2010年5月30日

私とカメラとマクロレンズ ~息の詰まる世界を確認するための散歩について~

 
 
 
 
 人生は成長する過程だと思っている。ところが私があまりにも良く躓き、良く転ぶので、このままでは及第しないとあやしんだのか、ある日天からカメラが降ってきた。
「これを使って勉強しなさい」
 もちろんそんな御言宣をじかに聞いたわけではない。何ごとも偶然を必然と捉えるいつもの癖で、そんなふうに感じたわけだ。
 そこで私は、カメラを抱えて、どこへでも出かけて行った。道を探し、道に迷いながら、躓かない、転ばない歩き方を模索し始めた。
 週末1日だけの撮影旅行を心待ちにした。帰宅すると、その日感じたこと、整理できたことを必ずブログに書いて心のメモとした。
 同じ過ちを繰り返さないようにと。
 
 
 
 
 道を行くには時間がかかる。何せ成長するためのツールなわけだから、ただ上手く撮ればいいというわけではなかった。時間をかけて移動しながら、その旅の中で様々なお題をクリアしていかねばならない。と言っても、全く写真が上手くなくてもいい、出かけた風景を撮れば何でもいい、というわけにもいかない。もちろん上手く撮ることも重要なお題のひとつである。無人島に行くならまだしも、人が多いところに旅をすればするほど上手く撮ることは難しい。難しい状況でお題をクリアすれば、その分、成長率がアップする。
 そこで私は様々な問題に折り合いをつけながら、写真旅行を続けてきた。私がそうして努力し続ける姿を望んでいる誰かがいると確信していた。
 自分のためだけになど頑張れない。今まで続けてこられたのは、カメラが、与えられたものだからだった。
 そんな私に先日ある事件が起きた。「誰か」のひとりから青天の霹靂と思われるような助言を頂いたのだった。
 その方がいうには、折り合いをつける写真には意味がない、と言うようなことで、上手く撮らなければ写真ではない、そう言い切るたぐいのものだった。
 確かに上手く撮らなければ意味がないが、それだけがすべての意味ではない。今までの旅を、成長を望むドラマを全否定されたような思いに陥った。
 そこで、少し停滞してしまったのだ。まるで山の中腹で座り込んで動けなくなったかのようであった。
 またか・・・
 こういったことは何度もあるのである。道に迷う、躓く、転ぶ、それから座り込んで動かなくなり、しまいにリタイア。その繰り返しの人生であった。
 
 
 折り合いをつける意味を見失った私は、とりあえず近場の公園に出かけた。そこなら三脚も使用できるし、移動距離がない分時間をかけて一枚一枚の写真をじっくり撮れるのだった。旅と言うよりは散歩の意味しかないが、助言はつまりは私が下手くそだと言うところからきているのだろう、しばらくのあいだ成長することをあきらめて、ただ写真の練習をするのもいいかもしれない、と前向きに考える。
 いつもの森と名のついた公園は雨上がりで美しかった。辿り着いた途端、入口の木々たちはしっとりと濡れた姿を晒し、若葉を青々と輝かせている。なるほど、旅をする意味もないかもしれないな、とふと思った。近場でこれだけの素材があるのだ。ここで見出すことはできないものか。
 私は誰に憚ることなく三脚を広げて、遠慮なしにしゃがみ込んでは、手当たり次第に撮り始めた。雨の滴の残った野の草や木々の葉に目をつける。助言で一番傷ついた一言はレンズのことだった。
 
 
 
 
 
 
 
 いつも書いているが、私はマクロレンズが嫌いである。初めて、キャノンの展示場で使わせてもらったとき、あまりにも簡単に、浅い被写界深度の暈け味のある美しい写真が撮れるので驚いたものだ。これでは何の技術もいらないなぁとがっかりした。もちろん極めようと思えば奥は深いのだろうし、マクロの世界の醍醐味がいくらでもあるのだろうが、私が求める旅の世界とはかけ離れて思えたのだった。成長を望むなら難易度が高い方がいい。私にはマクロレンズはまるで戦争でいうところの「核」だった。あれは核兵器であって、人間のドラマを生む戦争を不必要とするものだ。核の性能を極める気にはなれなかった。
 70-200㎜のズームレンズで花を撮ろうと思えば、三脚が必要だし、人の集まる美しい花が咲く場所で撮ることも難しい。かろうじて三脚を使えたとしても接写ができないので、やはり道行く人々にも気を使う。もちろん三脚だけのことを言えばマクロレンズでも必要なのは変わりはないが、比ではないような思いがする。おまけにあれだけ大きく、はっきりと撮れることはまずないだろう。重さも断然違う。マクロレンズで良かったのなら、今までの私の旅はどれだけ楽であったか。が、私は成長するために与えられた写真というツールを、より成長するためだけに使いたいのだった。なのに、助言者はマクロレンズを使わない写真は意味がないというようなことを言うのだ。マクロデビューと言う言葉も愛好家たちの間であるように、マクロレンズを持っている、使いこなせる、と言うことの価値基準は私が思うよりずっと高い。それも気に食わない。
 しかし、もしも誰かの一人の助言として、私にカメラを与えてくれたものがマクロを望むならば、私は意固地にならず使う義務があるだろうと漠然とは思った。ふらり翌日立ち寄った電気店で、しかしお目当てのレンズは陳列されていない。それも必然だとしたら、答えはそこではないなと考える。別の方法があるはずだ…
 
 
 
 
 
 
 
 
 エゴノキの花が濡れた道に落ちていた。今年もこの時季だったかと、時の流れと季節の移り変わりを実感しながら白い花々を見つめた。雑木林を抜けると緑の原っぱに出る。晴れていたら木漏れ日が美しいであろう野の草の周りには、花を身にまとったやまぼうしが数本立っていた。
 私は露出に気遣いながら丁寧に撮った。それからピントに。基本的なところをクリアできるように、いつも好きで使用しているソフトフィルターも外して、撮った後に何度も確認する。今日は道を行かなくていい。誰かと出逢わなくても、成長しなくてもいい。そう思うと気が楽になって、ただ撮ることに没頭できた。
「良いのが撮れましたか」
 公園内の民家園の入口で、男たちがふたり、煙草を吸っていた。ひとりが笑いながら声をかける。
 先ほどから、私が野いちごを撮っているのを、あれこれ喋っているのが耳に入っていた。「苺を撮っているんだよ・・」
 私は男たちの傍を何も答えずに頭を下げて、駆けていく。今日は人間のドラマはいらないし、欲しくなかった。これ以後私は誰の声も聞かないし、誰とも言葉を交わさない。息が詰まる思いを抱えて、人間たちから離れて行った。
 前向きに考えても、没頭しても、どうしても立ち止まってしまう今日だ。私は何度も休憩を取って、一人煙草をふかした。今までの努力がすべて無意味だったようにも思われてくる。何のために旅していたのだ・・・と堂々巡りに考えている。
 マクロレンズでないから上手く撮れないとは言わせたくない。私のお気に入りのレンズで勝負したかった。成長はここから始めたかった。
 だけど、私が「誰か」の助言を受け入れられない本当の理由は、マクロレンズ嫌いよりもそこにあるのだろう。それが負い目となって、のしかかってくる。
 私はまだこのレンズをものにしていない。このレンズの良さを生かし切れていない。それどころか、まるで使いこなせていないかもしれない。
 だから、マクロよりもこっちの方が断然いいのだと胸を張って思うことができない。誰かに向けて発信さえできない。
 民家園を出た私は公園の中央の池の傍で今度は菖蒲に目をつけた。菖蒲は難しい。上手く撮れたためしがなかった。今日こそは・・・と力みが入る。
 最初は散々だった。まず、菖蒲自体に美しいものが少ない。田舎の公園にあるまるで野草のような菖蒲だ。咲き始めたばかりだと言うのに、ところどころ傷んでいて、または枝を折って倒れかけている。美しい花があると今度は場所が悪い。遠い、近ければ前暈けが何も作れない味気ない場所にあったりでとにかく簡単な絵作りも難しい。色やピントや露出にまで、たどり着けないありさまだった。
 
 
 

 
 
 
 
