2011年4月29日

成長しろよ、正義の味方。

 

 

  米大使「引き続き支援」

  (msn産経ニュース 2011.4.29 13:33 

  米国のルース駐日大使は29日、宮城県の村井嘉浩知事と同県庁で会談し、

  「引き続き東日本大震災からの復興に向け、必要なことは何でも、どこででも支援したい」

  と語った。

  村井知事は「米軍の協力で、行方不明者の捜索がスムーズに進んでいる。心から感謝したい」と述べた。

  ルース大使は仙台市で行われたプロ野球楽天のホーム開幕戦も観戦した。






  ところで、『正義の味方』というドラマが好きだった。










  山田優はいけ好かない女だな、と思っていたけど、このはまり役を見て、一転、ファンになった。



  「引き続き東日本大震災からの復興に向け、必要なことは何でも、どこででも支援したい」


  ルース駐在大使の、まるでGHQのマッカーサー元帥のような慈愛に溢れた言葉を聞いていると、この山田優演じる正義の味方の姉を思い出すのは私だけか。



  『姉は悪魔だ。神様も味方しちゃうほど・・・』 (番組のコピー)





  『村井知事は「米軍の協力で、行方不明者の捜索がスムーズに進んでいる。心から感謝したい」』(冒頭の記事の台詞)





  歴史は繰り返すと言うけれど、本当なんだなぁ。
(村井知事洗脳されてないか?)

  ところで、あのドラマの最終回は見ていないが、妹は結局、災難を逃れて、幸せになれたのだったか。
  悪魔の姉が、偶然「正義の味方」になっていくことによって、人間的に成長していく。その過程を描く、(妹ではなくて、あくまでも姉がね)という物語にも見えたけれど、さてどうだっただろうか。





  神様も味方してくれるほどの悪魔だと嬉しいが、どうもルース大使のあの鼻は、調べるまでもなく「ユダヤ系アメリカ人確定」に見えるものだから、一抹の不安が残るのであった。












2011年4月27日

人工地震はありか、なしか。




   
人工地震と言うのは、今回の(震災の)陰謀説で初めて、在りうるか否かを真面目に問うたわけだが、昭和では意外と有名なネタだったのだと知った。


※ろくぶんぎさんの記事『昔は人工地震をキチンと新聞も報道していたんですよ。』
http://ameblo.jp/gyakusetu-turedure/entry-10863291718.html
だいだいこんさんの「だいだいこんの日常に溢れる陰謀」より写真拝借。



昭和30年9月 朝日新聞12版朝刊7面

昭和30年9月朝日新聞12版朝刊3面


特に、昭和30年8月、第1回原水爆禁止世界大会開催が開かれた直後は盛り上がっている。
まるでブームだ。最先端の流行の話題のようである。
原水爆=核の「平和利用」を浮かれた調子で語り、
(大義名分としては科学的に地球内部の構造を解明して地震予知に役立てようということなのだが、「戦後復興からそんな大それたことができるまでに科学的に進歩した日本」という幻想に酔っているようにも映る)
  かと思えば、それは矛盾している。軍縮の最終目的に反している、とまるでハムレットのように問題を提起している。



昭和30年9月21日 読売新聞14版 朝刊7面



この浮かれ調子は、昭和31年、32年の国内での人工地震実験成功まで続く。
紆余曲折あっての昭和48年、「地震の発生を待つより制御を研究しよう」という未だ平和利用の大義名分にしがみつく辺りまで続くのだが、ついに己を騙し切れず、空恐ろしい現実に気が付いて、新聞記事にも影が差し始めるのが、昭和50年だ。



昭和31年

昭和48年8月 読売新聞 朝刊7面

昭和50年 1975年6月 読売朝刊7面



「気象兵器」という言葉が紙面を飾る。
平和利用なぞ出来るはずもなく、「兵器」でしかない、とやっと認めたようだ。
米ソが競い合うように気象兵器の開発を進めているという背景も、影を後押ししているようである。


昭和50年6月 読売新聞 朝刊4面

 

その後、米ソは開発の禁止を交渉。日本の新聞記者、いや日本政府のみならず、この問題が元来「新聞記事」になるべき類のものではない、空恐ろしいものだとやっと認識し始めたのか。
で、だからと言って、はいそうですか、と冷戦中の米ソがお互い開発をやめたと思うだろうか。

もちろんそんなことを信じる人はいないと思う。
地震兵器は、着々と開発を重ねて、今に至っているのだ。


だからどうだというわけではないが。
陰謀説が正しいと言いたくて、引用したのではないが。
これには正直驚かされた。
「人工地震が常識だった」どころか「流行だった」ということ。当時は国民の間でも恐らく共通認識であったはずのことが、今や、そう言った可能性を問うだけで、マイノリティーである。
「陰謀説」という言い方自体、可能性を排除しているように思われる。



今回の東日本大震災は様々な面で異例だ。
『東京大地震研究所の都司嘉宣准教授は、「同じ東北地方の海溝型地震でも、過去に沿岸で地盤沈下が起きた例はない。東日本大震災は異例だ」と指摘』している。
(地盤沈下はなぜ起きたのか msn産経ニュース 4月23日
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110423/dst11042321420050-n2.htm


そして、震災の死者と行方不明者の数は知り得るだけで2万人を超えている。


何が起こったのか、起こされたのか。
もしも一瞬たりとも想像が出来るならば。
もっと私たちは怒ってもいいと思う。


そのエネルギーを以て日本の復興と、より良い、新しい、日本の政治を作る力に変えていていけたらいいと思う。



    





