2010年6月27日

梅雨時のワールドカップと浅草路地裏

 連日サッカーにはまっている。ワールドカップの試合を見ては楽しんでいるわけだが、それにしても日本代表はずいぶんと強くなったものだ。たまたま勝ってしまった、という感はなく、確かな実力に裏付けされていると思う。守備も素晴らしいが、一番感心してしまうのは攻める姿勢というのか。
 日本って、攻められたんだな・・・ 
 と当たり前のことを感嘆するほど、以前の日本とは雲泥の差があるように思われる。
 どうしてほんの数年前まで決定的に欠けていたことがこんな短期間で身に付いたのか不思議でならない。本田が海外から得た精神が他のメンバーに影響を与えたのか、それとも監督が教えたことなのか、それとも今まで土の底で耐え続けていたことがついに発酵されて芽が出たのか。
 ともかく、嬉しいのは日本人の監督のもとで決勝トーナメントへ進むのは初めてだと言うこと。そして、その勝利は日本人らしい戦い方、「組織力」を活かしたものから得たということ。
 指導者も戦術も輸入もんではない。そこがたまらない。
 このまま、散々「ない」とバカにされ続けた「ベスト4」まで突っ走って行って欲しいものだと切実に思う。自虐的な日本人がもっともっと元気になればいい。



 土曜日恒例の写真旅行を考えて、朝に呆然とするほど撮りたいものが思い浮かばない。サッカー呆けか。
 前夜、七福神にでも行こう、と思っていたことはいた。が、下調べも出来ないまま死んだように眠ってしまったので、朝になると突然探し当てた福の神を祀る寺社がどうも気に入らないのだった。
 こんなブームに乗って即興で作ってしまったような布袋様や大黒様は嫌だなぁ、と資料を見る。どんどん気持ちが覚めてくる。旬の題材でも撮りに行こうかと考えるが、先週紫陽花を撮ってしまった。二週連続は気が乗らない。そのうち出発時間がどんどん過ぎて行って、焦り始めた。
 ふと、そうして諦めてしまった。
 撮りたいものがない、行きたいところが思い浮かばない。こういうときは思いがないのだ。何を撮りに行っても、そのものに対する思いを伝えられるわけがない。ならば、絵的に綺麗なものをただ映しに出かけるか、それとも、ただの散歩と割り切って好きなものを気ままに撮るか。
 綺麗な情景を撮るほど好天に恵まれた日でもない。なので、私は自分が好いている町、浅草へ出掛けることにした。浅草寺をお参りすれば、昨夜望んだご利益も得られそうだ。
 24mm-70mmのズームレンズをカメラに付けて、ふらり電車に乗る。本を読みながら、1時間半ほどの旅を楽しんでいる。
 先ほど、撮りたいものがない、行きたいものがないから割り切って撮ると書いたが、時期的に旬の素材や、どうしても撮りたいもの行きたいところが思い浮かばない時、足を向けるところこそが、その人の本質を現わしているのかもしれないなとふと思う。当たり前のことだっただろうか。私は目的こそが本質だと思っていたから、このふとした考えは意外に思われたのだった。それとも私の目的は私の本質とかけ離れているのだろうか。
 いつの間にか、浅草駅の地下工事は完了していた。私は見慣れぬ改札を出て、目新しい地下道を歩く。地上に出ればすぐに雷門通りだ。人力車が列をなして、観光客を誘っている。
 まずは浅草寺へ向かう。お決まりのようにここが起点だ。




 本堂の工事は今年の11月末の完成を予定しているそうで、私の好きな深い屋根を拝むことは出来なかった。代わりに川端龍子さんが画いた金龍の絵が掲げられ、その目が睨んでいる。
 相変わらず外国人が多い。中国人が特に目立つ。団体で代わる代わるに浅草寺を背景にして記念撮影をするので、彼らがいなくなるのを待っていると随分と時間を食う。待ち飽きて、横から撮ったり、下がって撮ったり、浅草寺を撮りに来たのだか、中国人の団体客を撮りに来たのだかわからない構図になり、またしてもあきらめた。綺麗な絵を撮るのはやめたはずだ。私はモノクロに切り替えて、手ぶれ、ボケ、何でもありで、人を撮ることにした。
 浅草には味わい深い人々が多い。
 浅草は人が似合う。






 いつの間にか夢中になっていた。今がどこかわからなくなった。浅草寺から花屋敷通り、初音小路、六区ブロードウェイから、六区通り、公園通り、中央通り?気が付くと、自分が駅からずいぶん離れたところにいるようで、細い小路の交差点に立っていて、どの道を選べばどこへ行くのかわからなくなった。そんなに遠くには来てないはずだが・・





 

 とりあえず、感覚で選ぶ。すると、見知らぬ通りの名前を見つける。人の流れる方へ進む。ますます自信がなくなった。そうしながらも、真面目に探すでもなく、また人を追いかけている。
 空腹を感じたわけでもないが、小路で立ち食い蕎麦屋を見つけて、ふらりと入る。私と同じくらいの年代の女性が独りで切り盛りしている。
「今日は椅子が少ないね」
「雨が降りそうだったから出さなかったのよ」
 路地裏に並べた横長の椅子がひとつ足りないようだ。常連客に言われて、言い訳するように話しかけてくる。
「年を取ると、ここから出るのが面倒くさくなるの、一日この中で済ませようとして・・ ダメですね」
 突然の雨で、厨房から路地に出て、椅子を出すのが辛いのだそうだ。よほど、同じくらいの年だと言おうかと思ったが、やめた。常連が帰ると、路地の椅子は少なくても、座る人がいない。私は汗を流しながら熱いそばを食べて、また路地から路地へと歩いて行くのだ。
 





 浅草は灰皿の多い街だ。普段なかなか見かけないので、見つけたら休憩することに慣れている私は、ずいぶん本数を増やしてしまった。ふと、煙草を吸っている私の顔をぶしつけに見て近付いてくる男に気付く。すぐさま、振り向いて、避け、そのくせ大きなリヤカーを引いた浮浪者を見つけると大急ぎで煙草を消して追いかけていく。
 足の速い浮浪者だ…






 道がわからず、わからぬまま路地を巡っていた私はさすがにそろそろ帰ろうかと思い始める。雨が降って来たのだ。
 すると、すぐにローヤルと言う以前父と母と一緒に来た、またはそのあと何度か通っている喫茶店を見つける。ほっとした。ここが起点となれば、駅はすぐにわかる。
 やはりそう遠くへ行っていたわけではない。いつも歩いている道だった。なのに、不必要に心細い思いをしたものだ。
 koreaと背中に書かれた白いユニフォームを着ている団体客、鈴の音を鳴らして通りを徘徊する老婆、たぶん六区のことだ、ロックロックと叫ぶように会話を続ける少女たち、場外馬券場の前でカメラを向けたら「魂が吸い取られる」と笑って拒否する山師、うつろな目で寅さんのポスターを見る劇場の前の男たち、酒を飲む男たち、花やしきの前の芸人。
 それらすべての路地の人々を思い出しながら、今日の旅を終える。
 私たちの王国に篭もり、今宵もサッカーの試合を見ようではないか。



 
  

2010年6月20日

日本という制御システムと大局の政治家と。 ~川崎市立日本民家園で思う~

 
 『20世紀末までは、ごく一部の「考える人」と大多数の「従う人」がわかれていたため、「考えるための道具」は発達も普及もしていなかった。しかし21世紀は誰もが「自分で考える」ことを求められる』(「SEのための図解技術」より)