 ひとまず落ち着こうと考えた。今日は太陽もない、曇り空の柔らかい光があるだけだ。どう活かそうか。私は通常曇り空だとコントラストを高くするのだが、今日は露出補正をプラスにして明るい絵を撮りたかった。そこで、ふとコントラストを下げてみる。それが低い状態ならば、いくら明さを上げても白飛びすることはない。
 ところがコントラストを下げると、色が綺麗に出ない。そこで今度は彩度を高くする。200㎜の望遠の状態で開放にし、露出補正プラス、コントラストを最大まで下げて、彩度を上げると、驚いたことに私が思った通りの絵になった。頭に思い描いていた絵が撮れ、花や葉の痛みも下手くそなフレーミングさえ気にならなくなった。
 思わぬ発見だった。私は実験的にこの設定のまま、写真を撮り続けた。今までこのレンズで失敗した数々のことを試してみる。
 胸が高鳴ってきた。もちろんまだまだ試行錯誤と技術を要するが、それでも一歩前進だ。なんせ今までは頭に思い描いていた絵が撮れたためしがないのだから。
 望遠ズームレンズでも、マクロレンズに勝てるかもしれない。
 私は可能性のようなものを感じて、ふいに我に返った。今度こそすっかり没頭していたらしく、立ち止まる思考が出てくる余地もなかった。いけるかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 まるで初恋をした女子中学生のようであった。どきどきしながら、撮り続けていると、最近の撮影旅行では試しのない電池切れの終わりとなった。
 最後、水連の花を撮って、それが3回目の撮り直しで、やっと思うように撮れた瞬間に液晶画面が真っ暗になる。確認できたのはほんの一瞬だったが、私はこれが答えだったと確信して、満足している。2回目ではなく、3回目の絵で終わりになったこと。一通り花の写真を撮って、最後に残ったのが水連であったこと。
 合格。今日はここまで。
 まるでそんな号令のようではないか。
 池の周りには網でザリガニを撮ろうとする親子連れ、カメラを持ってうろうろする外国人。いつものえさ場で鳥がやってくるのを待つ人たち。売店の前で声を掛け合う店員たち。まだ彼らは心には届かないが、それでも顔を見ることは出来た。視線を合わせるでもなく、私は世界を確認して、エゴノキの花を踏んで帰途に付く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年5月23日

花も富士もない旅路の ~初夏の檜洞丸を訪れる~

 
 
 
 
『檜洞丸のブナ林(山頂の木標より)
 
 この付近の林は、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の樹氷などに加え、シロヤシオ、トウゴクミツバツツジ、バイケイソ、マルダケブキなどが花を添えた美しく、多くの登山者に愛されてきました。しかし近年、ブナが次々に枯死するという異変が起きており、自然環境が大きく変化しています。これは、私たちの生活に起因する大気汚染などが原因ではないかと言われています』
 
 
 
 
 
 
 たぶん塔ノ岳山頂の尊仏山荘で写真を見てからだ。私は檜洞丸に魅せられた。
 初夏のシロヤシオとトウゴクミツバツツジの頃、この山は一番にぎわうと言う。幻想的な富士と花々の写真を何度も眺めた。行ってみたいものだ。
 5月の最終日曜にシロヤシオの開花期に合わせて山開きが行われる。三脚を抱えた私は人々の邪魔になる。山開きの前、花が咲いたばかりの頃を狙って出かけてみようと決めた。ずっと前から決めていた。
 久しぶりの山だった。私は緊張して富士急湘南バスに乗った。玄倉でバスが折り返すと、東を向いて走っていた車体が西を向いた途端、富士が見えた。私は身を乗り出して、バスの車窓から大げさに富士を眺めている。乗り合わせた人々は皆登山の装備を身にまとっていたが、私の行動に見向きもしない。大声で教えてあげたかった。
 富士が良く見えますよ。
 
 
 前回、あれは去年の夏だった。檜洞丸に登った時は朝からあいにくの雨だった。しとしとと小雨が降り続け、それがふと山頂近くで止んで、壮大な雲海とともに富士が顔を見せたのだ。期待していなかっただけにあの景色は嬉しかった。私は自分の幸運をかみしめたものだ。
 今日は午後から曇ると聞いているが、急いで登れば、山頂でシロヤシオとトウゴクミツバツツジと富士のあの夢に描いた光景が拝めるかもしれなかった。私は座っているのがもどかしくなった。終点の西丹沢自然教室に着くと、登山カードを書いて、早々に登り始める。コースを良く見て、時間割を決める。ゴーラ沢出合まで30分、展望園地は1時間、石棚山コース合流点まで1時間、山頂付近で写真を撮るのが30分、頂上には1時に着いて、昼食を撮って帰途に着く。余裕を持って決めたつもりだ。それぞれの地点まで、早く到着すれば、写真を撮る時間が増える。圏外になった携帯電話を取り出して、何度も時間をチェックする。
 
 ゴーラ沢出合までは3人の婦人たちと一緒だった。前に足の悪い単独の年配者、後ろに二人組のやはり年配者。私はリーダーシップが皆無なのか、この組み合わせが妙に性に合った。先頭の女性が岩場を登るたびに立ち止まって、両手を使って足を持ちあげている。後ろの二人は世間話や山の景色の見事さを語りあっている。前で詰まるので、後ろからせかされてもこのペースは私のせいではなく、逆にペースアップして、二人組を導くこともしなくていい。まだ急登りもないので、新緑の見事さを味わいながら、久しぶりの山道を楽しんでいる。
 ところが、前の女性が気を使って、道を避けた。「若い方はどうぞお先に。私はこんななので・・」
 がっかりした。彼女は、遅いペースに後ろが苛立っていると感じてしまったのだろうが、それともプレッシャーだったのかもしれないが、私はしどろもどろに礼を言って、追い越した。後ろの二人組も続く。こうなって来ると、遅く歩いても、早く歩いても責任が生じてくるので、どうもやりづらい。
「のんびり行きましょ。頂上にたどり着けば、山は良いというものではないわ」
 二人組の一人がきっぱりと言った。その声を背中で聞いて、安心をする。左手には東沢、涼しげな水の流れを感じながら、樹林帯を行く。ふと時計を見ると、ずいぶん押しているようだ。二人組も気が付けば大分後ろに離れていた。私はペースを上げることにする。つい先ほど抜かしていった男性ハイカーに標準を当てて、彼を追いかけるように、行く。
 そうしながら仕事のことを考えている。私は良く、自分が無能と思われたくないばかりに一生懸命やり過ぎて、周りをあおってしまうことがある。部下ならまだしも上司をあおる。ペースを乱された彼ら年配者や経験が上の者は私をやりづらい相手、もしくは無能と判断し、全くの逆効果になったりする。山を行く時は抜くこと、抜かれること、人々のペースについて、いろいろと慎重に考えるものだが、評価が絡むと忘れてしまうのだろうか、上手く出来ない。私は前方の男性を追いながら、職場でもこんなふうに、私よりも力のあるもの(ペースの速いもの)をただ追いかけて行こうと考えている。あおらないようにひっそりと、普通に楽々と歩いているように見せかけながら、心に気概を灯して追っていくのだ。
 ゴーラ沢出合には、彼のおかげでタイムテーブル通りにたどり着いた。沢を渡ると、ここから石段の鎖場の急登りが始まる。気温が上昇していた。汗をかいていたが、水を飲むと体力が落ちる。私だけかもしれないが、体がだるくなり登りにくい。私は急登りの前の休憩で口の中を濡らす程度の水を取って鎖場に挑んだ。ここからの同行者は数名の登山グループだ。私の沢渡りを手助けしてくれた方々である。彼らのあとを置いて行かれないよう付いていく。
 後ろには若い20代の男女、山登りが趣味の恋人同士だろうか。7名で団子状態になって登っている。前のグループがペースダウンすると、私は木々を眺めて、それから落ち葉を拾っている。まだブナの葉はない。目標と決めた男性グループが意外と遅く、私の体力が余ると気付いたころ、私は初めてブナの葉を見つけた。はっとして顔をあげ、辺りを見る。左手の斜面近くに細い若木のブナがサンゴジュのように幹を密集させて立っている。青々とした葉、ブナの新緑を見るのは今年初めてであった。
 
 
 
 

左・今年初めてのブナ  右・背の高いブナの木が見え始める

 

