジーかキング牧師にでもなったつもりなのだろう、抑揚をつけて気持ち良さそうに語りかけるその内容は、「愛」、「支え合い」、「変革」。やたらと修飾語が多く、具体性に乏しい。普遍的な公理(または真理)をただ並べているだけのようだ。
 これが政治家か。
 私は愕然とせざるを得なかった。彼が宗教家だとか、思想家だとか言うのならわかるのだが・・
「いや、これは新興宗教か?」
 思わずつぶやいた直後、NHKのニュースが流れる。
 自民党の谷垣総裁が辛口のコメント。
「ヒトラー・ユーゲントがヒトラーの演説に賛成しているような印象を受けた。冗長で感傷的。目指す国の方向という点では明確なメッセージはなかった」
 記者団から感想を求められて、民主党議員が衆院本会議場で演説に合わせ声援を送る様子を、ナチス党の青少年組織ヒトラー・ユーゲントになぞらえて皮肉ったわけだが、思わず笑ってしまった。
 頼りにならない野党だなと、自民党にはがっかりさせられていたが、意外と言うではないか。
 確かにこれはまるでヒトラーだ。さすが私より上手く喩えてくれる。
 
 ところで、あのような修飾語が多く、具体性の乏しい理念的な演説をする時、私の経験では、それが言いたいのではなくて、それしか言えないのだ。
 よくある会社の会議や提出物、来年度の予算の目標とか戦略とか、自分の意見を上司に説明しなくてはならないとき、大抵もうどう考えてもこれ以上の数字アップは無理、これ以上は努力目標、と思った時は大抵理念で固めてしまう。やたらと修飾語を並べてごまかすことしかできやしない。
 戦略など浮かびようがない時、もしくは浮かんでもうまく説明できないので、上司に突っ込まれると困る時。
「やるやる、こんな理念一色の説明するよなぁ・・・」
 鳩山さんの現状が大変なものなのだろうな、と身につまされて、思わず同情してしまった。
 しかし、私ごときや、そこいらのいちサラリーマンではなく、仮にも国政を担う現職の内閣総理大臣なのだから、もう少し勉強されてはいかがだろうか。
 また特定のアジア諸国向けの政策については一切語られていないが、国民が喜ぶバラマキ政策以外の、密かに推し進めている危ない法案がたくさんあるだろう。
 それらも具体的な言葉にされてはどうか。
 もちろん具体的な仕組みや予算の話は、当然通常国会の施政方針演説で行う、と所信表明演説後に官邸で言われたそうだが、先延ばしにすることもない。
 また通常国会で政策の予算についてきちんと説明できるかどうかも怪しい。通常各省庁が用意した事業計画は財務省がまとめ、主計官が各省庁の要求額にひとつずつ増額、横ばい、削減の査定をして予算編成を行う。ところが、今回は各省庁の大臣が査定をするのだそうだ。政治家主導、査定大臣だというのだから仕方ない。官僚たちは例年のごとく苦労を重ねての調整をすることもなく、各省庁間の要求額をそのまま積み上げてしまった。おかげで予算の概算要求は史上最大の95兆円となったわけだが、これらを専門家(官僚)のサポートなしで、各省庁の大臣が本当に自らの言葉で説明できるのか。鳩山首相は各省庁の大臣を働かせて自分は悠々、高みの見物、と言うわけにはいかないだろう。赤字国債など示唆することもない、どうするつもりなのか、前もって総理自身が説明されたらどうか。せっかくの所信表明演説なのだから。
 あのような愛とか支え合いとか、理念と修飾語だらけの演説しかできない政治家がこの国の総理大臣とは、全く情けない限りである。
 少しは立場を自覚して、論理的な思考方法のスキルを身につけていただきたい。
 それから、臨時国会が麻生総理の時の93日に比べ、今回は実質審議わずか20日間で終わるというのも納得がいかない。
 ずいぶん早くに逃げようと必死ではないか。
 酒井法子被告の初公判で国民が盛り上がっている隙にか。
 と、驚きと不満だらけの所信表明演説だった。
 先が思いやられる。
 
 
 
 
 
 

2009年10月25日

古刹の秋を愛でながら

 
 
 
 
 鳩山内閣のブレブレ発言が止まらない。
 ニュースを見ながら幾つあるか書き出してみようと思ったら、あまりに多くて、ノートが真っ黒になった。
 22日には米紙ワシントン・ポスト一面にさえ載る始末だ。
 
 米国務省高官→「いま最も厄介なのは中国ではなく日本だ」
 
 
 
 
 
 アメリカ様にムカつかれてはさすがにまずいと思ったのか、今まで新政権ヨイショ一色だったマスコミ(特にTV)もついに政策批判をし始めた。
 と言っても、日本郵政民営化見直し(=反アメリカ利権)とその天下り人事が主で、民主党と言うよりは亀井郵政相がターゲットになっているのが不満ではあるが、反体制側のコメンテーターを出演させて彼らから言わせる、という形で新政府の政策批判をおおっぴらにやりだしたのはいい傾向ではないか。(その証拠にヒートアップしたコメンテーターたちは鳩山政権の政策だけではなく、彼らの「やり方」そのものに懐疑的な発言を漏らしていた)
 通常国会が始まればもっとぼろが出てくるだろう。
 彼らは政治主導を掲げて、今まで官僚たちが苦労の末質問取りし、睡眠時間を削って作成していた答弁書を、必要ないと言っている。自分たちの言葉で答えるのだそうだ。
 TVのコメンテーターは番組の最後に26日からの臨時国会について言及し、「楽しみですね」と微笑んでいた。
 そりゃ見ものだろう。アマチュアの政権の彼らにどこまで出来るのか、専門家の手助けを拒否し、天皇を政治利用しようとし、全く経済的な戦略もビジョンもない雇用対策を掲げ、いったい何を答弁するというのか。
 おごりが過ぎていたのではないだろうか。
 きつい言い方だが、どれだけ信じようと努力しても、彼らが伝統を破壊する日本解体(を推進する)政策に積極的な政権で、法治国家の手順を無視した独裁政権であることは紛れもない事実だ。
 この地に生きた先祖たち、私たちに託して死んでいった英霊たち、そして今現在生きているすべての人たちが見守っていることだろう。
 やれるものならやってみろ、と是非ともエールを送りたい。
 
 
 
 今日の週末撮影旅行は北鎌倉。
 古刹と紅葉を愛でに出かけてきた。
 まだ楓が色付くには少し早い。おまけに昼から雨が降り出した。
 
 
 
 
  
 
 しかし、それらを差し引いても日本の秋は美しい。
 これからの秋本番の彩りと、そのあとに訪れる澄んだ冬の景色が楽しみに思えてならなかった。
 この地に根付き、息づくすべてに私は祈りながら歩いた。
 日本をお守りください。
 森羅万象に神々が宿る国、この小さな願いを誰かが拾い上げてくれると信じていた。
 
 
 
 
 
 

2009年10月19日

『野中広務 差別と権力』魚住昭著を読んで思うこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 哀しみを背負っている人間が好きだ。
 彼らはその優しさから自分と他人の哀しみを一身に背負い、しかし決して重荷に押しつぶされることはない。理性や知性、合理的な判断力を見失うことなく、哀しみを十字架のように背負ったまま、険しい道を進んでいくのだ。
 抽象的すぎる表現だろうか。たとえば、虫を殺す時に、心の中で「殺してしまってごめんなさい」と言えるかどうか、そんな些細な見分け方でもいい。家の中に突然現れた害虫を、騒ぎながら殺して、喜びと安堵と穢れを持って死骸を見下ろす、そういうことは彼らに限ってないだろう。
 私は彼らのような人に出くわすと、哀しみが伝染して、思わず胸が締め付けられるのだ。心が痛い。そして言いたくなるのだった。
「もういいじゃないか。身勝手でも、卑怯でも、残忍でも、たとえ汚くても、誰かから全否定されてもいいじゃないか」
 その十字架を下ろしてくれ。せめて無理ならば私にも背負わせてほしい。そう哀しみを持って伝えたくなるのだった。
 
 
 野中広務という政治家のことを私はほとんど知らない。
 彼が官房長官や幹事長をしていた時代、影の総理と呼ばれていたころ、私は政治に対して深い興味を抱いていなかった。
 ただ、テレビで時々目にする彼の顔が、印象に残って、忘れがたかった。
 あの人の顔は泣いていた。笑っていても、怒っていても、いつでも泣いているような顔に見えたのだ。
 私はその顔が好きだった。しかし政治は遠い世界だ。好きというよりは、ただ漠然と、こういう顔は嫌いじゃない、そう思って眺めていただけだったかもしれない。
 ところが先日のこと、ある政治関係の本を読んでいて、その中に「野中広務 差別と権力」という本の紹介があったのだ。著者が自分の好きな政治家だと書いていた。それで、ふと、何年ぶりかで野中氏の泣いている顔を思い出した。当時、彼の心を泣かせていたものは何だったのか。将来を憂う深い出来事があったのか。私は著者の他の紹介本と一緒に野中氏の本も購入することにした。
 たまたま偶然手にしただけの本だった。
 しかしその内容は衝撃的で、私は推理小説を読むかのようにむさぼり読んだ。読み進むうちに、今度ははっきりと、政治家野中広務を好きだと自覚するようになったのだ。
 
