2010年3月28日

上野恩賜公園~不忍池・花見狂乱編

 
 
 
 

 
 
 
 かもめのジョナサンを読んでから、不思議と気が楽になった。
 その理由を考えていたのだが、つまり私が生きている間に彼より高い場所へ行くことはない。ましてや女神になることもない。
 すると、私は下へ降りていく(=人に優しくする)必要もないのだと。そのことで罪悪感も苦痛を感じることも、なく、独り散歩をしていていいのだと。
 言葉にするのが難しいが、そんな感じだろうか。今まで私は、人を赦すことは自分を赦すことと同義で、そこを超えないと先に進めないような思いがしていた。
 しかし、自分さえも赦す必要などなかったのだ。自分に優しくなくても問題なかった。
 堂々巡りの散歩をしていても、他人も私も、誰も困らないということだ。
 
 
 

 

 
 で、カメラを抱えて、桜を見に行くことにした。
 今年は開花はしたものの、強風が吹いたり、氷雨が降ったりで、満開になるまではまだ時間がかかりそうだ。るるぶの開花前線を見ると、近場のお花見スポットはみな「20%の開花」、「まだまだ」という記述も多い。
 唯一、40%~60%と、蕾ではなく桜の花マークになっているところが、東京の上野恩賜公園だった。
 私は最近気に入って使っていたレンズを家に置いてきた。標準のズームレンズと70-200mmの望遠レンズと、その二つをどんなに重くても持ち歩くことは私なりの決意でもあったのだが、ふと、かつて人から勧めれて購入した中古のレンズを持って行くことにする。
 M42マウントレンズのSuper-Takumar 28mm/F3.5。
 オールドレンズだ。いつか蓋を落としてしまったため、むき出しのまま鞄に収めてふらり出かけていく。上野駅で降りて、いつものようにトイレを探す。先にトイレに行っておかないと散歩や写真撮影に集中できない。が、出口を間違えたのか、いつも改札を出る前にあるというのに、今日は改札を出ても見つけられない。仕方なくそのまま不忍池口を出て、公園入口の袴腰広場にたどり着く。
 かえるの噴水の前に満開の枝垂れ桜、桜祭りの提灯が並んでいる。上野駅から排出された人々はここでまず記念撮影をするようだ。人だまり、英語と中国語が飛び交っている。枝垂れ桜を撮るにはどこから撮れば綺麗だろうか。私はお日様をみながら、順光、半逆光、逆光、とうろうろ歩いて眺めてみる。
「ここがいいよ」
 3メートルほど先から声がする。振り向くと、60歳ほどだろうか、年配のおじさんが一人絵を描いていた。
「ここからだと、提灯も石碑も入るしね。枝垂れ桜、綺麗だよ」
 おじさんは枝垂れ桜の枝を描き始めたばかりだった。中央よりやや左寄りに桜を置く構図のようだった。
「なるほど、そうですね」
 光の当たり方も構図も正面で当たり前すぎる。もう少しひねりたかったのだが、これでは外国人の記念撮影と同じである。私はにこやかに応えたものの、内心がっかりしていた。
「今、人がいるからね。いなくなると、良く見えるよ」
「はい」
 おじさんの隣に立って、おとなしく観光客の途切れるのを待つ。彼の絵を眺めている。まだキャンパスはほとんど真っ白だ。だけど彼の書く絵は私の写真とほとんど変わらないだろう。時折、「どうだい、撮れるかい?」を笑いながら私に問いかける。人の流れが多くて、美しい写真は望めそうもない。でもそれでいいのだ。ここからの構図が一番いい。奇抜な写真など撮る必要もなかった。美しい傑作でなくても良かったのだ。
 この最初の一枚で、抜けかかっていた私の気は完全に抜け落ちた。観光客と同じ目線になった。旗を振って歩くツアーの団体客、彼らと紛れて桜並木を歩いていく。まだ花は6分咲きぐらいで満開とまではいかないが、思ったよりも花開いているようだ。厚みに欠ける桜のトンネルをお気楽気分で歩きながら、時折写真を撮るのだった。
 
 
 

 
 
 
 京都の清水寺を似せて造ったという清水観音堂から桜を見下ろす。俯瞰の眺めもなかなかいい。上野公園は清水堂の他にも摺鉢山に大仏山と、上から桜を見ることができる場所が多い。桜は見上げることがほとんどなので、新鮮だった。ここも中国語、中国語、時折英語。聞き取れない言葉が聞こえたので、振り向くと、若い男性たち、よく韓流ドラマで見る若者にそっくりの顔つきをしている。不思議と国によって顔の系統は同じなのだ、とその特徴に妙に納得してしまう。大噴水の前では、パキスタンフェアー。カリーやバーベキューのパキスタン料理の屋台に行列が出来ている。それから、パキスタンの服や雑貨のバザー。こちらも大賑わいだ。
 ずいぶん沢山の外国人を見た思いだ。上野動物園に向かう曲がり角でやっとトイレを見つけた。向かうと、こちらも中国人が行列している。けたたましく中国語で語り合い、中の一人、中年の女性がわざわざ舗装されていない一段上の地面に向かってつばを吐いている。痰が詰まって気持ち悪いのか、下を向いて、二度、三度と吐きかけている。まるで嘔吐しているようだった。
 私は列を離れてしまう。上野動物園の前の桜を撮り始めた。そのうち別のトイレを見つけて、入ると、今度は日本人の列。老女が顔をしかめて出てきて連れに嘆いている。
「汚い、汚い。何かこすりつけたような跡があるし。入れないわ」
 彼女たちが去った後、見てみるとそう汚くもないようだった。私はやっと入って、今更ながら集中出来る準備を整える。
 もうほとんど回ってあとは不忍池を残すくらいだ。公園の中は絶えず屋台から食べ物の匂いが漂っていて、私を刺激し続けていた。そろそろ正午をまわっていた。お腹が空いた… 私は中の一つ、最初に見かけた屋台に向かって、焼きそばを買う。お花見の人々を避けながら場所を探し、桜の下で頂くことにした。いったいいつになったら集中するのだろう。疑問に思いながらも、特に焦るでもない。何だかねじが一本抜けてしまって気分だ。
 
 
 

 
 
 
 
 桜のせいだろうか。
 私は辺りを見まわしてみる。ブルーシート。段ボールを並べて、部屋のように区切りを作っている団体もいる。旗を掲げ、大学のサークルに職場の同僚たちに。お酒を飲んでは、語り合い、笑い合っていた。中年の女性たちは、ぷかり煙草をふかしている。あちこちに置かれるゴミ箱。ビニールプラスチックに空き缶に分別されている。その前でアルミ缶を拾う浮浪者。テレビ局か、高いところからマイクと大きなカメラを人々に向けている若い男。屋台の行列。絶えず消えない食べ物の匂い。
 桜並木をずっと並んで揺れる赤と白の提灯。それからやっぱり外国人。観光客たちの異様な言葉。物珍しそうな視線とカメラ、カメラ。
 一年に一度、この時季はお祭り騒ぎなのだ。桜の花の下で、食べて、飲んで、笑って、撮って、にぎわって。各地からたくさんの人々がやってきては、桜から桜まで列をなして歩いていく。
 私はその流れる人々と桜の狂乱の中を遊歩していく。
 誰もが一人ではなかった。ふと気が付くと、私だけがカメラを抱えて一人歩いているようだった。
 なのに不思議と孤独さえも感じなかった。ただ、映り行く景色や人々を不思議そうに眺めている。
 不忍池はこちらも驚くくらいの人々が店の傘の下に座り、弁天堂へと歩いていた。橋の上は右も左も屋台、屋台。氷に付けたタコやあんず飴にバナナチョコに鮎焼き、焼きとうもろこし、金魚売りの前には小さい子供と父親、中学生ぐらいの若い青年たちが、ソフトクリームいかがですか~と大きな声を張り上げている。
 弁天堂の脇を抜けるとボート乗り場が現れた。ボート池に鴨やコサギや鳩やかもめ。野鳥に餌をあげないでください。そう書かれた看板の真前で、中国人が餌をばら撒いている。飛び交って近づいてい来る鳥たちを撮ろうとしたが、単焦点のオールドレンズでは遠すぎた。いつもの望遠ならば、簡単に撮れるだろうに。そう思いながら、今日の距離感が何だか心地いいような気持ちになっていた。
 
 
 

 
 
 
 