 
 私は人々の邪魔になる三脚を取り出して写真を撮るのは頂上付近(のシロヤシオとツツジと富士の絵)と決めていた。なので、記念すべきブナの写真は携帯のカメラで撮らせていただく。この初ブナを見てから、足元の落ち葉はブナばかりになるのだった。ブナ林か?と思って顔を上げると、確かに大きなブナらしき木はあるが、天を見ても葉が識別できないほど背が高い。地衣類がまだらに付く白い幹が特徴のブナだが、意外と幹だけではカエデ類やニレ科やシデ類と見分けがつかないことが多い。特に深山の中の木はわかりにくい。必ず葉っぱを見るのだが、背が高い木だと葉が遠いし、隣の木の葉と重なったりで一瞬ではわからないのだ。(なので落ち葉を確認しながら歩いているのだ)目を細めて良く良く見ると確かにブナである。多分この葉の厚みのある成木のブナが辺り一面にブナの葉を落としているだけで、ブナ林と言う景観とは程遠い。もう少し先に行くと、背も低いし、老木でも成木とも思えない若いブナたちがブナ林を形成していたが、こちらは逆に足元にはブナの葉は全く落ちていなかった。葉が薄く、落葉も少なかったのだろう。
 私は面白く思いながらブナの葉を踏んで歩いていく。辺りはコナラにアセビにヒメシャラ、ハルニレの新緑、もしくはカヤかモミか(もしかしたらメタコセイヤ?)の濃い緑の常緑樹。そして、ときどきブナ。背の高い彼が現れると、圧倒されて、馬鹿のように顔を上げる。男性グループたちがブナの木の下で何と小さく見えることか。
 休憩しようか。の掛け声とともに、彼らは私と後ろのカップルに道を譲るのだ。今更ながら、「こんにちは」を言って、お先にとかスミマセンとかまたしどろもどろに呟いて通り過ぎる。少し登るとすぐに展望園地だった。タイムは上々だ。初顔のハイカーに何人も合流する。ベンチには前から座っていた方々、富士を撮っていると、後から後からやってくる方々。後続組はたぶん一本後のバスで来たのだろう、こちらは若い方々が多かった。学生のグループと言ったところである。
「だめだ、上手く撮れないなぁ」
 と呟いている。若者の一人が富士を一生懸命撮っているが、コンデジではうまく映らないようだ。今日の富士は曇り空にうっすらと浮かび上がり、全くはっきりしない。まるで空に溶け込むように淡い線を描いている。携帯で上手く撮れない私は、リュックを開けて一眼レフカメラを取り出して、コントラストの設定を変えてPLフィルターを回しながら撮ってみるが、やはりこちらも携帯の絵とほとんど変わり映えがしない。しかし、このために写真愛好家用に作られたリュックを開けたことで、山男たちが食らいついてきた。
「面白いね~ 背中が全部開くんだね」
「どこのメーカー?」
 ミレーだのノースフェイスだのでは確かにこんな作りはないだろうな、と可笑しく思いながら、「カメラ用なんです。機材を入れられるように開けやすくなっていて」と説明している。
 
 
 
 
左・真ん中あたりにうっすらと見える富士  右・トウゴクミツバツツジが道道に見え始めた。頂上を期待させる。
 
 
 
 展望園地に辿り着いた時、この後の休憩地点でもそうだが、休んでいる人々の中に入っていく時、私はずいぶん気を使ったつもりだった。挨拶をして、邪魔しないように人々の輪に加わっていく。上手く言えないが、今までのように、人々が休む場所だから、私も当然そこで休んでいいのだ、とは思えない自分がいるのだった。私がある場所で休憩をしようと願うこと、そこに人々がいること、その方々が私が加わることを良しとして、私も彼らといても苦にならず、私たちみんなが一緒に休憩を取ること。そういうことは、意外と当たり前のことではないのではないかと思われて来た、とでも言うのだろうか。これは職場とか、趣味の教室とかで考えるとわかりやすいが、誰しも人は、労働力と引き換えにお給料をもらっているからとか、授業料を払っているからとか、だから当然というわけではなくて、その場に居させていただくということなのではないかと。そんなふうに思えてきたと言うか。この地球に生まれ落ちて、今生きているのも、同じことなのではないかと、少し大げさだがそんなふうに感じられてきたのだ。
 そう思うと今ここに、彼らと一緒に休憩しているのはずいぶんとありがたい話で、
「たぶんアウトドア用のメーカーではないから」
 などと答えて、感心してくれる方々が周りにいると言うのも、ずいぶん貴重な出来事なのだった。
 私は楽しいひと時を過ごして、ではお先に、と声をかけてまた山を登り始める。若者の集団は後ろに置いてきた。しばらく行くと、また前に別のグループと出くわしたが、こちらとの同行も短かった。お喋りしながら(本来のペースよりも)ゆっくりと進みたい彼らは、「人が来たよ~避けて避けて」とあっさり道を譲ってくれるのだった。
 前を行く人で二人組だが休憩のために止まったので、挨拶をして通り過ぎると、一言も返事をしてもらえないということもあった。 または前を行く人で明らかにペースが遅いが、道を譲ろうとは決してしない。負けん気を出したのか、一生懸命進んでいく方。後ろの同伴者から「人が来たよ、避けてあげて~」と大声で叫ばれて、今気付いたかのように道の脇に退いて、挨拶もそこそこ、ということも。私もその一人だが、いろんな方がいて、いろんなケースがある。山登りは人生の縮図のようで面白い。
 山と、あとはドライブか、私は山登りと運転を見ればその方の生きざまや人生がありありと浮かびあがってくるような思いがする。
 私は今の会社のことを考えた。山を登りながら、今のあの場所が与えられたのも、あの職場の人たちと偶然乗り合わせたことも、すべてが当り前の偶然というわけではないのだろうと。もしくは今の私の家族のことを考えた。私が一番生きやすいように、すべて導かれたのではないかと。自分が人生の中心で自分の都合よく考えたら、すべて、彼らは私のためにあるのだ。私のために乗り合わせてくれた人々だった。もしも問題があるならば、それは越えなければいけない、越えられるはずの試練であろう。私はずいぶんペースを上げていたようだ。若者は遠くなった。いつもは手を使い上半身を使って全身で登るものだが、今日は腰から下だけでサクサクと登っている。身体が飛ぶように軽い。若者が道を譲ってくれたわけではなくて、私の力が増したような思いがして来ている。しかしもしも、たとえば神が私のために、私が最も生きやすいようにと与えてくれた人々や場所や機会であるならば、今までの人生のつまずきや挫折は何だったのか。数多くの失敗は。それとも、あまりにも、何度も私が転ぶので、今こう身軽に進めているのは、神が見かねて、レベルを下げてくれたということなのだろうか。それとも、知らずに私の適応性が増したのか。
 2キロを過ぎたころから、立ち枯れのブナが多くなった。倒木も多く、まだ土に返れぬ彼らが無残に転がっている。そしてこの頃からハエが出始めた。ぶんぶんとまとわりついてうるさい。手で払うと、手の甲にぶつかるので、気持ち悪くて仕方がない。このハエは、まさか倒れたブナのせいで発生したのか。こんな山の上に、これだけのハエが集まるのだ。良く見ると、青く緑に光って、けっこう大きいではないか。それとも鹿が死んでいるのか。動物の死骸があると言うことか。
 私は崖沿いの柵を眺めた。鹿除けのためのフェンスだ。丹沢に多く発生するシカの食害で、ブナたちも深刻な被害を受けている。木肌が丸裸のものさえあった。しかし、もしもこれらのハエが動物の死骸、鹿の死骸から集まったものだとしたら・・・ 土に返った鹿が、その肉が養分となって土に吸収されていくところを想像した。ブナの張り巡るされた木の根がそれらを深い土の底から吸い取っているところを思った。昇るたびに、ブナの木は化物染みてくるのだ。木肌は黒くなり、もしくは朽ちかかり、根は何本もの足のように地上に迫り出して、延びている。それらのブナが、もしくは、夜中にふいに枝を動かして、食べ物を求めてさまよう鹿をふいとつまんで、山の谷底へ放り出す。そんな黒い闇の中の幻想を思った。それとももしくは、このハエは私だけにまとわりついているのか。若者の周りにはなかったではないか。
 私は苦笑いをしたものだが、ふと自分がすでに亡骸になっていて、ハエに見抜かれているような思いまでしてくる。なるほど、私のためのものであるはずだ、私はすでにこの世になくて、自分で自分にとって都合のいい世界を想像してるだけなのだ。だから、幸せを感じているのかもしれない。
 