  野中広務氏は京都の被差別部落の出身だ。土地柄もせいあり、その差別は根深いものがあったという。
「ずいぶん険しい道を登ってきた」
 彼は自分の半生をそう振り返る。この国の歴史の中で、被差別部落出身ということを隠すことなく政治活動を行いながら、権力の中枢まで上り詰めたものは彼しかいない。前人未到の険しい道を切り開いて生きてきたのだろう。
 56代国家公安委員会委員長、48代自治大臣、37代沖縄開発庁長官、63代内閣官房長官と、数々の官職を重ねながら、国旗及び国家に関する法律、男女共同参画社会基本法などの法律を成立させ、沖縄復興策、部落解放運動、ハンセン病訴訟の和解、人権擁護の問題などに力を注いだ。権力を手にしながらも、一番弱い立場にある人々を切り捨てることはなかった。彼らの様々な要望をくみ取って、「痛みの中に身体のおける人」と賛辞されたこともある。
 現在鳩山政権によって進めれらている人権擁護法案は、そもそも野中氏が力を注いでいたものだ。部落解放基本法に代わって、部落差別の人権侵害を防ぐために、何よりも成立を願っていた。
 
 誤解のないように言っておくが、野中氏には頑なな理想や特定のイデオロギーは存在しなかった。その時の情勢に合わせて、いつでも政治家としての合理的な判断をして道を進んでいった。
 信念のない政治家と思う方もいるかもしれないが、私はこれは特異な才能だと思うのだ。自身の理想やイデオロギーにこだわるあまり進路をふさがれ、自ら身動きが出来なくなってしまう人は意外と多い。
 野中氏は情勢を見ては融通無礙変化して進んでいった。絶対に、負けるわけにはいかなかったのだ。
 彼は登り続けなければいけなかった。
 当時部落出身者は結婚も就職も限られていた。努力をしても、本人の努力だけではどうにもならない多くの問題を抱えていた。野中氏はその事実を根本から覆す必要があったのだ。
「人は生まれではなく、なした仕事によって評価される」
 そのことを証明するためにも、そして、切り開いた道筋に続く多くの被差別部落出身者のためにも。
 彼の唯一変わらぬ信念は、「自助努力」だと言う。差別を乗り越えるには他人に頼らず、自ら努力するしかない。
 だから組織や行政に頼って生きていこうとする部落民の姿勢と、差別問題を利権あさりや党拡張に利用しようとする組織の在り方を、何よりも憎んだ。
「そういう運動を続けている限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります」
 
 
 私は現在の政府が行っていることは、野中氏が憎んだことと何も変わらないと思う。
 また、彼らは特定のアジアの国々のことしか念頭になく、被差別部落出身者の方など向いてもいないだろう。
 だけどこの本を読み終わった時、私は不思議なことに、あれだけ反対していた人権擁護法案が成立されても、ふといいような思いがした。
「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなぁ」
 麻生前首相が放ったというこの言葉、そして小泉政権の誕生によって彼が失った居場所。彼の前に立ちはだかった、差別と「巨大で不吉な時代のうねり」。頂上近くまで上り詰めながら、自らの努力ではどうにもできない、例え一生懸命歩いても、吹き飛ばされないように踏ん張っても、どうにもならなかった怪物。
 私は今の時代がとても似ているように思えてならないのだった。たとえこのような形で願いが叶っても、本望ではないとしても。
 しかし、もしも、あの時彼の苦闘を全否定した怪物が現れて、数奇な運命を導くように、私たちをそこに連れて行くならば。
 彼の代わりに道を切り開いたとしたならばー
 
 
 私はこの人権擁護という問題をもっと考えてみたくなった。
 野中氏が憎んだような側面からではなく、彼が哀しみを持って願ったその側面から。
 もっと知りたいという欲求が湧いてくるのだ。
 
 
 
 
 

2009年10月17日

逆境をものにする。

 
 
 
 
 森が見たかった。
 一昨年、昨年と、私は秋になれば一番に紅葉を撮りたいと願ったものだ。
 ところが、「染まっていればなお嬉しいが、染まっていなくてもかまわない」、とのんびり構えている。
 熱意が消えたのかと訊かれればそうでもない。一時、モチベーションが保てなくて苦労をしたが、今は又写真を撮ることの楽しさと期待とが心に灯っている。
 野心が消えたのだ。
 私はこの現象を良いほうへと捉えた。
 
 
 

 
 
 
 のんびりと休日の休息を取り、昼近くなって、電車で一時間ほどの森へと出かけていった。
 土曜日恒例の写真撮影プチ旅行の舞台だ。目黒区と品川区の間にある、「林試の森」。外国産樹木や、絶滅危惧種など、珍しい樹木が立ち並ぶという。
 いつもは目的地に着くまでに多少のドラマがあるものだが(私は道に迷いやすい)、この日はあっけなく林試の森南門にたどり着く。
 なぜか頭から傑作を撮る気がさらさらなかった。自然を自然のまま撮ろうとか、その姿に迫ろうとか、欲も力みもない。深淵を目指す前に私にはするべきことがあったのかもしれない。
 始終念頭から離れず、気持ちを落ち着かせながら奥底で心掛けていたのは、この思いだった。
 
 「調和」
 
 
 
 
 
 
 
 
 人と自然の距離感、その両者のあるべき姿のようなもの。漠然と浮かんでくる観念。
 そしてその中での私の距離感。欲があったとしたら、私はその一部になりたかった。自分を消してしまえないものだろうか。
 自ら消えることが出来れば、もっと近しく掴めるような思いがした。
 三脚を抱えて、一人ふらふら歩いていても、誰も私に目を留めない。カメラの、レンズを向けても、警戒されない。
 もしも無になれれば―
 
 「調和」もしくは、「融合」
 
 私は人々にも森の美しい木々にも関心を示さず、ふらふらと歩いては淡々と写真を撮った。しかし、できる限り、丁寧に撮る。家に帰ってから、ずいぶんさっくりと撮ってきたものだ、と我ながら驚いたが、散歩を楽しんだとか、ちょっと休憩の思いで、とか、後付けの理由が出てこなかった。
 やはり自分を消して、職人に徹していた、というだけだったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それはずいぶん長い間の理想だった。が、このような状況や心理状態でたどり着くとは思わなかった。
 ここ二週間の私は仕事もプライベートも散々なのである。
 また、職人に徹するほどのテクニックも実力もまだついてはいない。
 それでも今思い返すと、今までとは格段と違っていたように思われる。人々の反応と、自分の心の乱れと、それらは本当に正直だ。
 
 南門から入って、芝生広場の大きなクスノキを撮って、外国産針葉樹が美しい東門へと向かい、北門、西門、と一周して帰ろう、と予定していたが、大きなクスノキの隣に立つウラジロガシを撮っていたら、突然バッテリーが切れた。驚いた。まだ撮り始めてから1時間と少ししか経っていなかった。
 充電してきたのだが、おかしい。多分長い間使い続けたバッテリーは、そろそろ消耗する時期だったのだろう。
 私はこれも、今日は早く引き上げて体を休めろ、というお告げなのだといいほうに捉えて、三脚を片づけ、わずかに残った電池で時々手持ち撮影をしながら、あとはのんびりと森の散歩を楽しんだ。
 チンタオトゲナシニセアカシア、三種類のスズカケノキ、シマサルスベリ、ゲッケイジュ。
 木の名前を読み上げながら、緑の中を歩いていく。
 
 
 
  

 

 
 

2009年10月14日

本当に「大丈夫」なんですか? どこが「大丈夫」なんですか?

