2011年5月31日

しばし休憩、twitter という歌のこと。

 


  


  twitterを見るように(ツイートするように)なってから、どうも調子が悪い。
  欲しい情報を集めるという点では、こんなに便利なツールがあったのか、と驚かされるが、それらを考えるまでもいかない。感じる以前に、誰かの考えや感じたことに、すでに相対化されてしまう。
  私の思いは消えてしまう。
  で、次第に文字を追うばかりで何も頭に入っていかなくなった。
  ただ情報を目で追っているだけである。

  あまりにも状態が悪いので、今日は久しぶりにニュースも誰かのツイートも見ないで、のんびりした夜を過ごす。
  アナログTVのニュースを見る。ドラマを見る。『下流の宴』が面白かった。

  ZEROを見る頃には、少し頭がはっきりしてきた。

  誰かの皮肉に溢れた文章を読んでも、意味がちゃんと理解できる。 



  感じる。

  感じたことについて考える。


  考えを誰かの考えと相対化させて、その上でまた考える。


  それらを文章としてまとめる。


  いつものステップが戻ってくるまで、当分twitterは見ないようにしよう。

  多分、あれだけの情報源、慣れたらもっと上手い使い方が出来るはず。自分なりの。


  想像だが、twitterのタイムラインに入り込んで、ツイートしているうちに、blogを書かなくなった人は多いのではないだろうか。
  blogの記事は、小説と同じで、1行の言いたいことを言うために、あとの文章をすべて考える。たった一つのアフォリズムを上手く(効果的に)言い表すために、すべてを用意するのだ。

  が、twitterは140文字で、ずばりその1行が言えてしまう。
 

  あとは、何を考え、書く必要があるか。


  blogへの呼び込み、本で言えば帯のようなものだと誰かが言っていたが、確かにそれなら頷ける。

  帯のコピーを書き続けているうちに、大作を書いたような気分に陥らなければ、問題ないのだろう。


  いや、そうじゃないな、やっぱりそんなに人間は器用ではないような思いがする。
  帯のコピーのつもりが、ずばり1行の表現、まるで現代の和歌のように、それだけですべてを言い表してしまう人の方が多いのではないか。

  タイムラインに乗って流されないように、よほど自分の軸をしっかりと持っていないと怪しい。


  私のホームはここ。

  私はここにいる。


  その感覚がしっかりと戻ってくるまで、当分やっぱり禁止。
  またしっかり根付いたら、遊びに出かけるとしよう。




  たかがtwitter、されどtwitter。
  140文字にすべてを賭ける人。
  というだけの人、にはならないように、自分の歌と付き合っていきたい。  



 
    

2011年5月28日

宮本武蔵の壊れたレリーズ。 ~もしくは、エゴノキの花が洗われた世界で~






 
 




  愛を乞うものは、必要以上にその愛が得られなかった場合、対象を殺してもいいという法律でもあるのかもしれない。
  三面記事の「殺人」ではなくて、魂の殺人のことである。
  もしくは、意にそぐわない人間や、気に食わない人間には、残虐な仕打ちをしなくてはならないという法律でも。
  後者のいわゆるセクシャルハラスメントや虐めで割り切れるものならば、こう気に病んだりしないものだが、自責の念が伴うからには、愛情が足りないということなのか。
  それでも、私は随分と愛情深い人間のつもりで生きていたのだった。

  先週、今週と、同じ時季の去年の記事を思い返して行動している。


(去年の記事
私とカメラとマクロレンズ』)



  人間、この愛しき、忌まわしき者。
  私の成長を促すドラマを阻むのは、いつでも人間たちだった。
  もちろん、彼らのおかげで成長することも多々ある。そうは思ってはみても、本来の私の愛の秩序に満ちた世界を、いつでも容易く崩壊させるのも、また彼らなのである。

  ここ数年の話だ。道に躓き続けていた私に、天啓の導きのように、カメラが与えられた。
  私は写真旅行と称して、その道に従い、がむしゃらに吸収し続けていた。
  ところが、古傷がぶり返すのであった。
  きっかけは社員旅行だ。7月に予定された2日の旅が、私に過去の記憶をフラッシュバックさせるのであった。









    
  友のいない旅ほど、敵だらけの者たちと出かける旅ほど、精神をすり減らすものはなかった。 それは楽しい、楽しくない以前の問題で、ましてや、彼らは、冒頭の法律を順守している。宮本武蔵が形無しだ。
  逃げ場を失い、サウンドバック状態に打たれ続けた彼は、二度とその道場に戻ることは出来なくなったという。