 

2011年4月24日

IXYとツイッターをもう少しものにしなくては・・ と考えた初夏の日のこと。

 
 
 


 何かを得るためには代償が必要だ。


 だから、何かを失った時には、こう思うようにしている。
 「失ったものと同等の価値のものを、これから私は得ることが出来る」




 最近私が失ったもの。
 「我が町のシンボルツリー(桜2本とクスノキ1本)」
 「お気に入りの手袋」


 最近私が得たもの。
 「型落ちのIXY(30S)」




 「ツィッターの教則本」



 

 随分な組み合わせのようである。

 双子の桜とクスノキは私の精神的支柱であり、希望の象徴であった。
 手袋は、愛しき人が褒めてくれた私の「仕事をする手」を守り続けてくれたものを暗示している。

 喪失感が大きかっただけあって、たかが木と手袋とはいかないのである。根が深い。
 
 それに比べて、古いコンデジとこちらも古本のツイッターマニュアルって、どうよ。


 私は桜とクスノキと手袋を本当の本当に失くしたことに気が付いたときに、代わりに最近得たものは何だ、と必死になって考えた。頭を巡らせたが、思い浮かばなかった。
 単純に、最近、Amazonで買ったのがこの二つだったというわけだった。


  
  




 随分な組み合わせのようである。






 早速、おニューの型落ちIXYで試し撮りをするために出かけてみる。



 ところで、私は今年こそは新しい一眼レフを買おうと意気込んでいたはずだが、どうしてよりによってコンデジを買ったのだろうか。しかも、IXYはすでに持っているコンデジのCaplio(R5)より数段使いにくい。白いボディはファッション性があると言えなくもないが、機能はそう優れているわけではない。
 特に気になったのは、撮った写真を見る時、不便である。縦横の認識をしてくれないところと、それからISOの100以下がなく(最小値で125)画質が荒く感じるところ。
 良いところと言えば、液晶モニターが大きいところと、絞り開放値がF2という明るいレンズを使っているというところか。
 ただし、ズームマクロで撮ろうとすると、途端にF5.3まで絞られるので、あまり意味はないようにも思われる。ズームなしマクロだとF2でもそう綺麗に暈けないし、遠景をF2で撮る必要もないだろう。
 というわけで、せっかくの明るいレンズの特性を活かせずに終わってしまったが、もう少し使いこなせるようになれば、また違ってくるかもしれない。もう、新しい一眼はいらない、とまで思うこともあるのか、も、しれない、と予感だけはしておこう。


 以下、京王フローラルガーデン「アンジェ」での試し撮り。

















 京王フローラルガーデンは初めて出かけたのだが、面白かったのがこのガーデンのシンボルかか何かなのか、どこにでも必ず木で作られた鹿のような人形?があることである。
 またいた、と見つけるのも楽しかった。子鹿にも立派な角があるので、ユニコーン紛いの想像上の動物を模倣しているのか、もしかしてトナカイだったか。謎だが、帰り際に見かけたところだと、鹿の背中に少女が乗って笑いながら写真を撮っていた。なかなか微笑ましい。

 
 IXYで必死に鹿を撮っていると、「すみません」と声をかけられる。
 「写真撮ってもらえますか」
 レンズがバージョンアップするたびに、この手のご依頼は減っていた私だ。一心不乱に撮りすぎて、声をかけ辛くなっていたのか、偉そうにでも見えたのか。
 今日は真っ白くて可愛らしいIXY片手に、はぁい、と振り返る。
 「はい、はい、いいですよ」

 ぱちりと一枚撮ってから、上半身のアップでもう一枚撮る。自分の好みである。
 「お忙しいところすみませんね~」
 「イエ、とんでもない」
 
 とにこやかに挨拶してすぐ別れる。撮られた写真を確認される前に、逃げるようにガーデンの出入り口を駆け抜けていく。
 いい天気だった。初夏の陽射しがまぶしくて、影が美しくも映えた一日だった。
 IXYとツイッターをもう少しものにしなくては・・ と考えている。

 
 我が町に着くと、いつものように伐られた桜とクスノキのところへ寄っていくのだ。
 残された伐り株や、枝を見つめて、失ったものへの感傷に浸っていると、驚いたことに桜の切り取られた枝から新緑が吹き出すように生えているではないか。
 もう死んでいると思っていた。
 新緑のすぐ傍からは伐られたときに残された花も未だ咲いていた。まるで、新たな若葉と一緒に今開き始めたかのように、生き生きと咲いていた。
 
 
 

 生きているんだなぁ。

 そう思うと、駐車場のフェンスの向こうに転がった切り枝が、尚更哀れに思えて来るのだった。
 もう来年、この若葉も花も、見ることは、ない。











  


2011年4月17日

最期の花見。 ~シンボルツリーと三度目の大山桜撮影記~


  



 