 私は遠巻きに祭りの様子を撮って、桜を撮って、餌に食い付く鳥たちを他人事のように見て、ふとボート池の傍で大声を張り上げている父親の前で立ち止まった。
「もっと、もっと、右。違う違う。普通に漕いで!」
 ボートに乗る小さな少年二人に、近くの岸から漕ぎ方を教えいているのだ。子供たちは、父親の言うとおりに必死に漕ぐがうまくいかない、池の水を何度も跳ね上げて、父親をいっそう苛立たせている。
 父親と池の少年たちの距離は10メートルも離れていない。子供たちは近くで、離れることなくずっと練習をしているのだ。私は柵を乗り越えて、父親の横、彼が身を乗り出している池の淵に座り込んだ。カメラを構えている。子供たちのすぐ先の木の杭にとまっているかもめを撮ろうとしているのだった。
 かもめは父親の怒鳴り声にも、子供たちの飛沫にも動じない。私が見つけてから去るまで、ずっとそこに留っていた。スワンのボートが通り過ぎても、空を仲間たちが飛んでいっても、鳩がからかうようにすぐ傍を通り抜けても、うるさそうにくちばしを突く真似をするくらいで、終いまであっちを見たり、こっちを見たり、突然振り返って、私のレンズを見たり、父親のことも不思議そうに時折眺めているのだった。
 私は彼が動かないのをいいことに、ゆっくりと足を進めて、父親よりも身を乗り出した。何だか妙にこのかもめが気になってきたのだ。せめてもう少し大きく撮りたい。
 1センチでも、と思ったが、やはりファインダーのなかのかもめは点のように小さく見えた。相変わらずかもめは空の仲間たちを見たり、ボートを見たり、振り向いたり。
 時折思い出したように毛づくろいして、眠そうに眼を細めていた。
 ボート池の逆側には桜も咲いているのに、ここには餌もないのに、ずいぶんのんびりしているではないか。
 可愛いなぁ… そう思って見ていると、不思議と水面が輝いて、彼の周りに光の点が星のように現れるのだった。
 カメラを置いて煙草を吸った。ずいぶんと刺激的で集中できなくて、そのくせ白昼夢のような今日の遊歩は、彼のおかげで最後の最後で別のものとなった。
 私は心穏やかな気持ちで、かもめの世界にいる。
 不忍池を煌めく小さな小さな光の珠を、一緒に眺めているのだった。
 
 
 
 
 

 

 

 

2010年3月25日

かもめのジョナサン読書録 ~これって自由や愛を説く感動作ですか?~

 
 
 
 
 1960年代後半、ビートルズがヨギ(ヒンドゥー教の一派)に傾倒した時期があった。彼らはインドに渡り、ガンジス河のほとりでマハリシ師の教えを受けた。
 師はヨギたちからは物欲主義者、野心家等と批判されている人物だった。金持ちや有名人しか弟子にしない。彼らから多額の献金を得ていた。そして、ビートルズのことも布教活動に利用したのだった。数年後、ジョンは言った。「彼はペテン師だった」
 私はこの話を聞いてもの哀しい気持ちになったものだ。ジョン(ビートルズ)とマハリシ師の間に何が実際何が起こったのかはわからない。だけど、彼らは精神的世界に目覚め、そして最高傑作と呼ばれる「サージェント・ペパーズ・ロンリー・クラブ・バンド」や以降の作品を残したのだ。インドの音楽から宗教に目覚めて、触発されてきた。彼らにとって修行や瞑想とはLSDと同じようにトリップさせる道具でしかなかったのだろうか。その音楽を聴いて感動した私はどうなるのだ。あれは嘘だったと言われた気分だ。しかし、ジョンからしてみたら、精神性を求めたがゆえの師が、金や欲にまみれた俗物だと思い知って、がっかりしたのだろう。私と同じように踏みにじられた思いで、いやもっと深いところで、彼は傷ついたのではないだろうか。
 こんなことは良くある話だ。侮蔑的なジョンの声がまるで聞こえてくるようだ。
「偉そうなこと言いやがって、お前らの正体はけっきょくそんなもんじゃないか」
 
 
 
 「かもめのジョナサン」を読んだ。
 ある写真の題材で取り上げられていて、ところでどんな物語だっけ?とふと思ったことがきっかけだ。
 確か、スタイン・ベック…それは怒りの葡萄か…そんな名前の人だよな… ウィキペディアで調べてみる。
 
 【かもめのジョナサン】
 リチャード・バックの小説。
 あらすじ 主人公のカモメ、ジョナサン・リヴィングストンは、他のカモメ達が餌をとるために飛ぶことに対して、飛ぶという行為自体に価値を見出してしまう。ジョナサンは食事をするのも忘れ、速く飛ぶ事だけのために危険な練習を重ねる。そしてその奇行ゆえに仲間から異端扱いされ、群れを追放されてしまう。それでも速く飛ぶ訓練をやめないジョナサンの前に二匹の光り輝くカモメが現れ、より高次の世界へと導かれる。「目覚めたカモメ達」の世界のなかでジョナサンはより高度な飛行術を身につけ、長老チャンから「瞬間移動」を伝授される。そしてある日、弟子を連れて下界に降り、カモメの人生は飛ぶことにあるという「思想」を広めようと試みるが、下界のカモメからは悪魔と恐れられて…。
 
 なるほど。物語のその後が気になって、他の方々のブログ(感想)をのぞいてみた。オウム真理教の故・村井秀夫元幹部が出家するとき、家族に「これを読んでもらえば僕の気持ちがわかる」といって差し出したそうである。その他、アメリカ西海岸のヒッピーたちの間でブームになったこと、作者のリチャードバックがプロの飛行機乗りであったこと、だからジョナサンの飛ぶ訓練の記述が具体的かつ専門的であること、様々な情報をいただいた。
 みなさん、新潮文庫版の解説者の五木寛之さんの言葉を取り上げて、ずいぶん真面目に「違和感」を訴えていた。精神性のみを追い求めるジョナサンの姿が、宗教的な「解脱」に結びつくようで、オウムの村井さんに相反する姿勢でこの作品を捉えている。
 で、私はなんてバカなことを…を思ってしまったわけだ。
 この小説はたぶん村井さんの視線からではなくて、ジョンの視線から書かれたものであろうと。
「お前らの正体はそんなもんじゃないか」
 リチャードバックはそれを暴きたくて、寓話を通して強烈な皮肉を書いたのだ。当たり前じゃないか。わかってやれよ。プロの飛行士である作家が「瞬間移動」を持ちだした時点で、それが「インチキ」であることを象徴的に表現している。もう早く飛ぶ技術(飛行の価値)とは関係がない。
 それが「精神」を高めた上での結果であるにも関わらず、私は瞬時にそう結論付けたのである。リチャードバックはいつか傷ついたことがあるのだ…と。なのに、そのブラックユーモアの本を持って自身のバイブルとするとは、オウムの村井さんはなんと間抜けなことだろう。あなたのような人々を作家は嘲笑っているのだと。
 私はすっきりして眠りについたのだが、さすがに原作を読まないままではどこかばつが悪い。自身の説を裏付けるためにも原作を読んでみようと、翌日図書館へ行って、「かもめのジョナサン」を借りてきた。
  
 
 

 
 