 
 
 
 

児童手当の地方負担分は環境整備に充当も 厚労相

産経ニュース 2009.10.13 18:49
 
 
厚労省の政策会議の初会合であいさつする長妻厚労相=13日午前、参院議員会館厚労省の政策会議の初会合であいさつする長妻厚労相=13日午前、参院議員会館
 

 長妻昭厚生労働相は13日午後の記者会見で、子ども手当の必要財源を全額国費負担とした場合、宙に浮く形となる現行の児童手当地方自治体負担分について「子育ての周辺や中核の施設などの支援に使う手法を検討している」と、保育環境の整備などに充当する検討方針を明らかにした。現行制度では事業主が負担している拠出金も、保育環境整備へ充てたい考えだ。

 長妻氏はまた、年5・3兆円(平成22年度は半額)の子ども手当の財源について「厚労省の中では国費という議論だが、外部有識者からはいろいろな意見がある」と述べ、現行の児童手当制度のように地方自治体や事業主にも負担を求める可能性を示唆した。

 現行の児童手当制度では、給付総額(21年度予算で1兆160億円)のうち、国が約4分の1(2690億円)、都道府県と市町村が5割強(5680億円)を折半、事業主が2割弱(1790億円)を、それぞれ拠出している。

 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 帰宅してニュース記事に目を通していたら、上を見つけた。
 あまりに驚いて、開いた口がふさがらなかった。
 こんな詐欺のような話があるだろうか。鳩山政権を信じると決めたばかりだが、しかし、いかにせんこれは酷い。また、昨日あげた私の鳩山政権への希望(2、日本経済を上向きに!)に大きく関係があると思われるので、申し訳ないが書かせていただく。
 
 子ども手当をこともあろうか、地方自治体や事業主に負担させると言いだした。児童手当に倣って、とのことらしいが、子ども手当は既存の手当(所得税の控除)をすべて廃止してでも、やる価値のある、素晴らしい、独自の政策だという触込みだったのではなかったか。
 政権獲得前、民主党は子ども手当を筆頭にして、大盤振る舞いの「バラマキ政策」を掲げた。不信感、及び不安感を抱いた良識ある市民が、「財源は大丈夫なのか」と訴えても、「大丈夫」と言い続けていたわけだ。
 本性を見たりという思いだ。大丈夫とはこういうことだったのか。
 初めから無理だと承知していて、政府の財源で賄うつもりなどさらさらなかったのか、それとも苦し紛れに言いだしたものなのか。
 どちらにしても、何といういい加減な政党だろう。
 もちろん「大丈夫」の前には、「ムダを省けば」という言葉が付いていた。ムダとは官僚と一部の政治家(=自民党時代の政府)が今まで散々私有化していた国民のお金を、国民自身に取り戻す、というような話だったと記憶している。あれはどうなったのだろうか。今だ、新政権は独立行政法人への天下りを基本的に禁止すると方針を示したのみ、(「例外」も十分にあり得そうな話である)特別会計、公益法人などには言及がなく、何も、行政のムダを省くという努力をしていないように映る。
 そして、努力する以前に、すでに赤字国債を増刷する方針を発表しているのだ。
 消費税についてもそうだ。4年は上げないと言っていたが、「税制全体の中で扱いを考える」を言い出した。消費税、という形ではなくても、他の形でその税収分の財源確保を考えているということだろう。
 つまり、今のままでも、民主党が政権を獲る前に約束した政策は、すべて私たちのお金で賄うつもりなのだと言っても過言ではない。何らムダは省かれておらず、前自民党政権の時と同じ税収(財源)を使い、さらに赤字国債まで発行するありさまだ。
 ここまで政権獲得前と後で、発言をころころと変える政権も珍しい。
 しかも、何の改革もなく財源は以前のまま(法人と国民頼り)だというのに、こともあろうか、政策の目玉中の目玉であった「子ども手当」の財源までも地方自治体と事業主に負担させようというのだ。
 何で民主党が勝手に考えた政策、しかもその政策のおかげで国民から政権を任されたという最重要の政策、その財源を地方と企業が負担しなければいけないのだ。
 ただでさえ、地方は公共事業の削減、補正予算の執行停止で今大打撃の真っ最中だ。企業も同様、これから25%温室効果ガス削減という途方もない目標を達成しなければならない。どちらも苦難の時代が到来することだろう。失業者が増え、消費が落ち込むと予想されるというのに、子供手当の財源まで負担させるとなると、第二の「夕張市」のような町が出ても決しておかしくはないだろう。
 国民の税金を、国民の手に取り戻します、と言っていた、あれはどうなったのだ。
 地方の経済は国民の生活に直結していると思うが、違っただろうか。
 そして、極めつけにおかしいのがこのニュースだ。
 雇用情勢の悪化を受け、失業者が増えると見込まれているので、政府が雇用保険の国庫負担割合を増やすと言う。
 もう経済回復しないってあきらめているようなものだ。今後さらに失業者が増える事態をちゃっかり見込んでいる。
 ならば、なぜ公共事業を切り詰めるのだろう。失業保険の金を出すくらいなら、地方に金を落としたほうが良かったではないか。そのほうが雇用が確保できたはずだ。または、法人税、所得税等の大幅減税したほうがいい。そのほうが消費が増し、市場が活気を帯び、経済が上向くだろうに。政府が必要な支出を惜しむから、余計なお金を出す羽目になるのだ。
 マニフェストの第一項目を今一度よく読んでいただきたい。
 1.『国民の税金を、国民の手に取り戻します』
 国民生活にとって必要なものは何か?必要なものは増やし、そうでないものは削る。明快な基準で全てを組み替えた予算が、あなたの暮らしを良くします。
 
 もう嘘はこりごりだ。国民生活に必要な政策を即座に実行していただきたい。
 
 
 以上、よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
  

2009年10月12日

世界を友愛の海で満たしましょう。【鳩山内閣に6つのお願い】

 
 
 
 
 毎日毎日、いろいろな目新しい(腹立たしい)ニュースを提供してくれる鳩山政権である。
 いちいち反応しているときりがないということに気がついた。そろそろ歳だ、そう血圧を上げてばかりでは健康に悪い。
 そこで、考えた。
 いったん、すべてを棚に上げてしまおう。鳩山政権のすることを全面的に信用することにする。
 彼らは私たち国民のために全力を尽くして戦ってくれているのだ、という大前提を設けて、無条件でそれを受け入れる。たとえ腹立たしい(と私が感じられるような)ニュースが報道されたとしても、人気のブロガーがそれらを巧みに記事にしていっそう感情が高ぶったとしても、この大前提を信じ続けるのだ。
 これでまず、いちいち相手(鳩山政権およびマスコミ)の行動によって、過剰に反応し、無駄な労力を使い、疲労困憊することもなくなるだろう。
 そのうえで、こちらが絶対に譲らない、これだけは許さないという最低ラインを設けることにする。
 私が鳩山政権に望むこと、希望を洗い出し、その希望が損なわれる政策を彼らが進めた場合(もう進めいているのだが)の我慢の限界を決めておく。
 「最悪これさえしなきゃ、OK」あるいは、「最低限これだけしてくれればOK」というような指針だ。
 私ごときからそんな指針を押し付けれても困るだろうが、どうせ政府関係者が読むわけでもない。私の個人的な、鳩山政権に対する信用度のバロメーターとさせていただきたい。もしも、最低ラインを越えたら、大前提が崩れる、というわけだ。その時は、たとえ健康を損ねても、躍起になって声を上げることにしよう。もちろんそのころにはもっともっと政治の勉強に励み、的確に、即座に、問題点に切り込めるよう最強になっていることだろう。得意な自己再生能力を疾駆して、撃沈しても撃沈してもしぶとく書き続けるのだ。それまでは、私が決めた指針のボーダーラインのどこまで近づいたか、またはどこまで離れたか、その点だけを見守らせていただこうと思う。
 ・・・とここまで書いて、鳩山政権のこと、すぐに、明日にでも、超えてしまいそうで怖くなった。
 どうか市民の信頼を裏切らず、良質な政策の実現に励んでいただきたい。
 
 
 
 鳩山政権に求める6つのこと。
 
 1、靖国神社を守ること。
 
 人権擁護法案、外国人の地方参政権、戸籍法の廃止、もう何でも良しとしよう。反日プロパガンダが喜びそうな法案をさっくり通そうが、たとえ日本が中国化しようが韓国化しようがもう地球規模の「友愛精神」に基づいてぜ~んぶ「それこそがこれからの日本の生き方だ!」と開き直ることにしよう。
 だが、靖国神社代替施設だけは絶対に許せない。
 英霊たちは日本の郷土(クニ)のために、未来の私たちのために死んでいった。自らの命をもって、尊い平和の礎を築いたのだ。
 「靖国で会おう」と言いあって別れ別れになった彼ら。
 「お父さんに会いたくなったら九段にいらっしゃい」と家族に言い残して、玉砕していった彼ら。
 その彼らよりも他国への友愛が大事とし、「韓日併合100年となる来年に備えたメッセージ」などという政治的な理由から実現させてしまった暁には、その時点で私の友愛精神は吹き飛んで、鳩山政権のすべての政策を信用できなくなるだろう。
 
 
 2、日本経済を(衆議院議員の任期である)4年以上に上向きにすること。
 
 これはたやすすぎるだろうか。しかし、公共事業の見直しと予算の削減で、地方経済は大打撃だ。おまけに温室ガス排出量25%削減では、企業や国民の負担が増える。どう考えても失業者はさらに増え、国内の消費が落ち込むとしか思えない。また、モラトリアム法案では中小企業の貸し渋り倒産が増えそうだ。金融機関の不良債権も増え、信用、株価ともに下がりそうである。大規模な不況の波がやってきそうな予感はあっても、上向きになるという想像はしがたい。
 そこを、大前提に基づいて、全部信じることにする。きっと鳩山政権には奥の手と言えるような、特異な政策が残されているのだろう。
 日本経済が少しでも上向き、大恐慌にさえ陥らなかったら、何をしてもいいとする。
 
