2010年7月27日

社長島耕作風菅首相の落ちぶれた姿と魔太郎につい笑ってしまった今日のニュースのこと

 
 
 

特別枠の予算配分、政策コンテストで
< 2010年7月26日 18:48 >

 政府は26日、来年度予算の目玉として、マニフェスト実現などに充てる「元気な日本復活特別枠」を、1兆円を超える規模で設けることを決めた。

 元気な日本復活特別枠は、マニフェストの実現や経済成長、雇用の拡大に貢献する事業に充てるもの。「1兆円を相当程度超える」規模とし、この財源を捻出(ねんしゅつ)するために各省庁は、民主党の主要政策である高校無償化などを除いて、今年度予算から1割以上削減を求められる。また、特別枠の予算配分は、各省庁が候補となる政策を公開の場で競い合う「政策コンテスト」で優先順位をつける。
 しかし、最終的には首相が判断するとしているため、実際に経済成長や雇用拡大につながる政策が選ばれるのかが焦点となる。




 上記のニュースを聞いて、今世紀最大のジョークかと思った。
 つい、数週間前に、確かこんな絵を見たように思う。↓



 で、確か表紙はこうだった。




 そうそう  民主党のマニフェストではないか。
 
 
 で、今日の記事。↓
 マニフェスト実現などに充てる「元気な日本復活特別枠」は、各省庁が候補となる政策を公開の場で競い合う「政策コンテスト」で決定する。
 
 

 このコンテスト審査員は民主党、審査委員長は菅首相なので、政治主導と言えば、言えなくもないのだが、それって、果たして民主党の政策なのだろうか。
 マニフェストの表紙=国民への約束は、官僚から公募で決定って・・・
 それって、ありなのだろうか?
 政策を考えるつもりがないならば、与党を、いや、議員をやめてくれないだろうか。
 もう官僚だけでも良いような気がする。
 マニフェスト詐欺だとか、政治主導が形の上だとか、そういう話以前に、あまりにもお馬鹿すぎる。
 国の復活を左右する重大な国策を「コンテスト」って何なんだ?
 ニュースを見ると、菅首相はあくまで本気のようだ。
 国民や地方から募集すると言うならば、竜馬伝のようで、その本気度もわからなくもない。画期的だと思えなくもない。が、そもそも政策を考えている官僚からわざわざ公募とは、ありえないのではないだろうか。最初から作らせたらいいだけの話だろう?
 
 今日はこのニュースに大笑いさせて頂いた。菅さんは国家戦略局の担当大臣だったと思うが、さすが何の戦略も立てられぬまま尻切れトンボで終っただけのことはある。
 あのマニフェストのコブシも、こうなってから改めて見ると、もうただ、ただ、笑える。


 
 
 それから、今日はもうひとつ興味深いニュースを見た。
 あの宮崎県がやっと、非常事態を解除したのだ。
 

 口蹄疫問題 「非常事態」を解除 きょうから移動可 来月に終息宣言
 7月27日7時56分配信 産経新聞

 口蹄(こうてい)疫問題で宮崎県は、県内最後の宮崎市の発生地を中心とした家畜の移動、搬出制限区域を27日午前0時に解除した。これに合わせ、発生地域で外出自粛などを求めた非常事態宣言も解除。今年4月の発生以来、県内5市6町の家畜計約29万頭が犠牲になった口蹄疫は約3カ月で押さえ込まれた。県はウイルスが残っている可能性がある発生農場の排泄(はいせつ)物処理が完了する8月27日に最終的な「終息宣言」を出す方針。




 口蹄疫のニュースを見るたびに胸を痛めていたので、やっとここまでこぎつけたか、と正直ほっとした。政府と宮崎県とのバトルも冷や冷やさせられたものだ。
 しかし、安心するのはまだまだ早い。宮崎県の畜産農家に残された深い爪跡を思うと、やはりやりきれない思いだ。これからが正念場だろう。
 宮崎県の畜産業が再生してくれることを願うばかりだ。



 しかし、産経新聞、どうしてこんな写真を使ったんだろう。↓

 


 どう見ても、心霊写真か魔太郎にしか見えない。
 もう少し、気持ちが明るくなるような写真はなかったのだろうか。妙に不安を掻き立ててくれるではないか。
 東国原知事、宮崎県のみなさん、頑張ってください。
 地鶏は大丈夫ですよね。またモスバーガーとのコラボ、ぜひやって頂きたいと思います。


 
 


 
 

 
 
 
 
 
 

2010年7月26日

山を行くということ ~三頭山登山記~

 
 
 より良く山を登ることは、よりよい人生を歩むことと似ている。
 山は人生の縮図だ、と良く思うが、人は山を登ることで良い人生を送るためのトレーニング(もしくはシュミレーション)をしているのではないだろうか。
 そう言えば、若い頃山のことなど全く知らないのに、突然登山がしたくなった。ジーンズにTシャツで中級の山を登っていたら、降りてきた年配のハイカーに「そんな恰好じゃ登れないよ」と叱責されたことがある。
 その時私は、いろんなことに挫折していて、どうしても山頂まで行きたくなったのだ。何度かこのブログにも書いたが、ただ手軽に達成感を得たいだけかと思っていた。軽薄なものだったと。
 だけど、今思うと、あれは何かわからぬままに答えを求めていたのではないだろうか。
 どうすれば、より良く生きられるのか。二度とこんな失敗を繰り返さなくて済むのか。その答えが山を登ることにこそあるような思いがしたのではないだろうか。
 最近タレントのCMでもそのようなものを見たような記憶がある・・

 
  




   



 話が前後するが、先週、三連休の月曜日に三頭山に登って来た。
 東京の奥多摩からスタートして、山頂(西峰)は山梨 ―正確に言うと県境らしく、東京都と山梨県の両方の標識が立っている― 標高1,531mの山である。
 と言っても、登山道入り口がすでに標高990m、登り標高差が540mしかないので、気軽にハイキング程度の心持で登れる山であった。
 翌日が仕事なので、あまり無理な山は登りたくなかった。ガイドブックに「三頭山とブナの路」とあり、ブナが立ち並ぶ登山コースがあるらしい、それも気に行った。
 それと、ある実験をしたかった。
 数日前、疲れない山登りを特集していたテレビ番組を見たので、その登り方、下り方を試してみようと思ったのであった。
 筋肉には瞬発力はあるが疲れやすい速筋と、持久力はあるが力の弱い遅筋があると言う。傾斜を登ろうとすると、どうしても力のある速筋を使ってしまうが、そこをなるべく抑えて、遅筋を使うようにして登ると「ばてない」のだそうだ。
 私はひょいひょいと駆け上がるように登ってしまうことが良くある。体調が悪い時、もしくは標高差がある山ではばてやすい。息が上がってしまわないように、なるべく涼しい顔をして登りたいものだと考えた。しかし、どう考えても、遅筋とやらを使い慣れていない私は、その名の通り、ペースが遅くなりそうである。慣れれば、遅筋だけで、すたすた登れるようになるとは言っていたが、それは慣れた者の話であって、無理めな山をのんびり登って、周りに迷惑をかけないように、または自分でもペースの遅さに焦りを感じないように、比較的楽そうな三頭山を選んだのであった。
 疲れない山登りには遅筋を使う登りだけでなく、山の下り方にもポイントがあった。
 筋肉を痛めないようにするのだ。小股で歩き、なるべく足の裏を使って(感覚がわかるように)降りるのである。東北のマタギの方々の歩き方 ―いくら山を歩いても疲れることはないという― がビデオで映されていた。あれもぜひ試してみたいものだ。