  最悪の事態、あの古傷が甦って、あの時と同じように自らの精神が追い詰められてしまったならば、私は二度とせっかく出会った(終の棲家にしようと考えていた)今の会社に戻ることはできなくなり、辞表を叩きつけるくらいのことはしかねないのであった。
  なぜ、そんな旅に出なくてはならないのか、そもそも私は旅をしないという選択もあった筈であった。


  もちろん、成長したかったから。

  人間として、少しでも。
  いや、当時はそんなことは考えていなかったかもしれない。
  99%は、多分、あの場所を愛していたから。愛の秩序に満ちた楽園にしたかったから。
  旅するのは、最善の選択であり、敵とではなく自分との戦いであった筈であった。

  今思うと、ただのエゴイズムで、訪れたのは、壊れた自分によって、壊された仲間たち。仲間と呼べない他人たち。
  それから愛する人たち。単純に迷惑を被った人たちを、山ほど輩出しただけであった。


   見事に敗北した者の、古傷に、フラッシュバックに、ただの社員旅行というおまぬけな設定に、死ぬほどの深刻な悩みに。
  馬鹿馬鹿しさと、気の違ったような独り言を抱えて、私は去年と同じ場所へ急ぐのだ。


  雨の日の、エゴノキの花を撮りたい。


  停滞してばかりで、止ったかと思われた自己の成長。そればかりか後退まで始めていると。苛立つ私を、慰め、諭してくれたのは、またしても写真だった。
  一昨年の写真と、今年の写真では、出来栄えがわずかに違う。
  例えば先週の記事、檜洞丸の写真を見比べて、私は随分と納得したものだ。
  継続は力なり。駄文とボツの山のような写真ばかりを撮り続けていたが、まんざら後ずさりはしていない。そう進んでもいないが、後退ではない、ほんの少し、道を進み続けているようであった。




  エゴノキの花が好きである。

  エゴノキという名前から、私はこの木とこの白い花を見ると、人間の醜さを連想するのであった。
  まるでアダムとイブが食べた禁断の果実のように、それは本来の秩序も世界をも乱すことが出来る、人間の悪しき一面を象徴した花のようであった。

 

  はらはらと舞い落ちるエゴノキの花もいいが、地に堕ちて、濡れた大地に溶けるように打ち捨てられた様も絵になる。
  白い花の終焉は、すべてが洗われたような錯覚をもたらしてくれるのだった。
  ただし、そんなイメージは撮れるはずもなく、私はべちょりと濡れた森に落ちたエゴノキの白い、汚れた花々をただ普通に撮るしか能がなかった。変わったところで、この葉の上に落ちた花、と言うものを撮ってみたが、それがどうした、という感想であった。
  木の上のエゴノキの花にはそう興味がなかった。落ち花の姿をイメージ通りにいつか撮ってみたいが、一年前の写真を、文章を繰り返して、見て、読んで、を何度繰り返せば辿りつくのか、正直想像もつかないのであった。









  私は、去年と同じルートを周った。公園にはいろんな散歩道があるが、思い出せる範囲内で、同じ道を行き、同じ被写体を撮った。少しでも成長の証が欲しくてたまらなかったのである。
 
  去年のラストは、電池切れ、であったことも忘れていない。あの時は、現時点での及第点が下った(そういう暗示を受けた)と記憶していた。
  今年は、去年と同じ道程の、どこで電池が切れるか、散歩道の最後の被写体である睡蓮の花までもつのかどうか、もしも電池が切れなかったら、私はまた、

  「よくやった」


  と、現時点での腕や頑張りを褒めてもらえたのだと信じることが出来そうだった。
  ところが、なんと、私は出かけに電池を充電したのである。そのため、時間が間に合わなくて、フルに充電できる前に、電池をカメラにセットしたのである。
  撮影旅行が終わるとすぐに、翌週に備えてカメラの手入れをしていた当時の私はもはやなく、出かけに慌てて支度して、電池の充電を忘れるという一点からも成長のドラマであるはずの写真旅行をなおざりに考えている自身が目に浮かぶようであった。
  これで及第点が取れたら、その方が奇跡だ。
  あとはどこで電池が切れるか、もしくは、切れないような撮り方、使い方をして、暗示的に言えばいくら本来の自分(実力)をカバーできる経験値を身に着けたのか、そちらの方が問われているような思いもしてくる。