 うちの近所に双子の桜とクスノキが一本、三本のシンボルツリーがあった。
 勝手にそう思っていただけだ。町の人たちは見向きもしない。かつての代議士宅だという、幽霊屋敷のようなお屋敷の敷地に立っていた。この敷地も庭園というよりは森である。5000坪はあると思われる広大な土地に、樹木が鬱蒼と茂り、その一角だけが景色も、空気も、異質であった。傍を通るのが(夜は特に)恐ろしく感じられた。
 この不気味なお屋敷と、三本のシンボルツリーは、しかし私の記憶の中で結びついていない。
 彼らは庭の裏手の端にあり、ごく普通の住宅街の駐車場に、半分身を乗り出すような恰好で佇んでいた。
 「駐車場の木」。私の中で、いつしか彼らはそう認識されていた。
 駐車場の三本の木は、背が高かった。といっても、20m程だと思うが、それでも田舎の住宅街の話である。町内を歩くと、彼らの姿は、まるで東京のどこからでも見えるスカイツリーのように天辺が見えたものだ。私はそのクスノキの鬱蒼と茂る葉を、桜の花々を、道の端から見つけながら歩くのが大好きだった。
 思い出も随分ある。特に心に残るのは去年の春だ。歳を取り、派遣やアルバイトの職を転々としていた私が、一念発起して求職活動を始めた。定年まで働くことを念頭に置いて、正社員としての終の棲家を求めたのである。
 失業覚悟ではあったが、その期間が想像していたよりも長引いた。春までには決めたい、サクラサク、という言葉もあるように、私は桜が散る前までにどうにか就職したいと望んでいた。
 ところが、職歴も経歴も自慢できたものではない私を早々受け入れてくれる企業はなかったのだ。私は職業安定所に通い続け、面接を受け続け、そして、落ち続け、その年は桜は例年より開花が長く、なかなか散らないことで話題にもなったが、それにしてもさすがに例年よりのんびり者の桜もついに散り始めたものだ。
 各地で桜の花びらが舞い落ちていく。花吹雪と共に、心を消沈させていた私を、勇気付けてくれたのが、我が町のシンボルツリーの桜である。
 双子の桜は日当たりの関係で、開花に時差がある。手前の一本が散り始める頃に、隣りの桜(反対の隣はクスノキ)が満開に咲くのであった。で、その中央の桜が随分と頑張ってくれたのだった。下の枝は散り果てても、天辺には花手毬のような可憐な花の群れを残している。
 4月の末に合格を知った後も、桜はまだ咲いていた。
 おめでとう、おめでとう、まるでそう言ってくれているように、桜花は風に揺れたものだ。
 どんなに私が嬉しかったことか。この喜びを分かち合ってくれたように思ったことか。

 
 元代議士の屋敷の異変に気が付いたのは、随分と「それ」が進んでからのことだった。
 きっと、彼は死んだのだ。跡取りは相続税を払えずに、土地を売り払ったのだ、とっさにそう認識をした。
 屋敷の森の木々たちが、次々と伐り倒されていたのである。
 大きな門からは表札が消えていた。敷地内にはパワーショベルがあった。木々たちはバラバラに解体されて、積み上がっていた。
 夜のマラソンを怠っていたせいだ。ジムで走っていたので気が付かなかった。私は駅から自宅までの道しか目に入っていなかった。
 駅から家まで、駅から会社までを繰り返す平和な日々。今のこの順調な生活があるのは、あの時シンボルツリーの桜が励まして、一緒に喜んでくれたからだというのに、私は彼らのことすら忘れていた。この小さな町のことよりも、外に目が向けられたいたのであった。
 代議士の庭の敷地の大半の木はすでに伐り倒されて、広大な敷地を露わにしていた。きっと手を焼いたのか、憚られたのか、後は大木ばかりが残されていた。
 他人事のように呟いた私、「酷いことをするねぇー」。とっさに、双子の桜とクスノキがこの家のものだということに気が付いた。
 心臓が止まる思いだった。裏手に回って、住宅街の駐車場に走る。彼らの姿を確認する。
 桜は手前の一本が花開き始めたばかりであった。
 クスノキは、例年通りに新緑の準備だ。蕾のような葉芽をたくさん身に付けていた。
 まさか、この木を伐るというのか。
 私は心底ぞっとしたものだ。彼らの姿を見ることのできない年が訪れようとは、想像もしていなかった。私と共に、ずっとこの町で年を老いていく、ずっとこの町の景色として、彼らはあり続けるものだと信じて疑っていなかったのである。
 残された庭の大木たちが風に吹かれてうねっていた。彼らは天高い枝の葉を揺らして騒ぎ続ける。ざわざわ。ざわざわ。細かいそれらが重なってザーとまるで響くのだった。
 どうしたことか、一番騒いでいた(シンボルツリーより)一回り小さなクスノキが、次の夜には消えていた。 それで私は、あれはただの風の強い夜ではなかったということを肌で感じたものである。
 あれは悲鳴だったのだ。この夜の闇の中で、彼らは死刑執行を待つ身のように恐れている。
 次は自分か。まだ生きたい。助けてくれ。
 闇夜に舞う黒い枝葉のざわめき、その声と姿が私の心に焼き付いた。
 私は毎晩双子の桜と、クスノキが無事かどうか見極めるために、仕事帰りやジムの後に駐車場へと向かった。明日か、また明日かと思えど、なかなか彼らは伐られなかった。もしかして、これはただの庭の手入れではないか、要らない木を伐り倒して、新たに植えようとしているだけではないか。桜とクスノキはいつだって、この町のどこからだって見え続けるはずである。そうではない未来など想像できないではないか。パワーショベルも消えて、ただの取り越し苦労だったと私が安堵しかけた頃、庭の中央の山桜がまた消えた。花が咲いていたというのに、花を付けたまま伐り倒された。無残に転がっている姿を目にして、で、私は自分を騙すことをやめたものだ。
 双子の桜にも、クスノキにも、逢うのは今年が最後なのだ。
 桜は一身に花を纏い、クスノキの葉芽も開き始めた。どちらも一年で一番美しい時期を迎えていた。
 なぜ、この時期なのだろうか。死刑執行を待つのはまるで自分のようであった。次に、彼らが風に吹かれてざわめいたら、その時が最後だ。
 そして、その夜はあっけなくやって来たのであった。