 待ちに待った石棚山コース合流点が近付いた。この少し前に、大室山を見渡せるベンチがあり、その辺りからツツジのトンネルが始まるのだ。
 しかし、シロヤシオがわずかに咲いているだけだった。
 夢に描いたトウゴクミツバツツジと富士とシロヤシオの絵は現れず、どこまで登っても現れず、あきらめきれない私は三脚を取り出して、カメラに付けて担いで山頂まで登ったものだが、このときの同行者の老夫婦が、石棚山コースから降りてきた男性と会話を始めて、そうしてついに現実を受け入れた。
「あっちも全く咲いていませんでしたよ」
「そうですか。あちらもじゃあ仕方ない。去年来た時はもっと咲いてましたがねぇ」
「今年は一週間、いや、二週間遅いかもしれませんね」
「せっかく登ってきたのに・・・残念ですね」
 最後の言葉を発した婦人は、この後三脚を担いで歩く私に声をかけた。
「これじゃ写真に撮れませんね」
「ええ、残念です」
 私は彼女の言葉を繰り返した。
 
 
 
 
右・シロヤシオの花  左・頂上付近のベンチから。大室山を見渡す。僅かに咲いているシロヤシオ。
 
 
 
 
 富士は、せめて山頂の富士はと思えば、お昼を過ぎて、さらに曇り空に溶け込んでいた。肉眼で確認するのもやっとなほど、私が必死で写真に撮っているとあとからやって来た登山者が不思議そうに通り過ぎていく。
「良いカメラですね~」
「ええ、でもあんまり綺麗に出てないんですよね」
「あれ~富士があったんですか!」
 私が撮っているのが富士だと知って驚く始末だった。
 一週間後、あるいは二週間後、山開きのあとにもう一度来ようか。たとえ人が多くて、多少の迷惑をかけたとしても、トウゴクミツバツツジの紫とシロヤシオと富士の純白が空に重なるところが見たいものだ。
 山頂には大勢の人々、私は彼らの隙間に入れていただいて、一人おにぎりを食べている。まるで体が自分のものではないように軽かった。何人もに道を譲ってもらった。若者の足手まといになると思った日々さえ遠く感じた。
 だけど、花は見れないのだ。見たくて見たくて、仕方がなくて、ここまで登って来たというのに、空前に調子の良く感じる私の前にはついに現れなかった。
 私は山頂のブナを眺めて、彼の根元に腰を下ろしていた。小さな若葉をたくさん纏い、その姿を10メートル先から男性が写真に収めている。耀く若葉を見上げる顔がまぶしい。こんなことでがっかりしたら、ブナに失礼だな、と私も顔を上げた。今日はずいぶんたくさんのブナを見たものだった。
 すべてが上手いようにはいかないよ。調子に乗りすぎるなよと、まるで釘を刺されたようだ。
 生きているのだから。
 私は三脚をリュックに仕舞い、それでも裾野に咲いていたトウゴクミツバツツジを今度は一眼で撮ってやろうと首にぶら下げたまま駆けだした。2時間後のバスに何としても乗ってやろうと。焦って、急いで、何度も滑り腰を打ちながら。地を這うようにぶざまに進んでいくのだった。
 
 
 
 
ブナと山頂の標。ここでみんな記念撮影していた。
シロヤシオもトウゴクミツバツツジも咲いていない山頂付近。 右上に微かに富士が見えている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年5月16日

新宿御苑で空を見る。

 
 
 
 
 
 音楽ならば繰り返し聴くように、好きなものはただ味わうことに興味があって、知りたいとは思わない。
 知るということと、好きということが分離しているようだ。「○○音楽完全解読本」など読みたくないし、知識を得ると、つい吹聴して、「音楽論」などを語りだしたくなる。そうなると、私の好きな音楽が不意に俗っぽく感じられてくるのだった。
 もちろん知ることが俗だとは思っていないし、人並み以上の知識欲はあると思う。知るということは大切なことであると感じている。ところがやはり好きなものはだめだ。
 これだけは、ただ好きであることだけが尊いように思われるのだ。好きである対象についての知識を深めるよりも、好きであるその思いを深化させること、それだけがすべてではないか。でなければ本当に好きだとは言えないのではないか。
 そんなふうに「好き」を貫いて生きてきた私は、好きなものに対していつでも限界にぶち当たるのだった。
 好きなことを仕事にできない。(好きなだけでは飯は食えない)
 好きなことで人に負ける。(好きなだけでは他者の評価にそぐわない)
 誰よりも好きなことには自信があるのに、いつでもしっぽを巻いてすごすごと撤退する羽目になる。
 
 
 
 

 

 
 いつものように、カメラを抱えて出かけようとしたら、携帯が壊れた。
 正確に言うと、壊れた充電するための電源コードを無理やり差し込んだら差し込み口の突起が折れて、二度と何物もさし込められなくなった。もちろん充電など出来はしない。今の電池が切れたら、携帯は再起不能となる。朝の30秒ほどの出来事だった。
 私は青ざめた。写真旅行どころではなかった。なぜ出かけしなに壊れかかった電源コードを無理やり差し込まなくては行けなかったかと訊かれれば、外出先で電池が切れたら嫌だったからだ。充電マークがフルではなかったことにふと気が付いて、ほんの少しの時間で良いから充電しておこうと焦ったためであった。
 200ミリの望遠ズームレンズは家に置かれた。外出先は山ではなくて、ドコモショップになった。
 私は携帯やパソコンや機械上のネットワークによる繋がりというものをそう軽視していない。その小さな繋がりを遮断されたり、そこからはじき出されたりしたことで、親を殺したり、自殺をしたりする者の気持ちがわかる、と言うよりはそれが真実だと思ってしまう。
 誰もがハリネズミなのだ。ぶつかり合った痛みを受け入れてくれる場所も機会も現代にはありはしない。恐る恐る、お互い安全地帯から僅かな繋がりを保ち続け、それがすべてとなる。でももしも、場所と機会さえあったならば、痛みを受け入れてくれるものがあったならばと思うことはあるけれど・・当分私は携帯を肌身離さず、一瞬たりとも離さず握りしめて、生き続けることだろう。
 ドコモショップで携帯の電源差し込み口は直らないことを知り、それは大事なアンテナの役割をしていて、折れていると少々具合が悪いということを聞かされた。とりあえず、今日は卓上ホルダーを使うことにして、明日本体を交換することにする。保険を使って5千円だそうだ。なぜ保険料を毎月払っているのに5千円もかかるのか、安いとは思えないのだが、それでも小さな繋がりをほんの一時でも手放すことにはならなそうだった。卓上ホルダーは在庫のある新宿店に取りに行くことにする。
 新宿へ向かう電車の中で、私は本を読んだ。写真の露出の決め方の完全マスターというもの。プロの写真家5名が自分の撮った写真を例にとりながら、あらゆるシーンでの露出の決め方を解説してくれている。私は写真について正式に学んだことがほとんどないので、初めて知ることが多かった。心に残った絵やコメントを頭に入れて、この後試してみようと考えている。
 ドコモショップで卓上ホルダーに乗せてあげると、部品のちぎれた携帯は嬉しそうに点灯した。赤く輝く機種を見ながらほんの数分そうしている。充電のための携帯お預かりコーナーにはすぐに人がやってきて、鍵をかける気のない私はほんの少し温まった彼を抱えて店を出て行く。
 店内のパソコンで新宿御苑の地図は見ておいた。甲州街道をずっと行けばたどり着ける。この道を右だ…
 ところが歩けど歩けど、新宿門は現れなかった。右手に都庁が見え始めた。さすがに方向を間違えたと悟った私は念のため交番で「逆ですかね」と訊いてみる。
「新宿御苑ですか・・・全く方向が違いますが」
 まるで10代に見える若い警官は穴のあくほど人の顔を見つめるのだった。
 ドコモショップへ引き返して、甲州街道を逆方向へ進んでいく。新宿駅南口を過ぎるとすぐに新宿門だ。流れる大勢の人々と一緒に園内に滑り込んでいく。
 目指したのはフランス式の庭園だ。春薔薇が綺麗に咲いていると言う。樹木も美しく、「プロの写真家の解説付きお手本写真」の中でプラタナスの葉が輝いていた。
 花を撮るとマクロレンズが欲しくなる。標準のズームレンズでは無理があるなと思いながらも、別のアプローチを探している。大きく撮ればいいというものでもあるまいし。大体私は誰が撮っても綺麗に暈けて、誰が撮っても蕊まではっきり映るというあのマクロレンズが嫌いなのだ。あれを買うくらいなら中間リングを買って重い望遠ズームレンズに取り付けてやろうと思ってる。なのに、やはり手軽なマクロレンズがあればなぁと思う私がいるわけだ。
 