  母親は、社員旅行に行きたくないなぁ、と愚痴った私を励ました。
 
  「でもあんた、若い子がたくさんいたのに、あんたがいいって。雇ってくれた会社なんだよ・・」

  「別に気を使わなくていいんだよ。誰とも話さなくてもいいんだよ。いつもと違う景色を見て、美味しいものを食べて、それだけで」



  私はふざけて、それから甘えて、こう聞いてみたものだ。
  じゃあ、帰ったら、ご褒美をくれるかと。

  「よく頑張ったね、偉い偉い、って言ってくれる?」

  「ぎゅっと抱きしめて、褒めてくれる?」


  「ああ、ああ、もちろん言ってあげるよ」と、「抱きしめてあげるよ」と母は真剣に頷くのであった。私は何だか、泣けてしまった。今は家事や私の世話までしてくれる母親だが、数年前にくも膜下出血で死にはぐっているのである。医師にもう助かりません、と言わしめた大病をしたのである。
  今は平凡な日々を送りながら、私の心に中には、これは最後の輝きなのだとどこかで信じている節があった。母はもう長くない、今は穏やかだが、ある日ふっと、そう遠くない未来に、またあの時のように倒れて、今度は二度と目を覚まさないことだろう。

  もしかしたら、母に褒めてもらうのは、いや甘えられ得るのはこれが最後かもしれない。

  よく考えたら、ごく幼い頃でさえ、褒めてもらったり、甘えたりした記憶がない。
  私は記憶を探りながら、これが最初で最後かもしれない、なんて考えているのであった。



  エゴノキの花が散っている。

  雨の中をぽとりぽとりと。森を、行けども行けども、花はどこにでも落ちていて、道案内をするかのように、点々と白く、濁りながら白く、私の道を照らしているのであった。










  電池はいつまでもつか。去年のヤマボウシは過ぎた。森の小路も過ぎた。民家園の野苺を撮ろうとして、今年は一つも生っていない。実どころか、野草自体がないことに気が付いた。


  残念だった。去年との差を比べたかったものだが。そう思って、しかし、その野苺が去年、私と人間との世界を決定的に決別させたことを思い返している。
  今年は野苺を見なくて、良かったのかもしれない。電池はいつまでもつか。よく頑張ったと暗示は与えられるか。褒めてくれると母は言った。よく頑張った、偉かったね。そう抱きしめて。


  母はいつまでもつか。
  それまでに私は成長できるか。残されて、一人で何でもなく生きていけるほどに。


  結末は意外な展開であった。

  電池が切れるでもなく、睡蓮まで経験値で撮り切れたわけでもなく。
  カメラが壊れたのであった。



  私は随分とぎょっとしたものである。
  レリーズを使っていたのに、押してもいないのに、勝手にシャッターを切る。
  しかも何度も、勝手に開放されているのであった。
  後になって、壊れたのはカメラではなく、レリーズの方だったと思い至るが、帰宅後の試し撮りでもついにどちらが原因かはっきりしなかった。多分カメラ「本体」ではなくて、「補助器具」のレリーズの方であるようだが、数回シャッターを切ると時々動くので、ケーブルが濡れてたまたま接触不良でも起こしたか、本当に故障なのか、未だ判明していない。
  レリーズ、補助器具というよりは、カメラがぶれないように、離れた場所からカメラを操作してくれる、まるで「遠隔起動装置」 や「遠隔操作盤」である彼が、押してもいないのに、カメラはシャッターを切り続ける。
  私は睡蓮の二つ手前の花、花菖蒲を撮っているところであった。
  レリーズや、シャッターは押しても動かない。なのに、時々カシャカシャとシャッターが切られ続ける。








   
  私はその時になって初めて、自身は雨具で完全防備をしていたくせに、カメラには一枚のハンカチさえも被せてあげていなかったことを思い出した。
  随分安物の、ちゃちな一眼レフカメラであったが、腐っても一眼、これでもよく頑張ってくれたものであった。私の成長のドラマは、このカメラと一緒に始まったのである。