 解説を含めて140頁ほどの薄い本だった。30分もあれば読める。
 で、私は読後、頭をひねった。「違和感」を訴えるブログの感想は正しかったと知ったのだ。どうやらリチャードバックは大真面目でこの物語を描いている。
 ブラックユーモア的な批判小説だと思える箇所があるとすれば、ジョナサンが瞬間移動を覚えたいと長老のチャンに願い出るところ。『「あんなふうに飛べるようになりたいのです」ジョナサンは言った。異様な光が彼の目に燃え上がった』という記述くらいか。精神性の極みであるこの特殊飛行をものにするシーンでのこの一言、ジョナサンが求道者というよりは異常者であると認めていることは認めているようだが、それでも作品を通して彼を正当化している、=オウムの村井さん側の視点で書かれたことは明らかに思えてきた。
 私はこの思わぬ結果に驚きながらも、思い出すのは「はるかなるレムリアより」という漫画、それから「孤独な散歩者の夢想」というルソーの随筆だった。
 全く関係のない二作品が私の頭を駆け巡って混乱した。
 「はるかなるレムリアより」はぱっとしない少女のシンデレラストーリーだ。確かいじめを受けていたか、継母か義理の姉妹という家族に疎外され孤独感をつのらせていた少女、彼女は実はレムリアの女神アムリタデビィの生まれ変わりだった。物語のラストに、少女は生き別れになった幼なじみと再会する。彼はレムリアに行っていて、少女と結ばれることで帝王ラ・ムーとなるのだった。離れ離れになっていた欠片のふたりが寄り添い、ひとつになって黄金に輝いていく。世界を救う神と化した二人は、最後に歓喜の声で受け入れる民衆に向かって優雅にほほ笑むのだった。民衆の中にはいじめをしていた者たちの驚きの顔もある。少女は、「民の一人」の彼らにも笑いかける。ふと手を挙げて。親しみ深く。まるで水戸黄門の印籠シーンのような、胸がすかっとする場面だった。
 長々申し訳ないが、私は幼いころから落ち込むたびにこの笑顔をずいぶんと思い出したものだ。変わりものと見下され、決して仲間に入れてもらえない少女、しかし彼女こそがこの世の救世主であった。彼女なしではラ・ムーさえ現れない。少女は人々を救う神(女神)だったのだ!
 ああ、そんなことがもしあれば… なんと幸福なことだろうか。辛いことがあると、「今はこんなだけど、もしも私が女神だったら」と良く考えては自分を慰めた。あんなふうに、酷いことをされたひとりひとりに片手をあげて、微笑みかけることだろうにと。
 もうひとつ、「孤独な散歩者の夢想」は言わずともがな、このブログに何度も登場するフランスの啓蒙思想家ルソーの最後の作品である。
 ルソーは行き過ぎた言動と変質者的な行動によって社交界からも国からも排除される。亡命し、各国を転々とし、最後は偽名でパリに戻り、独り切り離された孤独な世界でそれでも書くことをやめずに、自身の声を書きとめ続けるのだった。
 なぜ、この二作品を思い出したのか、私は考えている。
 かもめのジョナサンは、肉を持つ人としての欲望よりも精神の尊さを説いているようにも映る。しかし、何と中途半端なことか。
 私はこの内容が正しいかどうかよりも、違和感があるかないかよりも、その中途半端さに呆れ果てたのだった。
 彼はレムリアの女神のような「神」ではない。作者自身がそう書いている。私はあなたと同じような人のひとりだと。俗な人々は型にはめようとするが、しかし、神でも、悪魔でもない。誰でも意識を持てば「そこ」(修行の極みの到達点=彼岸により近いところ)に行けるのだと。
 神でもないと言うくせに、ジョナサンは光り輝く女神のように民衆にほほ笑みかけている。片手をあげて、すべてを許して。
 ジョナサンはルソーでしかない。排除された孤独な、どこにでもいる変わり者のそんな一人。しかし、ルソーが孤独の中で徹底的に自分と向き合ったのに対して、ジョナサンはたどり着いたより近い高みから民衆のところまで降りてきて、民衆の飛行技術(意識)を自分と同じレベルに高めようと師に志願するのだった。
 カモメの社会から排除されたものを集めて、八羽の編隊を組んで四千羽のカモメのところへ向かっていく。
「私たちは歓迎されやしませんよ!追放されたんですから。歓迎されないところに無理やり行くなんてできるわけがありません」
「我々は自由なんだ。好きなところへ行き、ありのままの自分でいていいのさ」
 ジョナサンに傾倒する弟子にそううそぶいて、そもそも追放されたものは群れの掟に従う必要がないという結論に作者は導いていく。
 私は想像するのだ。追放されたルソーがフランスの社交界へ乗り込んでいく様を。しかもルソーは一人ではない。女神でもないくせに光り輝いて、彼に惚れこむ弟子を一緒に連れていくのだ。
 で、言うわけだ。
「どうだ、俺らが正しいだろう!」
 彼らはオセロゲームの駒取りのように、たった一つの白いオセロをひとつずつ増やしていく。真っ黒だった盤上は徐々に白い駒が増えていく。
 これは精神性を説く物語なのか?私はまた首をひねるのだ。どう見ても、復讐劇ではないか。
 追放された人間が、追放した場に戻って、高いところから裁く。
 ラストにジョナサンはかつての仲間たちの意識改革を一番弟子に託して、新たな求道者を求めて別の地に旅立っていく。ルソーを追放した者たちは、そのうち気付くのだ。自分が間違っていたと。自らの罪を知り、愚かだったと思い知るまで。彼らが追放したルソーを崇める弟子たちの手によって。
 もしそうだしたら、なんと爽快なことか。神でもないくせに、レムリアの女神よりも完ぺきではないか。
 精神を高め、屈折した思いを昇華させたわけでもない。自由や愛を唱える記述はあるが、目的は復讐劇、それからオセロゲームだ。
「おれは追放されるような人間ではないのだ!俺の方が立派なのだ!だから赦して、愛してやるぞ!」
 民衆を愛するゆえの布教活動というよりは、私にはルソーの反乱に見えて仕方がないのだった。この物語はやはりパート2で完結していて、パート3以降の瞬間移動を覚えて、かつての仲間のところに戻るところからはマハリシ師の「嘘」に重なる。ジョンの声が聞こえてくるようだ。
 民衆を愛したいなら、女神になるまで修行して来い。
 精神性を貫くならば、孤独に散歩していろ。
 なんという中途半端な人間のエゴイズム。
 これも五木寛之が訳したのか、冒頭に捧げる言葉が面白い。
「われらすべての心に棲むかもめのジョナサンに」
 棲むという漢字を使うのだ。心に宿るとか、神を思わせる言葉を決して使わない。棲むという言葉からは禍々しい、魔のものを連想させるではないか。
 私はこの物語を読んで、自分の魔にぞっとした。
 女神になれないなら、ルソーを極めてやる。
 いつか、昇華させて、光り輝くかもめたちが迎えに来てくれるまで。
 そのときは、間抜けなジョナサンみたいに降りてきたりは決してしない。もっと、もっとと、昇り続けてやろうではないかと。
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年3月22日

奥多摩海沢渓谷紀行 ~念願の滝を目指して~

 
 
 
 
 
 ずいぶん長い間遠出をしていない。2年前、写真を撮るようになってからというもの、私はカメラとリュックを抱えて様々な町へと出掛けたものだ。下町散策から始まって、東京、埼玉、千葉、関東近郊の公園に、それから山。この週に一回の小さな旅行をいつも心待ちにしていた。
 心の余裕を失わせていた厄介事が片付いた今、当時の想いを取り戻そうと私は久々の旅に出る。
 場所は海沢渓谷にした。滝を撮るのはここ1年程の悲願でもあった。
 
 前日になっていつものように場所の下調べを始める。いくつかのサイトは見覚えがあった。以前も調べて、結局土壇場で中止にしたのだった。
 滝撮影は敷居が高い。水の流れを上手く写せるか、自信がない。おまけに大抵の渓谷は山奥や交通の便が悪いところに存在する。女ひとりで果たせるものか。地図を買っておけば良かった… 
 しかし、雑誌の特集で見た海沢渓谷は写真初心者のタレントが悠々と撮っている。サイトのレポートもそう困難そうではなく、誰でも簡単に行けそうな感じではある。駅や道の途中にある絵の地図や丁寧な標識が写真で紹介されていた。ここなら大丈夫かもしれない。そう心配することもないのではないか。私は軽く考えて眠りについた。
 翌日、朝の6時に家を出る。海沢渓谷のある奥多摩まで3時間弱、いつ乗っても青梅線にはリュックを背負った年配者が多い。彼らに紛れて、終点の奥多摩駅で下車する。
 地図のない私は、とりあえず、トイレに入ったり一服したり荷物を確認したり、のんびりしながら年配者たちの様子を探っている。いくつかのグループがバスを待っているのか、待ち合わせなのか、2,3人で固まって雑談をしている。彼らは順番に駅前の絵地図の看板の前に行き、熱心に眺めているようだ。私も真似をして地図を見入る。
「煙草忘れちゃったなぁ」
「やあねぇ」
 男性があははと笑っている。眉をひそめた女性は手に印刷された絵地図を持っている。私もあれが欲しいものだ。どこで入手したのだか。改札で訊ねると、観光協会で配っているという。何だ、駅の目の前が観光協会ではないか。8時半より空いている。そこで「ウミサワケイコクに行きたいんですが・・」と丁重に言う。
「ウナサワケイコクですか?海に沢ですね?」
「はい、海に沢です。ウナサワですか」
 あはは、と力なく笑う。煙草を忘れたよりはましだが、どうもばつが悪い。カウンターの上の8種類ほどの印刷された職員が書いたであろう絵地図を眺めていると、女性職員がその奥から「ウナサワ谷林道・三滝ガイドマップ」と頭に書かれた絵地図を出してくれた。見えるところに置いていないところをみると、人気がないのか、それとも電車で来る人は少ないのだろうか。後者ならば、道がわかりにくいかもしれないな、と漠然と不安を覚えた。林道までみな直接車で行くのかもしれない。リュックを持った年配者たちも別エリア(氷川・鳩の巣、日原エリアの登山が人気らしい)に向かうようだ。観光協会を出ると駅前のロータリーは閑散としている。ウナサワ渓谷へ向かう道を見やったが彼らの姿はなかった。
「その道を真っ直ぐですよ」
 観光協会の職員の女性が自分の席の後ろを指さして教えてくれた。地図も持っている。なのに、どこか心もとない。
 万が一迷ったら朝まで飢え死にしないようにと「その道」沿いの商店にふらり入っていく。その前から私を見つけたとたん、店主の初老の男性が出てきて、何ですか、とおっかぶせるように訊いている。
「え~と、チョコレートはありますか」
 ありますよ、と棚へと導いてくれる。私は縁起のいい(と思っている)クランチチョコレートを一箱買って、
「どこ行くの」
「はい、ウナサワ渓谷です。滝を見ようかと・・」
 と答えている。店主は、店に飾ってある滝の写真を指差した。あれ、大滝だよ。紅葉の中の見事な滝が映されている。
「すごいですね」
 あれを今から見に行くのだ、と思うと胸が高鳴ってきた。不安が少し消えたようだ。店主は無言でレジ台の下をまさぐって、手書きではない、東京都奥多摩町が作成した立派なカラー写真のガイドブック(付き地図)を取り出した。レジ台に置かれたクランチチョコの上にぽんと放る。前の道、真直ぐだよ!真直ぐ、真直ぐと3回繰り返した。
 店を出て2,3歩歩くと、隣の店の前にまた店主が立っている。年のころは先程の方より少し若いようだ、こちらはにこにこと笑いながら、滝を見に行くのか、何だわかりにくい地図だなぁと軽口をたたく。私の手にしている、絵地図をみやっている。もっとちゃんとしたの書きやがれっていうんだよなぁ。あはは。
「ここ真っ直ぐですよね」
 が、道の先は突然二手に分かれているのだった。
「そうそう、真直ぐだよ。エネオスんとこを行くんだよ」
 ガソリンスタンドのエネオスは右手の道にある。この道沿いにいくと緩やかなカーブを描く左手の道なのだが、真直ぐだから右に行くらしい。でもどうみても、直線だというその道は30度は右折している。おまけに別の道なのだが…
 この町の人は優しい。まるでみんなが私の行先を案じてくれているようだ、この道を行け、と教えてくれる。が、あまりにも重なったので、もしかして道を誤まって行方不明になった人でもいるのだろうか、とまた妙な想像をする。想いを振り払ってまっすぐ進んでいる。二車線の車道、左1メートルの白いラインの中の歩道を行く。民家の庭先に梅が咲いている。天気もいい。行く先にはこんもりとした大岳山が見えている。
「どこへ行くですか」
 ぎょっとした。突然男が並んで歩いている。
「滝を見ようかと・・」
「そうですか」近所に勤める人か、ベージュ色の作業服を着ている。「遠いですね。まだまだありますよ」
「そうですか・・・」
 男はぶしつけに人の顔をじっと見つめて、それから気まずそうに離れていく。左の私道のような細い道に消えていった。
 あんた大丈夫かい、いけるのかい?とでも言われたような気持ちになった。
 女の職員、店主、店主、作業着の男、最後の一人が極め付けだったな、と思い返す。疫病神、とまでは言わないが、悪い知らせをもたらす使者のように映ってくる。好奇心からの視線ではなかったな、顔をこおばらせて私を見つめていた。
 滝撮影はいろんな意味でやはり敷居が高いな。と改めて思いながらも、あの商店で見た大滝の姿を思い返して、その考えを振り払った。ずっと、行き逃していたのだ。今日は絶対辿り着くのだ。
 