 大山桜を見に出かけた。
 2008年と、2010年に二度見た山桜(の一種)である。丹沢の桜山という小さな山に咲いている樹齢400年の4本の桜の木だ。
 この桜は急斜面にせり出すように、枝をまるで90度の角度にして咲いている。その幹を支えるために、太い根が山に張り出している。その様も、老木の大木も見応えがあるが、私はこの木をまともに撮れた試しがなかった。去年のリベンジも惨敗だったものだ。敗因としては、広角のレンズがないと難しいということ、それと花の開花の時期の問題だ。花が薄いともうだめだ。些細な違いが勝敗を分ける。4本の桜が同時に、いやまったく同時は無理でも、いい具合に見頃になるかどうか、これは数十年に一回の確率ではないかと思われた。例年通い詰めないと難しそうだ。
 私は手持ちのレンズの中で一番広角のものをバックに詰めて、電車に乗った。バスに乗り継いで、桜色の斜面に染まった里山を眺めながら、ゆく。
 大山小学校前で下車する。昨年は満開だった小学校の染井吉野はもう大半が散っていた。花吹雪が降りかかってくる。
 この分で行くと、山の上はちょうど見頃だろう。昨年は一週間近く早かったのではないか。下大山桜の花が薄くて、思うように撮れなかった。
 大山桜を見に来たのは、もちろんリベンジもあったが、気分を変えたかったためだ。
 我が町の双子の桜の手前の一本と、巨木のクスノキが昨夜、伐り倒されていたのであった。仕事の帰りに、ひとつ前の駅で降りて、私は道の先からクスノキと桜を探した。いつも道の果てに彼らの天辺がこんもりと盛り上がって見える。その風景が大好きだった。
 しかし、昨夜は見られなかった。一本の、中央の桜だけが侘しく残されて、駐車場に身を乗り出すように佇んでいた。
 私は随分と泣いたものだ。昨夜のクスノキのざわめきを思い出していた。
 彼は何度も鳴いた。風に揺られて、声を上げた。そのたびに私は繰り返したのだ。
 「怖くないよ。怖くないよ。私がついているからね」
 たとえ、いなくなっても、お前が消えてしまっても、ずっと一緒に生きていこう。

 哀しみを消す唯一の方法は相対化することだ。
 東北の大震災を思えばいい。木どころか、我が町が消えた。ずっと一緒に生きていくはずであった愛しい家族もいなくなってしまった。
 たかが、桜とクスノキの老木がなんだと言うのだ。
 大山桜を見よ。樹齢400年である。我が町の桜がどれほど貧弱かこれと比べてみよ。
 世の中には、見なければならない価値のある樹木も、桜も山ほどある。
 我が町の双子の桜が、クスノキが、シンボルツリーがなんだと言うのだ。ただの田舎の老木である。
 
 私は桜山を登っていく。
 初めて登った時は、随分と汗をかいた記憶があるが、今ではほとんど暑ささえも感じない。真夏のように気温の上がった一日であったはずだが、体力が付いたということか。山登りに慣れたのか。
 山を軽々と登っていく。すぐに下大山桜が、見えた。
 見えた。そう思った。
 去年は見えなかったが、ついに捉えた。なんと満開の花であった。
 この下大山桜に毎回手を焼いたものだ。植林された杉林に邪魔をされて全体が見えない。斜面に咲いていて、視界も悪く撮りづらいことこの上ない。
 去年は道を外れて、鹿の糞を踏みつけながらけもの道から撮ったものである。今年も見えづらいのは変わらないが、満開であるだけ、絵にはなるというものだった。





  

 私は山を行きながら、もしもこの山にあの私の町の桜やクスノキが立っていたらどれだけ良かったかと考えていた。
 この樹齢400年の大山桜のように、柵で大切に守られて、パワーショベルなどやって来ないことだろう。彼らを伐る前に植林できなかったか。根から掘り出して、この山に移すのだ。車には乗らないだろうから、紐で吊るしてヘリコプターか何かで空輸するか。それにはどれくらいの費用がかかるのか。そんな馬鹿をするものがどこにいるのか。
 双子の桜とクスノキは町に立つ木にしては枝を伸ばし過ぎたのだ。自由に生長し過ぎたのだ。町の木らしく、剪定して、枝を切り落として、形を矯正していれば、あんなに駐車場に乗り出すこともなく、伐り倒される時だって、こんなに心を痛めなくて済んだものを。
 アバターのホームツリーのように自由奔放に、そうだ、10m、いや15mは左右に枝葉を伸ばしていたものだ。見事な、見事な、枝ぶりであった。
 桜山の裏側には、実際ゴミのような巨木がたくさん佇んでいた。立ち枯れているように見えるものもある。こんな木が残るならば、よほど、あのクスノキが残された方が価値があるというのに。






 「人にはそれぞれの運命があるように、木もそうなんだよ」

 母親にクスノキの話をすると、そう言ったものだ。「生きていたかっただろうね」
 人間だってそうなんだよ。明日の命なんて知れないのだから。精一杯生きていないとだめだよ・・