   




  
 武蔵五日市からバスに乗り1時間と20分、終点都民の森で降りる。始発のバスが遅いので、すでに10時近い、山登りをする人たちはみな軽装である。私も十分な休憩を撮ってからおもむろに登り始めた。
 ガイドブックのタイムテーブルでは1時間半で山頂である。遅筋を使うようにしてのんびりと登っていく。途中三頭大滝があり、コースも渓谷沿いの登山道が続く。沢の流れが心地よい。ずいぶん日は照っていたが、茂る木々とこの沢のせせらぐ音で涼しいものだった。これなら楽に登れそうだ。
 そうだ、初心者なのに無理をせずに、このような気軽に登れる山を登れば良い話ではないか。そのうち、遅筋を使って、高い山もサクサク登れるようになるだろう。
 より良い山との付き合い方を覚えれば、山を降りたあとの現実社会でも無理なく楽に生きられるような思いがする。私はこの考えから、より良く山を登るとはどんなことを言うのだろうと考えている。

 まずは筋肉、身体を傷めずに登ること、降りること。それから、山登りのルールを知ること、出会った人たちへの挨拶から、道の譲り方、追い抜き方から道の行き方、または道の知り方と気遣いと。
 それから最小限の持ち物を知ること。この小さなリュックに入れるものこそは、私が現実社会で必要なものなのではないか。喉を潤す水に、腹を満たす食べ物に、汗をぬぐうタオルに、意外なのは雨具、突然の天候の変化から身を守る傘は、私が思うほど後回しにしていいものではなかった。
 それから最低限、一緒に行くものたちに馬鹿にされたり、とんでもないと思われないほどの身支度は必要だ。(見た目の話である)機能性のある登山服を選んで、山にもハイカーにも馴染むこと。
 そうやって、山登りに必要なひとつひとつを現実の人生に置き換えてみると、意外にもぴったりはまって面白かった。
 着るものは綿はだめだ。肌触りは良いが、濡れると体が冷えてしまう。身につけるものは渇きの良いものが良い。山(人生)を共にする恋人のようなものか。ウェットな相手だけは、どんなに肌触りが良くてもご法度だ。
 靴は滑りにくいソウルの厚いものよりも底が薄いものが良い。登山ブランドからありとあらゆる立派な靴が販売されているが、これだけはそのブランド力や機能性の宣伝に騙されてはいけないように思う。マタギのビデオを思い出せば、地下足袋がなにせ一番疲れないのだ。最低限の身支度を想って、まさか地下足袋で山は登れないが、標高1500m前後の山登りならスニーカーで十分だと思う。試に小股で滑るように下ってみたが、何と身体も傷めず疲れないこと!私はこれを現実社会の足だと思った。日本で乗る車ならば、身(の丈)に合った小さなもので十分だ。中国ではないが、全員自転車にすればいいのに、と思ったほどである。
 







 
 ブナの路はその名を疑うほどブナがなかった。行けども行けども、イタヤカエデとカツラとシオジばかりだった。私は山を登りながら悪態をついた。どこがブナの路なのだ、と。
 標高1300mを越えたあたりから急に不安になる。登山コースを登り始めた頃はあれだけたくさいた同行者も今は一人もいない。辺りは木々と私だけである。もしかして、路を間違えたのではないか。三頭山は登山コースが多い。もしかして、さっきのあの休憩所で、左に曲がったが、真直ぐ進む路でもあったのではないか、あそこまで一緒だった人たちがそろそろ追いつきそうなものだが、来る気配もないではないか。などと、根拠のない別の路を想像してはあれこれ心配する。ブナの路にこんなにブナがないわけはないのだ。ブナの路でもなんでもない丹沢の山よりブナがないではないか。
 そのうち、木々の間からひょっこりと標識が顔を出しているのを発見、ちゃんと「ブナの路」と書いていあるのを見て、やっと安心する。
 三頭山のブナ林は、東京で唯一まとまって残されている貴重なものだそうだ。ブナの林床には普通ササ類が密生しているが、ここは少ない。学術的にも注目されていると言う。
 ブナが見え始めた頃から山頂まではあっという間だった。一番高い、西峰、それから中央峰、東峰、と歩いたが、西峰からは富士も見渡せた。あいにく雲をかぶっていたが、それでも良い眺めである。

  

 


 
  

 遅筋を使うようにして、のんびり登ったせいか、疲れは全くなかった。まだまだ登れそうである。ただし、もしも、これがもっと標高差のある山になると、まだ自信はない。トレーニングが必要だ。
 下りのチャレンジも快調だった。いつも登りより、下りがきつく、膝が痛くなるのだが、今回は全く痛まない。現実でも、こうやって下るときは身体を傷めずに降りなくてはいけない。
 私は以前山を人生にたとえた時、山頂が終点だと思っていた。山頂こそが死であり、人生の幸福、もしくは目標の頂点だ。ところがより良い下り方を考えていたら、その考えがふと見当違いか、まったくそぐわないもののような思いがしてきた。
 私は今まで降り方を考えていなかったのだろう。人生の山は一つではなく、連続する尾根のようなものなのだ。登ったり降りたり、それこそ例えと同じように人生山あり谷あり。頂点の死をどこで迎えようと、それはその登山者の勝手である。
 だから降りるときは、まず次にまた登ることを考えて降りなければならなかった。今は降りるが、また必ず昇り始める。そのためには、絶対に降りることで体を痛めてはならない。間違っても転がり落ちてはいけないのだ。
 私はずいぶんと降りるときに身体を痛めたものである。よくぞまた山を登れているものだ。より良く山と付き合うには、より良く生きるには、疲れない登り方と同じくらいに身体を傷めない下り方が、それを身につけることが必要不可欠だった。私は自身を傷つけないように慎重に、小股で降りていく。

 
 



   

 この、ふと思いついたより良い山との付き合い方を身につけたら、より良く人生を生きられるのではないか、という仮定は、都民の森のバス停に戻る頃には決定的なものとなっている。考えれば考えるほど、その通りだと思えてくる。
 だから年配者が多いのだ。生に執着する彼らならば、まだまだいい人生の送り方を学びたいと思っても当然ではないか。若者は逆にどうでもいい。彼らは上手く生きられなくても、若さだけでどうにでもなるから、山になど見向きもしない。(最近は若者にも人気があるらしいが・・)
 私はこれを他の遊びにも当てはめようと考えた。たとえば、より良い○○ゲームの仕方を身につけたら、より良い人生を歩めるようになる。とか、何か他の物(水泳でも球技でも勉強でもなんでもいい)を極めたら、それは現実の人生に置き換えられるトレーニングとなりえるのかと。
 ルールを知ること、要領を覚えること、技を身につける、経験を得ること、そんなことは他の事柄でも同じであるように思ったが、やはりあの人生に酷似した山の登りと下り、道を行くことそのものと、木々の匂い、せせらぎの音、予測不能の天候に体調に、身体で、五感で体験するすべて。それらは、どんな他のゲームにも当てはまらないように思われるのだった。人生は、登山を通してしか学べない。
 

 また山に来よう。躓かず、ばてずに、傷つけずに上手く生きられるようになるまで、また山に登ろう。
 私はそう決意しながら、帰りのバスを待つ。次のバスまで約40分余り、この待ち時間もそれはそれでまた楽しい。本を取り出して、読み始めた。
 そしてふと、もしも・・と考える。