 
 私の不安は見当違いだったようで、林道にはすぐに辿り着いた。ただし途中、青梅街道と林道へと続く車道へと別れるところで、また道が分かれ、そこだけがうっかり道沿いに進んでしまいそうになったがそれくらいだ。不思議なもので、「この道を真直ぐ行く」ということは、行く道が一本しかない場合は、いくら道がカーブしようとも90度曲がりくねろうとも、その道を進んで行くことを意味していて、二手に分かれる場合は、道沿いではなく、より直線に近い方を選んで行く、ということを意味しているということだった。
 駅前でも二手に分かれるところでもおやっと思ったものだが、2,30度傾いたY字路に出たとしたら、道沿いに行くことが真直ぐではないんだな、と改めて実感した。たとえ、本当の道が細くても、今まで歩いていた右車線の車道と距離がある段差の道でも、僅かに左に折れるとしても、そちらがより直線に近ければ、「真直ぐ」の定義に当てはまる道らしい。私はこの事実が、妙に心に残った。手描きの地図を見ると、なるほど右の道の方が真直ぐらしくは描かれている。が、どうみてもY字路である。細い道を見逃してうっかりと来た道をそのまま道沿いに進んでしまうこともあるかもしれない。歩道を歩いていたら左の道は見えづらいし、今までカーブしていてもその道を歩いていたのだ。
 こういうことは良くありそうだな、とまた私は自分の生活にそのままあてはめている。自分の道を行く、ということは、自分の道が道沿いではないという可能性も十分あるということだったと。知らず知らずのうちに人は真直ぐの道を見逃して、歩いてきた道をそのまま行ってしまうのではないかと。それが自分の道だと信じ込んで…
 

 林道に入って、一番困難したのは、海沢トンネルだ。私はトンネルが大の苦手である。
 怖い。とにかく怖いものは仕方がない。あの闇がいやだ。おまけに山道の中のトンネルだ、湧水なのか地面には水たまり、壁も天井も濡れてより黒く、暗く見える。今までも登山の途中で2度ほどトンネルに遭遇したが、これは一番長い。出口の光が遠いではないか。300メートルはあるように見える。(帰宅後調べたら100メートルしかなかったのだが、恐怖心から長く見えたようだ)前にも後にも人一人いない。私は思い切りびびりながら、下を向いて歩き始めた。
「何妙法蓮華経…」
 なぜかお念仏を唱えながら歩く。下を向くのも、見てはいけないものを決して見ないようにだ。こういうときに気を緩めると、その僅かな隙間に、禍々しいものが入り込んできそうな気がした。私は心を固定して、出口の光をイメージしながら、ひたすら下を向いて歩く。「何妙法蓮華経…」
 出口の光で視界が眩くなってくると、突然後ろから車が来た。エンジン音とタイヤが砂利を踏む音、それでも後ろを絶対見ない。トンネルを出た瞬間、すれ違う。ナンバープレートを見て、覚える。これはこれで、また別の意味で怖いからだ。通り過ぎた車を忘れないように記憶に留めている。
 その後はもう楽なものだった。私は林道を楽しみながら歩いている。茶色く染まった杉の木がところどころ倒れている。雄花を枝先にびっしりとつけたまま、雌花にたどり着く前に果てたようだ。何でこんなに杉が倒れているのか、良く見ると林道沿いの山の斜面は幾本もの杉が倒れているのだった。嵐でもあったか、私はここ数日間の天気予報を思い返している。林道と言っても、海沢園地まではちゃんと舗装されていて車道になっている。右手にはずっと海沢が流れ、ハードな道ではないのだが、その歩道に茶色い杉が倒れては道をふさぎ、雄花の枝がばら撒かれたように敷き詰められている。コリコリしたものを踏んづける。見ると、今度は杉の雌花なのだった。もしも嵐のせいではなく、いつもこうならば、ずいぶん手入れされていない林のようだ。私は時折杉の茶色い枝を、暖簾のように払って、ちょっと通してね~と声をかけて先を行く。
 で、海沢園地までは駅から1時間半ほどで着くのだが、私は海沢園地までが駅から20分程だと勘違いしていた。あらかじめ見たネットの情報では駅から起点まで20分となっていたので、それが園地だと思い込んでいたらしい。林道入口までが20分、そこからが1時間と少し、思い違いした私は歩けど歩けど、起点(の園地)にさえつかないので、忘れていた不安感とそれから空腹感を思い出す。すぐ付くからと休憩を取らずに歩き続けていたので、疲労感も思い出す。下広場と呼ばれる林道の脇に作られた円形の平地で、休憩を取ることにした。おにぎりを一つ、お茶を飲んで、一服して、また歩き始める。すぐに園地が現れた。
 ここに、絵地図の看板とトイレがある。駅前でもらう手描きの地図は滝までの道のりが詳しく描かれていないので、この看板をよくよくチェック(メモとか)してから進んだ方がいい。
 園地の先はもう渓流である。歩道はほとんどなくて、丸太を渡って渓流を超え、それからは沢沿いに進んでいく。歩く岩場がなくなり、渓流をまたぎながらいく。5分ほど進むとすぐに三ツ釜の滝が見えてくる。
 
 
 
 
三ツ釜の滝まで沢道を行く。
丸太の上から渓流を見て。
三ツ釜の滝。
中段の釜。
 

 
 三ツ釜の滝は5段からなる滝で、上から1,2,3段の下に名前の由来の釜(と呼ばれる水の溜まり場)がある。この釜の水が青く澄んでいて美しかった。私は綺麗な色を捉えたくて果敢にチャレンジするのだが、色を出そうとすると滝が白く飛んでしまう。PLフィルターはほとんど利かず、ND(減光)フィルターを用意するべきだったと後悔する。
 しかし、それは後の話で、私は60リットルのリュックから三脚とカメラを取り出す余裕もない。高所恐怖症、おまけにカナヅチなので、滝沿いに設けられた鉄の急階段が怖い、丸太や、道なき道の滝の中を行くのもずいぶんと怖かった。渓谷はいつものように三脚を抱えながら山登りするのとはわけが違った。両手は空いていないとだめだ。
 まず、終点(目的地)と決めていた大滝に向かうことにした。そこまでたどり着いてから写真を撮ろう、と決める。
 ところがここからが、不吉な使者の予言通りだったのだ。登山道を行けば自然とネジレの滝にも大滝にもたどり着けるはずなのだが、どう見ても獣道だ。おまけに途中で道が途切れる。道らしきものをぐるぐる見渡して、あたりを歩いて、やっと探す。ネジレの滝、大滝、という標識を見つけるものの、ネジレの滝は渓流沿いを行くと枯れ木の枝が邪魔をしてまたは渓流の流れで滑ってとても人が通る道だとは思えないところに入り込んだ。大滝は、標識通りに行けど、道が途切れる。水流が多いとき滝が流れるような濡れた岩場を通り越さないといけないのに、まさかそこを超えるとは思わず、上に登ってしまう。50度以上はありそうな急斜面である。どこが正規の登山道なのかと前情報の耳を疑う。仕方なく、標識まで戻り、もう一度矢印を確認、やはりこちらでいいのかとロープの付いた岩場を登って行き、また滝の斜面に出て、今度はその谷を滑りながら渡る。見まわすと、左にやっと人一人通れそうな道らしきものが見える。枯れ葉に覆われ、道が隠されているということも手伝ったのかもしれない。ホオノキの白い落ち葉が点々とやけに目立つ。大きいこともあるが、その白さが、枯れ葉の中迷う私の目に障るのだ。枯れ葉の海にばら撒かれた坊主めくりのトランプのようだと思った。「坊主めくりのトランプ」が何を意味するのか、わからないのだが、そのときはホオノキだけが裏を向いている(または表を向いている)という連想からイメージしたのか、とにかくそのような意味のなさないことを想っては苛立たしく感じている。