 「SEのための図解技術」という本が面白い。
 IT業界はビジネスプロセスを正確に認識して、システムとして実装するのが仕事であると著者は言う。そのために、問題認識のための図解の技術(企画・プレゼンテーションで使われる)と問題解決のための図解の技術(制御システム等の設計図で使われる)の両方を身につけようと言うものだ。
 本来、SEのための専門書なのだろうが、問題点を認識、解決するために、それらを図解にしていく様々な技術が記されていて、もちろんそれは、仕事以外にも使えることなので、いろいろな意味で参考になった。
 たとえばツリー構造論理。ピラミッドストラクチャは問題の共有認識に役に立つ。対して、ロジックツリーは問題発見の過程と解決策遂行の過程で役に立つ、とか。両方とも同じものだと思っていたのだ。または、因果関係と相関関係の違いも図解にすると良くわかる。こんなに簡単なことだったのかと驚かされた。
 で、一番感心したのは、「職人的文化と政治家的文化の対立の構図」というものだ。
 長年のビジネスシーン、もしくはプライベートな人間関係においての障害が、何が障害だったのかやっと理解できた。(わからないことの何がわかっていないかわからない、という状況はあまりにも多いものだ)
 それは現代の根深い社会問題の根本であり、ツリー構造ロジックと仮想機械ロジックの文化的対立なのだと著者は言う。
 世の中には二種類の人間がいるそうだ。これは専門書なので、たぶん仕事の役割のことを言っているのだろう。私が二種類の人間、と読んだだけだが、そう置き換えても問題ないかもしれないと思うほどありがちな話ではある。
 まず、職人的な人間。
 現代では問題が複雑化されている。それらすべての構造を組み立てることは不可能であり、まず、問題をいったん仮想化する必要がある。たとえば自動車の図をかくとしたならば、外形は意図的に簡略化して、エンジン、シフトレバーやイグニッションといった自動車にとっての本質的なパーツを描き込んでいく。「本質だけを残して、ディティールをすべて切り捨てるという人間にしかできない知的活動」を「仮想化」と呼んでいるのだ。仮想化した後に、複雑なツリー構造を組み立てて、車という機械のしくみのすべてを理解していく。こういった仮想機械ロジックを行う人間は、エンジニア的であり、職人的気質を持つ。全体と部分は複雑に絡み合っていて、ただの階層ではない。それを知っているので、細部にも決して手を抜かないタイプである。プロフェッショナルの価値が高い人間だ。
 もうひとつのタイプは政治家的な人間。
 彼らはツリー構造の上に成り立っていて、上の階級からの指示は絶対である。構造上、下位命題は上位命題に従わなければならない。そのため、細部にこだわることが出来ない。小局を捨てて、大局を生かす。専門的知識よりも幅広い知識を持ち、ジェネラリストとしての価値が高い人間である。
 世の中、細部にこだわっていたら話がまとまらない局面は多い。が、ここだけははしょってはならないという大事な細部もある。命題のために大局を求める連中と、細部にこだわる連中と。対立が起きるはずである。私の例で言わせてもらうと、会社の企画や営業と、業務(事務職)の間には大きな認識のずれと問題があった。どうやっても解決し尽くせない葛藤が常にあったように思う。
 で、作者はこの問題を解決するために、両方を兼ね備えた人間になれ!という結論を下すのだが、なるほど。それは置いておいて。
 私が感心したのは、問題を仮想化する過程と、仮想化した後のシュミレーションについてだ。
 仮想化とは本質を残すことだ。本質とは目的に対する意味である。
 車の例をまた言えば、「移動する」のが車本来の目的ならば、「パワーを生むエンジン、それを始動するイグニッション、その上を走る道路、燃料」などが意味を持つ。が、もしも早く走ってレースに勝つことが目的のフォーミュラマシンだと、外形が非常に重要な要素となって来る。
 そして、車には様々な部品があり、ひとつの目的に対して、ひとつひとつのパーツが異なる意味を持っている。それらすべての働きによって、初めて車は機能する。
 意味は固有のフォーメーションで機能する。それはツリー構造ではありえない。そして、このフォーメーションがそれぞれ様々な状況でどのように移り変わるのか、その仮想化した問題をシュミレーションをすることによって、ここが大事なのだが、「死守すべきポイントがわかる」というのである。
 つまり、問題に出くわしたときは、本質を残して仮想化する。そのあと、フォーメーションを考えて、シュミレーションする。すると、枝葉はどうでもよくなるのだ。すべてを守ることはできない。私の問題の本質の一番大切な部分、ここだけは譲れないというポイントがすぐにわかるというわけだ。
 この考え方はとても面白いではないか。何でも当てはめてみることが出来るのだ。
 たとえば、政治はどうだ?
 本格的なシュミレーションはすぐには出来難いとしても、本質は何かと訊かれたら?目的が分かれば、死守すべきポイントも見えて来る。
 日本の目的は菅さん風に言えば「強い国になって発展すること」? ならば、本質は。少子高齢化の国民を見捨てても外国人の移民を受け入れて、活性化させる、それが本質になので、枝葉は切り捨てられるわけだ。もしも、目的が「この国の存続」や「固有の文化文明を守ること」になれば、本質もまた変わってくる。「この国の自立」、「アメリカ支配からの脱却」、政治家によっていろいろと違うのだろうなぁなどと想像しては面白かった。
 何を枝葉にされて、何を死守すべきなのか、それがこの「本質を考える」という仮想化と対立する立場である「大局を求める」政治家が決めているのだ。
 せめて官僚を上手く使ってくれよ…と内心思いながら、ふと気が付くと私は日本民家園に辿り着いているのだった。


 今日は紫陽花を撮りに来たはずだ。私は雨の中、情感溢れる紫陽花の絵を撮ろうと決めていたのだった。ところが、訪れた生田緑地で紫陽花を探せない。歩けど歩けど、緑しかない。おまけに朝から降っていた雨はすっかりあがって、真夏の太陽が照り付けてくるのだった。
 よほど帰ってしまって、鎌倉にでも行こうかと思ったものだ。
 が、やっとのことで思い直して、警備員のスタッフに訊いてみた。
「この中に紫陽花はありますか?」
 万が一、生田緑地の中の民家園にあったら・・・と思いつめての質問であった。
 彼は一瞬考えてから、「鈴木家の裏に少しありました」と言うではないか。そこで私は見るはずもなかった日本の古民家を散々見ることになったのだ。
 不思議なもので、紫陽花を一通り撮り終わると、ついでのつもりだった古民家巡りが楽しくて仕方なかった。民家園の中は東北の村、関東の村、神奈川の村、と別れていて、それぞれに17世紀前後の古民家が建っている。古い農具や、水車小屋、船頭小屋などもあり、各村は田舎の集落のように山並みに固まっては佇んでいて、風情のあるものだった。
 そう言えば、小学生の時、遠足で来たということをふと思い出した。あの時も確かここだ。川崎の民家園だった。飽きてしまって、もう廻りたくないという友人たちと別れて、私はひとりで一番高い場所にある民家まで足を延ばしたものだ。あのころと違うのは、ガイドさんがいることくらいか。各住宅には、かっぽう着を着た老女と警備員風のガイドの男性が二人一組で配置されていた。
 女性は日本の故郷を連想させるために、男性は、外国人観光客に日本の歴史や家についてを話して聞かせるために、専門の知識を活用しているようだった。 
「へぇ!インドから来たのですか」
 素っ頓狂な男性ガイドの声。そのあと媚を売るような声音に変わる。
「それはそれはどうも遠くからありがたい」
 笑い声を聞きながら、のんびり家屋の中を見れた昔のほうが良かったなぁ、と考えている。
 観光、は民主党の命題だ。強い日本を創るために力を入れている政策だったと思い出す。
 私は山村のような古民家を端から端まで眺めて歩き、そうしながら、この美しい家の歴史を持つ日本という国がいつまでも続けばいいと改めて思うのだった。
 望んだわけでもないのに、導かれるようにここに今いることを不思議に思いながら。
 そして、この美しいほどの複雑な構造を持っている日本という制御システムが、大局を選ぶことによって機能しなくならなければいいのだがと杞憂しながら。