 もしも人生こそが山だったら。「より良い人生を学ぶためのに山を登る」として、それが登山の目的だとして、その山そのものが、もしも私の人生だったら。

 人は「より良い人生を学ぶために生きる」のだ。決して山頂が目的でもなく、楽しく山を登れればそれで良いとするわけでもなくて、山のルールを知り、まわり(道連れ)を気遣い、身体を傷めず、そうして景色を楽しみながら、より良く生きることを学ぶことが人生の目的なのではないだろうか。
 登ることそのものを目的にしてはいけない。山頂に意味はない。少しでも高い山をより良く登れるようになったものこそが勝者だ。
 私はバスを待ちながら、次はもう少し高い山にチャレンジできる私になっていると良いと思っている。

 
 




 
 

夏の花を巡って ~神代植物公園で今年の夏を体験する~

 
 
 暑い夏に、だらだらと汗をかきながら、動き回るのが好きだ。
 たぶん幼い子供の頃の、夏休みのノスタルジーなのだろう、こればかりは冷房の効いている歓楽街で涼んでいても気持ちが良くない。陽が暮れるまで汗をかいて思い切り遊ぶ、そうすると、ああ、夏だ、と実感する。そして、翌日もまた仕事を頑張ろう、という気持ちになるのである。
 とは言っても、子供の時のように日が暮れるのが7時近い長い長い一日を、そうそう遊びきれるわけではない。あの頃は公園へ行けば誰かしら近所の友達がいたものだが、大人になった今は他人と予定を合わせるは一苦労で、ほとんどが一人遊びなのである。
 そこでなるべく、課題を与えて、遊びが長くなるよう工夫する。
 今回は夏の花めぐりだ。私は大柄で明るい夏の花を撮るのが好きなのであった。
 で、神代植物公園へと足を伸ばした。




 天気は快晴。今日も暑い一日になりそうだった。
 低血圧で、朝寝坊が多い私も、夏は張り切って起きる。おススメの夏の花を撮ろうと、弁当と水を入れたリュックを背負う。
 電車とバスに揺られて神代植物公園に到着。9時半から開園なので、まだ若干早い。チケット売り場の前のベンチに座って、開園まで、写真撮影の準備をする。三脚を用意して、一眼レフカメラに200ミリの望遠ズームレンズを装填する。
 わくわくすると同時に気が引き締まる思い。空を見上げる。青空はなく、白っぽい空だ。なのに、大気が熱せられて茹だっている。陽射しが暑い、というより空気が熱い。地球が巨大なサウナになっているようだ。
 子供の頃の夏とは明らかに違う。終わりまで遊べるだろうか・・
 
 9時半にブザーが鳴った。園内の前で待っていた人々がみな中に入ってから、おもむろに立ち上がって、チケット売り場へ向かっていく。
「お先に失礼します」
 ベンチの隣に座って、レンズのことを問いかけてきた老人に挨拶をする。まったくの素人のようにあれこれ質問されたのだが、あとで山百合を撮っていた時にまた出会った。どうやら写真サークルの一人のようであった。





 まず、一番は蓮の花、前回(去年の夏訪問時)失敗したので、まずは芝生広場の売店前の蓮の花を撮りに向かう。
 もう蓮の時季は終わりなのか、まだ蕾は残っているものの、瑞々しく咲いている花は少なかった。
 僅かな対象をカメラマンが数人で群がって撮っている。
 一人の女性が、売店から椅子を借りてきた。乗っかって、上から蓮の蕊を覗き込んで撮っている。
「そりゃあ、いいアイディアだね」
 とさっそく真似をする男性。50代くらいか、先ほどからしきりに独り言を言う。椅子の女性と一緒に撮りながら会話を初めて、それを音楽のように聴きながら一人黙々と白い蓮を撮る。ピンクの蓮は先週撮ったので、白にチャレンジしたかったのだが、花弁が綺麗なものが少ない(というよりない)し、ローアングルで青空を入れようとしても、空は青くないし、少しでも綺麗に見えるような角度を探して、何度も撮り直してみたが、どうしてもあの透明感が捉えられない。少々くさる。
 まぁ良い、先は長い、と気を取り直して、次は山野草園の山百合だ。
 





 こちらも写真愛好家が多い。一人先生がいて、4人程の男女を指導している。生徒はみな初心者のようで、先生の言うことをハイハイと聞いているのだった。
「○○さん、そっちからこの花を撮ってみなさい」
「そこからでは真正面ですよ・・」
「あ、待って。蜘蛛の巣がありますね」
 小学生の時の課外授業のようだが、生徒たちは白髪頭。背中もちょっぴり曲がっている。
 一人が私に笑いかけて、「入っていいかい?」と尋ねている。何かと思えば、仕切りをまたぎ、山百合の咲いている地に入り込んで、大きな身振りで雑草を引き抜いた。撮影に邪魔だったらしい。
 ばこっ、と音がしたようである。辺りは笑いに包まれる。当人もまた笑顔で戻ってきて、山百合の続きを撮るのだった。汗だくである。
 私も彼らに交じって撮っていたが、額から、首元から汗が流れて、伝っていく。綿のTシャツを着てこなくて良かった。こう暑いともう渇きの早い合成繊維しか着れない。濡れたアディダスを乾かすように、陽の降り注ぐ園内を巡っていく。




 築山の隣の池で、年配の女性の方々がはしゃいでいる。ガイドの同年代の女性が、睡蓮を見せているところだった。
 彼女たちとはまた大温室前で出会うのだが、5,6人のグループで植物園に遊びに来たようだ。池に広がる睡蓮の葉とポツリポツリと灯るように咲く睡蓮の花を見ては、綺麗ねぇ、可愛いわねぇ、としきりに言う。水面がきらりと光って、その星のような輝きが小さな花をいっそう可憐に見せていた。
 葉の色が面白いので、PLフィルターをまわして、乱反射を消してみる。確かに、色は綺麗に出たが、私が気に入った水面の星のような輝きも消えてしまった。反射を半分ほど残して、ほんの少し色を添える。本当は広角のレンズに取り換えたかった、もしくは後で戻ってきてもう一度撮りたかったが、この頃から熱さが「気持ち良い」を通り越して、かなり苦痛になってきている。半袖で歩くと肌が痛いので、持参のソフトシェルジャケットを着る。熱い。気力が減って来た。
 まだ全然花を撮れていないので、焦りが出始める。私は体力と気力が残っているうちにと、急いで他の花へと急ぐ。
 



 薔薇園で剪定前の薔薇を撮っていたら、ちょうど12時の鐘が鳴った。(神代植物公園は大きなカリヨンがあって、時刻を知らせてくれるのである)
 今日は薔薇を撮る予定はなかったのだが、着いてそうそう「近々、夏薔薇の時季に合わせて咲いている花を剪定してしまいます。今日は美しい花を観れるチャンスです」とアナウンスが流れている。
 今日来たなら見なくてはもったいないような気持ちにさせるのが上手いのだ。私はまんまと薔薇園へと向かったが、この薔薇園が都内の公園の中でも1,2を争うほどに大きいのである。
 1週巡るうちに更に頭がくらくらしてきた。初めはちゃんと考えていたのだ。美しい薔薇をアップで入れて、バックには薔薇園と青空を入れて・・などと。その構図に見合う綺麗に咲いている薔薇の花を求めて、次から次へと、一花ずつ、ひと種類ずつ薔薇を丁寧に見ていたのだが・・・
 もうだめだった。薔薇園の中ぐらいまで来た時、噴水の涼しげな水と対照的な暑さの中で、突然気力がダウンする。ぱっと消灯されたみたいだ。日陰に行きたい。それが第一の希望、唯一の目的となって、薔薇も構図も消え失せてしまった。
 私はカリヨンと大温室の方へよろよろと歩いて行き、(もう薔薇園沿いに置かれているベンチに座る余裕もない)大温室の入口の日陰で休憩をした。
「さぁ~!中に入りますよ!」
 生き返った・・・と思ったとたん、先ほどの女性グループのガイドが元気よく言う。それまで温室前の熱帯スイレンと蓮池を泳ぐ鴨を見ていた女性陣は、ここで戸惑いの空気を見せた。
「入りますよって・・入るのここ・・」と小さなつぶやきが聞こえる。
 たぶん私と同じようにやっとの思いで辿り着いたのではないかと思われる。涼しい池を見て休憩していたら、今度は熱帯植物の茂る温室へ飛びこもうというのだ。確かに酷な話ではある。
 彼女たちは元気なガイドに従って、温室へと消えていった。私は水をたっぷり飲んで、彼女たちのあとを続いて行く。