 
 3、「東アジア共同体(構想)」は中国に任せず、日本がリーダーシップを取ること。
 
 2の特異な政策はここから生まれてくるのではないか(温室ガス国際排出量取引とかも含め)、と思うしかない。マニフェストには「通商、金融、エネルギー、環境、災害救援、感染症対策等の分野において、アジア、太平洋地域の域内協力体制を確立する」と記載がある。それに続いて、「アジア、太平洋諸国をはじめとして、世界の国々との投資・労働や知的財産など広い分野を含む経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の締結を積極的に推進する」とある。
 FTAは大打撃(特に農産業)だが、もしも東アジアの協力体制がなければ未来はない(発展はない)とするならば、せめて、出来得る限り中国の覇権構想に割り込んで、東アジアのまとめ役を日本が担うよう努めていただきたい。
 もちろん、中国に変わって東アジアを支配しろ、などと言っているわけではない。日本は他国を支配する器量などない。そこまでの大国でもないだろう。
 が、かつて中国、満州、朝鮮で共産主義(中国共産党&ロシア)と対決したように、白人対有色人種の代理戦争を全うし有色人種に勇気を与えたように、中国には真似のできない度胸と博愛(もとい、友愛)精神を持っていると思われるからである。中国を立てて、また、日本人の道徳心を十分生かして、東アジアを一つにまとめ、国際社会の調停役として活躍していたただければさらに言うことはない。
 最低限、東アジア共同体は日本が指揮を取ること。 
 
 
 4、米国からの年次改革要望書を(日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書)を拒否すること。
 
 自民党政権時代の最大の悪徳(と私が思っている)、年次改革要望書に書かれている米国からの果てしない要望をやんわりと跳ね付けること。
 アメリカ型の社会システムになるには限界がある。これ以上アメリカにとって都合のいい国家体制に改造されるのは、不愉快以前に無理なのだ、と相手に悟らせていただきたい。日米関係に支障をきたさず、これが出来るのは「友愛」という一言でごまかしながら、能天気外交を推し進める鳩山首相しかいないだろう。偽装献金問題で捕まる前に、ぜひともよろしくお願いしたい。
 
 
 5、河野談話、村山談話は継承するにとどめること。
 
 言っておくが、従軍慰安婦の日本軍による強制連行も、南京大虐殺も、一切証拠がない。歴史学的にこれは証明されていることだ。
 特に従軍慰安婦問題については、当事者の韓国政府から「補償は一切求めないから強制連行だけは認めてくれ」と打診もされている。それを韓国政府さえ、補償はいらん、と言っているのに、補償を与えようとしたり、ありもしない大虐殺を認めたり、この辺は本屋で普通に売っている書籍を資料としても、私ごときでも簡単にわかる事実だとうのに、それを日本政府が戦後60年経っても自ら訴え続けているのは不思議である。
 また、日本は戦争犯罪国家だと信じ込み、自国を裁き続けているのもどうかと思う。日本は広島と長崎に原爆を落とされ、東京裁判で裁かれ、もう十分に罰と裁きを受けているのだ。
 しかし、これは大前提を信じてよしとしよう。鳩山政権には日中韓の関係を良好にしたい、という構想があるのだろう。
 ただし、河野談話、村山談話の継承で終わりにしていただきたい。
 新たに謝罪をしたり、ありもしない罪状をでっちあげたり、補償をしたりはどうか勘弁していただきたい。
 あまりにお人よしすぎて泣けてきそうである。
 
 
 6、憲法を改正すること。
 
 憲法9条を改正する。
 マニフェストにはこうある。「日本外交の基盤として、緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす」
 米国と役割を分担しながら、と言うところがうまい逃げ道と言えなくもないが、全体的には9条の改正に意欲があるとみていいのではないか。対等な日米関係も、主体的な外交戦略も、戦争を放棄し、軍隊を持たないようでは難しいではないか。
 人権擁護、人権擁護、と騒いでいる鳩山内閣は反戦よりも人権(擁護)を重んじているようだ。ならばこの際、各国の人権と東アジアの人権を守るために、米国と協力し、国際警察の一員としての役割も担っていただいてはどうだろうか。狭い国内で満足するには惜しい熱の入れようだ、ぜひとも最大限利用していただきたい。
 そして、マニフェストにある通り、「世界の平和と繁栄を実現」し、世界を「友愛」の海で満たしていただきたい。
 最低限、憲法9条改正、そろそろ自国は自国で守りましょう。
 
 
 以上、よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
  
 

2009年10月9日

終わりなきモグラたたき。 ~モグラは地中の闇へ帰れ~

 
 
 
 
 
『「東アジア共同体」構想に米を加えず 岡田外相』 
 
  
 
 
 岡田克也外相は7日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で講演し、鳩山政権が村山談話(平成7年)について「(アジアに)まだ納得できない人が一定範囲でいることは事実だ。それ以上に言葉よりも行動だ」と述べ、より踏み込んでいく考えを示した。日中韓の歴史教科書問題では「将来の理想は(日中韓)共通の教科書を作ることだ」と述べ、現行の教科書検定制度に疑問を投げかけた。日韓首脳会談(9日)、日中韓首脳会談(10日)を目前に岡田氏の発言は波紋を呼びそうだ。
 また、岡田氏は、鳩山由紀夫首相が提唱する「東アジア共同体」構想について「日本、中国、韓国、東南アジア諸国連合(ASEAN)、インド、オーストラリア、ニュージーランドの範囲で(構成を)考えたい」と述べ、米国は正式な加盟国としない形で創設を目指す考えを表明した。
 岡田氏は10日に予定される日中韓首脳会談で東アジア共同体について意見交換する考えを表明。「まず経済から始めエネルギー、環境、保健衛生などに協力分野を拡大していきたい」と述べ、域内の通貨統合は「かなり先の話になる」との見通しを示した。
 歴史認識については「過去に行った戦争で被害を受けた人たちの気持ちは簡単に解決できるものではない」と述べ、村山談話の踏襲だけでは不十分だとの認識を表明。「過去の政権では村山談話があるにもかかわらず、これに反する閣僚などの発言があり、『悪かったと思っているのか』と疑問を抱かせた。そういうことがないようにしていきたい」と述べた。
 教科書検定については「日本の教科書は基本的に制作者が自由に作ることができる。どこまで国が関与できるかという問題がある」と検定制度への国の介入に疑問を投げかけ、「将来的には理想的な形としては(日中韓の)共通教科書を作ることだが、そこにいくのはだいぶん先だ。その第一歩として歴史の共同研究を行っているのは重要なことだ」と述べた。
 一方、アフガニスタン支援について「兵を出すことばかりが支援だとは思っていない」と述べ、自衛隊派遣に慎重な姿勢を示した。
産経ニュース 2009.10.7 20:38 太字筆者
 
 
 
 
 
 終わりのない「モグラたたき」をやっている気分だ。
 私の好きなこの地に突然モグラが顔を出した。私はハンマーを振り上げて、叩き潰す。
 これでもか!と、同情の余地もなく、ぶっ叩くのだ。
 モグラは無事土の中へ。ほっと一息つき間もなく、またすぐ隣の穴からモグラが顔を出す。急いでハンマーを振り上げる。
 これでもか! これでもか!
 モグラはモグラでしかない。どんなに上手に欺いても、お前はヒーローではないのだと。
 証明するまで叩いてやるぞ、と、息を切らし、いくら頑張って叩いても、すぐまた斜め隣の穴からモグラ、そのまた斜め隣の穴からモグラ、後ろからモグラ、うじゃうじゃうじゃうじゃ、叩くより早く繁殖し、地を覆い尽くしていく。
 私ひとりじゃ無理だ! 誰か、モグラを、頼む!!
 
 何の話かと言えば、この一つ前の記事を書き終わって、ふっと一息ついたら、とたん上のニュース見てしまったのだ。
 私は目の前が真っ暗になった。
 すでにこの地はモグラで覆い尽くされているのかもしれない。私ひとりがそのことに気付かず、必死になって、モグラ叩きをしていたのだ。
 脱力感。不撓不屈の精神も尽き果てた。
 そうだ、すでにここは日本じゃないのだ・・・
 
 
 弱気になるのもうなずけないだろうか。
 村山談話では足りない。「悪かったと思っているのか」
  →お前はいったいどこの国の外務大臣だ!
 
 日本の教科書を、中国、韓国と共通のものにする。
  →社会主義国家や共和制国家と共通の歴史認識が出来るのか!しかも相手は生粋の反日国家じゃないか!でっち上げ反日歴史で子どもから洗脳するつもりか!
 
 東アジア共同体構想をアメリカ抜きで創設。
  →東アジア共同体構想はそもそも中国の覇権構想じゃないか!何で日本がやるんじゃ!中国の子分になってアメリカと戦争でもするつもりか!
 
 
 
 岡田外相が言うことは、すべて中国側の言い分にしか聞こえません。
 もう一度言いますが、ここは本当に日本ですか?
 中国、及び韓国側の言い分は中国と韓国が言えばいいことで、なぜ日本の大臣がそれを言うか、私にはさっぱり理解できません。
 日本を守る気、あなた無いですよね?
 