 相対化するつもりで来た大山桜の前で、桜山で、私はもういなくなって木々のことばかり考えていた。喪失感の大きさに驚かされていた。それでも、満開の上大山桜を目にし、最奥の大山桜(この木が一番のお気に入りである)を目にする頃には、やっと少し気分が上向いて来たようであった。
 何より、桜が見事だ。満開の桜を見るのは、もう今年はこれが最後だろう。
 最奥の桜は花吹雪が舞っていたが、見事な肢体に感嘆しながら私はその傍で休憩を取り、物思いに耽った。
 この木に比べたら、我が町の桜のなんて貧弱なことか。
 中央の、残された一本は、幅はあるが縦がない。随分薄っぺらい。横長の細いマンションのように空高く伸びていた。隣りの木がある時は気が付かなかったが、妙な格好に立っていたものだ。今まで右隣の桜と、左隣のクスノキに遠慮をしていたのだろう。


 

 
 
 
 行ったばかりのバスを待って、我が町へと戻る。
 一つ手前の駅で降りる。
 すると、道の先に、薄い桜の花が見えるのだった。
 朝、行く前に私は桜を見て、残された一本のそれが風に鳴る音を聞いていたので、覚悟はしていた。パワーショベルも、チェーンソーの音も聞いた。ああやって、あの音で、桜とクスノキが殺されたのかと見知ったものだ。
 可笑しなものだ。殺人は罪になるのに、木はいくら切り刻んでも罪にはならない。私はチェーンソーを持ってふらふら歩く若い男を随分と不思議な思いで見つめたものである。
 神木、とか言うではないか。樹齢の長い木には精霊が宿っていると言うではないか。
 人を斬るのが罪ならば、神や精霊を伐るのはもっと罪深いだろう。
 なぜ、誰もおかしいとは思ないのだろうか。駐車場で倒れたクスノキを見て泣く私を不思議そうなものを見るように通り過ぎる人、彼らには倒れた木は目に入らない。町の景色が変わったことにも気が付かない。もしくは、気が付いても、動揺せずに済ませる術を知っている。
 私は自分ひとりが別の世界に放り出されたような違和感を覚えながら、チェーンソーの若者を、無関心(またはそう装う)町の人々を眺めている。
 東日本を見よ!大山桜を見よ!と号令をかけながら。クスノキが泣いた夜、闇夜の中で、私に向かって枝垂れるような見事な枝葉を伸ばしてきたことを、甘い記憶のように思い出す。
 しかし、あれだけ、今朝泣いていた桜は、まだ立っていた。
 パワーショベルが音が止む度に、あちらこちらから一斉に鳥が集まってくる。シジュウカラにヒヨドリが花から花へと飛び回りながら、かしましく鳴くのだった。
 私は缶コーヒーを買い込んで、一人花見としゃれ込んだ。
 駐車場に座り込んで、情けない桜の一本木を見上げている。
 青空。天辺だけの満開の花。鳥たちの鳴き声。
 まだ日は高い。私の姿を見つけて、逃げるように庭の反対側に向かっていった作業着の彼らが戻ってくる時間は十分残されていた。
 それでも、こうして眺めていようではないか。あと少し。あとほんの少しだけ。桜は待っていてくれたのだ。私の帰りをきっと。

 貧弱な桜の枝は、高い空のところで前後に大きく揺れていた。
 その度に花が散り、ひらひらと舞い落ちて、私の元へと向かってくるのだ。
 まるであの日のように。おめでとう、おめでとう、と喜んでくれた日のように。
 私が一心に見上げると、桜のざわめきが今や歓喜のように聞こえてくる。
 今までありがとう。
 礼を言う。短い、最後の花見を楽しんでいる。











 
 
  

2011年4月10日

禊ぎから生じるヨゴトとマガゴトを繰り返す世界について ~吉野山千本桜紀行~

 





 金曜の夜、夜行バスに乗った。奈良県の吉野の山に出かけたのである。
 桜の時季を待ちかねて写真を撮りに出かける。ここ数年、そんな旅の途中で、偶然に桜色に染まった山を良く見かけたものだ。
 まるで桃源郷のように美しかった。何度も私は、その地を離れて、自らの目的地へと向かう自分を、もしくは自分の乗ったバスを、恨んだものだ。
 無情とも思われた。離れがたくて、いっそ目的をうっちゃって、あの桜咲く山に向かって行きたいという衝動に駆られたものであった。行く道さえもわかないというのに。
 吉野の山はそんな私の桃源郷夢想を象徴するような場所だった。もちろんユートピアとは異なり、地続きで到達可能な理想郷ではある。しかし、私にとってはその地は道も知れず、そもそも道があるかどうかも知れなかった。
 里の山の色とりどりの桜(もしくは梅や桃)の木、山の斜面を美しく染める絶景の眺めは、人が来ることを拒んでいるようにさえ映る。「俗世間を離れた別天地」という意味合いにふさわしい、神聖な、遠い場所と思えた。
 もしもその地の眺めを観光目的に開放する処があって、ほんの一時でも儚い夢を堪能することが出来るとしたならば、その総本山は吉野山に違いない。
 あまりにも有名な花見の名所であり、世界遺産ともなった吉野山に一足飛びに辿りつきたくなったのである。
 後になって思うと、随分邪念に満ちていたようだ。「お手軽な、ただの花見の観光ではないか」と自分を騙していた節がある。山神はきちんとそれなりの罰を与え、私は奥千本からの絶景を見ることは赦されなかった。それがどういうものなのか、知ることも叶わなかったというわけだ。