 温室内は三脚の使用が禁止されていた。私は手持ちで撮るには厳しい望遠ズームレンズを使っていたので、あっさりと撮るのをあきらめて、温室内の植物を楽しむことにした。まるで、熱帯雨林のジャングルのような光景だ。タビビトノキ(旅人の木)という植物が特に気になった。
 マダガスカル原産の常緑多年草だそうだ。バショウ科、タビビトノキ属。
 葉に水をためて、旅人の喉の渇きを潤したことからその名が付いた。私は木々をまわって良く見たが、どうしても葉っぱが上手く見えない。手前に見えている葉は違う植物のようである。温室の天井に高く伸びている葉はまるで針葉樹のように葉の面積を感じさせない。
 この見た目全然人に優しくない尖った葉が旅人の喉の渇きを潤したのだなぁ。
 しかも、自分さえ陽を浴びれればいいかのように伸びて、この角度では水など溜まりそうもないではないか。もしかして、ラクダのように、根元に溜まって、それを旅人が切り倒した幹から吸ったのだろうか。などと想像していた。自宅に帰って、本物の葉っぱを調べて見たら、少し納得。でも角度はやっぱり微妙である、水を溜めるには適さないようだ。





 ベコニア園に入るとひやりとした。この温室の中だけは冷房が入っている。ベコニアは繊細な花らしく室内で空調を管理して、守ってあげなければいけないようだ。とりあえずの涼しさに、私はベコニアイン感謝する。中は彩りが美しい。先ほどのジャングルとはえらい違いの艶やかさだった。三脚を使えないのを残念に思う。
 が、見ると、室内の隅で、女性が三脚を立てて、ベコニアを撮っているではないか。その一角は球根ベコニアが壁から下がり、または壁沿いのバスケットから美しい花が咲いていて、一番見ごたえのある良い場所だ。出来れば、誰でもそこで撮りたい。私の前にも一眼を持った少女が一人待っている。
 が、先客の彼女は誰が通りかかっても動じず、待ち人も気にせず(待っていた少女はあきらめて去って行った)、ずっと、ただ淡々とその場所でベコニアを撮り続けていた。大した度胸である。
 彼女が去った後、真似して三脚を広げたものの、人が来るたびに冷や冷やして、避けては撮るのを中断した。もう少し丁寧に撮りたかったが、焦って大急ぎで撮ってしまった。




 ベコニア園を出ると午後の1時を回っている。まだ午後の1時である!まだまだ日暮れまで、時間はある。
 だが暑さでやられて、撮りたいという気力や熱意が保てない。いったん休憩して、回復するのを待ったが、日向のベンチにいたせいもあるだろう、どうも怪しいのだ。
 芙蓉、立葵、向日葵、百日紅、むくげ、去年もこの時季に撮らせていただいたように記憶しているが、幾つかの花は見つけられない。もう少し夏が終わりに近づいた頃のほうがいいだろうか。
 2時過ぎに私は三脚をしまい始めた。決戦に敗れた気分。まだ日は高い。

 遊びだって真剣勝負だ、などと言うつもりはない。子供の頃だって、そう真剣に遊んでいたわけではなかった。ただ楽しいから遊んでいたのだ。
 しかし、楽しむことを持続できないこの今の夏が恨めしかった。
 ダリア、百日紅は美しい花を見ているというのに、撮ることが出来なかった。
 それと、さくら園やかえで園の方、園内の奥にも足を伸ばしたかったがそれも適わなかった。こちらは気力の問題もあるが、体力のせいかもしもしれない。一日でずいぶんと奪われたものだ。
 心も体ももう少し鍛えないと、持久戦は厳しい。
 小さな私はよろめきながら都会の森を歩いて行く。
 
 
 

 
 
  

2010年7月18日

裁きと使命  ~横浜三渓園で蓮の海を漂う~

  
 
 

「蓮の花は泥の中から清らかな花を咲かせることから 俗世間から現れた優れた人材にもたとえられ インドでは聖者の花 中国では君子の花といわれました」(横浜三渓園 ウェブサイトより)




 シベリアの夏について考えている。

 先週、村上春樹を読んだ私はふとドストエフスキーの「罪と罰」を読みたくなった。その名作のラストに、荒涼としたシベリアの地が出てくるのだ。主人公ラスコーリニコフはそこに行かない道もあったのに、ソーニャと出会ったことによって彼女と一緒にその地に行くことを選ぶのだった。
 私はこれを暗示的に、もしくは象徴的に捉えていて、つまりドストエフスキーは作家だったからわかりやすく男と女の出会いとして描いただけであって、本当は一人の人間の中で起こり得る出来事ではないか、と。誰かと出会ったから、愛を得たから変わる、と言うだけの話ではなく、もちろんそれもあるだろうがただそれだけの話ではなく、一人の人間の中でソーニャとラスコーリニコフの出会いは完成する。そして、ソーニャと巡り会えたものだけが、シベリアの地(小説の中では刑務所)へと出掛けていくのだ。
 で、その辿り着いた最果の地がどんなところかと言えば、作家の暗示の通りであって。
 たとえば、今読んでいる本にたまたま戦前の露西亜が出てくるのだが、その中でシベリアはこんな風に書かれていた。

「露西亜は世界でその領土の広大なるをほこりとしておるが中部の耕作に適した沃土でさえ、人口は一千里半僅かに平均六十人の希薄なるものであるそうだ。されば政府はシベリアの移民政策に鋭意し、ほとんど強請的に移民を送っておる。彼等露人は元来の無味蒙昧の徒であるからシベリアがいかなるところなるかを考えず、政府より只で土地は貰える、農具は与えらるると云うので、たいそう旨い事と思うて家族を伴い行って見ると、丸で異なっておる。シベリアの野には労せずして収穫のある所はなく、又金の実る樹もないのである。オーッカ酒に謳歌せる魯鈍なるスラブ民族は此の荒野に立って到底奮戦する元気はない。そこで結局は乞食となるので、要するにシベリアの現今は、囚人の流形地たると共に、乞食の移住地という有様である」