 ネジレの滝から大池まではほんの10分程である。ところが私はネジレの滝も大滝も見つけられず獣道をうろうろしている。心もとなくなってきて、独り言をつぶやき始めた。
 もう帰ってしまおうか…
 そう思いかけたとき、やっと前情報で調べた「沢床へ降りていく道」を見つけたのだった。標識の矢印を見て、飛び上がりそうになった。ここまで来て、滝を撮らずに帰ることだけはしたくなかった。もう滝を上手く撮ろうとか、敷居が高いとか、どうでもよくなっていた。
 
 
 

大滝。

 
 
 
 大滝にたどり着いた…
 そのことが嬉しくて、私は沢まで駆け下る。大滝は200メートルほどの長さの見事な滝だ。周りは岩場は苔生し、滝の溜まり水も青々と美しく感じられた。時期的に紅葉か、雪でもあればもっと綺麗ではあったんだろうな、ととっさに思った。枯れ枝が視界を遮って、良く見えなかったからだ。
 たぶん、ネイチャー写真専門の方から見たら、箸にも棒にも引っかからない写真しか撮れないだろう。
 でも、ここまで来た。すべてが、片付いて、ここに来れた。
 道に迷って、ここに、辿り着いた。
 私はそれで大満足だった。心弾ませて、大滝を撮り、誰もいない、独り占めで念願の彼を撮って、それから時計を見て慌てて帰路についた。もう一時を回っている。私は三脚を担いで、水場や岩場に滑りながら登山道を下って行った。次はネジレの滝を探している。
 標識を見つけ、登山道を下って行き、岩場の上からその姿を拝めたのだが、後で調べるともっと近くまで行く道があったようだ。あの道をもっと下まで下れば良かったかと今になると悔しい思いなのだが、それでもそのときはお構いなしだった。やはり出逢えたことを喜んで、豪快な滝の音を楽しんでいる。
 
 
 

ネジレの滝。

 

 

 最後に三ツ釜の滝を撮って、沢の丸太を渡って、園地まで戻ってきた。すっかり夢中になっていたようで、もう午後の3時を過ぎていた。空腹を思い出して、園地のベンチで弁当を広げる。ああ、今日は無事撮れたし、良かったなぁ、と充実感に満たされていた時、ふと傾きかけた日を眺め、行きに通った「海沢トンネル」を思い出した。
 あっという思いだった。あのトンネルを日が陰って薄暗い中通るのだけはごめんだった。私は急いで残った飯粒を口に頬張り、お茶で流し込みながら歩き始める。杉の暖簾を超えて、今度は左手に沢を見下ろしながら、堰堤、ワサビ田、檜の植林地にやっぱり御花で茶色く染まった、杉、杉、杉。それらを超えて、そして海沢トンネルと対峙するのだ。
 下を向くだけではなく、今度は目を瞑った。時折薄眼を開くだけで、あとは閉じて、ずっと祈っていた。
 トンネルに入る前に、私は大岳山を振り返り、山の神様に一礼をする。それから白いタオルを握りしめて、今この場にいない、すべての愛しい人たちをその手のひらの感触に思い返す。
 すでに、辺りは薄暗かった。朝通ったよりもトンネルはなお闇だった。
 お念仏はだけどもう唱えないのだ。私は山の神々と、私の愛しき人たちを交互に、繰り返して、心に描いている。彼らと一緒にいるのだと。そのイメージを強く心に固定して。
 
 今、私は山の神々と一緒にいる。
 今、私は愛しき彼らと一緒にいる。
 
 握りしめた手が温かく感じられた。闇は終わった。過ぎてみればあっという間だった。
 私はトンネルを抜けて、光に溢れた道をまた歩き始めている。
 
 
 
 
 
 
  

2010年3月18日

国民再編にうってつけの子ども手当って何だ。

 
 
 
外国人の子ども手当に国内居住要件を検討 長妻厚労相
 
このニュースのトピックス:労働・雇用
 母国に子供を残す外国人にも子ども手当が支給される問題をめぐり、長妻昭厚生労働相は17日、平成23年度以降の制度設計時に子供も日本国内に居住していることを支給条件として検討する方針を明らかにした。これに伴い、海外に単身留学する日本人の子供に手当が支給されなくなる事態も予想されるため、制度設計に合わせて、諸外国の手当制度の運用状況を調査する考えだ。
 一方、長妻氏は、22年度分での支給条件見直しは否定した。
 17日の参院本会議で、自民党の丸川珠代氏の質問に答えた。
 外国人への子ども手当をめぐっては、22年度分は現行の児童手当の仕組みを踏襲したため、母国に子供を残す場合にも子ども手当が支給される。一夫多妻制で母国に子供が数十人いるケースも対象になる。
 ただ、本当に母国の子供を養育しているのか支給事務を行う市町村が現地まで確認に行くのは難しい。厚労省は当面、虚偽受給防止のため、養育関係を証明する書類の提出徹底と様式統一化で対応する方針だ。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 昨夜テレビを見ていたら、今日は何の日でしょう、と問いかけるニュースがあった。
 正解は日産(ルノー日産)が初めてインドに進出し、新工場の竣工式を行った記念すべき日なのだそうだ。華々しい竣工式の映像が流される。
 日本の自動車メーカーが海外に進出し、自動車部品産業も中国に拠点を移す、という話は良く聞いている。中国ばかりよりはインドもいいではないか、と頷きながら見ていると、ふと金型産業の企業の青年が憂いた顔で登場する。
「金型は日本の独自の技術ですから・・こういう形でそれを安売りするのは・・」
 忍びない、という話のようだ。どうやら、日産の海外進出に伴って、「産業のマザーツール」である金型もメーカーごと海外に拠点を移さないといけなくなったらしい。「日本で戦っている限り生き残れません」と多分海外進出の責任者だろうか、まだ若い青年が悲痛な趣で言う。
 しかし、受注先の日産が面倒を見てくれるわけでなし、彼らは自分たちで海外工場を、その提携先や人材を確保しないといけない。低コスト労働力を得るために、培ってきた技術を身売りしなければならない。「デモアナタタチハソレデエルモノガタクサンアリマスヨネ」とやっと見つけたインドの事業者(なのか交渉相手のようだ)に言われ、はいはい、と思案げにうなずく姿が痛々しい。それでも希望を捨てまい、と、最後には海外に進出することを前向きに肯定するコメントがあった。笑顔を見せる。とても晴れやかと言えるものではなかった。
 
 私が不思議に思ったのは、こんな思いをして最後の砦の産業も海外へ行かざるを得ないということで、悲痛な彼が言うように「日本にいる限り生き残れない」のは、それはなぜかと言えば、やはり最大の問題は低コストの労働力なのだろうな、と。そんな当たり前の事実だった。改めて実感させられて、そして、彼らのみならず日本の産業がすべて海外を拠点とすると、冒頭のニュースにおける子ども手当ってどうなるんだっけ?という素朴な疑問だ。
 向こうの人材を向こうで使うのだから、日本人労働者全員が行くわけではないな。彼らは職を失い、海外の安い彼らが職を得る。とは言え、監督するものや技術を教えるものが必要なのだから、日本企業の多くの日本人は海外に渡るのだろうな。
 もちろん同じことは日本国内でも起こっているわけだ。問題はすべて「低コスト化」なのだから、大量の外国人がやってきては、日本中の企業に雇われて、瀕死の日本経済を支えてくれることだろう。
 で、その場合は、子ども手当はどうなるんだっけな。
 