 
 
 

 
 
 
 悶々としながら、中途半端な花の絵を撮り、それからプラタナスの美しい並木を撮る。木肌の模様が芸術的だ。
 新宿御苑のプラタナスは明治時代に植えられたもので100歳近いと言う。新宿門傍のゆりのきというレストランの前にある木は特に立派で、2007年の台風で被害にあったというものの、幹の直径は2mは軽くあるのだ。包帯のような布で保護され、折れた身体をさらすその姿は立派と言うよりは「お化け」と呼んでもいいかもしれない。「お化けプラタナス」、「お化け染井吉野」、「お化けカツラ」、「お化けホオノキ」、「お化けケヤキ」、「お化けヒマラヤスギ」。新宿御苑にはお化けの樹木がたくさんある。敷地内の景観もさることながら、木を見て歩いているだけで飽きない。
 
 
 

 
 
 
 樹木の辞典は真っ先に買った。葉を見て、何の木かわかるという本を大切にいつも見ている。
 不思議なもので、これだけは好きなだけで見ているだけで良いというわけにはいかなかった。何の木かわかると、私はいっそう樹木が愛しくなったものだ。
 
 プラタナスの並木を過ぎて、日本庭園へと向かう。中央のイギリス風景式庭園と新宿門近くの芝生には、人々が溢れていて、近寄りがたい。彼らは花見のようにシートを引いて固まって、縄を引いて遊戯をしたり、お弁当を食べて、飲んで、それから毛布をかけて寝ているものもいた。
 来て早々、芝生に座り込み、横になる人を見た私は、自分もやりたいと思っていた。寝転がって、青い空を眺めたい。だけど、恥ずかしかった。一人では勇気がなくて、今もあまりにも多い人々を避けながら日本庭園の脇道を通っている。そうして、人気のないところで美しい芝があったら、絶対寝転んでやろうと思っているのだった。
 新宿御苑の人の多さは異常なほどだった。休日とは言え、ここまで人の集まる公園は見たことがないし、新宿御苑に来た中でも初めての経験だった。多くの人が園内でくつろいでいるというよりは園内に密集している。これだけ広大な土地がこれだけ埋まるほどの人々がよくぞ集まるものだ。
 「ゆりのき」のそばでプラタナスを見ていた私の前を新宿御苑の刺繍入りのベストを着た男が通り過ぎて行った。スタッフの彼は車を引いて、その上にはゴミ袋が山のように積み重なっている。薄い白濁のビニールからはコンビニのお弁当箱や飲みものの紙パックが透けて見えている。
 人が集まればゴミも出るのだった。消えていくゴミの山を眺めながら、私はまるでこのお化けプラタナスやお化け桜たちがたくさんの人々が吐き出すゴミを吸い取ってくれているような思いがしてくる。
 ここで憩いの時を過ごした彼らは、ゴミを預けて、安らかな表情で去っていくことだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日本式庭園の池の終わり付近で私はちょうどいい芝生を見つけた。辺りは低木に覆われて、まるで個室のようだ。私一人がちょうど寝そべることができる良いスペースになっていた。
 私はカメラとカバンを芝に置いて、身を横たえた。背中を芝に、大地に付けて、空を見上げる。
 今日は少し雲が多いようだ。だけど、青い。もう少し水色だと綺麗だと思うくらいの、そう劇的でもない空が広がっていた。
 感動するでもなく、私は空を見上げて、いい気持ちになっている。周りの樹木から、根の張る地から、変哲もない青の色から、暖かいものを授かっている。まるで力が満たされてくるようだった。
 
 この空で繋がっている。
 
 私はゆりのきのベンチを立ち上がった。ゴミ箱へ向かって、ペットボトルを捨てて行く。
 新宿門を出るときに、ありがとうと呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年5月9日

三渓園訪問記 ~若緑が目に沁みる~

 
 
 
 
 【松】一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意とする。(広辞苑より)
 
 
 
 
 
 
 
 三渓園は写真愛好家の作品によってよく目にしていた。
 外苑のシンボルの旧燈灯寺三重塔、手前に大池、という定番の構図は、実物を見る前から私をなえさせた。私はこの美しい庭園が嫌いだった。横浜にあるというところも嫌だった。あえて行こうとはしなかったのだ。
 土曜日、山に行こうとしていた私を引き止めたのは友人である。しかし、直接的な原因ではなく、心理的に言うならば、私は自分を少し変えたいと思っていて、いつもとは違う写真を撮ってみたい、という思いに駆られたことも大きい。
 私は使い慣れたレンズを置いて、70-200㎜の望遠ズームレンズを持った。絞り解放、ギリピンでの遠景、シャッタースピードを優先して取る花のブレ写真など、試すべき撮り方を頭に入れて、験(ゲン)の悪い横浜へ、好ましくない三渓園へと向かっていった。
 奇しくも青天である。
 行きたくて、行きたくて、たまらないところにやっと行けた時は雨や曇りが多いものだが、気の乗らない今日は絶景の撮影日和であった。
「しっかり勉強しなさい。青天にしてあげたからね」
 そう神様に背中を叩かれたようでもある。
 横浜駅から乗り換えて10分、根岸駅からバスでまた10分、三渓園にはすぐに辿り着いた。途中二度ほど道を尋ねたのだが、不思議とふたりとも簡潔でわかりやすい教え方である。
「こっちの方向をまっすぐです」
 と一人め、真直ぐ行った後のもう一人は、
「つきあたりを右に曲がってすぐの交差点を左に曲がって2,3分です」
 愛想もないが迷うこともなかった。一人目のこの方向を真っ直ぐという意味もなるほどという思いだった。手ぬかりなく、完ぺきなようである。面白みがなくて、ますます三渓園が嫌いになってくる。
 正面入口の前には到着したばかりのツアーバス、団体客数十名が2,3人のグループになって降り立ってくる。彼らは駐車場のトイレに行き、喫煙所で一服して、それから女性のガイドに促されて園内へと入って行った。付いていくと、すぐ正面に大池、手前に藤棚と園内地図が見えた。地図の前に立っているガイドらしき初老の男性に尋ねてみる。
「今ってお勧めの花はなんでしょう。あやめはありますか?」
「あやめはないんですが、花菖蒲なら。まだ咲き始めたばかりで向こうに(ここで藤棚の左奥を示す)ひとつ、ふたつ。でも黄菖蒲が綺麗に咲いていますよ」
 私は男が手を挙げて示した内苑方向の大池沿いを眺めた。入口前のポスターでは紫のあやめ(花菖蒲だったか)に大池、向こうには三重塔が見えて「完ぺき」だったものだ。まるで私がよく見る写真愛好家の写真のようであったが・・
 私はあやめではなく花菖蒲であること、紫ではなく黄色であることにがっかりしている。
 ガイドに礼を言うと、とりあえず前回亀戸天神で散々だった藤の花を撮ることにした。そうしているうちにも、後から後からツアー客がやってきては藤棚の下のベンチに座るのだ。「綺麗ねぇ」と大池を眺め、「集合写真撮りますよ」と声をかけられるまで。私と藤の間を行き来してはファインダーの中に雑多な影を作っていく。
 
 
 
 

 
 
 
 