 まるで宗教のように、天国だ、来世だと甘い蜜で誘われて来てみても到達出来るものはごくわずかであって、俗世に慣れた者のほとんどは脱落して身を落とし、流刑人だらけの土地になるといっているようだ。自ら収穫することは難しく、囚人だけが生活を赦される場所であると。
 私はこれも不思議な思いを持って聞いている。
 ドストエフスキーが暗示した天国は、厳しいだけではなく、管理されるべき場所なのだ。そして、その暗示は不思議と私の想像に適っている。解き放たれて辿り着いた楽園は決して放埓な場所ではない。神に管理される「生活者」だけが入場できる。資格を得た彼らだけが「泥の中から咲く」可能性を与えられるのだ。ドストエフスキーの小説を読んでいると、良く漫画のようにデフォルメされた物事が出てくる。彼が好んで描いた「娼婦」(しかも貧乏でみすぼらしい)もそうだが、滑稽なほどわかりやすいアイコンもある。が、「シベリアの刑務所」はやはりすごい。作家の非凡な才能に感嘆せざるを得ないのだった。
 つまり、シベリアまでは誰でも行ける。むしろ送り込まれる場合さえある。そこで生活できるかどうかが問題ではないか。生き残れなければ、俗世以下の悲惨な暮らしが待ちうけている。
 私はそんなふうに考えて、また暑い夏を思う。












 写真を撮り始めてから、蓮の花の時季をいつも逃している。昨年もほとんど閉じた花を一輪かろうじて写し取っただけであった。今年こそは撮りたい。
 そう願った私は早起きをして蓮見に出かけた。早朝6時から開園している横浜三渓園に着くと、すでに蓮池の前は人だかりだ。が、意外と三脚を立てたカメラマンは少ない。早々に日傘をさした婦人たちが優雅に蓮池の周りを歩いては、ときどき立ち止まり花を見やる。
「綺麗ねぇ」
 と感嘆の声に笑顔。早く辿り着いて、場所を得なければと思いつめていた私は拍子抜けをする。バスの停留所をひとつ間違えて、はやる思いで来たのである。気持ちを切り替えて、のんびりと支度ををする。三脚を抱えて、蓮池に向かっていく。
 蓮の花は7時ごろが開花のピークだそうだ。早朝からゆっくりと開き始め、7時ごろに花開き、それからお昼ごろにはまた花をつぼめる。開いて咲いてを3回繰り返し、4日目に散る。
 出来れば初めての開花、咲くのが1回目の花を撮りたいものだと、初々しい花弁を探すが、まだ蕾も多く、蓮池は蓮の葉ばかりがたなびいている。風があるようだ。咲いている花が少なく、また望遠ズームレンズでも捉え難いほど遠くで咲いているものが多い。
 『遠き世の 如く遠くに 蓮の華』









 

「ここは撮れる位置にあるのが少ないね」
「大船のほうがいいよ。あそこのほうが数は少ないけど、撮りやすいよ」
 カメラマンたちが会話している。別の場所の植物園を差しているようだ。蓮を撮るなら、近場ではここしかないと考えていた私は、もっとほかの地を丁寧に探すべきだったと反省する。しかし、彼らも今ここにいるのだ。お互い与えられた場所で最善を尽くすしかない。
 カメラマンたちはサークルの仲間たちだったようで、あとで私は見知らぬ男性に「あなた○○の人?」と尋ねられる。言葉の意味を探しあぐねて、返事に詰まっていると、「さっきあなたが喋っていたのが○○の先生だったから・・」と教えてくれた。「鎌倉の写真サークルなんですよ」
 私が蓮池を一周し、逆光の位置に来た時だ。PLフィルターを好んで使う私は長いレンズフードを外していた。それを先生が注意してくれたのだった。
「持っていたら使った方がいいよ」
 先生はまた、三脚の便利な使用方法も教えてくれた。私は礼を言って彼と別れたものだ。
 鎌倉に写真を撮りに行くと、必ず多くのカメラマンに出会うが、あれもサークルの方々なのかもしれないなとふと思う。単独で、撮りに行くのは意外と珍しいものかもしれない。私はそう考えて、ふと自分を心もとなく思うが、それも一瞬のことだ。前日に、この一週間に何度も目にした蓮の花を思い出して、微笑んだ。仲間が撮った写真を見たではないか。
 私は彼らの絵を思い出し、参考にした。艶やかな撮り方、ローアングル、それらを自分の中に置き換えて、自分なりの撮り方を模索する。今日は蓮の花を徹底的に撮るのだ。せっかく三渓園まで来たと言うのに、ついに蓮池のまわりだけしか歩かなかった。ミソハギ、ヤマユリ、ボタンクサキ、ネムノキ、たくさんの花が咲いていたというのに、撮ることもしない。ただ眺め、すべての意識を、気力を、蓮の花に注いだ。蓮の花を綺麗に撮ってあげたい。私からも、こんな蓮の花が撮れましたと発信したい。それは、私が今いる場所での義務のように思えた。いや、強制的な意味ではなく、使命のような感じか。それともお返しか。言葉が見つからないが、今日は蓮の花を、満足いくまで撮ることが、今できる最善のことだと思われた。
 光にも気を使う。久しぶりの斜光だった。寝坊を重ねる私は目的地に着くころには昼近くなり、真上からのトップ光になることが多い。景色も花も影を作り、上手く撮れないことも多々ある。今日は、蓮池をぐるり回りながら、陽のあたる場所、日陰の場所、様々な光を意識して撮り分けていく。おや、と思ったのは、自分の中で、これくらいの光ならこれくらいだろう、というような、露出補正や、絞りや、コントラストの調整や、様々な設定の予測が出来てきたということだ。経験知のデータが根付きはじめている。撮っては微調整を繰り返しているうちに、段々と自分でも知らぬうちに様々な光を予測して、撮りたいイメージを考えながら撮ることが出来るようになっていた。朝の斜光の経験は少ないはずだが、今までの努力はすべて無ではなかったようだ。とりわけ、天候の悪い日に撮ることが多かったせいか、日陰で撮った蓮の花は自分でも気に入った絵にすることが出来た。経験知がそれだけ多いのだろう。









 蓮の花はファインダーのなかで様々な表情を見せた。一瞬で姿を変える。
 私はそれが面白くて、何度も撮り直した。影となる蓮の葉が風で靡くたびに、花に注がれる光が変わり、花の色も輝きも変わるのだった。傾いて、思いがけず花の花弁がぱっと開くこともあった。また花に寄り添う葉も様々である。まるで海の波のように、風が吹くたびに揺れて、うねり、花に添い、離れ、葉の裏側の白い側面を見せたり、鮮やかな翠を放ったり、その気持ちの良いこと。海の中を漂っているような心持になる。
 私はすっかり満たされて、最後に蓮池の前のベンチに腰を下ろした。
 蓮池を2周して、レンズを変えて撮って、あれだけ蓮の花を堪能したというのに、まだまだお昼には時間がある。蓮の花はそろそろつぼみ始めているのだろうか。ずっと見続けている私には変化がわからない。私は持ってきた本を取り出して読み始めた。露西亜の話、シベリアの記述があった本だ。戦前の官僚たちの逸話や、彼らがどうやって日本株式会社とも言える国の形を創りだしたのかが記されている。
 日本をグランドデザインしたひとりの宮崎正義は統制経済論者だった。彼は社会主義的な国家の統制を資本主義経済の中に生かすという、新たな国の形を模索した。独立したばかりの満州国の経営を設計し、のちにそれは敗戦後の日本の形に継承された。
 私が感嘆する日本(と言う国の)のシステムを創り上げた者たちのなんという頭の良さよ。現在の馬鹿な政治家にすべて、教え諭してあげたい思いがしてくる。彼らが叩いたり、仕分けたりしているものたちの本来の意味を。「政治主導」を念仏のように繰り返す彼らは、国家を統制するべく存在を壊し続けて、この国を損なっている。
 甘い蜜をちらつかせれば、そこまでは行けるのだ。
 泥の中から咲くのは、しかし・・ と私はため息をついて、本を読む目をふと上げる。
 蓮池の花と葉は相変わらず海のようにうねっていた。穏やかな心持ち。暑い陽射しが気持ち良かった。まるで惜しむように、やっとつぼみ始めた花を見つめる。
 この花のように清らかに咲きたいものだ。
 たとえ、泥にまみれていようとも、そこにある限り、それはできる。
 私は私の「生活」のことを想った。ソーニャのことを想った。
 シベリアの夏の陽をいつまでも浴びていた。
 