 最初の例、日本人が生き残りをかけて海外に行って技術を身売りする、こちらではもちろんあの青年が奥さんを連れてインドに行けば子ども手当は出ない。お子さんが学校を卒業するまでおじいさんおばあさんに面倒を見てもらえればどうにか出る。
 おじいさんおばあさんがいない、または彼ら保護監督者の経済的事情で、青年夫婦が仕送りをすると出ない。奥さんが日本に残れば、その場合はもちろん子ども手当は出る(※下記に追記事項あり)。すると、単身赴任を後押しする理由が増える。家族は別々に暮らすことが普通になってくるわけだな・・子作りに励む時間も消えるわけだ。長年というより半一生的にそれが続いたら、青年は海外で現地の女性と恋に落ちたりしないのだろうか・・離婚、再婚とかも想定できる話ではある・・
 次の例、日本にやってくる出稼ぎ外国人だ。もちろんこちらは親が日本に居住していればこども手当は出る。一夫多妻制で子だくさんだろうが、ブローカーだろうが出る。
 長妻厚労相はそうならないように、虚偽防止のための書類を提出させると言っていたが、その真偽を確認するのは各自治体、お役所の面々で、政府はノータッチである。現地に確認に行けるわけではなし、お役所仕事ならば規定の書類さえあれば疑問に思ってもハンコを押すんだろうな・・と私は想像してしまったりする。
 おかしなものだ。現政府の政策では日本は日本人の税金を使って外国の子供を養うのか。
 少子化対策って日本人の子供の少子化対策ではなかったのか。
 児童手当を踏襲と言うが、規模が違うし、なぜ公明党の政策である児童手当と同じにしなければいけないのか、意味が全く分からない。
 よしんば鳩山首相の解釈通りに日本国民が「日本の住民」であったとしても、海外に住んでいる外国人の子供じゃそれにも当てはまらないじゃないか。なぜ金を払うのだ。海外に住んでいる日本人はもらえないというのに、どう考えてもおかしいだろう。「住民」ではない彼らはもう日本人ではないというのか。
 燦然と輝く「低コスト化」という名目を掲げ、これからすべての日本企業は生き残りをかけて、海外に拠点を移し、海外から人材を雇う。技術を安売りして、日本人労働者を解雇して、「自社産業=日本経済の再生」という使命を全うすることだろう。たとえ悲痛な顔をしようと、家族と別れ別れになってでも。
 その結果何が残るかと言えば、日本人と外国人の入れ替わりだ。ガチャポンである。政界再編って良く言うけど、国民再編だな、まさに・・
 子ども手当はそれを加速させるためのうってつけの政策ではある。感心せざるを得ない。
 なぜ瀕死の彼らを支援(救済)しようとはせず、塩を塗り込む真似をするのか。この政策は一体誰のための政策なんだろう。日本人と日本の未来の子供たちのものでないことだけは確かである。もしもそうだと言い張るのなら…
 
 「『日本列島は日本人の所有物と思うな』という発想は日本人の意識を開くことで、死を覚悟せねば成就は不可能。そこまで日本を開かない限り、日本の延命はない」
 鳩山首相の弁である。
 どうやら日本の延命は、たとえ民族が滅びようと日本人救済を見限って、代わりに外国人を入植することで計られるらしい。
 ニュースの青年の笑顔がますます痛々しく映ってくる。
 
 
 
 
 
 ※追記 子ども手当法案 衆議院HPより
 (もしかしたら私の認識が違っているかもしれない。4条2号を良く読むと、監護者が母親となる場合、収入によっては支給しないと言っているようである)
 
 
 
 

2010年3月17日

絵師の正体を見た。~長谷川等伯回顧展~

 
 
 

 

 
 
 
 長谷川等伯の回顧展は80分待ちだった。
 春の陽光が眩く降り注いでいる。しかし季節の変わり目、不安定なこの時季に、80分後も同じかと訊かれれば自信はない。私は踵を返して、博物館の敷地内をうろうろし始めた。
 チケットを買ってしまった。上野公園に行って不忍池と梅や桜でも撮りたいと思ったがもう遅い。スタッフや警備員に声をかけるのも気が引ける。決心が付かないまま、本館や表慶館の周りをぐるぐるし、そうしているうちにも後から後から手に個展のチケットを握りしめた入場者たちがやってきてはすれ違う。このままでは80分では済まなくなるだろう。腹をくくって、また長い列に並び始めた。4人ずつ並んだ長蛇の列は待っては一歩ずつ、僅かに進むばかりだ。退屈した私は本を取り出して読み始める。
 
 
『試みに芸術家の作品について見よ。
 画家の真の人格すなわちオリジナリティはいかなる場合に現れるか。
 画家が意識の上において、種々の企画をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。
 多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆おのずから随う所に至って始めてこれを見ることができるのである』
 
 
  西田幾太郎の絶対矛盾自己同一論は私の信仰心を始めて論理的に理解させてくれた哲学だ。
 バガヴァット・ギーターやウパニシャッドなど、いつか感銘を受けたヒンドゥーの思想を、私は心で理解しても決して(自分に対してさえ)説明などできやしなかったものだ。人格を高める術とか、悟りの境地とか、ましてや方法論など思いつきもしない。精神的な修行をすればいいのか、しかし何の修行だ、と堂々巡りをするばかりだった。
 私は西田哲学を知ってから、今まで自分が信じて、無意識に行動していたことも、信じられずに挫折や絶望感を味わったことも、何が原因で、どこが悪かったのか、すべてを理解することができたのだった。
 
  
『雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでも良い。
 元来、物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の繁栄と言い得るように自己は客観世界の反映である』
 
 
 
平日だと言うのに平成館は80分待ち、上の行列を見て思わず並ぶのをやめてしまいました。
東京国立博物館。 右・表慶館と左・本館。
 
 
 
 
 
「ちょうど60分くらいだね。80分はかからなかったね」
 列の前の親子連れがしゃべっている。
「80分と書いて90分待ったら怒っちゃうからね。少し長めに言うんでしょう」
 父親の説明に納得しながら、館内に入ると、こちらもすごい行列であった。ずいぶん長い間、博物館や美術館に行っていない。平日だと言うのにこんなに混むとは想定外だった。展示されている絵のガラスにくっ付いて、順に見ていこうとすると、牛歩の歩みのようである。みな真剣に見入ってなかなか絵の前から進まない。小さな望遠鏡のようなものを取り出して、細部を見ている者もいる。全部見終わるに何時間かかるのかと心配になってきた。かと言って、列を離れると、人の頭で絵が良く見えない。熱気で汗をかき、頭がぼうっとしてくる。次第に気分が悪くなってきた。
 絵を見る、という行為も大変な労力なのだな、と改めて感心させられた。何度も美術館や博物館に行ったとレポートしている誰かのブログを目にしていたが、彼らに対する敬意が自然とわきあがってきた。
 私は博物館が勧めるところの「長谷川等伯の全貌をご堪能頂ければ幸いです」という使命を全うすることをあきらめ、自分が惹き付けられた絵だけを丹念に鑑賞し、他は流し見をすることにした。(それでも全部見るには2時間以上かかったのだが・・)
「すごいね~」
「綺麗だねぇ~」
 とあちらこちらから聞こえてきた。
 正直、初めに思っていたより感動はしなかった。特に巧いとも思わない。感銘を受けたのは、国宝の「松に秋草図屏風」、それから後期の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」と「烏鷺図屏風」だった。自然に対する思い、彼の深い愛情が伝わってくるようだった。
 しかし、手放しですべてが良しというわけでもなかった。楽しみにしていた仏涅槃図もそう心に響いてこない。沙羅双樹の葉の描き方が信春時代のものと重要文化財のもとではずいぶん違う、と妙なところに感心している。1568年から1599年の間に彼の眼にはあの葉がこう変化して映ったわけだ。
 私はそんなことから入館する前に読んだ西田の論理を思い返していた。
 「絵師の正体を見た。」
 この特別展のコピーであるように、まさに絵師の絵を見たのではなくて、絵師そのものを見た思いだった。
 長谷川等伯が次第に自己の深淵と統一し、そして客観世界とも根源的に統一し、まさにその自己を滅しきった完成段階の統一力が輝かしい個性として発現された、そんな過程の有様を、まざまざと見せつけられているようではないか。
 信春時代、仏画を通して絵の技巧を習得した様、上洛し、戦国大名や時の権力者の意に添う肖像画や花鳥画を通して新たな表現方法を見出していく様、水墨画と中国文化(宗教)への傾倒、それらを活かしてまた日本の自然の風景を愛しみ深く描くようになっていく様。そして完全に自己を滅して、それゆえに真の自己を輝かせる様。
 私は絵のそのもよりも、その事実に深く感動してしまったのだ。
 これは信仰であり、悟りの境地だなぁと。絵の中に絵師はいない。なのに、彼の存在がはち切れんばかりに放出されている。 
 完成形の「松林図屏風」、私はその絵をずいぶん長いこと見ていたようだ。
 私もここまでたどり着きたい。
 そんな願いを込めて、そして、彼の通った道を慈しむかのように。
 
 
 博物館を抜けるとすっかり夕刻だった。東照宮でお祈りをして、不忍池の先にたたずむ弁天堂を見やる。
 池の上をキンクロハジロが滑るように泳いでいく。暮れかけた空を、水面を、まだ花咲かぬ春の樹木をさえ、夕陽がすべてを輝かせている。
 今世界は美しかった。この光景がずっと続くといい、そう願いながら、私はカメラを背負って家路へと向かっていく。 
 
 
 
 
  
 

 

 

 

2010年3月14日

不可能を可能にする力。 ~人類からの懺悔、「アバター」を観て~

 
 
 
 

 
 
 
 アバターを見てから数時間、私の頭の中はジェームズキャメロンのことでいっぱいだ。
 いったい何者だ。彼が作った映画といえば「タイタニック」しか思い浮かばない。あの、退屈して途中2回もトイレに立った、ハーレクイン・ロマンスみたいな映画の監督ではないか。なぜ突然こんな映画を作った?彼の経歴は?どんな人生を歩んできたのか。
 