 
 

2010年6月19日

菅首相 「強い日本が欲しけりゃ、金をくれ!」 ~参議院選挙の争点を思う~




 参議院選の争点は消費税だそうだ。
 国は財政難で借金だらけ。いまどき増税なんて当たり前だろう。みんな苦しんでいる。この期に及んで、消費税増税を反対するなんて、自分の生活さえ良ければいいのか。何て身勝手なのだ。
 どうも、そういった空気になっているように思えてならない。
 民主党のスローガンは「強い経済、強い財政、強い社会保障。」
 元気な日本に戻るためには、犠牲が必要だ。みんなで耐えて、「強く」なろうではないかと。
 首相が変わっても、民主党のやっていることは何ひとつ変わっていない。
 耳触りのいい言葉を並べて、考える隙を与えずに、一定の方向へ導こうとしている。


 もはや自分たちがバラマキ政策をして、財政難に拍車をかけたことは忘れいてる。
 おまけに、4年間は増税しないと言って政権を獲ったことも忘れている。
 「強い、強い」と拳を振り上げられても、簡単に流されてはいけないだろう。


 で、ここで、一瞬じっくり考えてみた方がいいのではないかと、消費税の歴史を軽くおさらいしてみた。
 なにしろ次の選挙の争点だ。私たちの代表を選ぶ重要な問題なので、それくらいは知っておいた方がいいだろう。


 
 【消費税と選挙の歴史】
・1978年(昭和53年) 第1次大平内閣
 一般消費税導入案が浮上。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む。
・1986年(昭和61年) 第3次中曽根内閣
 売上税法構想。マスコミは反発。翌1987年、売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下。11月、中曽根内閣総辞職。
・1988年(昭和63年) 竹下内閣 
 消費税法が成立、12月30日公布。 消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。1989年6月3日、内閣総辞職。
・1989年(平成元年)4月1日
 消費税法施行 税率3%。
・1989年(平成元年) 宇野内閣 
 7月の第15回参議院議員通常選挙は、いわゆる3点セット(リクルート問題、消費税問題、宇野首相の女性問題)が争点となり、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる(これ以降2010年1月現在まで自民党は参院選後の単独過半数を確保できていない)。
・1994年(平成6年) 細川内閣
 消費税を廃止し、税率を7%とする“国民福祉税”構想。2月2日晩の政府・与党首脳会議で社会党や武村官房長官は消費税増税に強硬に反対するが、細川は3日午前1時に会見を開いて国民福祉税構想を発表。翌日の連立与党代表者会議で撤回。政権は国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失い、細川内閣は4月25日の閣議で総辞職。
・1997年(平成9年) 第2次橋本内閣
 既に村山内閣で内定していた地方消費税の導入と消費税等の税率引き上げ(4%→地方消費税を合わせて5%)を実施。1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。翌年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。橋本内閣は総辞職。



 
 こうやって見ていくと、消費税がらみの財政改革を打ち出した歴代内閣は、ほとんどがその直後の選挙で惨敗し、間をおかずに総辞職している。
 いくら時代が違うとは言っても、消費税の問題はやはり大きい。何人の歴代の政治家、もしくは官僚たちが、財政再建、財政の健全化を夢見たことか。
 そのすべてはことごとく破れたのだ。
 ところで、菅首相の所信表明演説で唯一私が心を動かされたのは、「超党派の財政健全化検討会議を創設する」というくだりだった。
 党を越えての会議。鳩山首相の時は聞かれなかった言葉だ。
 もしかして、と、思ったものだ。彼が平成の坂本竜馬なのかと。この国のために働く政治家たちを集めてひとつにしてくれるのではないかと。そんなわけはないのだが、「超党派」という響きに一瞬期待をしたわけだ。
 ところが、今日の新聞で彼が言うには、「自由民主党が提案されている10%をひとつの参考にしたいと考えている」だそうではないか。
 で、私はぎょっとしたわけだ。財政健全化検討会議では確かに「消費税の問題も含んで・・」とは言ってはいた。が、目的はこれだったのかと。
 参議院選挙の前に消費税を上げるとは明言できない。なので、歴代首相が破れ去った鬼門を乗り切るために、「超党派」を利用した、というわけだ。自民党はマニフェストに10%消費税増税を謳っている。それを参考にさせてもらうという言い方で便乗する。
 私はこのだまし討ちのようなやり方を知って、がっかりしてしまった。一瞬でも菅さんを坂本竜馬だなどと考えてことが恥ずかしくなった。

 すべては選挙のためだったのだ。しかも、自民党の10%は党の政策だが、民主党の場合は党内でも意見がまとまっていない。菅さんに歴代の政治家たちのような熱い思いがあって、その思いを通すために、仕方なく他党に責任をかぶせるような形で党の方針も固まらぬうちに提案をしたならば、それを国会で説明してほしかった。予算委員会を開くことなく、通常国会を閉会させてしまったことが悔やまれる。なぜ、そんなに焦る必要があったのか。
「国会で説明しなくても、選挙が近くなれば、テレビにたくさん出て討論するだろうから」と説明したそうだ。
 国会にいる政治家たちは私たちの代表なのだが、彼らよりもメディアを重視するのだろうか。
 強い経済、財政、社会保障と打ち出しながら、消費税増税は他党の案を参考にと言及を避ける。安定した国と、社会保障が欲しいならば、消費税を出すのが当然という空気を作り、しかもそれは私の言葉ではないですが、と念を押す。
 支持率が60%越えているうちに、国会を閉会する。
 選挙の前にテレビに出て説明すると言う。(それは国の政策うんぬんじゃなくて、パフォーマンスではないか?)
 やはりどう考えても、選挙のためだとしか思われず、すべては参議院選挙で勝つための姑息なやり方に思えてくるのだった。
 国民のことなんて、全く考えていない。この国の未来も全く考えていない。
 選挙で勝って、総辞職することなく、一日でも長く総理の椅子に座っていることしか頭にないように映る。
 もしも、真摯に日本を思っているならば、大変残念なことだ。そんなふうに思われてしまっては菅さんも哀しいことだろう。
 彼の頭の切れ方は、国民に一定の方向を示すことには成功している。だが、あまりにも姑息で、それが見え見えで、逆効果だ。誰だって、「自民党の案を参考に」にはびっくりしたことだろう。



北沢防衛相 「『自民党の10%を参考にさせてもらう』と、こういう表現は、まあ攻撃型の菅さんが、ずいぶん老成した政治家のようなテクニックをお使いになっとるなあと思って、感心をいたしております」
東京都石原都知事 「福祉を含め増税は、誰も禁句にしたがるし、政治家も弱いから。結局、(民主は)自民党が言い出した(増税論の)挙げ足をさらって、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』って、自民党の言い出したことを参考にうまくかすめて、『(自民も)一緒にやりましょう』というのはなかなかタクティカル(戦術的)」