 

 

2010年7月11日

「1Q84」の入口とシベリアの夏  ~「1Q84」BOOK2とBOOK3を見て~

  


  バラバラな出来事がひとつの方向へ向かっている。クライマックスを迎えるように。もしくは、始まろうとしているように。そんな予感がする。
  私は「1Q84」の「BOOK3」の頁をめくっている。電車に乗って「曳船」へと向かうところだった。向島百花園で花を撮るのだ。墨田区は私が好んで通う町だ。
  1時間半ほどの旅の途中で、物語の進行と、私の中の決して軽んじられない幾つかの項目が重なり合うようだった。まず、ワールドカップの決勝戦が近付いている。それから、参議院選挙がついに投票日を迎えようとしている。

  それにしてもずいぶん長い物語だった。本を読み慣れている私でも「BOOK2」と「BOOK3」を読むのに丸一週間かかっている。
  村上春樹はしばらく会っていないうちにずいぶん論理的な書き方をするようになった。
  以前は、もう少し「カフカ」に近かったように思う。たとえ異次元だろうが、論理的に説明のつかない出来事であろうが、有無を言わさず読者を自らの世界へと掻っさらっていった。
  が、たぶん最高傑作とされるであろう今作では、異次元へ行くことの論理性をいちいち説明される。それがどうにもやりきれない。タフな主人公がどう論理的に考えても、どうしても及ばないところは、すべて「それは1Q84だから」という一言で片付けられる。
  論理的なご都合主義小説を読んでいるようだった。
   しかし、まだ、マシだった。というより、その姿勢は素晴らしいことなのだった。
  彼の世界は、私の世界には直接的には何の影響ももたらさない。
  私の世界の「ビックブラザー」もしくは、「リトルピープル」は、何の説明もせずに自らのご都合主義を通そうとしている。

  本を閉じて、考え事をしていた私は、曳船を通り越して、北千住に辿り着いた。またやってしまった。私はいつも「行くべきところ」を間違えるのだ。
  北千住で隣のホームに乗り換える。次の各駅停車に飛び乗って、あらためて曳船で降りる。駅前の地図を見て、向島百花園の場所を頭にたたき込む。何度も来た町だ。ここは見覚えがある。すぐに行けるとそう思う。私は駅を降りて初めて、見慣れた景色に気が付いて、そのことに気が付いたのだった。一度来たことがある、くらいに思っていたが、そうではない。
  ここは、何度も、来た。
  私の行くべきところとされてきた。
  まず、駅前から東向島2丁目の公園へと向かう。ベンチに座って腹ごしらえをして、それから鳩の街商店街を通り抜ける。抜けたらすぐ迂回。461号線を歩いて、子育地蔵尊を右折。途中遠回りをしてでも、見慣れた道を歩いて行く。
  一回、道を見失って、百花園を通り越し、東向島駅まで行きそうになってしまった。また戻って、道を確認しながら歩くたびに、蘇る記憶が鮮明になっていくようだ。
  ここには、七福神巡りで一度来た。それから鳩の街商店街を見に来た。それともあれは一緒だっただろうか。それから隅田区花火大会を見に来た。それから、もう一度鳩の街商店街を見に、京島に行くために来た。
  不思議なことにこの辺はコンビニがほとんどない。いつもどこへ行ってもあるあの、あれだけ日本中を侵蝕しているローソンがない。仕方なく駅前の寿司屋で弁当を買った。
  住宅街を歩くと、参議院選挙のポスター。「比例区は議員の名前を」。公明党だったか、中年の人の良さそうな男が笑みを浮かべていた。
  今日は雨の予報だったが、それにしてもずいぶんと外れたものだ。真夏のような陽射しの中をずんずんと進む。帽子を持ってくれば良かった。
  何度も選挙のポスターをやり過ごしながら、私の中の大切なひとつの出来ごとのクライマックス(もしくは始まり)を考えている。
  民主党が今度の参議院選挙で過半数を獲れば、それは確実に行われるだろう。彼らはマニフェストには決して乗せることなく、国民に隠して、悪い言い方をすればだましたままで、秘密裏に物事を進めようとしているのだ。
  村上春樹の爪の赤を煎じて飲ませたいものだ。読者にあれだけ論理的な説明を試みる作家は少ない。彼流に言えば、今度の選挙が高速道路の入り口だ。今年が1Q84年なのだ。
  誤って、そこを抜けてしまったら、似て非なる世界が待ちうけている。で、物語と違う点は、おそらく戻ってくることは出来ないんだろうなぁ、という予測。あっけなく「出口はふさがれてしまう」。恐ろしいことだ。
  ぞっとしたのは、民主党のCMだった。その前に、私は自民党のCMを見て笑ったものだ。
「日本の政党!」
  そんなあたりまえのことをラストの決め台詞として快活に言う総裁は、それが唯一最大の争点であることを知りつくしている。民主党は日本の政党ではありえない。少なくとも日本のための政党ではない、だからそうやって野党がアピールするのだ。そのあとに、放送された民主党のCMでは、菅首相が拳を上げて言う。
「民族、結集!」
  なるほど、「日本の政党」じゃないから、「民族」なのね~。ずいぶん露骨なものだ、とぞっとしたあと、それが「民力」結集、であって、聞き間違いであったことに気が付く。が、聞き間違いさえ計算に入れているような気がしてくるから不思議だ。「日本の政党」と聞いて不快感を抱いた方々は、「民族結集!」と呼びかけられて大喜びしそうな気がする。しっぽを振って、民主党に票を入れそうだ。
  それは想像しすぎだとしても、しかしその想像は最大の争点にずいぶん見合っている。マニフェストには書かずに、国民に知らせぬまま、「外国人の地方参政権法案」や「夫婦別姓法案」など、日本解体法案を成立させようと目論んでいる民主党のイメージにとてもよく似合う。

「民族、結集!」

  ともう一度反芻して見る。二千年続いた単一民族の日本という国に、何という呼びかけなのだろう。もしも、そんな謎かけは一切なかったと言うならば、もう少し誤解の少ないフレーズはなかったものか。どう考えても、「日本の政党」の対語にしか思えない。
  明日が決戦だ。このブログをアップする頃にはもう今日だ。
  1Q84年の入口に入るか、どうかの瀬戸際なのだった。皮肉的な響きでヤナーチェックでも聞こえてきそうだ。もちろん私は物語に出てくるこの音楽を一度も聴いたことがないので、「ヤナーチェック」のイメージを頭の中で構成して、鳴り響かせているわけだ。何とも禍々しい異次元の入口。その序曲を。1984年の終焉を。







  向島百花園は相変わらず人が少ない。私は大事な三脚を抱え持って、ゆっくりと丁寧に花を撮ることが出来た。大抵の公園は混んでいて、いつも人々に気遣いながらの撮影となるので、そのことがずいぶんと物事をやりやすくする。小さなストレスも溜まらない。
  花は予想外の真夏の日差しを浴びて、濃い影を作る。下じきでも持ってくればよかったと思うほどだった。陽射しを覆いたい。200mmの望遠レンズではたとえ持っていても、届きはしないのだが、そんなとんちんかんなことを願うほど、真夏日和だった。
  そして、私は真夏のこの町がとても好きだった。花の影に苛立ちながら、強い陽射しを受けて、今ここにいることの幸福をかみしめている。園内は自販機もない。水飲み場の水は出ない。売店で高いコーラと「東京の水」を買って、ベンチで飲む。携帯で、ブックマークされているサイトを見て、メールを送る。いつもと同じ、会社にいるときの休憩時間のような一連のことをして、それからまた日常の喜びを抱えて、園内を巡っていく。