  ついにいかれたか。


  私はカメラを抱きしめながら、雨の森を急いでいく。(そうだ帰るのだ)
  ごめんね、ごめんね。こんなに濡らしてごめんね。
  今まで、ずっとありがとう。


  ついに壊れたカメラを嘆くと同時に、どこか解放された思いで満たされている。
  まるでこの安物のカメラを私は自分自身であるかのように感じていたものであった。ずっと、もっといい機種に買い替えたかった。使えるうちは使わなきゃ、と母に諭されて我慢していたのであった。

  安い、性能の劣る機種なのに、そぐわない高価な、重いレンズを着けられて、山や深夜発のハードな旅にも付き合わされて、随分苦労かけたね。ごめんね。
  いたわるように、腕でカメラを包み込むように歩き、悪かった、と何度も声をかけ、そうして一服して、息を漏らすように煙を吐き出して、ああ、今日は号令はかからなかったと漠然と思い出す。
  電池の充電マークは、見れば半分も残っていて、なのにカメラは動かなくて、よくやったね、と褒めてくれる人も、いなく、私は間抜けにも、社員旅行のことをまた考え始めている。

  ああされたらこうしよう、こうなったらこう出よう、と戦略を練っているのであった。
  まるで宮本武蔵のように。

  ふと馬鹿馬鹿しさに囚われかけて、今度は軽く首を振る。
  いつかの記憶の、「悲しみよ、こんにちは」を、「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」に変えてやろうと、本気で思っているのである。

 
 


 

2011年5月22日

桜と谷底の鹿の幻想  ~初夏の檜洞丸を訪れるその2~


  







  去年に引き続き、初夏の檜洞丸を訪れる。

 (去年の記事
 『 花も富士もない旅路の ~初夏の檜洞丸を訪れる~』)


  西丹沢自然教室行きのバスは臨時バスが出た。
  予定よりも早く着いたので、私は握り飯を食べたり、煙草を吸ったりしながら、教室前の駐車スペースでバスが着くたびに登山者を誘導しているスタッフの男の言葉に耳を傾けていた。

  「ツツジの開花は例年より1週間遅れてるからね。(標高)1200~1300あたりかな。そこを見逃したらもう見れないよ!山頂は咲いてないからね」

  「悩んでるなら、畦!(畦が丸の意) 檜洞丸はツツジもシロヤシオもあまり咲いてないからね。畦がいいよ。おススメ!」

  やたらと元気で、愛想がいい。不思議なことに、私は男の言葉によって、自分がまた失敗したことを知らされて、なのに、去年あんなに一喜一憂したツツジの開花の情報に何の心も動かされない自分を発見している。
  そうか、そりゃそうだ。去年と同じ時期なんだから花の時季は1週間早いわけだ。当然咲いていない。しかも、今年はさらに1週間遅れている。またツツジのトンネルは見れないわけだ。
   なぜ、失敗から学ばないかねぇ、と他人事のように思い、いや、今日はただの体力作りに来ただけだったと本来の目的を思い起こす。
  今日は、地図も、コンパスも、持ってこなかった。山を登る時は、地図読みの勉強を必ずしていたというのに、今日は散歩の延長。何も考えずに体を動かすためだけに来たのであった。

  「畦がいいよ!畦!」

  畦が丸を野菜のたたき売りのように勧めている。スタッフの声を聞きながらゆっくりと一服をし、もう一度トイレに行く。靴ひもを直す。先日購入したオレンジのお気に入りのゲーターをよほど着けたく思ったが、見回すと誰もゲーターなどしていない。素足に短い靴下、くるぶしを見せているものさえいる。夏の様相である。
  諦めて、そろそろ立とうとした瞬間、男が意外なことを口走った。

  前のやり取りはわからないが、おそらく水場のことを聞かれたのだろう。
  「西丹沢では、鹿は死ぬときは、谷底で死ぬからね。私は、絶対、生水は飲みません」


  今までと明らかに口調が違う。特に最後の生水は飲まないというくだりはこわばっていた。その後の沈黙から言ってはいけないことを漏らした、という緊張感さえうかがえた。
  私は平然を装って、ああ、とか、うう、とか曖昧な返事をする山男とスタッフを見送っていた。が、心の中では、ずいぶんと驚かされていた。
  ツツジの無関心とは対照的であった。
  前回の檜洞丸登頂の際に、私は蠅をたくさん見かけたのだ。動物が死んでいるのか、鹿か、まさかと。その想像から、ブナや樹木たちが枝を食指のように伸ばして、鹿を谷底へ落とすという闇の幻想を見ていたのであった。