 ところで、角界が騒がしいようだ。
 外国人頼みで成り立った国技はもうとうに崩壊していて、朝青竜の件で、それが露呈したと以前書いたが、さすがに治安も悪くなったものだなぁと驚かされた。
 ここのところ外国人頼みの政界も、崩壊が近いのではないかと心配になる。角界ほどまで治安が悪くならないうちに、どうにかしてほしいものだ。
 (外国人参政権付与法案を推進している、外国人の党首がいる政党が連立与党から去っただけでも幸いではあるが)
 
 

 

 

2010年6月13日

駅の鳩はなぜいなくなったのか。 ~薬師池公園で花菖蒲を見る~


菅首相、亀井氏辞任表明の際「ぐっすり寝ていた」 
msn産経ニュース 2010.6.11 11:08



官邸に入った菅直人首相=11日午前、首相官邸(酒巻俊介撮影) 民主党の細野豪志幹事長代理は11日朝のテレビ朝日番組で、国民新党の亀井静香代表が同日未明に郵政改革・金融相の辞任を表明したことを細野氏が報告に行った際、菅直人首相はぐっすり寝ていたことを明らかにした。

 細野氏は11日未明、亀井氏の辞意の報を伝えるため、菅首相が宿泊している東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニに駆けつけた。細野氏は「私が菅総理をたたき起こして亀井大臣に電話していただいた」と述べ、菅首相に亀井氏を慰留する電話をかけるよう頼んだことを明かした。

 細野氏は「(菅首相は)昨日、国民新党のみなさんと(民主党執行部が)いろいろと交渉しているのは知っていたが、そういう事態(亀井氏の閣僚辞任)にまで発展しているとは知りませんでしたね。(報告した際、首相は)はじめはちょっと、寝ておられたので、事態を把握できない雰囲気もなくはなかったんですが、すぐ、ああいう人ですから、ぱっとお分かりになって、電話をされた」などと語った。




 亀井郵政改革・金融相が辞任した。
 郵政改革法案が先延ばしにされたことが日本の経済にとって良かったか悪かったかは置いておいて、困ったのは「永住外国人の地方参政権付与法案」を阻止していた唯一の閣僚が消えしまったということだ。
「私がいる限りこの法案は通しません」
 と国会で言いきっていた亀井氏がいたからこそ、今まであぐらをかいて静観していた節がある。
 後任の自見氏は郵政法案には積極的だが、地方参政権の件では亀井氏ほどインパクトがない。政党の方針だから(亀井氏と同様に)反対してくれるだろう、などと安心していられないのではないか、そう思えてくる。どうもあやふやにされそうだ。
 それにしても菅さんは、あれだけ民主党初の鳩山内閣を盛り上げてくれた亀井氏が去るかどうかの瀬戸際に眠り込んでいるとは、何て間抜けな首相だろう。
 いくらクリーンな印象があるとは言っても、こんな間抜けに「トラスト・ミー」と言われても、はいそうですかとたやすく信じる気になどなれやしない。所信表明演説の全文を読んでみたが、ガンジーからやり手ビジネスマン風に言い回しが変わっただけで、鳩山前首相の演説と何ひとつ変わり映えがないではないか。おまけに彼は、地方参政権法案に賛成と来ている。
 
 2千年続いた日本という国を滅ぼそうとする法案だ。
 ただの善意なのか、それとも確信犯なのかは知らないが、亀井大臣も去った今、菅首相(内閣)を応援するわけにはいかない。民主党には次の参議院選で大敗してもらい、断じて消え去ってもらわなければならないのだ。

 さて、何が出来たものか…

 外国人の地方参政権法案を思う時、いつも思うのは、締め出されようとしているのはいったいどちらなのか、ということだ。外国人なのか、それとも日本国民なのか。
 たとえば先日、私は通勤駅でこんな張り紙を見た。
「糞害で困っています。鳩にエサを与えないでください!」
 何年か前この駅を使っていた時、ベンチにはペンキを零したような白い糞の跡が点々とあったように思う。が、ここ最近またこの駅を使うようになった私はそう言えば糞を見ていない。エサを与えなくなった結果、鳩が来なくなったのか。
 なるほどね、と思ってふと張り紙の先を見上げると、構内の天井には金網が張りめぐらされていた。
 そして、鳩が列をなして止まっていた天井近くの梁のような棒には20センチほどの細い金具が立っているのだ。端から端まで、銀色の針のように。私はぎょっとした。これは鳩が止まり木としないように、取り付けたものだ。この細い針に気付かずうっかりいつものようにとまろうとした鳩が何羽死んだことだろう、その針には鳩の羽がいくつも付着しているのだった。
 残虐物語のようでどうも見た後は居心地が悪かった。頭上には鳩を追い出す金網と鳩を殺す銀の針が張り巡らされている。その中で、私は糞を浴びることはないという環境を手にし、「糞害」から守られていたのだ。
 しかし、私は結構鳩がいる構内が好きだった。この場合、糞害に困っていたのは駅の利用者なのか、駅を掃除しなければならない持ち主なのか。すべての利用者が鳩好きばかりではない。糞を浴びて多少はクレームもあったろうから、やはり電鉄会社の側なんだろうなぁと思うわけだ。それともそういう場合は両方の意思が合致したということになるのかな。(利用者はあの鉄の針と鳩の死骸を連想させる羽を見たら、糞害?別にいいけどそれくらい、などと言いそうではあるが…)とりあえず、鳩は構内から締め出された。
 私はその時、ホームを歩いていた。どこまで鉄の針が続くのかホームの端から端まで上を見ながら歩いていた。電車がするりと入ってきて、後味の悪い思いを抱えて乗り込もうとした時、ふと影を見たのだ。良く見ると、つがいの鳩が針の立っていない柱の奥のわずかな隙間にうずくまっていた。
 ああ!良かった。ちゃんと生きて、まだここに暮している鳩もいるのだ、と安心したわけだが、たかが糞害のために鳩を追い出そうとする人間の残虐さと、あれだけ針を張り巡らされてもちゃんと隙間を見つけて居続ける鳩の逞しさが妙に心に残った。
 もしも、これを参政権問題に当てはめた時、綺麗ごとに糞害を叫んで鳩を締め出すのが政府だとしたら、人間は国民で、鳩は外国人ということになるだろうか。
 ところが現在糞害を叫んでいるのは政府ではない。彼らは大量の移民を受け入れて、国政への参政権まで付与しようとしているわけだ。ならば、鳩は国民か。平和でクリーンな構内のために、追いやられようとしているわけか。すべての構内の利用者のために鳩は殺さてもかわまないと。
 で、私は不思議に思うわけだ。国を守ろうとする気持ちは糞害だろうか。
 ふと私は自分が鳩に見えたのだ。彼らの生きている姿を見てほっとしたときに、これから私はああやって、針からの隙間を探して生きていくのだろうと。