 私のモグラ叩きはまだまだ始まったばかり。
 とんでもない経済政策から妙な法案から何から何まで問題だらけで、突っ込み(叩き)どころ満載の鳩山内閣ですが、早くも疲れ果てた気分です。
 東アジア共同体構想の「まずは経済(協力)からはじめて・・・」ってあたりも妙にげっそりします。
 どうかこれ以上日本経済をひっかきまわさないでほしい・・
 
 
 一日休んで、英気を養ったら、またぼちぼちと、一つずつ書いていこうと思います。
 不撓不屈!! 
 
 
 
 
 

2009年10月7日

桜花を胸に。

 
 
 
 
 一昨日の夜のことだ、「NEWS ZERO」を見ていたら、キャスターが「選択的夫婦別姓」について話していた。
 円グラフによると、賛成派と反対派はちょうど半分くらいらしい。それを示したうえで、夫婦別姓(もしくは選択的夫婦別姓)は今日では多くの国が取り入れていると説明し、現状の「夫婦同氏原則」に縛られるよりも、むしろオプションが増えていいことなのではないか、と言葉を結んだ。
「それでも、反対するというならば、どうして同姓のほうがいいのか、そこをきちんと説明して頂きたいですよね~」
 と別のキャスターが訴える。
 私はこの見る者を選択的夫婦別姓賛成へと導くかのような報道にずいぶんと違和感を感じさせられた。そして、「そうか、証明責任があるのはこちら側なのだな」ととっさに理解した。もはや賛成派は証明する必要性がない。鳩山内閣は数の論理であっさりと法案を通してしまうだろう。1996年以来、野党勢が何度試みても国会提出を見送られ、反対派と賛成派の論争の絶えなかった問題ある法案だろうが、民主党が政権を獲る前にあえてマニフェストに一言も書かなかった、事前に国民の了承を得ていない法案だとしてもだ。
 
 
 なぜ、夫婦同姓がいいのか、夫婦別姓ではだめなのか。
 微力ながら立証責任を負わされたものとして考えてみた。
 問題はこの法案だけにとどまらず、様々な問題が絡み合っている。
 女性の差別問題(男女平等に反する)や、事実婚の増加、結婚率の低下という晩婚化や少子化の問題、離婚時に戸籍手続き及び戸籍謄本自体が複雑になるという戸籍制度の問題も加わって、賛成派は皆様々な問題点からの主張があるようだ。私がいくら証明したくても、彼ら全員を納得させることなどできないだろう。
 ただ、思うのは、その様々な問題が複雑に絡み合っていることこそが問題なのだということ。もちろん私たち国民の問題と政府とでは解決を図ろうとする問題が微妙に違う。木を見て森を見ずとなりがちな国民に対して、葉を隠すなら森の中とばかりに法案を進めているのが鳩山政権、強いては千葉景子法務相だ。
 同時に進めている法案を見てみよう。「靖国神社代替施設」、「国家国旗の廃案」、「外国人参政権」、「人権擁護法案」、「二重、三重戸籍」、「戸籍制度廃止」、「夫婦別姓(選択制別姓)」、「1000万移民推進」、「地方主権」、「女性差別撤廃条約議定書」、「拉致容認後の北朝鮮国交と賠償」、「領土の放棄」、「東アジア共同体構想」。
 選択的夫婦別姓はこのうちの一つでしかない。
 夫婦別姓に賛成している方々は、家族制度の破壊とか、夫婦の絆が薄れるとか、それら反対派の意見を一蹴してあざ笑う前に、これら一連の法改正、法案の成立、または制度導入が誰に望まれて、誰か仕組んでいるものか、そこをよく考えてみていただきたい。鳩山政権になって、国は大きく変わろうとしている。前政権に不満があったのだから変わるのは当然だとしても、なぜ夫婦別姓なのか、なぜ今そこを変えるのかとは疑問に思わないだろうか。民主党が政権を獲ってまだ一か月余りである。国民の生活第一と言っていた彼らが、マニフェストに何の記載のない法案を、なぜ今急いで進めているのか。その疑問を踏まえて、反対派の意見をもう一度読み直すと、前とは違って感じられるはずだ。説得力が増してこそ、笑うことなどできない。家族制度の崩壊、夫婦の絆が薄れる、という彼らの不安感、切実な思いがもしも届かないなら、あなたも「望んでいて、仕組んでいる側」の一人に違いないのだ。
 家族は社会生活の基本的な構成単位である。日本の社会のすべての秩序はここから生まれる。
 それをみすみす崩壊させたいと願うのは、差別を訴える日本の女性だろうか。
 千葉景子法相は女性の人権擁護を願っているのか。同じ女性としてそれは擁護どころかえん罪だと言わざるを得ない。
 
 名もなき詩という歌が確かあった。他にも名もなき花、とか、名もなき戦士とか、良く使われると思う。これらの意味は名もなきものが「無名(世間に知られていない・広辞苑)」だということ、「人々があまり関心を示さぬもの(=とるに足らぬもの)」という意味ではなかったか。
 私たちは国民、主に女性が今当たり前に氏名を持っていることの歴史をおさらいしてみよう。(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋)
 
 ■江戸時代:士分以下の身分の者は氏の使用不許可。
 ■明治3年:平民にも氏の使用が許可される。
 ■明治5年:戸籍法の制定 世帯を単位とする住所や身分登録が行われる。
 ■明治8年:氏の使用が義務化 税金を余計に取られるのではないかとおそれた平民に義務化。
 ■明治9年:夫婦別氏の制定 婚姻後の妻の氏は実家の氏とし、夫婦別氏を定めた。氏を持たない庶民は妻が夫の名字を称した。
 ■明治31年:民法成立、夫婦同氏の制定 夫婦が家を同じくすれば氏を同じくすることとされた。
 ■昭和22年:改正民法成立 明治の家制度が廃止。夫婦の氏は夫または妻のもの、いずれかを選べるようになったが夫婦同氏の原則は残った。
 ■昭和23年:改正戸籍法施行 戸籍は戸主と家族を記載する家の登録から、個人の登録へと変わった。
 
 平民に氏がない→氏がもらえた→平民は夫婦別氏(それより下の未だ氏のない庶民は妻も夫の名字を名乗る)→女性は男性の家に入り、夫婦同氏になる→家制度廃止、夫婦同氏(結婚時どちらの氏としてもいい)と変化している。平民に氏が与えられるようになったのは明治時代の話で、夫婦が同氏を名乗るようになったのも割と最近のことなのだ。
 このことから夫婦別氏こそが日本古来の伝統であり、夫婦同姓はキリスト教かぶれの底の浅い制度だする意見もある。しかし身分の低いものに氏がなかったという歴史的事実から見ても、平民、強いては女性にとって、夫と同じ氏を名乗ることが出来るようになったというのは、権利の獲得でしかなかったはずだ。
 女性は男性の氏(家)から排除されていた。子供を産む道具としての個(=社会が関心を示さぬ、とるに足らぬ存在としての女)が、氏(家)を与えられ、男(夫)と同じ立場になれる同氏を許されたのだ。どう考えても権利だとしか思えないのだが、これは伝統を裏切ったことになるのだろうか。
 伝統の定義は「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術、それらの中心をなす精神的在り方(広辞苑)」のことを言う。歴史を通じて日本国は日本国民に氏を浸透させた。なぜ近代国家以前の歴史にまでさかのぼることが本来の伝統とされるのか、意味がわからないのだった。
 また、キリスト教かぶれ云々はそれこそ古来からの日本人の精神を見くびっているとしか思えない。日本人は個を捨てることこそが高い精神性とされ、そのことを常に追求してきた民族なのだ。自分のことよりも他人や家や国を思う。自我を捨てる。魂を向上させる。その高みに行きつくために精神修行を惜しまないという誇り高い民族なのだ。キリスト教が似ているのは、それが人間としての最高到達点であるからで、キリスト教かぶれ=キリスト教国家のサル真似とはほど遠い。
 この日本古来の精神修行を、家や国という権力に洗脳されて、個を埋没された可哀そうな民族だなどという自由主義者がいるが、それもはなはだ迷惑な話である。個人の生活が豊かになり、個人としての生を享受していれば素晴らしい人生だ、と彼らは勘違いをしているのだ。日本を自立した近代国家として認められないのは個が損なわれているからだ、などと良く言えたものである。それならなぜキリストは十字架にかけれたのか(それを自ら受け入れた)のか、キリスト教を宗教とするの他国の彼らにぜひとも聞いてみたいものだ。
 話が逸れたが、なぜ夫婦で別の姓を名乗れるようになることが女性の差別をなくし、男女同権の確立となる、などという話になるのだろう。長い歴史の間得られず、近代になってやっと手にした権利を自らみすみす手放して、いったい何のオプションだというのだろうか。
 試しに、夫婦別姓を取り入れている韓国、北朝鮮、中国の女性を見てみるといい。
 彼女たちは嫁いだ後も一族の者として認めらていなかった。何事もその責任は実家にあるとされ、子供は父親の姓を名乗るというのに、一家の中で妻だけが別姓とされたのだ。これは儒教の教えから来るもので、儒教国家では日本のような名字(氏)はなく、男系の姓の伝承が基本思想とされている。(現在は中国は男女同権が進んでいるが、韓国と北朝鮮はいまだ女性が同姓を名乗る権利は与えられていない)
 儒教国家の姓と日本古来の氏とは全く別物だ。しかも別姓は女性の権利や解放とは全く関係がない。なぜ、倣わなくてはならないのか。それこそ儒教かぶれのサル真似ではないか。
 次に選択的夫婦別姓の国々を見てみよう。ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、スペイン、スウェーデン、イスラエル、オランダ、ハンガリー、米国の一部、ポーランド、南アフリカ、チリ、パナマ、フィリピン等。
 ドイツは原則として夫婦同姓、例外として別姓を認めている。フランスは妻が夫の姓を名乗るという習慣法を前提とし、別姓や結合性を認めている。イタリアは妻が夫の姓を結合する。(子は父親の姓を名乗る)イギリスは夫婦同姓、別姓、どちらも選択可能だが、同姓にする夫婦が多い。スペインは夫婦別姓が基本である。子は夫婦の結合姓になる。
 一番現在の法務省案と似ているのがスウェーデンだそうだ。日本政策研究センターから抜粋した文章を紹介したい。
 