 吉野山に行くならバスしかないと思っていた。飛行機や新幹線の旅より価格も安く手軽である、というだけではなく、週末の小さな写真旅行に出かけるようになってから、私とバスは切り離せないものなっていた。
 私は汽車の旅が好きで、それまでバスに揺られることが大嫌いであった。見知らぬものと、乗り合わせるのも嫌だ。他の交通手段とは比較にならぬほど、バスには旅の夢が欠けている。俗世的で、密閉感を持ちやすく、安っぽい。悪く言えば、「荒涼とした地を行く堕落した者たちの旅」という、いつか観た夢のような暗示を与えられる。
 だからこそ、それは飛行機や船や汽車のように浪漫溢れる旅行ではなくて、再生の道を行くための泥臭い手段のようにも思えて来るのだった。ここに乗り合わせる者たちは皆求道者ではないか等と、かつては堕ちた者どもではないか等と夢想しては、私はバスに乗ることを受け入れるようになった。これも必然と思えるほどに、写真旅行の目的地にはバスが欠かせないのである。山然り、花の里然り。
 マイカーを買おうかと考えたこともあった。しかしそれは本末転倒のようにも思われた。この道を大勢のものが乗り合わせるバスと、自らの足を使っていくのだ。
 吉野山の旅もただの観光と割り切ろうとしていた割に、そこの決意の根幹だけはきっちりと守っている。私は夜行バスに飛び乗った。45回目の誕生日の、僅か45分前であった。

 

 眠れないかと懸念したが、私は誕生日を迎える瞬間をも待たずに眠りについた。不思議なことに、バスでは何度も起こされる。夜行ツアーであれば、ぐっすり寝たいものもいるだろう、なのに、1時間半から2時間で、サービスエリアで休憩を取る。トイレに行かせるためである。

「このあと、また1時間半から2時間は次の休憩所にとまりません。必ず皆さんトイレを済ませておいてください」

 添乗員が大声で忠告する。で、皆ならんでバスを降りて、並んでトイレへと向かうのだ。
 過去に高速の途中でトイレに行きたくなって騒ぐ旅行者もあったのだろう、年配者はトイレが近いのだろう、それにしても、まだそう行きたいわけでもないのに、1時間半から2時間毎にトイレに行かされる身となっては、旅行者の為の旅だか旅行会社の便宜性を優先した旅だかわかりかねるようだ。
 そこでまたしても頭に浮かぶのは、バス特有の「泥臭い手段」についてである。再生の道を行く泥臭い求道者と言ったが、どう見てもこの並んでトイレに行かされる、管理される者たちは家畜、まるで豚か牛のようである。もしくは、囚人のようである。
 闇の中に浮かび上がる、人々が並んで歩く様。バスからトイレまでの道のり。15分でかっきりと戻ってまた出発する。ぞろぞろ。ぞろぞろ。それが等間隔で繰り返される。

 一人で参加した私は隣の席に添乗員の女性が座っていた。彼女は忙しく席を立つので、(時々は前の控えの運転手の隣りに座る)ほとんど一人でいることが多い。その点では気楽であった。
 後ろはほとんど見えない。集合地点が早かった者たちが座っている。真横と後ろには年配者の女性。斜め前に夫婦連れ。この二人、バスの旅が慣れているようで、後になってその用意周到さには驚かされるのだが、一緒に乗り込んだときにまず感心したのはお揃いの登山用のリュックであった。ノースフェイスの20~25リットルくらいのものか。皆が足元に小さな旅行用のポーチやリュックを置いているというのに、明らかに「吉野の山を登る気で来ました」という意気込みを漂わせて、即座にバスの上の棚に荷を上げる。
 私は彼らの姿によって、はじめて自分が観光旅行の浮かれた気分であったことを思い知った。吉野山は観光地と決め込んでいたことを知った。
 朝に奈良に着いたころには外は雨。夫婦連れは到着地点30分前になると、雨具というよりは洒落た、やはりノースフェイスのハードシェルジャケットとパンツを着込んでいる。靴も登山靴に変えた。リュックには雨用のカバーをかぶせた。
 天気予報で雨だということは知っていたはずなのに、私は登山用の雨具も準備していなかった。なにせ、吉野山は観光地であるから、そんな無粋なものはいらないと思っていた。雨傘が一本に、格好となると写真旅行の際にも(準備に)劣る普段着の上着にジーンズという体たらくであった。
 
 「例年、吉野山の上まで行く方はいらっしゃいません」

 管理者の添乗員が声を挙げる。彼女はバスの皆に「吉野山みてあるき」という案内図を配り、その中には観光コースの徒歩の所要時間が書き足されているのであった。
 奥千本、上千本までいくには、ロープウェイかケーブルバスを使わなければならず、それらの本数の少なさから例年混むのだという。所要時間が不透明になるため、ここでもトイレ同様バス会社の便宜性を発揮しての発言だろうとは思われたが、私の気持ちは即座に萎えた。
 一人旅ならば、どんな無理でも平気だ。しかし乗り合わせた者どもに万が一、集合時間に遅れて支障を与ええてしまったらと考えると、添乗員の警告がもっともだと思えて来る。彼らならば行くだろう、私は夫婦連れを恨めしそうに見やった。もしも、もっと私がこの旅の意味を重く受け止めて、万全の準備をしていたならば、彼らの後を見失わないように付いて行ったものを。
 窓の外の降りしきる雨の吉野山を見つめる。霧が煙り、木々が幻想的に浮かび上がる。吉野駅を通り過ぎ、バスは出発地点の如意輪寺へと向かっている。
 この雨では、山の上まで登っても、煙って何も見えまい。おまけに開花が遅れている。奥千本も上千本も花は咲いていない。
 あまりに桜が咲いていないので、如意輪寺の枝垂れ桜を見るオプションが急きょ用意された。そちらは満開だということで、全員が申し込んだ。