 何も出来ないかもしれない。いつかうっかり針の罠にかかって消えていくのかもしれない。それまで、ケセラセラ、生きていこうではないかとまた週末の旅に出る。






 町田の薬師池公園では花菖蒲が満開だった。町田駅から、この公園行のバスに乗るのにいつものようにまた迷った。町田駅にある大きなバス乗り場でいくら探しても、薬師池公園のものがない。同じ行き先のバスを見つけて乗り込んだら、運転手がここではないと言うのだ。
「薬師池公園行きますか?」
「ああ、それはこのバス乗り場じゃないんだよね。町田駅○口の21番バスに乗るんだ。もしくはその○番乗り場の○○行きなら付くけど、本数が少ないから」
 町田駅は小田急とJRふたつある。小田急だけでも西口だの東口だの出口が数多い。運転手は丁寧に教えてくれたのだが、私は上手く聞き取れず、肝心のどっちの駅の何口からバスが出るのかわからない。出発時間が近いようで、そわそわしながら早口で教えてくれていた。聞き返すこともできず、礼を言って去り、携帯のサイトを使ってバス乗り場を調べている。
 ふと、バスの案内板に気が付いた。JA、小田急の入口をうろうろした後、初めのバスセンターの付近で、路線バスの行き先が点滅し、乗るバスを教えてくれるという機械を発見した。飛びつくように近付くと、老婆が行き先を探して見入っている。ずっと見ていて、離れないので、脇からのぞき込んだりしながら仕方なく待っている。あまりに長いので、いったん離れてまたもどるとふと別の老婆と会話をしているのが耳に入った。
「それはこちらじゃいんですよ。あちらですので、行ってみるとわかりますよ」
 ずっと案内板を見ていた老婆は自分行き先のバスを見つけられず、近くにいた方に訊いたようだ。その方が一生懸命道を教えているところだった。私は話をするなら、案内板から離れてしてくれると良いのになぁと思いながら聞き流していた。ところが、「薬師池」という単語を聞いて、はっとさせられる。
「ありがとうございます、行ってみます」
 老婆は薬師池に行きたかったのだ。どうやらそのバス乗り場を私と同じように探していたのだった。
 で、私はもう案内板などどうでもよく、行き先を聞いたはずの老婆のあとを付いて行った。途中追い越しそうになるが、何とか緩やかなペースを保ち、小田急町田駅の反対側までたどり着く。線路の前まで来て、老婆が立ち止まった。行き先は聞いたがこの後が良くわからないのか、辺りを見ながらさらにゆっくりと歩くのだった。ついに私は彼女を抜かしてしまった。自然に歩くふりをして通り越し、辺りを見回すと、ふと21番の標識の付いたバス停が目に入った。あそこだ!人が並んでいるからもうすぐバスが出るのだろう、私は駆けだして、ふと後ろを振り向いた。老婆がこのバス停に気付いたか気になったのだった。彼女の姿はなかった。薬師池公園行のバスが来て、乗り込むまで、私は彼女が来ないかとずっと後ろを振り返っていたが、ついに現れることはなかった。抜かして、バス停を見つけた時に、教えてあげれば良かったと後になって思った。けれど、黙って後をつけてきたのにそれもおかしなものではある・・・
 私を導いてくれたあの老婆が乗れなかったバスに、乗って薬師池公園に辿り着いた。
 バス停を降りて、裏口と書かれた道を一本入ると、もうそこは森の中だった。
 まるで山中のような雑木林が続き、眼下に菖蒲田が見渡せた。




 山中を降りて行く途中に水路があった。その水が水車小屋に続き、そこから菖蒲田に流れている。斜面に棚田のように作られているのだった。段々に咲く花菖蒲が見事だ。
 写真愛好家も多く、いつも三脚を使えるかどうか、私にとっての最重要課題であるそれも、ここでは何の問題にもされていない。彼らは当然のように長い脚を広げて、菖蒲田の前で三脚を並べている。
 こんな時に限って、私は三脚いらずのレンズである。課題も美しく撮ることとはかけ離れているようだ。まるで彼らが違う人種に見えてくる。
 私は初心者らしくまるで謙虚に、構図、フレーミング、露出、ピント、そんな基本的なことを気遣いながら出来るだけ丁寧に撮った。それでも見事な菖蒲田が私の絵になるとまるで間抜けになるので困ったものだ。あまりにも暑い1日だった。脳天がすぐに暑くなって、帽子を持っていなかった私は何度も頭に手のひらを置いて、熱を取った。





 菖蒲田を出て、園内を一周巡る。池に西側、雑木林の斜面の奥に野津田薬師と呼ばれる福王子薬師堂があった。ちょっとした小高い山を登って行くのだが、階段を登りきったところのベンチに婦人が二人腰掛けて、熱心に話をしている。うちのおとうさんがね・・・と、家族の話をしているようだった。
 通り過ぎて、斜面沿いに咲く紫陽花の花を眺めて、やっと薬師堂の階段下に辿り着く。鬱蒼とした木々に覆われた参道の階段の先には桜木の緑が輝いている。登りきると、屋根の長い本堂、左手に社務所のような休憩所、そして真ん前に大きな銀杏の木が立っている。





「樹齢不明」
 木札にそう書かれるほど、もうわからないくらい昔から立っているであろう、大きな銀杏だ。私は銀杏に圧倒されてずいぶん長いこと見つめていた。傍の休憩所の軒下に腰をかけて、銀杏とその奥の竹林を眺めている。夏草の伸びた竹林がふとリアルに見えてくるのだった。
「良いところねぇ、見どころがたくさんあるし、緑も綺麗で」
 園内を出るすぐに通り過ぎた婦人が隣の男性にはしゃぐように語りかけていた言葉だ。象徴的だと思ったように、ここは言い聞かせて思い込ませなければ意味のない場所のようだった。まるで生活から切り取られた小さな庭園の世界。私たちはそこを与えられて、そのわずかな世界で癒されていた。
 ふと私は銀杏と竹林を眺めながら休んでいるときに、そのことを忘れてしまった。ここが創られた世界だということを忘れ、小さな庭園の中のありがちな神社、まるでおもちゃのように感じていた・・・は別の意味を持って私の前に現れた。年齢不詳の銀杏のせいか、それとも竹林が風流だったのか、なぜ急にそんなふうに思えてきたのかわからないのだが、まるでこの国のどこかが、大和とか江戸とか武蔵とか別の言葉で呼ばれていた時代のその景色に見えてきて、まるで自分がその情景の中に俳人のようにひとり佇んでいるかのように感じられて来たのだった。歴史の景色にタイムスリップしたような感じというのだろうか、それよりもやはり実感に近い。閑寂の中で、今見ている景色が世界のすべてに思われた。
「そうしたら、死ぬかもしれない」
 階段上のベンチではまだ婦人二人が語り合っていた。おとうさんが・・とまた言っていたので、詳しくはわからないが、家族の話の続きなのだろう。
「そうしたらもう生きている意味がない」
  深刻な言葉に違和感を覚えることはなかった。鳩だって、張り巡らされた針の中、寄り添って生きているのだ。
 私は彼女たちを通り過ぎて、階段の上からこの世界を一望する。切り取られた森を確認してから、また裏口の道を抜けて、外へと戻っていくのだった。
 一本先はもう住宅街、バスの時間を気にしながら道路を駆けていく。







 
 

2010年6月6日

大室山花紀行。 ~トウゴクミツバツツジと峠の行者たち~

 
 
 
 
 終点より少し前のバス停で男女の登山者が降りた。
 彼らは西丹沢自然教室を始点にせず、ここから檜洞丸に登るのだ。
 おそろいのノースフェイスのジャケット、色違いで男性は黄色を、女性は鮮やかなグリーンを着ている。目に付いたのは、女性のゲーターだった。黄色のそれは男性と同じ色合いだった。
 メーカーだけでなく、色までこうして二人の一部が重なると、並んで歩くさまも絵になるし、微笑ましい。本人同士も同じ一部を身につけることによって、心強い思いがするのだろうか。一人じゃない。一緒に頑張っているのだと。
 ゲーターの色が一緒になったのはたまたまの偶然かもしれなかった。だけどその足元の小さな黄色の重なりが、私には軽薄ではない、強く清浄な繋がりに感じられたのだった。
 これから始まる険しい山道にこそふさわしいように思われた。
 
 
 

 
  