『スウェーデンの現行「氏名法」によれば、同姓・別姓の選択はまったく自由であり、さらに結婚した男女双方が相手の氏を中間氏とすることも自由に選択できる。そこに原則・例外の別はない。その意味では、基本的考え方は法務省の「選択的別姓」制に最も近いと言える。
 ならば、世界各国が採用しているなどと言わずに、スウェーデンと基本的に同じ考え方の制度を日本も採用するのだと言ってもいいはずなのだが、しかし、不思議なことに別姓推進派はスウェーデンについてほとんど触れようとしない。
 こうした「スウェーデン隠し」とさえ言える現状は、別姓導入に都合の悪い事情があるからに他ならない。例えば、スウェーデンの離婚率は五〇%(対婚姻件数比)を超え、平均的な婚姻年数はわずか十年と短い。また、事実婚を含めた同棲カップルが非常に多いことも特徴的で、二十歳から二十四歳のカップルに限れば、同棲が六一%を占め、既に結婚は多数派ではなくなっている。その結果、毎年生まれる新生児の約半数が非嫡出子であり、その非嫡出子の九五%は同棲カップルから生まれている』
 
 思うに、選択的夫婦別姓自体が問題なのは、個に与えられた自由が混沌をもたらからだ。離婚に対する抑止力は失なわれ、合わせて戸籍制度の廃止も加われば、人々は安易に結婚と離婚を繰り返すことになるだろう。父親と母親と別れて暮らさなければならない子供が増えるということだ。
 逆に、たとえ選択的夫婦別姓と戸籍制度の廃止が結婚に対する抑止力を失わせる(結婚する人々が増える)からといい面を主張したとしても、結婚しても離婚しても名前も変わらず、戸籍も汚れない(後妻や前妻が同じ戸籍になったり等の不可解な戸籍謄本がなくなる)となれば、やはり誰でも「離婚を恐れる」ことはなくなるだろう。本気の恋愛(浮気)に対する抑止力も失われる。妻の名を同姓にして社会的に認めさせるということは、離婚して別姓になる時も社会的にその事実を(理由を含めて)認めさせなければならないわけで、不倫(浮気)などによる離婚は男性にとって道徳的な罪や社会的な制裁となりえたと思う。しかし、女性自ら権利を手放したとなれば泣き寝入りだ。別の女性に子供を産ませて、のうのうと妻を捨てる男が出てきても不思議ではない。
 その頃には民主党は用意周到に、嫡出子と非嫡出子の財産相続を同じにする、という法案を人権擁護の観点から進めていることだろう。(婚外子差別の撤廃、再婚禁止期間の短縮など、その動きはもはや進んでいる)もちろん非嫡出子の母親が日本人だとは限らない。
 
 
 私は問いたい。
 選択の自由はそんなに大事だろうか。その豊かな個人の自由と引き換えに失われるものはいったい何なのか。もう十分失われてきたのにまだ足りないのか。
 繰り返すが日本人ほど精神修行を惜しまない民族はいなかった。誇り高く、極めて精神性の高い民族だったはずだ。
 個を豊かにすることが素晴らしい人生だ、などという幻想はもう捨てるべきではないのか。(そう主張してきた国を見てみるがいい) 
 選択的夫婦別姓は私たちの生活を便利にはしても、私たちの道徳性や精神性を豊かにするものでは決してない。新政府は幻想を利用しているに過ぎない。見せかけの自由と引き換えに彼らが私たちに与えようとしているものは、私たち自身の権利でも何でもない。これは単に鳩山内閣=千葉景子法相が同時に推し進めている数々の胡散臭い法案のうちの一つでしかなく、日本人の系統(家系と血統)の混濁を招き、伝統や歴史認識の異なるものに多くの扉を開くものだ。
 社会生活の基本的な構成単位からの秩序崩壊であり、日本国と日本民族の滅亡に繋がるものである。
 
『私たちの愛する桜花は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。自然のなすがままいつでもその生命を捨てる覚悟がある。その色は決して派手さを誇らず、あその淡い匂いは人を飽きさせない。(中略)ならば、これほど美しく、かつはかなく、風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬、香りを放ち、永久に去っていくこの花が「大和魂」の典型なのか。日本人の魂はこのようにもろく、滅びやすいものなのだろうか』
『あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹き散らされた後でも、その香りで人類を祝福し、人生を豊かにしてくれるだろう。何世代かの後に、武士道の習慣や志が葬り去られ、その名前が忘れ去られたとしても、「路傍に立ちて彼方を眺むれば」、その香りは遠く離れた、どこか見えない山の彼方から、一陣の風によって運ばれてくることだろう』(新渡戸稲造・「武士道」より)
 
 日本人の魂は、今、桜の花のように吹き散らされている。まさか自然のなすがままに、自ら去っていこうと覚悟をしたわけではないだろう。
 いつしか名前を忘れ去られ、ただ、彼方を眺むるものだけに風に乗って運ばれてくる、そんな儚い記憶としての存在とならないことを願うばかりだ。
 
 
 
 
 
 ※最後に、東アジア共同体(中国では南亜共同体)はEUというわけにはいかないだろう。EUと違い、政治や経済の体制も違えば、統一された宗教もないこれらの国々と結束を深めることは、危険でこそあれ、日本のためになるとは到底思えない。
 秩序もなく、混沌とした渦の中に、我が国がのみこまれる可能性は極めて高い。
 
  
 
 

2009年10月5日

意志を受け継ぐ者たちへ

 
 
 
 
『中川昭一氏死去  政策通、保守の論客…惜しむ声続々』 (産経新聞 2009.10.4 15:28
 
 自民党の大物議員だった中川昭一元財務・金融担当相が死去した。政策通として名を馳せ、保守の論客の立場から積極的な発言を続けた姿勢は、政界に大きな足跡を残した。

 

 
 
  
 
 
 
 
 朝の10時頃だろうか、中川昭一元財務相(56)氏が死亡、というニュース速報を耳にした。
 正直驚いた。このあまりにもおかしな今の政権が幕を閉じ、無事、悪夢の終焉を迎えた暁には、ぜひともまた新たなリーダーのもとで日本再生に努めていただきたいと願っていたので、残念、というよりはむしろ悔しい思いがした。
 まるで裏切られたような気分だった。見捨てられて、ひとりで逝かれてしまわれたかのようだ。
 しかし、死因が特定されているわけではない。(その後、5日1時AM現在、遺族側は死因を急性心筋梗塞と説明しているそうだ)
 保守政治の大切さを訴え、国民と日本国を守る、と熱く語っていた中川氏が、志半ばで自ら命を絶つとは信じがたい。
 きっと彼のほうこそ悔しかったはずだ。私などの思いとは比べものにはならないほどに、さぞかし無念だったに違いない。
 求心力を失い、空中分解を起こしそうに見えた自民党の方々は、目が覚める思いだったのではないか。
 これをいいきっかけに、などと言っては不謹慎極まりないが、ぜひとも、中川氏の死を無駄にしないでいただきたい。
 一致団結し、彼の言葉、熱い思いを、党の意思としてしっかり受け継いでいただきたい。
 
 
 
 【中川昭一氏語録】 (中川昭一公式サイトより/太字筆者)
 
■『民主党の言動を見ていると、自民党とあまり変わりない様に見せて政治と政策は(極左も含めた)一部が支配し、その他大勢は政策にも全く関与できない駒にすぎず、恐ろしい北朝鮮労働党の様な政党に見えてならない。
 そもそも、この公約は一体どこの国の公約だろうか。民主党と知らずに読む人にこの公約はどこの国の政党だと思いますかと問うてみたい』2009年8月12日
 