 これもいつか誰かの写真で見慣れてた木船が池を漂っている。どうも今日の場所は良くないようだ。
「もっと船がこっちに来てればいいのにね」
 あとで三重塔を撮っているときに、横で三脚を広げていた男性にそう声をかけられた。
「そうでね!残念ですね!」
 私は大声で答えて、そのくせ内心ではホッとしていた。何せあやめだと思い込んでいたのは花菖蒲で、紫ではなく黄菖蒲ばかりだと言い、咲き始めたばかりの(群生とは程遠い)幾花かの寂しい咲き方で、おまけに・・・
 これで船だけちゃんと定位置に浮かんでいたら、まるで間の抜けたパロディではないかと考えている。
 カメラを持った方々はさすがに多く、いたるところで私はすれ違った。藤棚で、大池沿いで、初音茶屋の奥の寒霞橋で。蓮池の男性「カメラマン」は外国人だった。長い、大砲のレンズを持って、しゃがみ込み、白い小さな水連の花をずっと撮っていた。隣には同じようにしゃがみ込んで小さなカメラを構えた女性が二人、異国の三人で一花を狙い続けている。三脚は旅の荷物になるからやめたのだろうか、あれだけのレンズを使うならば、あと数キロ増えたとしても持ってきた方が良かったのに。隣の女性はともかく、彼にとってはと、残念な姿に思えてならなかった。
 数名の観光客を引き連れた初老のガイドとも再開した。蓮池の傍で、大池の傍で、何度もすれ違う。私が入口の藤棚の右手の大池沿い(彼が教えてくれた方向とは逆方向)で紫の花菖蒲を撮っている横を通り過ぎていくのだ。私はそのたびに、三脚と身を避けて、道の端っこにへばりついた。
 三重塔へ向かう頃には太陽は高くなっていた。私は空腹を覚えたが、茶屋の食事が意外と高いのを見て取ると、腹を満たすことをあっさりとあきらめた。今日に限って、おにぎりもチョコレートも持ってきていない。いつもは必ずリュックに入れたものだが、おかしいものだ。いつもと違うことを求めたせいか、いつもと違う感覚が、小さな失敗から、人々の姿ややり取りから、すべてにおいて違和感となっては付きまとって離れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 三脚を担いで、小山を登っていく。階段を上り切ると旧燈灯寺三重塔が現れた。遠くで見ているとずいぶん高く、大きく見えたものだが、あれは山の上にあったからというだけで、実物はずいぶん背も低いようだ。関東地方では最古の塔(1457年建築)だけあって、さすがに貫禄は否めないが、私からすると例えは悪いが、
 幽霊の正体見たり枯れ尾花
 といった感じである。この塔が夕陽や霧中に、満開の桜の中にそびえ立つ美しい絵を何度目にしたことか。まるで別世界の使者のように、私を突き放した塔が、今古き朽ちかかったありのままの姿で私の目の前に身をさらしていた。
 私は彼の一部をなおざりに切り取って、それからすぐに眼下の眺望を見に行くのだ。大池や旧燈灯寺本堂が見渡せた。右手に、松の木が二本、美しく立っている。
 また松だ。
 どうにかして、松を入れた展望を絵に収めたいが、一望できる場所から遠い。三脚の足場がなくて、松が上手く入らない。
 
 
 
 

 
 
 
 
 松風閣、と名前付けたのは、伊藤博文だと言う。三渓が別荘としていた中国風建築の建物、のちに海外からの要人に宿泊してもらうためのゲストハウスとなった館からは横浜の海と何本もの松が見渡せた。
 残念ながら当時斬新だった優美なる建物は関東大震災で消失し、現在はコンクリートの展望台になっているが、それでも、この旧原家の敷地の最高に位置する場所が松風と喩えられた意味は今でも色濃く残っているように思われた。
 三渓園の松はどれも美しかった。
 山で見かけるアカマツや、クロマツや、風情よりは樹木の価値しか持たない彼らを見慣れた私にとって、その繊細な美しさはまるで目に沁みるのだった。
 松の新緑越しに歓心橋を撮り、松の枝の合間から三重塔を撮る。松と藤、松と庵、アングルが可能な限り松を入れて撮ってみるのだ。
 
 
 私はこの園内の到るところに立つ松の木のおかげで、次第に三渓園に親しみを覚えてきた。私の生活にとって身近なものではなくても、近しいものを感じるのだ。写真愛好家の園内の写真だけではない、何度も、何度も、これは今まで私が目にしたものだ。
 この国にもっともなじみ深いものとして、常に描かれていたものであり、一般的に日本の美を形作るものの中には必ず存在するもの、し続けるもの。
 それが松だった。そうだ、こんなふうな・・・
 なぜ、愛好家の彼らはそのことをもっと早く私に見せてくれなかったのだろうか。
 中国かぶれの三渓氏も、当時松を愛していたかと思うと好ましく思えてくる。それとも松は中国古来の樹木だったか。わからない。が、それでも私は満足だった。
 私は外苑を一周して、最後の最後に旧燈灯寺本堂でお参りをした。いささか遅い参拝をして、敬虔な気持ちに包まれた後、歓心橋の傍のベンチに座って、躑躅を眺めている。彩り豊かな花たちは午後の陽を一身に浴びて、照り輝いている。つい先ほど、横笛庵の前で声をかけられた異国の「カメラマン」の言葉を思い返す。
「眩しすぎて上手く撮れないよ・・」
 彼は私の長いレンズをからかって、広角がいいよと自分のレンズを見せてくれた。そして訴えたのだ。こういう陽射しのきつい日は嫌いだということを・・
 上手く撮れない、いつでも上手く撮れない。それでも今の私は眩い陽射しを愛おく感じている。
 次に来る時は、あの松をもっともっと素敵に撮ってあげたいものだ。完ぺきな美が似合う三渓園に、その頃の私こそはよく馴染むことだろう。
 私は立ち上がった。天満宮に一礼をして、正面玄関前の藤棚へと帰っていく。花菖蒲が、一花、二花、ひっそりと咲いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年5月5日

【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫 鳩山政権を蝕む「反国家」の思想(拡散しま す)

 
 
 
 何度言葉を重ねてもうまく言い表せなかったこと。
 頭のいいかたは違いますね。
 ひとつの記事で、すべてをおっしゃってくださっています。
 
 
 
 
 
 

 国家といいたくないから市民社会といい、国民ともいいにくいので市民というような感覚の指導者が日本には少なくない。往時の自民党の大幹事長が“私は国民というより市民という表現を好む”といった趣旨のことをテレビで語っていたのを思い起こす。

 鳩山由紀夫氏が首相になるしばらく前まで「地球市民」という言葉を多用していたと友人から聞かされた。“日本は日本人だけが住まうところではない”と書いた鳩山氏の文章を読んで強い違和感を覚えたことは私にもある。

 ≪国家や共同体の価値認めず≫

 首相の言葉遣いがあまりに軽佻(けいちょう)浮薄、閣僚の発言もばらばら、一体、指導者が日本をどこに導いていこうとしているのかがまことに不鮮明だ、というのがマスコミによる現政権批判の常套(じょうとう)句である。

 そうだろうか。永住外国人への地方参政権付与や選択的夫婦別姓制度や人権侵害救済のための法案などがいずれ上程される可能性がある。東アジア共同体の創成といった構想も打ち出されている。これらを眺めるだけでも、民主党の政治家たちが胸中に秘めている思想の在処(ありか)にはある特定のベクトルがあって、彼らがめざす日本の将来像は決して不鮮明なものだとは私には思えない。むしろ思想は鮮明なのではないか。

 国家とか共同体といったものに価値を求めず、国家や共同体に拘束されない自由な「個」を善きものとみなす思想である。主権国家という空間、国民国家が紡いできた歴史、つまりは空間的、歴史的な「境界」概念を希薄化させ、むしろ境界意識を無効化させることが「個」としての「市民」には欠かせないという規範である。

 この規範が「ポストモダニズム(超近代)」なる思想である。思想としては曖昧(あいまい)で多義的に過ぎよう。しかし、むしろ定義が曖昧で多様な意味と感覚を盛り込めるがゆえに社会の「雰囲気」を包容的に示し、しかもこの概念には、問わず語りに社会の向かうべき方向性までが暗示されている。

 ≪現実性欠いた東アジア共同体≫

 特定の領域と領域内に住まう人々のうえに君臨する唯一の合法的な権力が国家であり、武力とナショナリズムをもって自国を防衛するという主権国家の時代が「モダン」である。対照的に「ポストモダン」の時代においては、経済や立法や防衛などについては主権国家の意思決定にかえて国際的な枠組みや条約が強力となり、内政と外政の区別が曖昧化し、かかる状態を求むべき規範とする思想がポストモダニズムである。

 確かにEU(欧州連合)においては単一市場が形成され、単一通貨ユーロと共通通商政策が導入され、これらを保障するEU法が国内法に優先する超国家的統合が実現されつつある。安全保障面からみればEUは「不戦共同体」となったかの感がある。人々はナショナリズムから遠く離れ、「個」としての市民的自由のありようのみが問われるべき関心となっている。