 
 先々週、トウゴクミツバツツジを見逃した私だ。また檜洞丸に登ろうかと思ったが、それはあまりに癪に障るので、すぐ隣の大室山に足を伸ばすことにした。
 大室山は丹沢山塊北部の雄峰で、武田信玄が小田原攻めの時に越えたという犬越路から一気に550メートルの登りがある。「あそこに行くなら天気の悪い日(曇り空で日が照っていないとき)がいい」。そうじゃないときついよ、といつか知人に聞かされたことがあるが、そのスケールは丹沢でも一、二を競うそうだ。
 ところで私はこの550メートルを標高ではなくて、距離だと勘違いしていた。
 頂上に着くまで、頂上付近に約0.5kmの急登り(イメージとしては鎖場の急登り)があるのだと信じ込んでいた。
 登れるだろうか、山頂付近ではいつも体力を使い果たしへろへろになる。おまけに今日は、午後から50パーセント以上の確率で雨だという天気予報だ。不安が頭をよぎるが、今週を逃すと梅雨入りが始まってしまいそうだ。梅雨明けはもう夏の陽気で体力的に自信がない。強行突破することに決める。
 どうしてもミツバツツジを見てやろうではないか。意気込んだものの、私の不安を後押しするように、西丹沢自然教室ではスタッフが叫んでいる。
「入山者は登山カードを書いてください!今日は3時過ぎから雨と雷の予報です~!」
 地元のご婦人のボランティアだろうか、いつもの男性スタッフではない、見かけない年配者の女性が二人。「雨」、と「雷」、と「避難小屋」という単語を繰り返す。
「降られたら、なんでしたら避難小屋がありますので、そこで待機するようにしてください!」
 入山者の表情に現れる戸惑いと一瞬の不安を、面白がっているのではないかと疑うほど溌剌と(もしくは嬉々として)諭している。「大室山・加入道山」と書いたカードをデスクに渡しに行くが、女性が仕切っているせいか、置き場がない。彼女に申告するのはどうも気がひけたので、話しているところを見計らって素早く渡した。
「お願いします」
「はい、どうも」
 もう一人の女性に本当は渡したかったのだが、私が近付いたら事務所内に逃げられてしまった。で、私はここでふと姉の話を思い出したわけだ。介護の現場にいた看護婦の姉が、入浴中のある老人が滑って頭から豪快に倒れ込むのを目にした。すると、同時に周りにいた看護婦が一斉に散った、というのだった。彼女たちは口を同じくして言った。「何も見てなかったわ」。幸い老人は無事だったが、上司に報告する段になると、「○○(姉の名字)さんが知ってるみたいよ」。
 この場合、雷の落ちる日に一人で山に登る私というのは、豪快に倒れる老人と変わらないのだろうなぁと思ったわけだ。仕切っていた婦人がしきりに前の団体との会話を続けていたのも、私が教室をうろうろしていたからかもしれなかった。まぁ、いい。どうにか無事に帰ってやろうではないかと気を取り直して、進む私の背中にまた声がかぶさってくる。
「今日は3時過ぎから雨と雷です~!」
 大室山は急いでも6,7時間の歩行距離だ。始発のバスに乗って入山するのが9時過ぎ、お昼休憩を考えると、写真を撮らなくても午後の4時過ぎが戻り時間となる。今日は山頂付近でミツバツツジを撮ろうと、70-200㎜の望遠ズームレンズと三脚を持ってきていた。じっくり写真を撮る時間があるかどうか… もしもミツバツツジを撮っている間に豪雨と雷に襲われたら… 私は引き返して、仕切っているご婦人に訊きに行った。私が3時過ぎにいるであろう、コースの地点の地図を示して。
「すみません、このへんに避難小屋はありますかね。大室山から加入道山のコースですが・・」
「ああ、加入道山を過ぎたらもうありませんねぇ」
 彼女はそっけなく言うのだった。おまけに、たったこれだけの質問をするのに、目を合わせたら逃げられて、近付いたら他の団体客と会話を始められてしまったので、終わるのを待っていなければいけなかった。どうも幸先が悪いようだ。
 
 私が今日の旅に大室山を選んだのは、檜洞丸にまた行くのはばつが悪い、ということもあるが、それよりも檜洞丸より空いているだろうと予想したことも手伝っていた。今日の檜洞丸の山頂は躑躅が満開だと、自然教室の男性スタッフが事務所の外で説明していた。
「今日は天気がいいですからね… 満開の躑躅を綺麗に撮れますよ」登山者たちを笑顔で送り出していた。
 ならば、みな檜洞丸に登るのだろう。案の定、大室山へ向かうのは私一人だった。檜洞丸の登山口を過ぎると、用木沢沿いの山路は誰も歩いていない。時々、キャンプ場の客と軒先にいる地元の人たちの顔を見るくらいで、登山者らしいものは見かけない。ここまでいないとは逆に思わなかったくらいだ。用木沢にかかる橋を渡り、渓谷を超えて、犬越道へと向かっていく。この渓谷で、うろうろと迷ってしまった。標識もなく、石場なので足跡(道)もなく、どちらへ進んでいいのかさっぱりわからない。何度もガイドブックと地図を見返している。
「木橋を数本渡り、右岸の鉄筋橋を高巻き、渓谷美の中を進んでいくと川原に出る。前方に小こうげの稜線が望まれる。ベンチを過ぎて右岸を高巻くようになり、ガレ場を越すとしばららくしてコシツバ沢を横切り、犬越路への最後の急登りだ」
 高巻く… 小こうげの稜線にガレ場… 今いる地点は川原のようだが、もしかしてこれがガレ場だろうか?まるでなぞ解きのようだ。さっぱりわからず、だんだんと私はふてくされてきて、犬越路の登山道にたどり着けなかったら、この渓谷の写真を撮って返ってしまおうと考えている。そうすれば、雨と雷の不安も消えてしまうだろう。その時は、もうツツジには縁がなかったとあきらめてしまおう。
 ところが、そのあとすぐに木の矢印の標識を見つけたのだ。「犬越路 2.5km」と書いてある。ベンチの向こうに木々の茂る登山道も見えている。目的を反故にしてもかまわないと思いかけた瞬間だったので、これには本当に意外な思いがした。私はベンチに座り、休憩を取って、それから山の神々にお祈りをした。
「どうぞお守りください」
 そこから、やっと登山がスタートしたのだった。犬越路の細い登山道に入るとすぐに大きなブナが目に入った。驚いて写真を撮る。登山の始まり、ブナ、それが合図のように、すぐに霧が立ち込め始めた。風で木々がうねり、音を鳴らす。そのたびに、昨夜の雨の残りだろうか、滴がざあと落ちてくるのだった。一瞬、雨が降り始めたか、と冷や冷やしながら、木々を見上げる。まだブナ林は始まらず、オオモミジにホオノキにケヤキにコナラ、時折霧の晴れ間から陽が差し込んで、彼らの新緑を輝かせている。それもつかの間だ。大越路まで0.8kmの標識を見た後から登りが険しくなってくる。比例するように霧も深くなるのだった。
 
 
 
犬越路入口の大きなブナの木。
霧で視界の悪い大越路。ただし、空気がひんやりしているのでずいぶん登りやすかったと思う。
大越路に到着。奥の左手に避難小屋がある。右手の道が大室山へ続く山道。
 
 