  花を撮ることはそう好きなわけではなかった。どちらかと言えば、人を撮る方が好きだ。町や森を撮る方が好きだ。だけど、週に一回、写真を撮りに出かけて、夜にその日の記録を書く。それは私がここ数年、好んで続けている生活で、そのために季節の花々はずいぶんと私に行くべき場所を与えてくれた。そして、今いる墨田区はその一連の生活を始めたほんの初期のころから私が通っていた場所であり、それはふとさっき駅に着いて思い出した風景によって再確認したことだった。

  私はここが好きだ。よくここに来ていた。ここで夏を過ごした。また今年も夏が巡り、ここで今花を撮っている。

  ノウゼンカズラ。ムクゲ。紫陽花。去年も撮ったそれらの花を、思い出しながら、私は一枚一枚大切に撮っている。この生活を続けることに、少なからぬ代償も支払って来た。そして、今があること。だから、今があること。今年も花を撮っていることを意味を持って考える。それは存在意義に近い。私がここに今あることのすべての意味だった。懐かしい墨田区はそのことを思い出させてくれる。







  ところで、書評に戻らせてもらえば、「1Q84」でびっくりしたことが二つほどある。
ひとつめは異次元に迷い込んだ主人公がいつそれを知るのか、ということ。主人公はここが異世界「1Q84」ではないかと想像している。だけどまだ想像にすぎない。その根拠が明かされて、現実世界と異世界の境界線が消え去る瞬間、別世界であることが確定される瞬間、私はその瞬間の場面が大好きだった。今まで読んだこういうジャンルの小説ではいつもそこを楽しみにしている。大抵は、根拠は出来事として描かれる。現実の世界と別の世界が入り乱れて、主人公も、読み手も、どちらがどちらかかよくわからなくなって、混乱、混沌とした中で、ふとチェンジする。あ、今変わった、という世界のシフトチェンジのあの瞬間を毎回楽しみにしているのだが・・・
  1Q84ではたった一言で済まされてしまった。「それはここが1Q84だからだ」という台詞で。主人公の想像は正しかったと別の登場人物(預言者)が告げる。
で、私はずっこけたものだ。ずいぶん簡単に移っちゃったなぁと。物語自体はずいぶん面白く展開していくのだが、一番楽しみにしていた箇所を一言の台詞で済ませれてしまって、正直、これはひどいのではないかと文句を言いたくなった。

  ふたつめは、最後のクライマックス。主人公が運命の相手と再会するシーン。気が付くと、相手が隣にいて、手をそっと握っている。という感動的なシーンなのだが、その場所が児童公園の滑り台の上なのである。で、主人公は身体がでかい、と何度も書かれている大男なのだ。児童公園の子供用の小さな滑り台に独りまるまって座っているだけでも窮屈そうなのに、どうして隣に運命の女性が現れるスペースがあったのだろうか。そっと手を握るには、隣に座らなければならないはずだ。後ろから手を回したのだろうか。それでも、子供用の滑り台の上で、身体の大きな男と170cmの身長の女性が二人いるのはどう考えてもしんどいだろうなぁ。
  私はその一番のロマンチックなサビの場面が想像すると可笑しくて、感動できずに笑ってしまうのだった。
  運命の相手とついに出逢う瞬間。何も語らず、互いの手をそっと握る。それですべてがわかる。
  私は何度もこの場面を想像して生きてきたのだ。
  だからわかる。児童公園の滑り台の上では無理がある。
  なんで一番の山場で笑わなければならないのだ。何度も小説を読み返して、滑り台が大きかったとか、スペースがあったとかそういう記述を探してしまった。が、何度見てもなかった。で、私は物語の面白さを忘れるくらいがっかりしてしまったのだ。
  それほど、私にとっては重要な問題だったのだ。二人の出逢いの瞬間が。








  その二点を除けば物語はずいぶんと面白かった。何度も言うけど、面白い。村上春樹は、ストーリーテラーになったのか。元祖のジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだ時のような、自分自身の人生の答えをそこに見つけるようとするかのような、頁をめくる時のあの焦燥感、期待感は全く得られなかったが、ここまで面白く、先を読ませる物語を書いてくれるならば大満足だった。

  帰りの電車の中と家に帰ってからで私はついに読破した。平日は短い通勤電車の中でしか読めなかったから時間がかかったけど、まさか自分がまた村上春樹を読むとは思ってもいなかったし、また、彼自身が私の想像と全くかけ離れた次元に行ってしまっていたので、その意外性だけでも楽しかった。一言でいえば、ササミ肉のような小説だった。よくトレーニングされた筋肉美の女性を抱いたような気分だ。女だから、抱いたはおかしいけれど、ならば交わったという感じだろうか。一切の贅肉を排除した、強い意思を持った相手。自分も向上したような思いがする。
  私はファンファーレと世界の終焉の両方を感じながら、向島百花園を後にした。
懐かしい墨田区の道をまた歩いて行く。461号線と鳩の街商店街を抜ける。相変わらず陽は降り注いでいて、翳る気配もない。

「物語というのは、『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

  村上春樹の言葉を思っている。彼は原理主義やある種の神話に対抗する物語を創りたかったのだそうだ。人間の手によって。もしくは、孤独なたったひとりの人間の手によって。そこからでも、神に関わるシステムに対抗しうるメッセージを発せられると言うことを証明してみせた。
曳船駅に戻ってきた。私はまた駅前で一服をして、缶コーヒーを飲んでいる。そして、無性に「罪と罰」が読みたかった。

「自分はソーニャに出逢えなかったラスコーリニコフのようなものだ」

  「1Q84」に出てきた台詞の中で、唯一心に突き刺さった言葉を反芻する。
  それは、私が想像しうる中で、一番の不幸だった。

  愛と信念に満ちた主人公たちが戻り辿りついた世界と、みすぼらしい「彼ら」、行くべきあてのなかったラスコーリニコフとソーニャが行きついた世界。小さな人間から生まれたひとつの世界。行くべき場所。それらはずいぶんかけ離れているような思いがする。似て非なるものにようにも感じられる。
  だけど、同じなのかもしれない。真実はすべて相対的なのだ、と作者の声がまた聞こえる。
世界は無事1984年のままでいられるだろうか。
私が今いる「ここ」は、ラスコーリニコフとソーニャにとってのシベリアのようなもかもしれない。

  そうであるといい。
  そうでなければならない。
  取り留めもなく思いながら、私は「行くべき場所」を後にする。




  

2010年7月4日

森を歩く。 ~村上春樹「1Q84」BOOK1を見て~

「『こうであったかもしれない』過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、『そうではなかったかもしれない』現在の姿だ」