 
 「アバター」の世界を実体化することはジェームズキャメロン監督の少年のころからの夢だったと言う。
 ありとあらゆるSF小説を読み漁り、夢想していた少年は、14歳の時、キューブリックの「2001年宇宙の旅」を見て、実現方法を映画と定めた。
 映画は夢の世界だ。ありきたりな意味で言えば、見る者に夢を与える… 空想の世界を2時間のおとぎ話として体験させる… 夢想の世界を実体化する。どうも少し違う。
 不可能を可能にする。といえば、少し近いかもしれない。私が言いたいのは映画の中だけの夢の世界観ではなくて、映画という現実的な媒体に自身の夢を再生させるところがすごいと、そこに人類としての夢を、人間の無限の可能性を感じさせられるということだ。
 だから、今まで見た中で私が最も嫌っている映画は「セブン」である。あれを映画にする必要がどこにあるのか。すでに現実に溢れていることを映画という実体にして、そこに創り手としての夢はあるのか。人類としての夢は?可能性や未来はあるのか。さっぱり理解できないからだ。
 話が飛んだが、ほんの数時間前「アバター」を見てきたのである。私は予告編や特番でこの映画を目にして、どちらかと言えば見たい映画だとは思えなかった。
 まずキャラクターに魅力がないではないか。あの青い先住民、ナヴィにまったく親近感を覚えられない。アバターと言うと、思い出すのは私の代わりとして仮想世界を生きてくれるキャラクターだ。私の分身である。あんなのは嫌だ。私は年老いた私自身を忘れさせてくれるほど、若くて、愛らしく、お洒落で、性格も私の嫌なところを忘れさせてくるような、溌剌として人好きのいい、欲を言えば頭が良くて、人格者であるといい。そんなふうに思っていたのだ。
 自分に欠けたところを与えてくれるもの。不可能を可能にしてくれるもの。
 映画の主人公ジェイクもそうだった。彼は初めて自分のアバターであるナヴィと意識をリンクしたとき、(このあたりのシンクロニティを見て思わずエヴァンゲリオンを思い出したのは私だけか…)まず足の指を動かすのだ。現実の彼は足が不自由だった。彼は嬉しさのあまり思わず立ち上がり、少年のように駆け出していく。
 アバターによって自分を「取り戻し」、次にナビィとなることを心待ちにして眠ってから、私は次第に彼の夢を好きになりはじめた。青いナビィが好ましく、近しきものに思えてきたのだ。
 私はナビィになって、パンドラで冒険を始めた。バンジーと呼ばれる鳥(肉食飛行動物)に乗って、広大な森の中を駆け巡る。発光する魂の木の下で眠る。ナヴィの棲家として大きな木が出て来る。不思議な力が宿っているというホームツリーだ。地下には人類がのどから手が出るほど欲しがる高価な鉱石が眠っている。「われわれ」人類はその地下資源を採掘したいがために精霊の樹木をこっぱ微塵に吹き飛ばす。「私」の家を情け容赦なく奪うのだった。
 この映画のことを3Dの話題性だけで評価したり、ありきたりな勧善懲悪もの、と結論付ける方も多いようだが、それは疑問である。
 先住民ナヴィは神や自然、あらゆるものと調和して生き、彼らと繋がるものとして描かれている。神や自然の守護者(または神や自然そのものの象徴)だ。そして私が知る限り、人類と自然との闘いを映画いたハリウッドの映画で、人類の叡智は常に神宿る自然(自然災害)を打ち負かし、それらに敗れたという物語は存在しなかった。「それ」を描いたのは宮崎駿くらいではないか?
 私は何度も風の谷のナウシカやもののけ姫を思い出していた。外国の方なら、別の視点で、「2001年宇宙の旅」や「スターウォーズ」を思い出していたのかもしれない。それから、なぜか「ベンハー」を思いだしている。あの最後の競技場でのシーンを撮影するのに、本当に人が死んだという逸話を…
 この映画を実現化するにはあらゆる障害があったはずだ。商業的な成功を含めて製作サイドの思惑や、テクノロジーの進歩、ひとりの人間の夢想を現代の娯楽作品として蘇らせるために欠かせない歴史の蓄積。今までのすべての映画人が、成しとげてきたこと、成しとげようとしてきたこと。私は決して、ジェームズキャメロンが一人でこの映画を作ったとは思えない。これは、すべての夢の集大成ではないかと、歴史の彼らが乗りうつり、キャメロンに創らせたのではないか、そんなふうに思えてくるのだ。
 そんな映画の夢としての進化の極みである「アバター」は、人類がこれまで築き上げてきた世界観を完全に逆行し、人類の進歩を真っ向から否定している。
 そこが面白い。これは、人類の化身キャメロンからの懺悔ではないか。先住民への。神と、自然の意思への。
 私はこの作品がアカデミー賞の監督賞を獲れなかったことなど、そう考えると屁でもないように思う。キリストだって十字架に磔られ、処刑されたのだ。キャメロンがまだ映画界から追放されていないだけ驚きである。
 そんなことよりも、遥かに偉大なことを成し遂げたのではないか。何度も言うが、人類の過ちを認めたのはこの映画が初めてなのだ。そして彼が私たちの代りに磔になってくれた。この実体を創造し、作品としても成功させた功績は計り知れない。奇跡だとさえ思う。
 
 ラストに「エイリアン」である人間は破滅寸前の地球へと引き上げていく。そして、ジェイクはアバターの化身に魂を移して、ナビィとして生まれ変わる。
 その瞬間の、かっと目を開いたと同時のエンドマークが感慨深い。
 不可能は可能になる。「私」と共にあるならば。キャメロンは人類の進歩を否定しても、人類の可能性を決して否定してはしない。その奇跡を、希望として未来に託している。
 私はこの映画のDVDを買って、今後何度も見ようと思う。そして、道を誤りそうになったときには、「われわれ」にも繰り返し見て欲しいと心から願う。
 
 
 
 余談だがこの映画「アバター」は、中国では、突然上映打ち切りにされたそうである。
 さすが懺悔するつもりなど毛頭ない国ではあるだろう、と呆れ果てている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年3月7日

それでも挑み続ける浅田真央 ~見識なき2ちゃんねるを国民が支持する日は近 いか?~

 
 
 
 
 
(msn.産経ニュース2010.3.5 18:44
このニュースのトピックス:ネット犯罪
 
 ネット巨大掲示板「2ちゃんねる」が韓国のネットユーザーからサイバー攻撃を受けたとされる問題で、サーバーに被害を受けた米IT企業は5日、米連邦捜査局(FBI)に対し、被害状況などを正式に報告した。
 2ちゃんねるのサーバーが置かれているサンフランシスコのIT企業「PIE」社は、現地時間の2月28日から3日にかけて断続的に行われたサイバー攻撃に関し、攻撃方法や被害状況をFBIに正式に報告。中には、攻撃参加を表明した個人ブログのリストも含まれており、東京とソウルのFBI関連部署にも電話で同様の説明を行ったという。
 同社は「今回の被害をFBIに提出したのは報復としてではなく、このような行為がインターネットの世界からなくなることを願ってのこと」としている。
 一部報道では、6日に再び2ちゃんねるに対して大規模な攻撃が行われる計画があるとされており、同社では警戒を強めている。
 
 
 