 私はこの峠を越えた武田信玄の兵を思っていた。軍犬を先頭にして、何百人の兵がこの路を進んだのだろうか。その兵の姿が次第に戦時中の日本兵の姿に重なって来た。異国の峠を何日もかけて連なっては行く彼らの姿を。ほんの数時間だと思うから登れる山だ。もしもこの峠越えが数日にも及んで、しかも終わりの見えない軍行だったとしたならば…
 シャワーを浴びて、湯に浸かって、温かい食事を食べて、身体を休める、そんなこともままならずずっと行かねばならなかったら… さぞかし辛いことだろうなぁ…
 そんなことを思っていると、後ろから若者たちの声が聞こえてくるのだった。笑いながら登って来る彼らの喋り声。そして、前方に、まるで7、8歳くらいの小さな少年が、若い母親と一緒に登っている姿が突然目に入って来たのだ。私はみっともないくらい息を切らし、上半身を折り曲げて登っていたのだが、この後ろの若者声と、前方の少年の姿に気が付いて、ふいに姿勢を正した。後ろの青年たちが、そのとき想像していたからか、若き日本兵たちの明るい声のように感じられ、そして前の少年は、行者のように見えたのだ。あんなに小さいのに、母親の前を行くのだった。木の杖をつきながら、導くように。霧の中、彼らの姿は声だけだったり、はっきり映らなかったり、おまけにここは深山の峠のようなひんやりとした険しい山道で、私の日常とは違い過ぎて、現実感が希薄になり、次第に武田信玄の兵も、日本軍の兵も、少年も青年たちも私も、すべて行者の姿に重なって来るのだった。前から鈴の音を鳴らしながら、男たちが降りてきて、姿は見えないが降りてきて、前
の親子と会話をしている。
「あと少しだよ!頑張って」
 その30秒後くらいにやっと彼らは姿を見せて、しっかりした体格のいい山男たちで、私が道を避けると礼と挨拶をくれるのだった。「こんにちは」
 こんにちは、と私も礼儀正しく挨拶をして、「あと少し」という言葉を信じて進んでいく。
 この犬越路の残り0.8kmはずいぶんきつい道のりだった。なぜか、0.8kmを過ぎてから標識が頻繁になり、0.7km、0.6km、と0.1km近づくごとに立っていて、私は0.1kmと言えば、たった100mではないか、運動会では20秒もかからない短い距離だと何度も思うのだが、とうに、2、300m進んだ気になって、しかし、あと0.7kmの標識に出くわす。まだ、0.6kmか、まだ0.5kmか、まだ…とそのたびにげっそりする、といった感じであった。先々週の檜洞丸では絶好調だった。私は足取りも軽く、駆けあがるように登ったのだが、いったいどうして今日はこんなに厳しいのか。体調だろうか。たまたまのコンディションか。
 こういうときが以前にもあった。あれは去年の塔の岳を登った時だ。あの時も息が切れて、足が持ち上がらなくて辛かった。あのときの不調の理由を私は考えている。
 もしも、あの時と同じことがあるとすれば、そして、それが前回の檜洞丸ではなかったことだとすれば、原因はひとつしか思い当たらなかった。70-200㎜のズームレンズだ。私は替えのレンズをリュックに仕舞っていた。塔の岳の時と同じように、このレンズのプラス2kg弱の僅かな重みが負担となっているとしたならば。いや、今日は天候を考えてプラス雨具や非常食も持ってきたのだった。やはり荷物のせいだろうか。それともこのレンズは何か魔が取りついているのか。私は皮肉的に笑いたくなった。
 この交換レンズを後生大事に持ち歩くのは、塔の岳の時に感じたには、それが私のパス=入場券だからという理由だった。
 私は私が今大事にしている世界にい続けるために、どうしてもこのレンズが必要だった。しかし、笑みは止まらないのだ。もしかしたら、そう思っているのは私だけで、これは用をなさない入場券かもしれないという思いがしてくる。私だけがそう思い込んで持ってはいるけれど、実際の私はそのパスがなくてもそこにいられるし、それより本当は別のパスが必要であるかもしれないのにそれに全く気付いていないだけなのではないかなどと。そう思われてきたら可笑しくなってきたのだった。確か、塔の岳に登った時も、荷物の重みでさんざん苦労して、なのに頂上でこのレンズを持ってきた意味がなかったのだ。そのときもちょうど今と同じような霧の日で、望遠レンズで切り取って映すものなど、何も見えはしなかったのだった。今日の私は山頂付近でこのレンズを使うのだろうか。ツツジを撮るために、前日の最後の最後にやっぱり必要だと判断してリュックに収めたはずだった。けれど…
もしも豪雨が降ったら? 樹木の中をジグザグに進むと、大越路に辿り着いた。1時間ほどの道程だったが、やっと…という感が大きかった。少年が叫んでいる。
「やったぁー!!着いたぁ!」
 大越路に着いて初めて、私は母子と挨拶を交わした。先ほどからずっと一緒に登っていたようなものではあったが、あらためて顔を見せあって、
「こんにちは」
「こんにちは。もう着いちゃったよ!」
 少年が笑顔でそう言うのだった。母親も笑いながら、「まだ続きはあるんだけどね」
 彼らはここで終わりなのかもしれない。休憩しているうちに消えてしまい、そのあと二度と会うことはなかった。後ろのいた青年たちも現れた。檜洞丸の方面から来た人々も合流し、にわかに犬越路の休憩場は騒がしくなる。
 私はこの峠をずいぶんと甘く見ていたようだ。気楽に登って、そのあとの頂上付近の登りまで力を蓄えておこうと考えていた。ところが、あのラストの0.8kmがあんなにしんどく感じられたのだ。すでに息が上がっている。それよりも急な0.55kmを山頂付近で登りきれるだろうか。たぶん私は今ここにいる登山者たちすべてにおいていかれることだろう。塔の岳のときの、山頂付近の牛の歩みを思い出している。あの時は一歩がわずか数センチほどだった…
 
 
 
霧の中のブナ(上)と、犬越路を過ぎた後の大室山登山道。(下)
 
 
 
 私は彼らより先に大室山へと出発した。休憩している場合ではないような思いがした。雨と雷までに山頂を越えて、少しでもゴール(行きに登山カードをかいた自然教室)により近いところまでたどり着かなくてはならない。雨の軍行が長ければ長いほど私の体力はますます奪われることだろう。私は大室山山頂へ向かう登山道を大急ぎで駆けていく。
 その道こそが550メートルの急登りだとは思いもせずに…
 


 頂上には12時15分に辿り着く予定だった。ところが12時を過ぎて、私は登山道の途中に座り込んでしまった。
 あと10分と少しで山頂に着くなんて無理だった。まだ0.5kmの急登りも登っていない。
 私は案の定、すべての登山者に抜かれていた。抜いて行った若者の団体が、山頂についてお昼の休憩を終えて、下って来た時は正直ショックだった。いくら写真を撮りながら登っているからといっても、あとで三脚と交換レンズを出してからゆっくり撮ろうと思っていた私はそうそう写真撮影に時間を取ってはいなかったはずなのだ。
 一人になって今にも降り出しそうな霧(ガス)の中を歩く私の前に、ふと少しふっくらとした男の子が目に入った。たぶん学生の4人程のグループで、さっき通り過ぎた彼らの一人らしかった。どうやらあとの3人とはペースが合わないらしい。ほとんど私と同じ速度で、つらそうに前かがみになって歩いて行くのだ。
 
 
 