 
■『「民主党の風」は「日本破滅の風」だ。絶対に阻止しなければならない。「希望と発展、魂もない国家」にしてならない。これでは日本は沈没する』2009年8月12日

 
■『民主党の政策では、国家・歴史・伝統・文化が崩壊させられるし、安保保障政策もない。財源無視で、国民にはバラマキ、国は旧社会主義系公務員労組が全て支配する。ローマ帝国やナチス・ドイツの様な「パンとサーカス」、「アメとムチ」、毛沢東中国のような「ムチと貧困」の国家になってしまう』2009年8月17日
 
■『本当に日本が危ない。そして、私の地元十勝は真っ先に無税米国産農産物流入によって崩壊する。いつまでも米国が日本に食料を保証するはずもない。(米国はじめ、各国でも水不足等により農業生産量が落ちている)
 あと2週間で結果が出る。成長か、崩壊か。私の為の戦いでも、党の為の戦いでもない。日本の存亡をかけた戦いだ。しかし、戦い抜くしかない』2009年8月17日
 
 
■『それでも負けた。活動してくれた人々、約9万人の支持を考えると誠にありがたい。かつ申し訳ない。悔しい』2009年9月14日
 
 
■『そう、自民党の原点は「保守」なのだ。そして今こそ原点に戻るべきなのだ。
 「保守」とは守るべきものを守り、保守すべきために改革する。そして国民の活力に期待して成長のための戦略を描く。リベラリズム、ポピュリズム政権とどう区別し、対抗していくか。しかし、前進―地球の中で生き残り、真に国民を守るために何をなすべきか。と言った議論が全く欠けている。
 私を含め、「保守」議員の多くがいなくなったが、まだ残っている。彼らがいかに保守の旗印をもう一度立て直し、日本を守り、真の意味で国民を守るかを真摯に議論してほしい。心ある国民はそれを是非応援してほしい。
 自民党は末期的だが、今こそ日本の保守の軸を改めて確立するために全力を尽くすべきだ。さもなければ、日本は世界の中で埋没しながら自壊してゆく』2009年9月14日
 
 
■『私は今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。「日本が危ない」から』2009年9月14日
 
 
 
 中川氏は民主党が政権を取ればどれだけ大変なことになるかよくわかっていた。
 ネガティブキャンペーンでは国民の心に届かないと知りながらも、この国の未来を思うと言わざるを得なかった。
 このままでは、日本が危ないのだ!
 だからこそ、今こそ原点に返り、唯一の保守政党として日本を守っていこうと訴えていたのだ。
 繰り返すが、自民党は中川氏の死をぜひとも無駄にしないでいただきたい。
 たとえどんな死因だろうが、死ぬべき人が死んだのではない、という事実をどうか忘れないでいただきたい。
 弔い合戦の思いで、政権を奪還し、日本を守っていただきたいと願うのだった。
 
 
  中川昭一氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
 
 
 
 
 
 

2009年10月4日

さらば、迷宮。恐れず森の道を行け。

 
 
 
 
 
 
 
 
 土曜日は写真を撮る日だと決めている。
 毎週毎週この一日を楽しみにして、仕事に励む。待ちに待った日が訪れれば、その時期一番旬な被写体を探しに行くのだ。
 もしくは、その時期一番撮りたいものだ。
 決戦の土曜日、カメラと三脚を担ぎ、リュックを背負って、勇んで撮りに出かけるのだった。
 
 今日撮りに行くものはもう決めていた。ふと先日、過去の写真を見直していて、私はやっと自分の核心を見つけたような思いがした。
 ずいぶんたくさんの情報や道理や、ずいぶんたくさんの人々の世界(写真観というべきもの?)に惑わされてきた。
 けれど、もういいのだ。地味でもつまらなくてもいいだろう。
 金曜の夜、私は安心してぐっすりと休んだ。十分な睡眠を取って、良く朝寝坊をして目覚めると、焦るでもなく、のんびりとご飯を食べて、そうしておもむろに出かけていく。
 レンズにはソフトフォーカスフィルターを付けた。カメラの設定はモノクロにした。三脚にリモートスイッチ、準備は万端だ。
 私はついに道を見つけたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 思えばずいぶん森の中で迷ったものだ。
 森と名のついた近所の公園は、自然に触れて癒されようと安易な気持ちでいた私をずいぶん驚かせたものだった。
 1時間や2時間電車に乗って山奥にきたわけではない。私の町のなかにあるものだ。踏み込んだとたん、本格的な自然の中に放り出され、私は別世界に迷い込んだような気分に陥った。ここは置き去りにされた森だ。今どき、訪れる家族も子供たちもそう多くはない。大型のショッピングセンターが出来て、休日の居場所となる場所は取って代わられた。若者は電車に乗って都会へと出かけていく。人目に触れることが少なくなり、人から手をかけられることもなおざりになった彼らは、自然のまま荒々しく立ち並び、徐々に本来の姿を取り戻していくかのようだった。
 正直、怖かった。私は足早に歩き、人に出会うとほっと息をついたりしたりしたものだ。
 今はそんな森のことを少しはわかったつもりでいる。無駄にびくびくすることもない。着くなり、すぐにカメラを三脚に固定して数枚撮り、そのまま三脚を担いで歩く。相変わらず親子連れも子供たちも少なかった。先ほどからちらほら降っていた雨のせいかもしれない。認識が変われば、人がいないのもなかなかいいものだ。忘れ去られた森の、その樹木たちを哀れに、愛しく思いながら、私は彼らを少しでも輝かせたくて熱心に撮り始める。
 浮浪者のような失業者のような、時間を持て余した中高年の男性が、さっきからずっとこちらを見ていた。私は顔を隠すようにして足早に通り過ぎる。
 女が一人で写真を撮っていたらそれは興味深いだろう。気持ちは分からなくはない。だけど、あまりにぶしつけすぎる。それにそこまで他人の行為に関心を持つのは少し異常だ。森林公園をのんびり散歩に来た人々ならば暗黙のルールのように相手の顔を良くは見ない。行きかうときは声をかけて、ただ横を通り過ぎていくだけだ。
 このあと私は何度もこの青いシャツの中高年男性に出会うのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ○○の小径に、森の○○、洒落た名前の付いた散歩道を歩いていく。
 太陽も出ていないのに、光がはっきりと見えるようになった。緑の中の美しい陰影を見つけると足を止めて、写真を撮る。
 木の名前を尋ねる木札が至る所にある。以前はちんぷんかんだったものだが、こちらもずいぶんと言いあてられるようになってきた。
 時々見かけない葉っぱや木肌を見つけると、また足を止める。葉が分裂葉か不分裂葉か、ふちに鋸葉(ぎょし)があるかないか、枝に付く付き方は対生か互生か、そんなことを確認するように見て、それから顔を上げる。背の高い木は空にどう伸びているかが興味深い。そうしてやはり写真に撮って記録する。
 奥深い森に感じられても、人に出会わなくても、怖いという感覚はなくなった。
 異世界だとももう思わない。私は自分に近しいものとしてこの場所の樹木を眺め、彼らを感じて、森の中を歩いていた。
 怖いのはもはや人間のほうだ。
 いつものお気に入りの場所で休憩をしようとすると、先ほどの青いシャツの男がいる。またこちらをしげしげと見続けるのだ。私は男の視界から外れるところまで下がって、木々を撮る。しばらく経って、見ると、男はまだ座っているので、仕方なく人の集まる売店の傍に行った。この前にもベンチがあり(煙草が吸えるようになっている)、あまり景色は良くはないが休憩できるポイントになっているので、こちらで一息つくことにした。携帯を取り出して、メールを見たり、サイトを見たり、しばらく森のことを忘れている。しばらく経ってふと顔を上げると、ななめ前のベンチに青いシャツの男が座っているではないか。私はギョッとした。急いで腰を上げて、さっきまで男が座っていたお気に入りのポイントまで走っていく。すでに誰もいなくなり、穏やかな私の場所となったそこで、私は落ち着きを取り戻した。あんな真ん前に座っていようとは思わなかった。目が合わなかっただけ幸いだった。身の毛もよだつ思いだ。私は必要以上にびくびくしすぎていたかもしれない。だけど、あまりに無防備なところに恐れていた男の姿を見てしまったのだ。
 人間のほうが森よりずっと怖い。以前とは対極の想いに、私は愕然とした。
 
 これはいい変化なのか、悪い変化なのか。
 男はただの暇を持て余した哀れな人でしかなく、たまたま私と何度も出会っただけかもしれない。
 それとももしくは、たまたまちょっと変わった人だというだけかもしれない。
 私の恐れようのほうが過剰すぎる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 せっかく見つけたように思った道をまた見失いそうな思いがした。
 人よりも森を近しく感じて、このまま進んで行ってもいいものだろうか。
 もう満足のいくまで森を撮った。もう十分だ。私は出入り口へと急ぐ。しきりに後ろを振り返る。あの男がまた現れないか、気にしていた。前から青い服の男が歩いてきた。私はそれが先ほどの男かどうか確かめもせず、目に入った瞬間に走って通り過ぎていく。穏やかな森の散歩はひとりの人間への恐怖心から台無しになった。
 自転車を止めた広場の手前にミズキの木があらわれて、枝を広げて、誇らしげに立っていた。
 あまりのその立派さ、美しさに呆然として、私は立ち止った。閉じた三脚を広げて、また熱心に写真を撮り始めるのだ。いくら撮っても撮りつくせない。もう十分だということはありえない。
 まだまだ道は先が遠い。だけど決して間違っているわけではないだろう。ただ自分が未熟なだけだった。たとえ今はそのことを恥じたとしても。
 この木のように空に枝を広げて、静かに佇んでいたいものだ。雨が降っても、風が吹いても、何があろうとも。
 何も恐れず、この美しさをいつか本物の絵にしたい。
 信じよう。
 もう森で迷うことはないのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2009年10月3日

救世主を探せ!