 「下の方は咲いていて良かったですね。遠くから来て頂いたのに、まったく桜が見れないということだったらどうしようかと思いました」

 帰りに添乗員が安堵の声で漏らしたように、吉野山の桜は中千本でもかろうじて咲いている程度で、満開とは程遠かった。私は桃源郷を見ることを諦めて、吉野朝宮跡や、吉水神社を巡って、様々なことを祈る旅にしようと、決めたのであった。









 私は随分熱心に、日本のことを、東北のことを、福島のことを祈ったはずである。
 吉野の神々に、たくさん頼んで申し訳ありません、と謝ったことである。
 気持ちを切り替えて、桜の菓子の食べ歩きや、吉野の名物葛の買い物や、かろうじて咲いている染井吉野や山桜を見ることを楽しんだものである。
 しかし、帰りのバスに乗り込んだ夫婦連れの言葉にはやはり打ちひしがれる思いがした。

 「上まで行ってきましたよ。吉水神社も良かったですね。行かなかったのですか。二回行きました。行き(上まで行く前)と帰りと。あそこは絶景のスポットですね。帰りはだめだったけれど、最初に見たときは霧もなくて、吉野山の桜が見渡せました」

 後ろの席(私の真横の席)の婦人らと夫婦の男が楽しそうに話し始めたのであった。
 夫婦はやはり吉野山の上まで出かけたのだ。



 ☆ ☆ ☆



 バスの中で私が読んだのは、と言っても、行きも帰りも寝てしまいながら、うとうとしながら、途切れ途切れ読んでいたのは、神野志隆光(こうのしたかみつ)氏の「宣長の『古事記伝』を読む」という著書であった。
 この方、名前がすごい。神の、野を、志す。隆、さかんな、光。私は名前の意味や由来を思うのが好きなたちであった。(物事の判断を名で決めるという傾向がある)
 そのまるで縁起のいい(と思われる)神々しい名を持つ彼が、豊富な専門知識を以て本居宣長の『古事記伝』の解説と言うよりは謎解きをしてくれているのだ。
 宣長の『古事記伝』こそが、『古事記』の解説というよりは謎解きという本質を持つだけに、謎解きのそのまたさらに謎解き、のような形で楽しめる。
 日本書紀を少しかじった程度で、古事記を読んだことのない私は、きっとこの前提を知らずに、日本書紀と古事記という(学問の)山に踏み込んでいたら、即座に迷子に陥り、まったく別の解釈をして、到達することなど一生かかっても不可能であるだろうと思われる。

 その「謎解き『古事記伝(謎解き古事記)』」の中で、興味深い記述を読んだ。
 日本書紀と古事記という、神話の、というよりは宣長の、禊ぎ(みそぎ)の解釈である。神野志氏によると、宣長は強引な解釈をしているが、それは「禊ぎが、国を作る物語の、どういう文脈で語られるものであったか」を問題にしているからだという。
 彼の主張は一貫しているのだが、その整合性を語るのは著者に任せるとして、神話を知らない私が感心したのは、こんな話であった。

 『世界におけるすべての事象は黄泉の穢れと、それを祓う禊ぎに発する』

 黄泉の国から戻ったイザナギが穢れを祓うために禊ぎをしたことにより、世のすべての禍(宣長はマガと呼ぶ)の元となる神、禍津日神が生まれた。
 そして禍の穢れを祓って直そうとして直毘神が生まれた。
 そうして、未完成だった国が完成した。あしき事に、それを直すことに、そして昼夜の別まで、秩序ある世界が完成した、という考え方だ。
 月(月夜命)日(天照大御神)がこの国に生まれたのも、発端は穢れを滌清(そそぎきよ)める事から起こる。
 そしてそれが世の理(ことわり)だというのである。
 マガゴト(凶悪)はヨゴト(吉善)より起こり、ヨゴト(吉善)はマガゴト(凶悪)より起こる。
 ふたつは互いに「うつりつもりてゆく」。交代して動いてい行くのが、世の「理(あるべきありよう)」だというのだった。





   


 私は驚きを以て、過去の一つ一つ、を考え直しているのだった。
 もしもあの時の私がマガゴトとしたならば、私の元を去って身を清めた者が、彼の世界に秩序をもたらした。
 すべての禍とすべての太陽の光をもたらした。
 イザナギが黄泉の国にイザナミを迎えに行ったのは、愛からだったのだと思う。
 逃げ去ったのは容貌の変化の所為ではなくて、彼女の本質が変わったことを知ったからだ。
 彼は、彼女の愛を切り捨てて、安全な国に逃げて、穢れを祓う。
 その禊ぎから生まれたのが、世のすべての禍だ。
 そして、それを直そうとする善なる力と地を照らす太陽の光と。
 ヨゴトとマガゴトを繰り返して成り立つ世の秩序。

 神話というのは、ただ退屈なだけかと思っていたが、この哀しみはどうだろうか。
 

 「愛しき我がなせの命、如此為たまはば、汝の国の人草一日に千頭絞り殺さな」

 「愛しき我がなに妹の命、汝然為(ミカシシカシ)たまはば、吾はや一日に千五百産屋立ててな」
 

 二神は別離を確認し合う。
 「愛しき人よ、あなたの国のもの(人草)を一日千人切り殺しましょう」
 「ならば愛しい人よ、私は一日千五百人のものを生みましょう(産屋を立てましょう)」