仲間から遅れをとり、一人歩く青年。
 

 
 私は彼には悪いがこれを幸運だと思った。まるで神が私のために授けてくれた使者のようだとさえ思った。彼がいる限り私は一人で行く不安とは切り離された。残りの青年たちも、しばらくすると休憩して彼を待ち、また合流して歩き始める。しばらくすると、彼がまた一人になり、するとまたしばらくしたのちに3人が待っていて合流する。その繰り返しだった。私はつまり彼ら4人一緒だということで、これはずいぶん心強いことだった。しかし、良く考えると、待っていてくれる3人は休憩を何度も取っているわけだが、待たせている彼一人は一度も休憩を取っていない。合流するとすぐに一緒に歩き始めるので、これはずいぶん辛いことのように思われて、歩きながら休憩を取り、ますます歩みが遅くなる彼に同情さえするのだった。
 その彼を見失わないようにしている私も休憩を取っていない。人よりもペースが遅いということは、休みを取れないということで、あの残りの3人のように早く歩ければいくらでも休めるものをと恨めしいというよりはふと不思議に感じているのだった。早く行く必要はないとか、のんびり楽しんでいこうよとか、行く過程に意味があるとか、いろいろ言うけれど、はやり早く行くものは多くの休憩を取れて、そうして体力を回復させて、また早く歩けるのだ。前を行くもっさりした青年の牛歩は、私と同じで、人のことは言えないと思いながらも、やはり男性にしてはずいぶんと遅いようだ。休みも取れず、仲間に気を使って歩きながら時折足を止め、天を仰ぐように見上げる。息を吐いて、また進んでいく。
 そうして、その彼がいるおかげで、私という人間一人が救われているわけだった。彼がいてくれなかったら、この山道、どんなに不安な思いをしていたことか。
 彼を見失わないよう、時折ブナを撮って歩いている。辛いなぁ、と思い、下を向いて、すると道に鮮やかな紫の、それから白のツツジの花が落ちているのだ。ヘンデルとグレーテルのパン屑のように、ポツリポツリと。はっとして、見上げると花は咲いていない。もう枯れたのか、それとも山頂から風で雨で流れてきたのか、今でも不思議でならないのだが、こんなことが本当に多かった。もうだめだとへこたれそうになると、ツツジが道を彩る。幾欠片もの落花が湿った土を照らすのだった。もうすぐだ…もうすぐツツジに出逢える。
 
 
 
道に点々と落ちるツツジ、見上げてもどこにも咲いてなく、木も見当たらず、不思議な思いがする。
 
 

 初めて、紫色のトウゴクミツバツツジを見つけた時はだから声をあげたい気持ちになった。私はカメラ抱えて、登山道から外れて、山の斜面へと駆けて行った。少しでもツツジを近い位置で撮ろうと近寄り、もうISOを上げても、露出補正を下げても、まともなシャッタースピードは出ないというのに、カメラを抱え、しゃがみ込んでツツジを撮っている。
 その初めて見たツツジを過ぎると、もうそれからの登山道は紫色のミツバツツジでずっと彩られていた。檜洞丸のようにツツジのトンネルこそないが、大室山と加入道山の登山コースは、始終ツツジだらけだったのだ。歩いても、歩いても、ブナとミツバツツジ。私は道を行くたびに、ブナとミツバツツジを見とめて、そうしてそのたびににっこりと笑ったものだ。まるでゲームのなかの、時間がくると自動的にほほ笑む小鹿のような笑顔で。
 しかし、そんな喜びはこの時はそう続かなかった。初めて見たツツジを撮っている間に、私は道を逸れ、そうして、あの神が授けてくれたかのような大切な青年を見失ってしまった。
 ついに私は深霧の中一人きりだった。
 登山道は急な登りと、平坦な山道が交互に現れては進んでいく。平坦な道は緩やかな坂道で、ずいぶんと楽なわけだが、それでも私はもう僅かな歩みしかできなくなっていた。こんなに体力を使い果たしていて、しかも嵐の近い霧の山中、青年を見失いたった一人で、それなのにまだ山頂に着く気配もなく、急な0.5kmの急登りも残っている。私は途方に暮れる思いだった。そのとき、不思議と霧が晴れて、陽が射した。私は力を振り縛るようにミツバツツジのある方へ駆けあがって、ブナと一緒の所を撮りたいと座り込んだ。残念ながら、ツツジがたくさん咲いているところまではたどり着けなかったが、何とか陽の射すときにブナとツツジを撮る。写真を確認する元気が残されていない。が、どう考えても、ピンボケではないかと思われてくる。三脚を出して、あの望遠ズームで撮ればもっと綺麗に撮れたのに、私はけっきょく使わないまま、青年を見失い、陽の射す瞬間を終えてしまった。本当にこのパスは必要なのだろうかという思いがまたしてくるのだった。それとも私が、何も使えていない。情けない思いがしてきて、ついに座り込んだ。もう時間は12時を過ぎていた。
 写真を撮っているとき以外には休めていなかった身体を休めようと思った。リュックを下ろして、足を伸ばした。もうスケジュール通りに進むのは難しいかもしれない。途中雨と雷に打たれるかもしれない。それでも前に進めなかった。しばらくそうして休み、ほんの5分ほどだっただろうか、それから気を取り直してまた登り始めた。なまじっか休んで飲み物を取るとなおさら息が上がる時がある。少しずつ少しずつ、ブナとミツバツツジの道を行く。アセビのオレンジの葉がまるで花のように群生していてツツジに負けず美しく感じられた。
 ふと、大室山0.3km の標識が現れた。このときの喜びをどう表現していいかわからない。
 もう永遠に0.5キロの急登りはないこと、それが私の勘違いであったことを一瞬で悟ったのだった。私はミツバツツジとアセビとブナを楽しみながら頂上まで一気に登って行った。
 
 
 
初めて斜面に見たミツバツツジ。
頂上付近。一瞬陽が射して、視界がはっきりする。
大室山山頂。
アセビも花のように綺麗だった。
頂上付近、ブナとミツバツツジが続く。
 
 

 
 すぐに辿り着いた山頂で昼食のお弁当を食べて、そして次は加入道山を目指して進んでいく。なだらかな稜線には行けども、行けども、ミツバツツジ。私は望遠レンズと三脚で、それから広角の単焦点レンズで、それを思い切り撮るのだった。
「今日は天気がいいですからね。満開の躑躅が綺麗に撮れますよ」
 自然教室のスタッフの言葉を思い返している。送り出してくれた言葉通りに、私は満開のツツジを撮ることが出来たのだった。戻ってきてまたバスに乗るまで、家に着くまで、私が雨と雷に打たれることはついになかった。
 
 
 
 帰りのバスの中で、というより白石峠を越え、白石滝沿いを歩いているときから、私が考えていたのはゲーターのことだ。
 それからノースフェイスの、朝見かけたあの黄色のことだった。
 あんなお洒落なジャケットと鮮やかなゲーターが欲しいものだ。今度山に登るとき身に付けた歩いたら、今日のような天候への不安も少なくなるように思われた。
 何色がいいだろうか。私はウェアとゲーターの彩りを考えて楽しんでいた。その組み合わせを想像して。写真の色彩効果の本で見かけた色の三原色などを思い出して。
 やはり黄色が可愛いだろか。それともオレンジがいいだろうか。
 そう、オレンジのゲーターに、薄紫か。それとも空のような青色のジャケットを着て。
 そんな鮮やかなウェアをまとって、また山を歩きたいものだと思いを馳せている。
 
 
 
 
 
ケイバイソウ、マルバダケブキが茂る山道。ミツバツツジが続いている。
アセビの向こうに見えるトウゴクミツバツツジ。紫色の花もいいが、立つように開く三つの葉が美しい。
加入道山へと向かう尾根道。霧は晴れないが、豪雨や雷はついぞ現れなかった。山の神々に感謝して―