 しかし、日本はEUの一員ではない。日本はナショナリズムと反日を国是とする「モダン」の国々を近在に擁する。ナショナリズムと反日の海の中で、日本がひとりポストナショナリズムの涼しい顔で船を漕いでいるという奇妙な構図が東アジアである。東アジアの地政学的状況は、欧米とは異なる。にもかかわらずポストモダニズムそれ自体が「善きもの」として日本人に受け入れられ、これが欧州はもとより東アジアにおいても妥当性をもつかのごとくに思考されてしまっている。

 東アジア共同体は、共通通貨と恒久的安全保障枠組みの形成をめざすという。可能とは思われない。日中関係、日韓関係は半世紀近くをかけてなお氷解していない。氷解していないどころか、中国は尖閣諸島の領有に並々ならぬ意欲をもち、韓国は竹島の不法支配をますます強固なものとしている。東シナ海の制海権はほどなく中国に握られよう。北朝鮮の核ミサイル保有宣言もそう遠い日のことではあるまい。

 ≪夫婦別姓で家族の解体へ≫

 永住外国人の地方参政権は、地方自治体の反国家的行動の抑止を難しくさせる権利となるかもしれない。選択的夫婦別姓制度は血族・姻族・配偶関係を不透明なものとし、家族という共同体の基礎を毀損(きそん)してしまいかねない。人権侵害救済法は、「反差別」の名のもとに黒々とした情念をたぎらせる反国家集団の排除を困難とし、時に権力の内部に彼らを招き入れてしまう危険な可能性がある。

 現政権の政治家たちが抱く国家像は不鮮明のようでいて、多少とも遠目からこれを眺めれば、ポストモダニズムという危うい思想を現実化するためのいくつかの提言から成り立っていることがわかる。日本の近現代史において稀なる国家解体の思想である。

 現代に生きる日本人の多くが多かれ少なかれ抱えもつ「わが内なるポストモダニズム」を真摯(しんし)にみつめ、国家共同体としての日本に改めて覚醒(かくせい)しなければならないと思うのである。(わたなべ としお)

 

 

 

2010年5月2日

未来の空へ ~新緑の頃、高麗山から浅間山、湘南平の最後の旅路~

 
 
 
 
 
 うたた寝していたら夢を見た。
 私はバスに乗って買い物に出かける。近場の町へ、ちょっとそこまでといった様子で、いつも家で部屋着の上にひっかけているフリースのガウン姿だ。かっちりとボタンを締めて、その下は何も着ていないのか、部屋着が恥ずかしいから隠しているのか、ワンピースのような趣で小さなカバンをひとつぶら下げている。
 バス停広場を過ぎると町の入口の娯楽施設、立派な建物がそびえている。通り抜けると、温泉街のような坂道続きの商店が並び、通りから右へ左へ、細い道が広がっていく。初め楽しみながら店を見ていた私は、ふと道を見失った。帰り道がわからなくなり、辺りは暗くなる。商店街の前に立っている男に、バス停までの道を尋ねると、困った顔をしてこういう。「それは20ウィルですので・・・」
 1kmに付きいくらと定められた貨幣単位で道を教えているのだと言う。私は今まの人生で道を尋ねて、お金を払った記憶がない。なぜ、ばかばかしい、という思いがこみ上げてくるのだった。1ウィルはいくらだろう・・そう必死で考えながら、だって、この町にこんなに複雑な道をめぐらせたのは、あなたたちではないかと。東西十字でもなく、どこへ通じるかもわからない町を作り上げて、迷った観光客からお金を取るなんてそんなのずるいだろうと。
 腹を立てながら、私は自分の恰好が恥ずかしくなってきてたまらないのだ。こんなに長くうろうろするつもりはなかった。ねま着のような姿のおかげで、行きすぎる楽しそうな観光客たちから見下されているように思われてくる。彼らにも道は聞けない。声をかけられない。
 そうだ。道を探すことができないならば、来た道を戻ればいいのだ。あの大きな観光協会のような施設にさえたどり着ければ、バス停はすぐだ。すぐに帰れるだろう。
 ところが私は、娯楽施設をすぐに見つけるものの、なかなかそこを通り抜けられないのだった。子供たちに阻まれたり、走って、人を押しのけて走っても、まだ、まだ、敷地内をうろうろいているのであった。バス停が見えない・・・1ウィルはいくらだろう・・・景色はどんどん闇に包まれて来て、街灯が赤々とともり始める。
 
 
 
 

 
 
 
 4年間住んでいた部屋を引っ越すことになった。
 今日は最後の土曜日だ。
 ここに住んでいる間、私はずいぶんとたくさんのことを学んだようだ。思い出も数多い。暇つぶしのように過ごしていたそれ以前とは、まったく違った時を過ごしていた。充実していたと言えばそうだ。ここを出て行くということは、そのがむしゃらに、スポンジのように吸収し続けた時間そのものが終わるかのような、惜別の思いがある。
 毎週土曜日は写真を撮りに出かけていた。学びと、たくさんの思い出を与えてくれた、最愛の趣味だった。
 私は最後の土曜日を飾るように、4年間のうちの絶調期の頃のようにリュックとおにぎりを持って、散歩に行こうと心に決めた。山がいい。新緑の綺麗な、小さな山を登るのだ。使わなくても、替えの、お気に入りのレンズと、三脚を携えて行こう。
 ところが、お米は切れていた。引っ越しする時の荷物になるので、買わなかったのだ。リュックは新居に運ばれていた。私は儀式をしくじったような、痛ましい思いを感じながら、新しいショルダーのカバンを斜めに下げて、その中に5kg程あるレンズを収め、肩に3kgの三脚を担いだ。首元からはこれも2、3kgはあるだろう、カメラをぶら下げる。重い。目的地の大磯について、高麗山入口の高来神社まで25分ほどの道のりの間に、体中が荷物の力点である首(のつけ根から肩)だけになったように思われた。
 陽射しが降りかかってきた。今日の陽気は最高気温が22度と聞いていたが、その時、8時半時点で、すでに22度は越えているように感じられる、そんな暑さだった。
 首だけの私は深く帽子をかぶり、下を向いて、まだ山を登るでもないのに、一歩一歩のんびりと進んでいく。暑いねぇ、重いねぇ、と時々独り言。どうやらだいぶ体力が落ちているようだった。
 私が下を向く理由はもうひとつあった。最後の旅だというのに、目的の山は山頂の展望がないという。私はこの大切な事実を行きの電車の中ではじめて(ガイドブックを確認して)知ったのだった。なんと愚かなこと。高麗山も、尾根続きの浅間山も山頂は木々で覆われ、富士も海も見えないのだ。浅間山の先に湘南平というカップルに知られた観光名所があるが、その展望台からは景色は見渡せるものの、車で行くことが一般的な湘南平の山頂からの眺望は目的となるのだろうか。
 大磯駅から平塚方面へ東海道線沿いを歩いていくと、国道1号に合流し、すぐに高来神社への標識が見えた。左に曲がると、参道だ。新旧の鳥居が二つ、本殿の裏から山道が始まる。高来神社の名前も戦時中に日韓併合のあとに変えられたそうだ。このあたりの高麗という地名は、かつて唐と新羅に攻めれて滅びた高句麗の王族が難を逃れて上陸したことから名付けられたという。
 眺望のない山の山頂で、私はその説明文を聴いて苦笑いをしたものだ。それさえも私は知らなくて、ネットの下調べでは、「かつて高句麗が攻めてきて、地元の人々が山に登って難を逃れた」というふうに、全く違う事実として理解していたのだった。
 
 
 
 
高来神社より高麗山山頂を望んで。
この石段を登ると、高麗山山頂。
「(移り住んだ彼らが)この付近に高句麗文化をもたらした」というくだりが石か何かで傷つけられ消されている。
 
 
 