 黄泉に行ったイザナミを救えなかったことによって、彼女を祓うことによって、イザナギとイザナミ、二人で作った未完の国は初めて完成するのだった。 

 秩序ある世界を作るということはそれほど大切なことなのだな、と私は初めて実感した。
 禊ぎを行わなくてもよかったではないか、とか、黄泉の国からの禍もそうすれば起こらなかったのではないかとか思うものだが、それでも、ヨゴト(吉善)とマガゴト(凶悪)を繰り返すというまるで秩序とは思えぬ秩序が人は必要なのだ。 
 これはただの神話だから、現実世界には全く関係のない話だと言い切ってもいいだろう。
 だけどこの物語から世の理を学んだものは先人だけではないと私は思う。
 悪しき世を直す神も太陽のごとし神も、すべては哀しい別離から発するのだ。
 それだけが秩序をもたらす世の力となるのである。


 ☆  ☆  ☆  ☆




 「上まで行ってきましたよ。吉水神社も良かったですね。行かなかったのですか。二回行きました。行き(上まで行く前)と帰りと。あそこは絶景のスポットですね。帰りはだめだったけれど、最初に見たときは霧もなくて、吉野山の桜が見渡せました」


 夫婦の片割れの男は、陽気そうに笑っていた。

 「あら~そう。吉水神社行かなかったわ」

 夫人たちも楽しそうであったが、私はそれよりも吉野山の上からの景色がどうだったのか、気になって仕方がない。
 桜は咲いていたのか。吉野山は見渡せたのか。
 しかし、男はそのことには触れないのであった。
 中千本での観光を楽しみ始めた頃、私はバスに戻る直前にこの夫婦連れを見たものであった。
 彼らは道の分岐で立ち止まり、上千本へ向かう道を行こうとしていた。
 その時私は、彼らが吉野山の上にはまだ行っていなく、今から行こうとしているのかと驚いたものであった。
 「ここからバスまでは30分くらいだから」
 と、まだ大丈夫だというふうに悠々と上千本へと登っていく。
 雨はすでに上がっていた。私は驚きを通り越して呆れたものだ。あんな用意万端だったくせに、意外と間抜けなのだな。あの装備はなんだったのだろうか。登山靴も、雨用のシェルも滑稽に思えてきた。
 身の丈を知り、山の中腹の観光を楽しんで、乗り合わせた者たちに迷惑をかけることもなく早めにバスへと戻る自分を立派に感じたものであった。彼らよりもよほど。

 男は夫人らと笑いあうだけで、山の上の景色の話は一度もしなかった。
 彼の妻は大人しく座って前を見つめている。
 もちろん、景色は悪かったから、何も言えないのだろう。
 吉水神社の絶景スポットよりも悪かったから言えないのだろう。私は間抜けとまで思った彼らがちゃんと山頂に行ったことを知った悔しさから、今度はそんな風に毒づいている。
 あの霧で見えるはずがないのだ。
 ところが、夫人らと笑いあう主人と穏やかな妻を見ていると、次第にその考えを疑問に感じ始めたのだった。
 彼らは、吉野山の中腹にある吉水神社ならば、絶景と褒め称えても赦されると思ったのではなかったか。
 夫人らが行かなかったのは偶然であり、当然行ったか、少なくとも行こうと思えば行ける処にはいたのだから。
 しかし、上千本や奥千本からの景色を絶景だと言うことは気遣われたのではなかったか。
 ふとそう思うと、それが上の景色を見たものの当然の心遣いだと思われてくるのであった。







 
 彼らは見たのだ。言わないだけであって、吉野山からのあの桃源郷の景色を見たのだ。
 そして、おまけに、吉水神社からも見たのである。
 吉野山の上からも、中腹からも、桃源郷の景色を見ることの叶わなかった私が、一体なぜ彼らを笑ったり、彼らに比べて自らを立派だと感じたりしたものか。

 私は桃源郷の景色を聞き出すことを諦めて、また本を読み始める。
 一人小さく、小さく、肩を丸めるように座って。隣りの席にはガイドはいない。
 案内人は前の席に移って行ってしまった。次の休憩所まで、また私たちをトイレに向かわせる時まで、彼女の仕事はないのであった。
 多分降りる時までの空席に、私は遠慮して荷物も置かない。増えた荷と土産を、自分の足元と、席の横に入れてますます小さくなるばかりだ。
 救われた思いがしたのは、吉野山で一人はぐれた人がいたということか。
 彼は無事、もう一台のバスの添乗員とタクシーに乗り、次の休憩所で合流できたのだが、出発する間際は皆慌てたものである。

 「一人足りません・・・
 連絡が付きません・・・」
 蒼ざめた彼女の顔を見て、そうさせたのが今回は自分ではなかったことに、どれほど安堵させられたか。
 小さくなり、はぐれたものが見つかれば皆と拍手をし、義捐金箱を向けられれば惜しまずに。
 そうして身の丈を思い出すうちにまた例の時間になった。ご一行はバスを降りて、囚人のような列を作る。
 一人離れて、煙草を吸う。道脇に見事に咲いた桜を見上げて、綺麗だなぁ、と微笑んでいる。ふとかしましい鳴き声と同時に、黒い烏が飛んでいくのだ。
 桜の花で覆われた空を、底から天辺に向かって横切っては、消えていった。