  一瞬畦が丸へ行こうかと躊躇したが、すぐに檜洞丸だ、と思い直す。
  たとえツツジが満開であろうとも、畦が丸は何もない山だ。私にとって。意味のある啓示は何も起こらないだろうと確信している。

  ただし、彼の言葉で決めたことが一つ。行きのバスの中、山のガイド本で見た、「檜洞丸から犬越路方面に下ると富士が良く見える・・」というアドバイス・・ ならば、 帰りは犬越路から帰ってこようではないか。登山者カードには、檜洞丸(ツツジ新道)の往復コースと記載してしまったが、 山頂で花が見れないならば、せめて富士を堪能したい。

  「畦?行ってらっしゃい。橋を渡ると(登山道は)すぐだよ」

  明るく畦が丸行きの登山者を送り出す男の横を、くたびれた形相で通り過ぎていく。
  まるで、それでも檜洞丸に行くのか、と忌々しがられているように思えてしまう。足を引きずるように、背を丸めるように、私は檜洞丸へと進んでいくのであった。




  1年前、檜洞丸を登ったころから私の生活は一変した。実家に戻り、職場も変わった。
  成長し続けているという自覚が崩れたのは、それからであった。頑張っても、進まず、気力は落ち続けて、ついには、自ら決めた道も見失った。しかもそのサイクルが何度もあった。持ち直して、また道を見つけて、また落ちて迷って。次第に疲れてしまった。何もかも放棄したい思いがしていた。
  どこから狂ったのか、1年前までは順調だったはずだ、私は登山道を一人登りながら、去年檜洞丸を登った日から、今の瞬間の時までの記憶を手繰っている。 










  1年前は地図を読んでいなかった。今日は地図とコンパスがないせいか、出発のバスの中から心もとなく感じられていた。私にとって欠かせないものとなっていた。1年前よりもその時点では成長していたはずである。しかし、今日は地図もコンパスも持っていない、体力作りの登山を行うのがやっとの、肉体と精神の状態である。どこで、迷ったか。どこで、見失ったか。


  記憶を手繰る私をなぐさめるように現れたブナは、見事な新緑を身に纏っている。去年見た、「今年初めて見たブナの新緑」と(去年のブログに)書いたカツラやサンゴジュのようなブナよりも、ほんの手前に、ひっそりと立っていた。
  去年は気が付かなかった。あながち、成長していないわけでもない。今は、このブナに、気が付く私がいるではないか。私はブナの一件から、いい方向へ考えようと努めるのだが、やはり気力の減退と、向上心の衰えは、事実であり、それがいい方向であると自らを騙すことは難しかった。迷った地点に戻ろうと、必死に記憶を弄っている。

  もう一つ、登りながらずっと思っていたのは、男が誤って洩らした言葉、鹿の死に場所の話だ。

 

  あれは、うっかり洩らしたのだと、私は今では確信していた。通りすがりの登山者との軽口にしては、空気が違い過ぎたようだ。それに鹿というのが、谷底で死ぬ生態で、当たり前の会話であるならば、なぜ「西丹沢では」と前置きをしたのか。
  で、私の興味は、谷底で死ぬ鹿がどうやって谷底へ行くのか、の一点にかかっていた。鹿が自ら、死ぬために、谷底へ向かうのか、それとも山の中腹や奥地で死んだ鹿が、谷を伝って谷底へ集まって(流されて)くるというのか。


 
  男の言い方は曖昧だった。「鹿は死んだら、谷底で死ぬからね・・・」
  もしも、鹿が自ら谷底に行って死ぬならば、山の谷(水場)の水は、谷底以外は大丈夫ではないのか。「私は絶対、生水は口にしません・・」


  迷い道を見つけられず、鹿の谷底へ落ちることが、やはり幻想通りではないかと思われてくる中で、私はトウゴクミツバツツジの紅の色を目にするのだった。
  「ほらほら、綺麗よ、ツツジよー」
  団体の婦人たちの声が聞こえてくる。見上げると、鬱蒼とした山道に点々とツツジ、姿の見えない婦人たちの鮮やかな声と合致しているようだ。 







  そろそろ標高は1200を越したということか。必死に写真を撮る。ここを超えたらあとはシロヤシオしか見れないだろう。花の色はこれで最後だ。

  思えば、1年前の絶好調の時とは180度の転換だった。今は、やることなすこと上手くいかない。あの時は、調子に乗るなよと、戒められたのだと思えるほど、すべてはいい方向へ向かっていたはずであった。たとえ問題があったとしても、すべては、「乗り越えられるべきもの」であるはずであった。