 
 茂る木々のトンネルが果てで割れ、眩い新緑が見えていた。たどり着くと山頂だった。私は山頂の説明文を見て、大きな欅を写真に撮りながら、馬鹿みたいだなぁと独り毒づいている。楽しい最後の散歩にするはずだったのだが、どうも初めの儀式から予習不足から勘違いから、何から何まで気が抜けているようだった。新しい生活は大丈夫なのかと、不安を感じ始める。笑い声が聞こえてきて、色とりどりの鮮やかなスポーツウェアを着た若者たちが、山頂を称え始める。
「わ~!着いた。いいねぇ、ここ」
「けっこうきついコースね、でも登りがいがある」
 彼らは走ってきたのだろう。ちょうどいいトレーニングコースらしい。私のように牛の歩みではないのだ。独り山頂で欅と格闘していた私は、はしゃぐ声をしり目に三脚を片付けて先を急ぎ始めた。尾根沿いの道、新緑が眩い、美しい道を歩いていれば、すぐに彼らは追い抜いて、道を避ける私に声もかけず、目にも入らないかのように颯爽と、風のように通り過ぎていく。
 もしも、苦しい思いを抱えて山頂にたどり着いたとして、その場所が木々で覆われていたら。何の眺望もなかったら。美しい景色が目に入らない場所だったらいったいどうなるんだろう。私はそんなことを漠然と思いながら、黙々と歩いていく。
 標高200m弱の小さな山なので、しばらく尾根を行けば、すぐに浅間山だ。ここでは年配者の10人程のグループが山頂の木の台と椅子を陣取って宴会をしていた。といってもお酒があるわけではないが、何本ものペットボトル、缶の飲み物が並び、食べ物が狭しと広げられている。ワイワイ、ガヤガヤ。その横に割り込んで、浅間神社と一等三角点、その横の大きな榎の木を写真に撮る。
 行けども、行けども、花もなく、緑ばかりの道だったが、これが本当に見ごたえがあるのだった。気の抜けた下を向く私を何度も捉え、がんと衝撃を食らわせる。例年、新緑の頃はこんなに美しかったか。私は彼らの姿を見て、思わず足取りも軽くなるのだった。先ほどの高麗山山頂にたどり着いた時は鬱蒼として光が足りないように思えたが、あれは常緑樹が多かったせいだろうか、浅間山へ続く尾根と浅間山山頂、そこから湘南平までの道のりはずっと緑が美しかった。青々と茂り、陽を浴びて、輝かんばかりだった。
 私は夢中になっていた。楽しんでいた。いつか鎌倉アルプスに行ったとき、生い茂る木々の写真、山道を行く人々の写真を失敗したことから、多くのことを学んでいた。同じ間違いを犯さないよう慎重に絞りとシャッタースピードを確認する。が、あの時と同じように眩い光の空がどうしても白飛びしてしまう。飛ばないようにすると、新緑の美しさが映えない。何度も撮りなおして、白飛びし過ぎず、緑が暗くなり過ぎない露出を探していた。
 
 
 
 
尾根沿いの大きなタブの木。
ところどころにベンチがあり、休憩できるようになっている。
 
浅間山山頂近くの木のテーブルと椅子。
 
 
 
 
 真剣に樹木を撮っていると、何度も声をかけられる。
「鳥ですか?」
 面倒くさいので初めは「そうです」と笑っている。二度目に「渡り鳥今たくさんいるみたいですね」と言われて「そうですね」と答えた後はさすがに気が引けた。今何の渡り鳥がいるのかもわからないでは、まるで詐欺のようだ。それからは聞かれると、「新緑が綺麗なので」、一本で通すことにした。木に張り付いて撮っていることから、からかうような言葉を投げかけてくるおじさまもいらしたが、「この葉っぱにピントを合わせて、こっちの景色をぼかしているんです」と言うと、けむに巻かれたような表情になる。ますます楽しくなってくる。「新緑が綺麗なので」とやって、通り過ぎた後に、追い越して行った老夫婦は、私がカメラを向けている木が撮影に値する貴重なものだと思ったのだろう、眩く見上げて、ぽんぽんと触って通り過ぎて行くのだった。大きな葉桜だったが、私はそれで嬉しくなってしまった。
 
 
 

 
浅間山山頂、神社と一等三角点と大きな榎。
 
 
 
 
 
 新緑など、目には入っていても良く良く見てはいないだろう道行く人が、私の行いによって、見上げ、触れて、興味を示してくれた。大好きな樹木を労わってくれた。それが嬉しくて、心が弾んできたのだった。私は葉桜を通り過ぎるときに、先程の婦人と同じように、その力強い幹を触れて行く。綺麗だね、ありがとう、と声をかける。
 浅間山からの尾根を伝い、最後の階段を登っていくと、湘南平の山頂広場が現れた。観光客が多くて、俗な印象がぬぐえなかったのだが、そこで見る眺望などと軽視していたものだが、それが何とも言えぬ良い眺めなのだった。決して海や富士が見えるからだけではなく、広場に集う人々がみな楽しそうで、広大な敷地に青々とした芝や樹木、藤棚に八重桜に躑躅が咲き誇り、まるで楽園のようなのであった。
 赤と白の鮮やかな電波塔、それから展望台、はしゃぐ子供たちに親やおじいさんおばあちゃんが付き添って説明する。
「あっちが丹沢、後ろは房総半島、伊豆半島・・」
 芝の上に座り、ベンチに腰掛け、ちょうど時刻は昼時なのだ、みなお弁当を広げている。その本当に穏やかな楽しそうな様子といったら。
 私は展望台に上り、富士山を写真に収めた。今日初めて見る富士だ。反対側の海も撮ってみる。しかし、なぜか緑の景色よりも美しさは感じられないし、心も弾むでもないのだった。山頂がたとえ木々に覆われていて、眺望がないとしても、それでも良かったのだな・・私は今日の最後の散歩を肯定的に捉えた。来て良かった。最後がこの時季で、この山で良かった。
 そんな浮ついた私を打ち砕いたのは、最後の一枚、海を背景にベンチに座る婦人を小さく収めて取っていた時だった。
 
 
 
 
この階段を上ると、湘南平山頂広場。
山頂の電波塔が見えてきた。
山頂広場から微かな海を眺める。
展望台から望んだ富士山。
展望台からの房総半島。江の島も薄っすらと見えている。
 
 
 
 
 最近は肖像権の問題もあるし、私は個人が特定できるようには撮らないようにしている。景色に溶け込んでいる美しい様の人々しか被写体にはしていない。つもりだった。ところが、ベンチに座り下を向いてもの思いにふけっていたご婦人の連れの男性が、突然ファインダーのなかに現れて、彼女をふさいだ。私ははっとした。自然な仕草だったし、たまたま彼女の前に立った、と見れなくもない。しかし、彼は私がいる間ずっと彼女が見えないように、自分が盾になっていたのだった。あきらかに、彼女を撮られることを嫌がっていて、私から守っていたとしか思えなかった。
 私は自分が変質者か何かと思われているようで、一気に気持ちがふさいでしまった。その場から離れられなくなり、ずっと写真を撮る真似をしていた。顔を上げず、カメラを覗き込んでいた。男と婦人はしばらくすると、立ち上がってベンチから去っていく。階段を上がり、私のすぐ横を通り過ぎて行った。
「そっち写真撮っているから、避けてあげなさい」
 と私の真ん前を登ってきていた夫人に声をかけ、腕を引っ張って視界から消えた。
 言葉はこちらを気遣ったもののように聞こえる。しかし、私はこう解釈している。「そっちは危ないからこっちに来なさい」
 私は彼らのいなくなったベンチに腰を下ろした。お弁当を広げて、海からの風を受けながら少し過ぎたお昼休憩にする。展望がなくても・・そう思って膨らんでいた風船はすでにしぼんでしまった。美しい海の景色を見ながら、すぐ下のアスレチックで楽しげに遊ぶ子供たちを見やりながら、もの寂しい気持ちになっている。
 海側の帰り道では誰とも会わなかった。湘南平には車で来るので、みな車で帰ったか、浅間山方面に戻ったのか、それともまだあの楽園で休んでいるのだろうか、道を下るものは私一人だ。行けども、行けども、木々。そのうち海もかき消された。
 私はふと音楽を聴きたくなった。携帯にダウンロードしたYELLを鳴らして聴きながら歩いていた。
 
さよならは悲しい言葉じゃない
それぞれの夢へと僕らを繋ぐYELL
 
 善兵衛池を通り過ぎると、大磯駅はもう暫くだ。深紅の躑躅と淡い桃色の山桜が住宅街にそよいでいる。2回続けて聞いたYELLは途中何度も音を止めるのだった。私は曲に乗って、先ほどの些細な出来事などほとんど何も感じられなくなるくらい歌を楽しんでいた。が、ぷつり、ぷつりと、そのたびに美しいメロディはメールの着信音に切り替わる。それを煩わしく思いながら、私はふと、幸福感に満たされるのだった。