 
 『小鳥ピヨピヨ』という大人気ブロガーいちるさんのブログで面白い記事を読んだ。
 「フィギュアという『競技の』見方」というもので、その見識もさることながら、彼が紹介している記事がまたすごい。バンクーバー五輪の女子フィギュアスケートで、浅田側とキムヨナ陣営の戦略の違い、その批判を上手く捉えたもので、特に「キムヨナの最高得点の意味を考える」の内容は衝撃的ですらある。
 簡単に言えば、キムヨナがたたき出した世界最高得点は今後のフィギュアスケート界に大きな影を落とす、ということで、それは永遠に亡霊のごとく立ちはだかり、未来の選手の全努力を否定する。彼らの結果はまともに評価されなくなり、そしてフィギュアスケートという競技自体が衰退してしまうだろうと、そう言っているのだ。
 確かにそれはそれは残念なことで、これから浅田がソチ五輪で金メダルを目指すということを考えると、もう彼女は何を越えようとしているのか、全くの無意味で可哀想にすら思えてくるのだが、それより何よりキムヨナの表彰式あとの浅田との抱擁の意味がやっとリアルにわかってぞっとする思いではあった。
 キムヨナはほんの若い頃、浅田に20点以上の差をつけられて負けたとき、その時の写真をずっと目に見えるところに飾っていたと言う。この悔しさを忘れないように、いつでも自分が負けた瞬間の写真(その中のキムの痩せてみすぼらしい姿と情けない顔ときたら!)を見続けていたと言う。
 もちろん浅田はそのときのキムなど眼中になく、抱擁もなかっただろうし、キム自身も自ら抱きつくことなど出来る心境でもなかったことだろう。
 彼女はずっと「あの」抱擁の瞬間だけを夢見て、頑張ってきたのではないか。小鳥ピヨピヨに紹介される戦略の批判記事のふたつも、キムの勝利に賭ける執念が浮かび上がってくる内容だった。そして、彼女の目的はオリンピックに勝つことだけではなかった。一生、浅田にとって手の届かない存在になること。永遠のクィーンとして、永遠に浅田の上に君臨し、彼女のその後の人生の全努力を無に帰すこと。キムヨナの敗北感、ひしゃげた自尊心の根はわれわれには理解できないほど深い深い底なし沼のようだなぁと感心してしまう。
 さぞ、愉快だったことだろう、やっとその時が訪れた。あの勝者の抱擁は、彼女の内心の高笑いと今後の浅田の人生への同情心であふれている。お見事、と言わざるを得ない。
 で、まぁ、それは置いておいて、(それでも浅田真央ちゃんはそんな思惑をものともせず、引退したキムヨナを尻目にこれからもずっと戦い続けるのだろうからね…)そんなバンクーバー五輪に見識あるものは腹を立て、まともな記事にするということだが、日本の国としてはどうなのかというとこれがまた不甲斐ないではないか。スケート連盟から正式に抗議を入れたという話も聞かないようだ。抗議で騒ぎになったのは冒頭の2ちゃんねるくらいだろう。
 不思議なことに、今回の件で、2ちゃんねらー(と言っていいのか)たちに私はおやっと思ったものだ。
 今まで2ちゃんねるというと、すぐ思い浮かぶのは「怖い」ということ。あれだけの規模で、匿名で、誰かをターゲットにすれば、相手はひとたまりもない。精神的に追い詰めて殺すくらいわけないのではないかと思われてくる。それくらい、悪意や嫉妬や恨みや人間のネガティブなダーティーな面に対する歯止めが何もない、恐ろしいツールだと思っていたのだ。ところが、今回の件で感心したのはなんと頼りになることか、ということだ。
 日本政府は立ちあがらなくても、彼らは立ちあがるわけだ。ネット右翼だの嫌中、嫌韓という方々が多いらしい。低レベルと言われ、日本では社会的に重きを置かれていない2ちゃんねるの発言を日本国の代表意見捉えて、まともにやり合った韓国の人達を見ていると、不思議でたまらなかった。これって意外と奇跡的なことなのではないかと思われてくるのだった。
 北教祖然り、日の丸君が代訴訟然り、自虐史観をお題目のように唱えて、日本民族の魂を骨抜きにしようと教育されているその現場に、彼らはいなかったのか。
 洗脳されなかったのだろうか。
 低学歴と言われようが、低レベルと言われようが、もしも彼らが引きこもりやニートだったとして、それら「大人の思惑」だの「内政干渉」だのに陥らなかったとしたならば、未来を託されるものとしてそれを免れたという事実はやはりすごい。意外とものすごい貴重な人たちなのではないか?
 洗脳された後に意識革命するのと、初めから洗脳されていないのと、どちらのレベルがいいのかその辺を突っ込まれると自信はないが、ふと私はそう思ってしまったのだ。学校に行かない子供たちや働きに行かない大人たちが増えていたとして、それはこの国を存続させるための時代の必然だったのではないかと。
 で、これからは2ちゃんねるに住み付くような人たちが日本を救うのね、と安直に考えるかというとそうでもないのだが、もしも彼らにフィギュアの浅田が批判されたような「戦略」が加われば、これは本当にどうなるかわからない話ではあるな、と。かなり化けるのではないか、と。
 2ちゃんねるの方々は、さて、どうして、いつも立ちあがるのでしょうか。それは誰にでもできることじゃない。私にだって日本政府だって出来ていない事だ。
 実名でなくていいから?愉快だからか?それともただのコミュニケーションだろうか。
 
 
 ここで、強引に今日読んだ本と結び付けてみたいと思う。
 「『あの戦争は何だったのか』大人のための歴史教科書」(保坂正康)という本を読んだのだ。読書後に、まず思い出したのが冒頭のニュースだった。
 著書は太平洋戦争とは一体何だったのかを考える趣旨で、日本人はその本当の意味を理解することから逃げているのではないかと作者は問うている。
「日本という国はあれだけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことがひとつの進歩のように思い込んでいるような気さえする」「あの戦争は何を意味して、どうして負けたのか、どういう構造の中でどういうことが起こったのか」それを明確にするために書いたのだと言う。
 何のためにこの時代に生きているのか、この国は何かを、と考えるとき、太平洋戦争を考えないで逃げていては答えは出ないそうだ。
 そこで作者は徴兵制の仕組みや帝国陸海軍の機構図を詳しく説明してくれる。開戦に至るまでの事件や快進撃から敗戦へとまっさかさまへ向かった過程を詳しく説明してくれる。
 意外に思ったのは、こんな一言だ。作者がこの戦争が決定的に愚かだったとする理由である。
 「当たり前のことではあるが、戦争を始めるからには勝利という目標を前提にしなければならない。その勝利が何なのか想定していないのだ」
 私は太平洋戦争は、負けると知っていても立ち上がらなければいけなかった、それだけの理由ではじめたものだと思っていた。
 勝算なんてない。無謀なのは知っている。それでも戦わなきゃいけない時があるものだ・・と。
 とは言っても、エリートの参謀(大本営)がいたはずだ。日清、日露戦争だって戦略がきちんとあっての上の勝利だった、さすがに負け戦といっても戦略くらいは立てていたのだろうと漠然と思い込んでいた。
 しかし、作者は「あれは逆ギレだった」と言うのである。普通ならば何かしらの「戦争の終結像」があるものだが、それがない。開戦時の日本の勝利とはどのような状態を意味したのか、作者が徹底的に調べたところによると、唯一見つかったのが昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった腹案だった。
「蒋介石政府を屈服させる。その上で、ドイツ、イタリアと提携してイギリスを屈服させ、アメリカの継戦意思を消失せしめる」
 日本が南進したのは石油や物資を求めてでもなく(それらは十分にあったという)、東南アジアのほぼ全域を支配下に収めていったのも、さしたる理由がなかった。
 勝利の腹案もあいまいな他国の意思任せ、中国を制圧するために援蒋ラインを切断しようとした「インパール作戦」もリスクばかりの無謀なもの。
 その時々の「戦術」はあっても、じゃあどうするのか、どうやって勝つのか、何を持って勝利とするか、理念に基づいた「戦略」の計画が徹底的に欠けていたと。
 逆ギレ、と聞いて、妙に納得した。あの戦争は、白人たちの列強の国々から、お前たちは入れてやらない、と締め出しを食らった日本人が頭にきて、キレたものだ。こうなったらやってやるもんね、と暴れてはみたが、無謀な闘いと知っていただけに根本的な「勝利の絵図」が描かれていなかった。
 パールハーバーに奇襲攻撃を書けた山本五十六の言葉が象徴的だ。近衛に開戦となったときの見通しを聞かれ、こう答えている。
「それは是非やれと言われれば初めの半年や一年の間はずいぶん暴れてごらんにいれる。しかしながら二年、三年となればまったく確信は持てぬ」
 山本は真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた。目的の空母はなかった。ただ敵の兵力に打撃を与えただけにとどまり、ハワイを制圧しようとしたわけでもなければ、そのあとアメリカ本土へ進もうと考えたわけでもない。自身がいう通り、「暴れた」だけだったのだ。
 日本はあの戦争で、逆ギレして暴れた。相手が参ったというはずだった。神の国、日本国が一体となって、国民総出で挑んだのだ。神風だって吹くだろう。その気迫に相手が恐れをなして、悪かったと言うはずだった。
 当時、軍にも見識を備えた人材はいたと言う。山内正文や磯田三郎、辰巳栄一、国際的なバランス感覚を持った彼らはアメリカと戦えるわけがないと訴えた。
 それでも、彼らは生かされず、中枢からすべて追い出され、日本は逆ギレ戦争へ突入したのだ。戦略もないまま。何よりそれを望んだのは国民だった。
 
 
 山本五十六は日本の快進撃が終わりを告げた昭和18年、4月18日、視察のために出かけたブーゲンビル島上空でアメリカの戦闘機に撃墜されて、死んだ。彼の視察の暗号電はアメリカ軍にすっかり傍受、解読されてしまっていたと言う。開戦直前から日本の暗号文はアメリカに筒抜けだった。
 日本の戦略ではない、戦術さえもアメリカは知り尽くしていた。歯が立つ相手ではなかったのだ。
 それでも立ち上がらなくてはいけない時がある…
 あの時日本がハル・ノートを受け入れて、賢明にもすべてから撤退していたら、どうなっていただろうと思うときがある。
 もしも、戦争を回避していたら…
 3月6日、賢明なる韓国ネチズンの方々はサイバーテロをやめたようだ。アメリカを巻き込んだと知って恐れをなしたと言うが、その賢明な判断はやはりキムヨナの戦略(または引退)とダブってしまう。
 彼らには感心するほどの賢さと、空恐ろしいほどの自尊心の根の深さを感じるが、そこに潔さと誇りを感じることは、ない。
 今、日本の片隅で起こっている戦争に、日本人はもっと、その意味を考える必要があるのではないだろうか。
 その「忘却は本当に進歩か」と。「逃げてはいないのか」と。
 そして、立ち上がる方々には、是非とも過去を教訓にして、逆ギレとは言わせないほどの戦略を立てて頂きたいと願うのだった。