  どこから狂ったのか。堂々巡りが終わらない。

 










  トウゴクミツバツツジの紅が終わり、シロヤシオが見え始めたころ、私は木々の切れ間から、富士の、見事な展望を目にするのであった。
  途中の展望園地からも富士は見えた。が、ガイドブックやいつか塔ノ岳の山荘で見た、見事な写真の構図とは決して同じものではなかった。
  ブナの木々とツツジとシロヤシオと、丹沢の山塊の、遙か向こうに浮かび上がるような高い富士。
  あの構図がどこから写されたものか、私はずいぶん探していたものであった。
  今や、花がないだけで、山塊の向こうの富士が見渡せる。この蕾が惜しいが、犬越路を下りながら探そうと思っていた私にとって、この発見は嬉しかった。写真を撮る。
  何もかもうまくいっている時、檜洞丸は花も富士も見せてはくれなかった。
  何もかもうまくいっていない今、檜洞丸は、見事な藤を見せてくれる。ああ、あとは花なのだが。それは去年を教訓にしない、ツツジをまったく計画に含めなかった私が悪いのである。

  だから、富士だけで十分だ。見事な景観を目の当たりにして、そして、ブナの、若葉を生やした立派なブナの一本を写真に納めて、堂々巡りの迷い道を忘れかけ、それが哀しみという一点の染みとなって心に宿っていったその時に、私はふと思いがけないものを見たのだった。


  豆桜だった。










  登山道にも桜の花弁はたくさん落ちていた。その度に、登山者が声を上げた。
  「あら、ヤマザクラの花が咲いているのかしら。花弁がいっぱい落ちてるね!」


  「もう終わったんだろうよ」

  同行者が答えたものだ。私は何度も首を反らせて、山の森を見上げたものだが、やはり終ったらしく花の木は見つけることはできなかった。
  ところが、山頂まであと0.5Kmというところに来て、桜は正体を晒したのだった。

  しかも、山頂までずっと、花の色のない山道を彩り続けていた。










  さすがにこれには意外だった。まさか、5月の末に桜が見れるとは思ってもいなかった。ガイドブックの予備知識にも、昨年にだって、そんなことは起こらなかった。
  桜は私の一番好きな花である。そして、今年は私の町の桜の木が伐り倒されたりと、何かと桜に関して心思うこと、哀しみ深いことが多かった。
  先日の青森旅行で、弘前の桜を見たときは、桜から再生のイメージを見せつけられて、涙したほどであった。
  そうして、やっと終わりを告げた桜の時季であったのに。

  なんと、初夏の檜洞丸は、桜でいっぱいではないか。

  山頂までのプロムナード、バイケイソウの下草にブナの原生林の間の木橋の道にも桜は咲いていた。豆桜が発光するように輝いて、色を添える。

  一瞬のデジャブのように、いつか鍋割山で黄金のブナ林を目にしたときのことが思い出された。

  ぐしゃりと顔がゆがんだ。景色が刹那に歪んだ。不覚にも感動しているのであった。

  山は時々粋なはからいをしてくれる。
  まるで、時々、別世界の憂さも、迷いも晴らしてくれるような、山の景色を拝ませてくれる。

  何もかもうまくいっている時、花も富士もない旅路であった。
  何もかもうまくいかない今、空には富士が浮かび上がり、そして、道を花が添える。

  相変わらず、どこから迷ったか、やり直す地点は見えず、答えが得られることはない。
  それでもとりあえず、歩き続けることは出来そうだった。
  少なくとも、しゃがみ込んで、二度と動けなくなり、そうして、谷底へと向かう、もしくは谷底へと突き落とされる、あの鹿たちのように、それが幻想ではなく、現実となるのは少し先のように思われた。


  時々、山は、私が求めるものを与えず、時々、山は、私が求めるものを与えてくれる。

  私を戒め、私を励まして、そして、僅かな希望を与えてくれる。

  山頂の豆桜の木の下で休憩を取り、富士を眺めて目を細めた。
  犬越路まで3.6Km、傾斜がきつくて危険です、この道を行くのは余裕のある時にしましょう、という警告の立札を一瞥して進んでいく。また道を行くだけであった。