 
 
 
 
 
 2009年度補正予算見直しを検討していた農水省は1日、農地集積加速化事業(約3000億円)の執行をすべて停止することを決めた。民主党の衆院選マニフェスト(政権公約)で無駄遣いの事例として明記しており、「自公政権とは担い手に対する農地集積の進め方の考え方が違う。効果が疑わしい」(政府関係者)と判断した。同事業を活用して集落営農組織の法人化などに取り組んでいた生産現場からは、困惑や反発の声が上がりそうだ。総削減額は4000億円を超える見込み。

 同事業は基金を造成し、農地の貸し手に10アール1万5000円を最長5年間交付する仕組み。農地の面的集積の切り札として盛り込まれたが、民主党は6月下旬に開かれた予算見直しの公開討論会で「貸し手に助成することによる農地集積効果などが不明。借り手の農家支援を重視すべきだ」と、政権交代すれば廃止する方針を示していた。
 ・・・(詳しくは日本農業新聞紙面をご覧ください)
 
 
 
 また朝から新聞を落としそうになった。
 鳩山内閣、またまたやってくれました。
 
 ところで、農林水産省が09年度補正予算とした「農地集積加速化事業」と民主党がマニフェストに掲げた農家への「戸別所得補償制度」、前者が今回執行停止となったわけだが、この両者の違いをわかりやすく説明してみたい。多少とんちんかんかもしれないが、私的に考えるとこんな感じということで、ご了承いただきたい。
 
 まず高齢化が進んだ今の農家=私のおばあちゃん(とする)
 おばあちゃんの家=農地(とする)
 
 おばあちゃんはもう70を超えて、おじいちゃん亡きあとの家に一人で住んでいるわけだ。
 土地は坪数もけっこうあり、部屋数もそれなりにあるが、築50年以上のおんぼろに加え、子供もマイホームを買って郊外に住んでいる。ほとんど利用しきれていない。古くなった箇所の修理や、日々の掃除や戸じまりも大変なくらいである。
 昔からのご近所さんたちは家を手放して、子供のマンションに越していった。おばあちゃんちあたりの土地は最近都心への交通の便がいいと見直され、マンションの建設ラッシュが進んでいる。
 でもおばあちゃん、一緒に住もうよと言ってもなかなか同じない。
「わたしゃ~ね、おじいちゃんと一緒に住んだこの家にいたいのよ。ここはご先祖様の土地だしね、ここを守って死んでいきたいの」
 の一点張りである。
 しかし、前述の家の管理の苦労に加えて、年々土地の評価額が上がり、固定資産税等の支払いも大変になって来た。そこでおばあちゃんが言いだした。
「この家を増設して貸アパートにでもしようかしら」
 昔風の下宿を作りたいのだ、と夢を語りだした。安く貸せば周りのマンションにも対抗できるし、何より楽しそうしそうだ。若い人が一緒に住んでくれれば、いろいろと世話をしたい、と目を輝かす。私もおばあちゃんの下宿に住みたくなってきた。そこで母親に資金を提供してくれるように、おばあちゃんと一緒に頼んだわけだ。
「私だけじゃ銀行がお金貸してくれないからね~ 光彦さんに言ってちょうだいな。家賃の収益が出たら生活も楽になるし、借りたお金もちゃんと返すからね」
 とおばあちゃん。
 光彦さん(私の父)は、お義母さんがそうしたいなら、住人も安く部屋を借りられるて、人々や地域のためにもなるしいいんじゃない、と理解を示して、「じいちゃんの思い出の家を貸アパートに計画」は順調に進んでいた。
 ところが、伯父が待ったをかけたのだ。
「ねぇさん、光彦さんと一緒にそんな計画して、だいたいおかあさんはもう歳なんだから、若い人と一緒に住むなんて無理だよ。大変じゃないか」
 伯父は頑固に反対をして、増設するお金があるなら、おばあちゃんには月々兄弟でお金を出し合って、より(今まで以上の)支援をしたらどうかと言いだした。
「そうすれば、おやじの家も先祖の土地も守れるじゃないか」
 確かに、今どき下宿にしようとか、家を増設してアパートにするというのも、無理があるといえばあるのだった。
 伯父の提案で一気に光彦&母のテンションは下がり、「じゃあ、月々いくらあげようかねー」なんて相談を始める始末である。
 おばあちゃんはそれを聞いてがっくり。
「らら(私)や。おばあちゃんはね、お前や店子さんたちと一緒に住んで、この家を以前のように賑やかな家にしたかったよ。お金も入って多少は自由が出来ると思ったんだけどね」
 私もおばあちゃんのご飯に味噌汁、それからちょっと酸っぱいあのおしんこを毎日食べたかったよ。
 おばあちゃんは細々と、今までどおりにただ生きていくだけ、じき、家も朽ちて、一緒に亡くなってしまうのかと思うとやるせない思いである。
 周りにマンションが立ち並べば、地域社会からも置いてきぼりを食らうだろう。
 すでに、ご近所さんもほとんどいない、おばあちゃんが愛した商店街だって消えうせたのだった・・
 
 
 さて、そうわかりやすい説明ではなかったかもしれないが、ご勘弁願いたい。
 現在、民主党が勧めている農産物の自由貿易協定等をマンションの建設ラッシュと喩えると、日本の農家は競争力に乏しく、日本の農産業は衰退の一途をたどっていると思われてならない。
 しかも、戸別所得補償制度は「販売価格が生産コストを下回った場合にのみ支給」とある。
 たとえ農家が十分な生活ができる収入を得られなくても、生産コストを下回らない限りは補償の支給されないのだ。農地の広さに応じて加算措置があるらしいが、小規模農家はやはり関係がないのではないか。
 小規模農家をまとめて、他国の農産物に対抗できる強い(大規模な)農家を育てようというのが農林水産省の考えだったはずだ。それを全面停止として、どうやって日本の農業を育てようというのだろう。「主要穀物等で完全自給率を目指す」という公約も全く説得力がない。また新規参入の企業や人々は一切排除しようという考えは従来と変わらず、たとえそれで農家自体を守っているつもりだとしても、新しい担い手が現れない限り、日本の農業は発展しえないし、生き残ることは難しいだろう。
 戸別所得補償制度によって守ろうというのなら、米国やアジアとのFTAこそやめるべきではないか。
 それなら話はわかるのだが。FTAを進めて、農地集積も禁止、というのはおかしな話だ。
 どうも鳩山内閣のやっていることは、いちいち矛盾しているように思う。
 税金のムダ遣いだからと八ツ場ダムを中止して、それで新たな支出(保障措置等)を生み出したりとか、天下り禁止と言いながら天下り先の団体から政治支援を受けていたとか、元本のみならず利子も公的資金で補給するモラトリアム法案とか、ありえないと思う話ばかりだ。
 そろそろボロが出始めた鳩山内閣、これからもっともっとおかしな話が出てくるに違いない。
 頼むからさっさと引っこんで欲しいと願うが、しかし、そのあと誰が、と思うとまた自民党もパッとしないのだ。
 あの能天気な「友愛独裁政治」に対抗できるのは、誰だろうか。
 私たち市民グループから新たな、救世主となる政党が出て来てくれないだろか、と願う近頃なのだ。
 
 
 
 
 
 

2009年10月1日

鳩山内閣メルマガ創刊!

 
 
 
 【今日の鳩さん】in Japan
 
 鳩山由紀夫の「ゆう&あい」
 
 私たちは、この国の政治を、国民の皆様のものに取り戻すべく、根本から変えていきます。国民の皆様と心を接している政治家が、皆様の声を直接、国政に反映させる「政治主導」、すなわち、「国民主導」の政治を実現します。
 その根底に流れるのは、「友愛」の精神であります。自らが自立を目指しながら、お互いの違いを乗り越えて尊重し合い、助け合っていく、そのような社会を目指します。
 
 
 
 
 
【今日の胡錦濤さん】in China
 
「勤勉な同志よ」

 天安門広場には特設ステージが作られ、胡錦濤国家主席は毛沢東スタイルのスレートグレーのスーツを着用して出席。
 胡主席が見守る中、軍兵士8000人のほか、戦車やミサイル、計60個の山車、市民10万人が華やかにパレードを行った。胡主席は黒塗りのリムジンから閲兵を行い、「勤勉な同志よ」などと繰り返し語りかけた。

 

 
 
 日本って平和ですよね。
 はとさん、お互いが自立した国家を目指してぜひ頑張りましょう!