 2002年、日韓ワールドカップが終了して7日後に、自殺を図った。
 当時はその理由がワールドカップにあったなどとは思いも寄らなかった。今だってそうだ。もしも、今年の南アフリカ大会が終わりが近付くにつれ、必要以上に哀しい思いを感じることがなければ気付きもしなかっただろう。
 スポーツの国際試合は、唯一赦されたナショナリズムの発露である。特に愛国心を排斥する異様なこの国にとっては。私は当時、誰からも切り離されたところで生きていると感じていて、それがこのたまたまのお祭り騒ぎの発露によって自分を取り巻く世界との繋がりを強く感じてしまったのだった。一緒に大会を見て過ごした恋人ともそうだ。より強く結び付くように思われた。
 突然終わってしまった時に、だから私はすんなりと元の孤独な世界へ戻ることが出来なかったのだった。当たり前だった私の生きている世界は、何とも色褪せて見えてしまった。孤独はより深く感じられた。繋がったサークルから突然放り出されたように、私は支点を見失って弾き飛んで行った。
 ところで、不思議なのは、そのようなことはたとえ当時の事実だとしても、もう私には二度と訪れることのない過ぎ去った感情だと思っていた。それが決してそうではなかったということだ。
 日本代表の2010年が終わりを告げて、PK後のメンバーの涙と、記者会見での笑顔を見た時に、私はまた無性に寂しさを覚えてしまった。初めは彼らに共感しているだけかと思っていた。が、それだけではないようだ。私がとうの昔に乗り越えて、つまり、人々と繋がっているという確証が得られなくても「やっていける」と思っていたこと、コミュニケーションを通して「繋がった世界」に存在していられると思っていたこと、その認識が根底から崩れ落ちた。自分の裡に「やっていけない」自分が残されているという事実を発見してしまった。
 で、少なからずこの事実に困惑した私は、ふと村上春樹の「1Q84」が読みたくなったのだった。
 ずいぶん突拍子もない繋がりのように感じられるかもしれないが、2002年当時よりずっと前から私が住んでいた世界は彼によって形成させられたといっても過言ではないほど、彼は切り離された世界の「住人代表」のようなものであった。
 彼の小説に出てくる主人公たちは、みな「住人たち」ばかりだ。そのことを焦るでもなく、あきらめを持って受け入れて、淡々と生きている。物語の中で自己の森の奥へと迷い込み、戻って来た彼らは、たいていの場合愛する人を通して「やっていける」自分を見つけて(見つけた、という暗示を持って)物語は終わりを告げる。
 私は村上春樹のベストセラー小説によって、当時の「やっていけない」自分を感じてしまうことがいやだった。「1Q84」によって不安を掻き立てられそうでいやだった。それで、ずっと読むことを拒んでいたわけだが、今ならば読めそうな思いがする。あの時の自分を感じたいと願っている。
 2002年6月30日、ブラジルがドイツを破ったあの日が来る前に、2010年の決勝戦が来る前に心の準備をしておこう。またはそんな考えもなしに、ふと過去に浸りたかったのか、とにかく読みたかったのだ。本屋で「1Q84」のBOOK1を手に取った。翻訳以外で彼の「物語」を読むのは13年ぶりのことだった。




 土曜日の今日、早起きして山に登りたかったが、梅雨時の天候は侮れない。大丈夫だと思っていても、夕方から大雨に降られることも懸念して、私はおとなしく近所の森へと向かう。
 森へ行きたかった。「更に深く、森の奥へ」、BOOK3のコピーを口ずさみながら、緑の奥へと進んでいく。
 「1Q84」のBOOK1を読み始めた私は戸惑っていた。驚いていた、と言ってもいい。あまりにも長く村上春樹を読んでいないうちに、彼の「物語」の住人達はとっくに「やっていける」人たちに変わっていたようだ。
 「やっていける」彼らが歪みを感じて「やっていけない」自分をふと見つける。スイッチが切り替わって時々混乱するといった調子で物語が進んでいく。
 物語自体も、感覚や感性は影を潜め、世界屈指の文章力と長い長い時間と膨大なお金と労力をかけた資料によって、現実に即した巧みな表現に変わっている。それとももともとそうだったのかもしれない。若い私が気が付かなかっただけなのか、それにしても上手い。最高級の職人技だと感嘆するほど、素晴らしい文章力と表現力で物語がするすると進んでいくのだった。
 私は当時の自分を見つけることが出来ずがっかりしたものの、この最高級の物語に次第に惹き込まれて、頁をめくっていく。
 村上春樹は「やっていける」を通り越して、鋼鉄の精神性でも得たのではないかと思えてくる。上手いだけではない。それほど確固とした「意思」さえ感じる。
 パラレルワールドや世界の歪み、自身のうねりの表現をここまで完ぺきに表現できる作家は他にいないだろうなぁと思いながら、私は何か納得できないものを抱えて森を歩いて行く。
 村上春樹は大人になってしまったのだ。もしくは年を取ったのだ。もしくは成長したのだ。
 それはいいことであるはずなのに、私は「失われた彼」の姿を求めてもやもやしている。ビッグ・ブラザーではなくて、村上春樹の物語や森という暗示自体がもうアイコンみたいで、なんとなく可笑しくなる。
 だいたいなぜ、過去の時代を書くのだろう。私が知る限り彼は現代の最先端の時代を切り取る人なのだ。回想以外で、すべての物語の舞台を20年以上も過去にしたのは、この作品が初めてだと思われる。過去の話を書くのは年老いたものだけだ。文章力は最高だが、感覚が追いつかなくなったものだけなのだ。




 「1Q84」年は携帯電話もwebも普及していない時代だ。過去の新聞は縮刷版を捲って見る。株だって電子化していない。主人公がジュンコ・シマダのスーツを着て現れた時、私はぎょっとしたものだ。タイトルから想像できるものなのに、私はこの話が1984年を舞台にしているとは思ってもいなかったのだった。すべては手に取れる時代、五感で体感できる時代の話だ。経済も、政治も、ファッションもまだ「生きている」。世界は今のように歪んではいない。
 だからこそ、彼が描く「歪み」が際立って見える。確かなところから不確かなところへ。
 なぜ、「赤」を「緑の森の中」で見せるような安易なことをするのだろうかと私は少し腑に落ちないのだ。
 主人公が「やっていける」人たちでもいい。確かな文章力とストーリーで読ませる物語に変わっていてもいいだろう。
 ただし、「狂った世界」を書くならば、過去はずるい。歪んだ今の世界で、狂った世界を描けなくなってしまったのだろうか。「赤い、爛れて渇いた森」の中の「赤」が見たい。
 そんなこともできなくるなるほど年を取ったのかと、自分のことのようにやるせない。
 たぶんこの物語は世界中で高い評価を受けるだろう。私は物語に惹き込まれて、BOOK3まで読み続けるだろう。しかし、そのあと、次回作で、村上春樹はいったい何を書くのだろう。
 他人事ながら少々不安である。
 私は望み通り、村上春樹の「1Q84」を読んで、不安を見つけたというわけか。ふとほほ笑みながら、シャッターを切る。森を目に焼き付けるように、稚拙な写真を撮り続ける。

 更に深く、森の奥へ。


 
 この物語がiPadで読まれるところは想像出来ない。「1Q84」は印刷されて、手に取れる「紙の本」という形で普及して、多くのものに読まれなければなからなかった。
 それが作者の意思だ。
 私は森にこだわり続けるだろう。彼と同じように、暗示を求め続けるだろう。だけど出来ることならば、真似るのはその強い意志だけにしたいものだ。
 もしも、まだBOOK1しか読んでいない私の仮説が正しくて、BOOK3まで読み終えた時に、または彼の次回作で同じことを感じてしまったら。その時は。
 もう失われた住民代表には期待しない。既に狂った世界をこそうねらせて、確かなものを見付けていく。そんな森の中の物語を、私自身が見に行こう。赤い、爛れて渇いた森の中の赤をこの目で見ながら歩いて行くのだ。